2009 年 8 月 23 日

・説教 「歴史の中で働かれる神」 創世記10章1-32

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 17:25

鴨下直樹

 今、水曜日と木曜日の祈祷会の時に、信徒の方々が聖書の話をしてくださっております。これまでの夏の間は、教会でそのようにしてきた伝統があるようで、私自身参加して大変よい機会だと喜んでおります。普段みなさんがどのように御言葉に向かい合っているかを知る機会ですし、また、そこからの問題提起に、みなさんがどのように答えるかということも大変興味深く聞かせていただいております。

 この木曜の祈祷会の話題に上ったことですけれども、聖書をどう読むかということは基本的なことですけれども、実にさまざまな意見を聞くことができて大変楽しませていただきました。そのきっかけとなりました一つは、芥見ネットという私たちの教会が毎朝登録している方々に、御言葉を携帯やパソコンにメールで届けるということをしておりまして、先週の御言葉がきっかけになりました。

 そのメールにはこうありました。

 

「思わぬときに、滅びが彼を襲いますように。ひそかに張ったおのれの網が彼を捕え、滅びの中に彼が落ち込みますように。」詩篇35章8節

 

☆あなたの敵を愛しなさい。(ルカ6章27節)とは一見、ずいぶん矛盾するように思いますが… 皆さん、どう考えますか? (続きを読む…)

2009 年 8 月 16 日

・説教 「神の前に」 第一サムエル記14章36-42節 

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 22:05

本日は、芥見キリスト教会員 森岡泰子姉が礼拝説教をして下さいました。

 

第一サムエル記13章では、ヨナタンがペリシテ人の守備隊長を打った事によって戦端が開き、ペリシテ人が多くの戦力を動員して上ってきた。一方のイスラエルには3千人が集まったがペリシテ側の光景を見て怖じ気づいてしまい、隊から外れて逃げ出す様子などが記されている。そして、サウル王はその状況に不安と焦りを募らせ、神への信頼を失う。祭司サムエルからギルガルで7日間待つようにと言われたその約束の日、あと少しの時間を待つ事ができず、本来祭司がささげるべき全焼のいけにえをささげてしまった。その直後にサムエルが到着し、「あなたは、なんという事をしたのか」と叱責されたが、その意味もわからず、ただ苦しい言い訳をするサウル王だった。

 

「あなたは愚かなことをしたものだ。あなたの神、主が命じた命令を守らなかった。主は今、イスラエルにあなたの王国を永遠に確立されたであろうに。 今は、あなたの王国は立たない。主はご自分の心にかなう人を求め、主はその人をご自分の民の君主に任命しておられる。あなたが、主の命じられたことを守らなかったからだ。」(13章13節~14節)

 

と、神の御心と、この後のご自身の計画を祭司サムエルの口を通して宣告されたのである。

イスラエル軍は,その人数の面でも武器の面でも甚だしく劣っていた。3千人いた民もついには6百人に減ってしまい、今はヨナタンもサウルと合流してイスラエルの民はギルガルからミクマスの近くのゲバに留まった。そして一方のペリシテ人はミクマスに陣を敷いた。

ある日、らちの明かない戦況下、再びヨナタンが動き出した。ここから14章が始まっていく。 (続きを読む…)

2009 年 8 月 9 日

・説教 「ノアの箱舟5 平和に潜む罠」 創世記9章20-29 

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 21:24

鴨下直樹

 いよいよ、今回でノアの物語は最後になります。 これまでノアの生涯をみてまいりましたけれども、本当にノアは神と共に歩んだということが分かる素晴らしい生涯でした。けれども、今日の個所は少し違います。この最後のところでノアの失態が物語られているのです。

 私は聖書を読みながら時々思うのですけれども、聖書の中に現れる信仰者の姿というのは、いつも完璧ではないなと思うのです。信仰の父と呼ばれたアブラハムにしても、旧約聖書の代表とされるモーセも、あるいはあのダビデ王ですらそうです。誰もがどこかで過ちを犯しています。聖書はそのような事柄を隠そうとはしていません。ここでも同じです。ノアは、神の目にかなうただ一人の正しい人物であったはずです。ところが、聖書はそのような正しい人ノアの失態を描くのに何の躊躇もないのです。

 このことは、本当に厳しい問いを私たちに突きつけていると言わなければなりません。

どんなに立派な人物であったとしても、自分は大丈夫だとは言えないということだからです。

 ノアのような信仰の模範とすべき人物であったとしても、気を許してしまうならば、人はたちどころに罪を犯してしまうのです。どれほど長生きしたとしても、どれほど長い間主と共に歩み続けたとしてもです。つまり、罪ということには定年制というものがないということです。罪は年齢に関わらず、あるいは経験に関わらず、いつでも気を引き締め続けていなければならない事柄なのです。もうここまできたから大丈夫、信仰の歩みを長く続けてきたから大丈夫とは言えないということを、私たちは心に刻みつけておかなければなりません。そういう意味で言えば、神はこのノアに有終の美というものをお与えにはならなかったのです。

 

 しかしながら今日の聖書を読むと、私たちはノアに同情することはできます。長い生涯の歩みがありました。ノアは家族とともに箱舟を作るという大仕事をやってのけ、自分の家族だけが大洪水の中から救い出されたのです。ノアの一生は九百五十年であったと最後に書かれています。そして、洪水の後も三百五十年生きたのです。その時のことです。長い間生きてきて、その晩年にノアは今や一人の農夫として土に向かい、これを耕し、収穫の喜びを得ることができるようになりました。晩年の本当にささやかな喜びだったと言ってもいいと思います。ところが、そうして得たぶどう酒がノアを失態へとうながしてしまったのです。 (続きを読む…)

2009 年 8 月 2 日

・説教 「ノアの箱舟4 虹の契約」 創世記8章20-9章19節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 13:27

鴨下 直樹

 今日、私たちの教会では新会堂三周年記念行事の第二弾として、子どもフェスティバルをいたします。そのために学校に挨拶に行って校門の前でトラクトを配り、幼稚園にポスターやチラシを置かせてもらい、またみなさんも大勢の家族や友人を誘ってくださったと思います。誰もが今日は天気になるように祈って来ました。それこそ、今日の聖書のように雨があがって虹を仰ぎ見ながら、子どもたちと一緒に時間を過ごしたいと願ってきたのです。

 ところが、昨日から天気が悪くなってきまして、今日は天気が良くならないのではないかと多くの方が心配してくださって、昨日は何人かから電話をいただきました。それほどに祈って備えてきた集会ですから、本当に子どもたちや、その親の方々に教会の事をもっとよく知っていただきたい、伝道していきたいと願わされているのです。

 

 この新会堂記念行事と言いますのは、この芥見教会の礼拝堂が新しく献堂して三周年がたったことを記念して行われます。そのために私たち芥見教会が一年をかけて様々な形でこの地域の方々に教会のことを伝え、伝道していきたいと願わされているのです。考えてみますと、新しい建物が建つというのは本当に特別なことです。私たちはこの新しい建物を与えられて本当に喜んでいます。新しいということは、何かこれからこれまでとは違ったことができるのではないかという希望を持っていますし、期待を込めることができるわけで、様々なことに教会として取り組んでいきたいと願わされているのです。

 

 そのように何かを新しく始めると言う時、私たちは新鮮な思いになります。新しい職場に行く、新しい車を買う、そのような時はもちろんですけれども、新しいノートを使う時でさえ不思議な緊張感と楽しさがあります。そこには様々な期待があるのです。 今日の聖書の個所も同じです。罪の世界を神は一度洪水によって滅ぼしてしまわれて、ここから新しいことが始まろうとしているのです。 私たちでも、新しいことを始める時にはこれほどの期待を込めているのですから、神がご自身が作られたこの世界をもう一度新しく始めようと言う時には、その神の思いはどれほどだったかと思うのです。

 

 

 今日の聖書の個所は少し長いところですけれども、四度、神が語りかけるところが記されています。そしてその四度とも、神が一方的に語っておられるのであって、人は一言も発してはおりません。言ってみれば、ここで神がうれしくって思わず饒舌になっておられるのです。新しい世界を神は大変お喜びになって、思わず言葉がついてでてしまっているかのようです。人は気分の良い時にはおしゃべりになると言いますが、まさに神もそのように少しおしゃべりになっておられたのかもしれません。それほどに神の喜びは大きかったということなのでしょう。あるいは、神がこの新しく始まった世界にそれほどの期待をかけておられたということなのかもしれません。 (続きを読む…)

2009 年 7 月 26 日

・説教 「ノアの箱舟3 大洪水の中で」 創世記7章16-8章19節 

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 17:08

鴨下直樹

「船」という漢字があります。「舟」というへんに「八」と「口」という字を書きます。こういう話はドイツ人などは大好きで、この漢字はノアの箱舟に由来すると言われていると説明しますと、目を輝かせて喜びます。舟にノアの家族八人がみんな入った。その入り口から家族が入ると、神が戸口を閉じられたのです。この漢字の説明はみなさんも色々なところで耳にされたことがあるだろうと思います。では、「舟」というへんに「万」という字と、「口」を書くとどう読むかご存じでしょうか?  (続きを読む…)

2009 年 7 月 19 日

・説教 「ノアの箱舟2 戸が閉ざされる前に」 創世記7章1-16節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 18:37

鴨下 直樹

 梅雨を迎えています。毎日毎日雨が続くと本当にいやな気持になります。私の父がかつて小さな本を書きました。「ジュニアのはこぶね」というタイトルの本です。自分が中学生の頃、雨が降って体育の授業ができなかった時に、先生が「今日はお話をしてあげます」とノアの箱舟の話をしたのだそうです。その経験がこの本のタイトルになったというわけです。若い時に聞いたノアの箱舟の話は、後になって信仰をもつようになり、聖書の物語だと知るようになって、その先生はクリスチャンであったかと気がついたようです。若い時、それも梅雨の時期に、ノアの箱舟の話を聞いた。それは父にとって衝撃的な話だったのでしょう。だから覚えていたのだろうと思うのです。

 

 このノアの箱舟の話は、教会に長い間来ている人にとっては、懐かしい聖書物語の一つかもしれません。けれども、ここに書かれている内容は壮絶です。雨が降って、降って降り続いて、人々がすべて死に絶えてしまうまで降り続いたという話です。呑気に聞いていることなどできない話です。 (続きを読む…)

2009 年 7 月 12 日

・説教 「ノアの箱舟1 神との契約」 創世記6章1-22節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 11:47

鴨下直樹

 この朝の説教の題を「ノアの箱舟1 神との契約」としました。今日は1ということですから、続きがあるということです。礼拝の予定表に4まで書いてあることは、すでにみなさんお気づきのことと思います。説教の題をその1とか、その2というふうにやるのはあまり綺麗な題とは言えないかもしれません。

 先月の終わりになりますけれども、御代田で私たちの団体の牧師たちの研修会が行われました。夜の学びの時間が終わりまして、近くにいた先生たちと集まって色々な話をしました。そのなかで説教題をどうつけるかという話になりました。芥見教会の前任の後藤喜良牧師は、あまり題を考えないで、昔、ヨブ記を説教したときは4年かけて説教したので「ヨブの信仰 その170」というふうになったと言っておられました。東海教会の小林先生は、やはりよく題を考えるのだそうで、「今日の説教はどんなことを話すのだろう」と思うような題を心がけているとのことでした。私も以前はずいぶんと説教の題に凝ったこともありますが、残念ながら一か月前に、一月分の説教題を決めなければなりませんので、今はあまり考える時間がありません。それで、今回は前任の後藤先生にならってみたというわけです。

 

 そういうわけで、このノアの箱舟の物語を四回に分けて説教しようと決めたわけですけれども、これには随分と悩みました。もちろん、もっと細かく丁寧に学ぶことができるからです。とくに、今日の個所は1節から8節で一度話が切れています。切れているというよりも、内容が大きく変わるのです。ですから、従来の分け方でいえば、ここは二度に分けて語るのが相応しいと思いますけれども、今日はこの1節から8節と9節以下とを一緒に読み進めて行きたいと思っています。

 

 今、私はこの6章の1-8節は、続く9節からとは内容が大きく異なると言いました。最近ではこの創世記は、4つの異なる資料から今の形に編集されているとほとんどの学者たちは考えています。そして、このところは、学者たちが言うにはそれぞれ資料が異なるというのです。それはそうなのですけれども、良く読んでみますと、そうであってもこの最初の部分というのはノアの箱舟の物語の序章といいますか、そのための導入のような役割を果たしていることは事実ですから、今日は、一緒にここから御言葉を聞いていこうと思っているのです。

 それで、この最初の部分に書かれている事はどういうことかと言いますと、「人間の罪はますます増大した」ということです。1-4節のところに、二つの不思議なことがいくつか書かれています。 (続きを読む…)

2009 年 7 月 5 日

・説教 「神と共に歩む人生」 創世記5章1-32節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 13:06

鴨下直樹

 今日の聖書は、創世記第五章に入りました。ここには系図が記されています。アダムの系図です。お聞きになってお気づきのように、この系図は一般的なものとずいぶん異なります。何が大きく異なるかと言いますと、誰もが非常に長生きであるということです。もっとも長く生きた者は、969歳まで生きているというのですから、ちょっと想像しづらいものがあります。 

 昨日、教会でいつも持っております「ぶどうの木」という俳句の会がありました。いつもこの会に出席させていただいて、非常に多くの刺激をうけています。

 昨日の句会で特選を取った俳句にこういうものがありました。

 白地着て男盛りを思ひをり

 「ぶどうの木」の句会を教会員の宮崎さん、古川昭子さんなどが指導してくださっていますが、ほかに名古屋の中京教会の江崎さん、和子さんご夫妻も同人を務めてくださっておりまして、この江崎さん、江崎先生と言ったほうがいいかもしれませんけれども、この方の句です。江崎先生は七十でしょうかもう八十になるのでしょうか。この方が、熱い夏が来ると、いつものように白地を着る。けれども、昔の体とは何か変わってきてしまったなぁと、昔を思い出している句なのでしょう。けれども、ここにはどこかしらユーモアがあります。「男盛りを思いをり」というところに、この句の味があるのだろうと思うのです。

 以前、私は江崎先生にお尋ねしたことがあります。「江崎先生の句は、いつも何かユーモアがありますね」と尋ねますと、「私ほどの年になると、いつも死を見据えているのだ」という返事が返ってきました。死と向かい合いながら、このようにそれをどこかで、楽しみながら年を迎えている言葉に出会いますと、私などはハッとさせられます。

 先ほど、創世記に先立ちまして、詩篇の39篇を読みました。4節-7節にこうありました。新共同訳でお読みします。

 「教えてください、主よ、わたしの行く末を。わたしの生涯はどれほどのものか。いかにわたしがはかないものか、悟るように。」

ご覧ください、与えられたこの生涯は僅か手の幅ほどのもの。御前には、この人生も無に等しいのです。ああ、人は確かに立っているようでもすべて空しいもの。ああ、人はただ影のように移ろうもの。ああ、人は空しくあくせくし、だれの手に渡るとも知らずに積み上げる。

 神の御前に出るときに、人の人生などほんとうに短いものです。このように人生のはかなさを歌ったものは、聖書の中にいくつでも見つけることができます。 (続きを読む…)

2009 年 6 月 28 日

・説教 「カインの末裔とセツの子孫」 創世記4章17-26節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 18:51

鴨下直樹

今、芥見の礼拝において創世記の御言葉を聞き続けています。この創世記は、神がこの世界をお造りになったことと、その後、人々がどのように神と歩んだのか、いや、どうして神と共に歩むことができなくなったのかが丁寧に語られています。人間は、神のように生きたいと願った結果、神から離れて生きることを選び取ってしまったこと。そして、前回のところでは、アダムとエバの二人の息子カインが、弟アベルと共に生きることを拒み殺してしまうことを通して、一緒に生きていく者を失ってしまったことが語られていました。つまり、神から離れ、隣人を失ってしまいます。こうして人間は孤独な存在となったところまでが、前回のところでした。

今日の聖書の個所は、読んでみますと、それほど重要なことが語られていないように、一見、見えます。そして、実際に、私のところにある様々な創世記に関する書物も、このところは飛ばしてしまっているものが多いのです。けれども、良く読んでみますと、この物語は私たちがすーっと通り過ぎてしまうことはできないほどの、大切なことが語られていることに気がつくのです。

 

 今日のところは、この孤独になってしまったカインがどのようになっていくかが、語られているところです。簡単に言いますと、カインの子孫、カインの末裔の事が語られています。けれども、少しそこで立ち止まって考えてみますと、少しおかしいということになります。何がおかしいのかと言いますと、アダムとエバには二人の息子しかいなかったはずなのに、どうしてひとりぼっちになったカインが結婚できたのか?ということが気になるのです。 (続きを読む…)

2009 年 6 月 21 日

・説教 「エデンの東から帰る道」 創世記4章1-16節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 13:15

鴨下直樹

  先週、私たちの教会の新会堂三周年を記念して、ドイツ教会音楽と聖書という題で、ドイツの賛美の話、主に、宗教改革者ルターのコラールの話しをいたしました。今週も礼拝の後で、岐阜県美術館の館長であり、私たちの教会の教会員でもある古川秀昭さんが、新しい会堂が出来た時から初めておられる「キリスト教美術講座」が行われます。今回のテーマは、フラ・アンジェリコの受胎告知をテーマに選ばれたようです。

 以前も一度礼拝の説教において、この絵について触れたことがあります。おそらく午後、古川さんが丁寧にお話しくださると思いますけれども、このアンジェリコは何枚も受胎告知の絵を描いております。受胎告知といいますのは、処女マリヤが御使いガブリエルから、神の御子を宿すということを告知されます。この場面を描いたものです。この受胎告知のテーマの絵に、アンジェリコは楽園追放という出来事を背景に描いているものが何枚もあります。マリヤが御使いのお告げを受けている背後で、アダムとエバがエデンの園から追い出されてしまう。この神の園から追い出された人間の悲しみが、主イエス・キリストの降誕によって回復されることを描きだそうとしたのです。

 今日、私たちに与えられている聖書は、この楽園を追い出されたアダムとエバの子孫がどのようになったのかを描き出しているところです。神の支配する世界から追い出されてしまった人間が、神なしで世界を造る。その最初の出来事としてこの創世記第四章がおかれているのです。そして、このときから、御使いがマリヤに救い主を与えると宣言されたその時に至るまでの、人の悲しみの源が、ここに描かれているといってもいいのです。

 

 アダムとエバの新しい生活がはじまります。新しい生活という言葉を聞きますと、誰もが、何か楽しげで、これから何が起こるかというような期待を思い浮かべますけれども、果たして、アダムと、エバにとってはどうだったのでしょうか。 (続きを読む…)

« 前ページへ次ページへ »

HTML convert time: 0.203 sec. Powered by WordPress ME