2010 年 8 月 22 日

・説教 主の祈り「罪を赦したまえ」 マタイの福音書6章12節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 00:17

鴨下直樹

私たちは礼拝で主の祈りを祈ります。みなさんの中には、毎日この主の祈りを祈っておられるという方も少なくないと思います。宗教改革者ルターは、ここで教えられている祈りの一つ一つは、生涯にわたって祈らずにはおられないほどの重大なものばかりである、と言っています。それで、長い教会の歴史の中でも度々この祈りを私たちの日毎の祈りとするようにと勧められてきました。
しかし、日毎にこの祈りを真剣に祈ろうとする時に、どうしても立ち止まらざるを得なくなるのが、今朝私たちに与えられている御言葉であるということができると思います。
「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」という祈りです。
長く慣れ親しまれて来た文語訳聖書の主の祈りの言葉ではこうなっています。
「我らに罪を犯す者を我らが赦す如く、我らの罪をも赦したまえ。
「私たちに罪を犯した者を私たちが赦したように、私たちの罪も赦して下さい。」と祈るのです。そうすると、そこでどうしても考えなければならないのは、「私たちが罪を赦したように」、文語訳の言葉では「我らが赦す如く」という言葉の持つ意味です。ここでは、もう私は人のことを赦していますから、どうか私の罪も赦してくださいと言うのです。

私が以前奉仕しておりました教会で、耳が聞こえなくなってしまった方が来ておられました。それまでは普通に聞こえていたのです。ところが、務めている会社でひどいいじめを受けて耳が聞こえなくなってしまったのです。やがて教会を訪ねるようになり、信仰を持つようになりました。そして次第に耳も聞こえるようになっていきました。ところが、その方がある時、私にこんな話をしてくださいました。私はこの主の祈りのこの部分になると声を出して祈ることができないのですと。いつも、ここだけは祈ることができずに黙っているというのです。このように心からは祈れないというのです。
このような厳しい経験はないかもしれませんけれども、みなさんの中にも主の祈りのこの部分が祈れなくなるというようなことがあるのではないでしょうか。 (続きを読む…)

2010 年 8 月 15 日

奨励「サムエルとダビデ」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 00:00

サムエル記16章11~13節

奨励「サムエルとダビデ」 山田健長老

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2010 年 8 月 8 日

・説教 主の祈り「日毎の糧を」 マタイの福音書6章11節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 10:11

鴨下直樹

この「日毎の糧を与えたまえ」という祈りは、私たちにとっておそらく最も身近に感じる祈りだと思います。この祈りはこの時代に生きる私たちにとってますます身に迫る祈りとなっているといえるかもしれません。この主の祈りについては、さまざまな時代に語られてきました。特に、私たちの国においても、いわゆるバブルと言われた時代、経済的な心配をそれほどしなくてもよい頃の説教というのは、多くが、私たちはこの祈りをしなくても食べるものには困らないけれど、それでもこの祈りを祈るのは何故か、という問いを持って語られることが多かったのです。ところが、このところの先行きの見えない経済、増え続ける税金などによって、もう一度この祈りが切実な響きを持つようになってきたと言えます。
このように、この日毎の糧を求める祈りというのは、必要が満たされるようにという祈りとして単純に理解すれば、私たちの生活の中心に置かれた祈りであると言えます。そして、この祈りが主の祈りの中の中心に位置しているのも偶然ではないだろうと思います。
礼拝の中で主の祈りを祈りながら、ここでようやくほっとすることができるということもあるのではないでしょうか。ここからが、私たちの日常の祈りであると感じるのです。確かに、この主の祈りは二つに分けることができると言われています。前半は神を讃える祈り、神についての祈りです。そして、ここから始まる後半部分が、私たちの祈り、私たちの生活に関する祈りであると理解することができるのです。 (続きを読む…)

2010 年 8 月 1 日

・説教 主の祈り「御心が行われますように」 マタイの福音書6章10節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:32

鴨下直樹

今、私たちは「主の祈り」を学んでいます。主の祈りを通して祈る心を学んでいます。ここに、私たちが日毎に口ずさむべき祈りがあるのです。
祈りを学びたいという人に私はよく紹介する一冊の本があります。P・T・フォーサイスの書いた「祈りの精神」というものです。もう何度も版を重ねておりまして、これを出していた出版社が倒産してしまったために、もう手に取ることができないかと思いましたけれども、先日、また異なった出版社から出されることになったと聞きました。教会の図書にも入っておりますので、是非お読みいただきたいと思う書籍です。
先週から信徒による聖書の学びが始まり、非常に豊かな時間を過ごすことができました。それに先立ちまして、先々週の祈祷会で、この「祈りの精神」という書物の最初の部分を共に読みました。出席された方々は、すでに最初のところを一緒に読んだのですけれども、「最悪の罪は祈らない事です」と言う言葉から始まるのです。神と共に生きる者は、祈りながら、他者のため、他の人のために祈ることになると、最初に語りながら、祈りがどれほど私たちの生活に必要であるかを語ります。この本の第一章は「祈りの本性」というタイトルがつけられています。この前半の中心的な言葉はこういう言葉です。「あらゆる祈りのうち、真の祈りは、『神よ、あなたの御心がなりますように』という祈りである」と言っているのです。祈りというのは、私たちの生活に不可欠なものだけれども、その祈りの中心は、結局のところ「御心がなりますように」という祈りだというわけです。
この祈祷会である方が質問をしました。「自分の祈りは自分の事ばかりを祈っていたのだけれども、そういう祈りは間違っているのか」という質問です。みなさんもそのような問いを持たれるのではないかと思います。 (続きを読む…)

2010 年 7 月 25 日

・説教 主の祈り「御国がきますように」 マタイの福音書6章10節 

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:21

鴨下直樹

私たちの芥見キリスト教会ではいつもですと、水曜日と木曜日の祈祷会の時に牧師か宣教師が聖書の学びをしております。私はアブラハムの生涯をしておりますし、マレーネ先生はペテロの生涯の学びをしていてくださいます。ところが、この夏休みの季節になりますと、信徒がこの祈祷会で御言葉を語ります。そこでは、人によって御言葉からの証しをしたり、普段それぞれが御言葉と向かい合っている生活の中で、自分はこのように理解しているのだけれども、他の人はどのように御言葉を受け止めているのかなどというような問題提起をしながら語り合ったりしているようです。さっそく今週から「信徒による楽しい聖書の学びと祈祷会」などという名前が付けられまして、担当者のリストがみなさんの手元に配られていると思います。私はキャンプなどで留守をすることが多く、全てに参加することはできませんけれども、できるだけ多くの集いに参加し、共にみなさんがどんなことを語られるのか今から大変楽しみにしています。いつもの祈祷会の時よりも多くの方々が参加されるようです。それは、私たちにとって大変意味のある時だと思います。誰がどのように御言葉に生きているのかということを直接に聞くことができるからです。そして、その時に、おそらくさまざまな感想が生まれるのだろうと思います。自分の御言葉に対する姿勢と違うというような経験をするからです。もちろん、それはどちらが正しいとか、ということではありません。それぞれの生活の中で聴き取る主の御言葉は、さまざまな聞かれ方をするのです。同じ御言葉を聴いていても、そこで起こる反応や応答は誰もが異なるのです。もっと言えば同じ御言葉を説き明かしていても、牧師の説教がすべて異なっているのと同じです。それは、また牧師の説教が異なるということだけではありません。それぞれの教会の伝統が異なるので、そこでまた強調して説かれることも変わってくるということもあるのです。 (続きを読む…)

2010 年 7 月 18 日

・説教 主の祈り 「父よ、御名があがめられますように」 マタイの福音書6章9節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:35

鴨下直樹

 この朝から私たちは主の祈りを学び始めます。出来るだけ丁寧に主の御言葉を聴きとろうと願っています。私の前任の牧師であった後藤喜良先生は、その二年半の間に祈祷会で二年半かけて主の祈りを学び続けたと聞きました。おそらくそこに参加された方々は驚いたのではないかと思います。私自身もそれを聞いて大変驚いたのですが、主の祈りというのは丁寧に学ぼうとすればそれほどになるということであるかもしれません。

 かつて古代の神学者であった教会教父のテルトゥリアヌスは、主の祈りのことを「福音の要約」と言いました。この祈りの中に、福音が、神からの喜びの知らせがぎっしりとまとめられていると言ったのです。ですから、それを丁寧にひも解いていくとすれば、二年半という月日がかかるのかもしれません。

 そういう意味ではこの9節だけでも、何回かに分けて語るのが良いと思いますけれども、二週間前に説教の予定を変えたこともありまして、今朝はこの9節を一度で学びたいと思います。

 

 「主の祈り」というのは、主イエスが弟子たちに祈りを教えられたものです。この主の祈りはルカの福音書の11章でも主イエスが教えられた祈りとして紹介されています。けれども、ルカのほうはマタイと少し違っているところがあります。 (続きを読む…)

2010 年 7 月 11 日

・説教 「祈りの姿」 マタイの福音書6章5-8節、14-15節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 19:29

鴨下直樹

 いつも説教の後に、自由祈祷と言いまして、それぞれが自由に御言葉への応答の祈りを捧げます。先日、加藤常昭先生が特別伝道礼拝に来られたときにも、礼拝で自由祈祷をしている教会はちょっと珍しいと言われました。どこの教会でもなされているのではないようです。この自由祈祷というのは、礼拝で主から御言葉を聴きますけれども、それにそれぞれが応えて自由に祈ろうというわけです。説教の後に、みんなの前で大きな声を出して祈るというのは勇気のいることです。また、自分の祈りが説教の応答にならないのではないかと考えて、祈りを躊躇なさる方もあると思います。あるいは、祈りというのは人前で立派な祈りを聴かせることではないはずだから自分は祈らない、と心の中で決めておられる方も中にはあるかもしれません。いずれにしても、人前で祈るというのは難しいことです。おそらく誰もが自由祈祷をする時にいつもいろんな事を考えながら、この祈りと向かい合っておられるのだと思います。

 

 今日、私たちに与えられている聖書は祈りを教える箇所です。そして、特にここでは、人前で祈るということについて主イエス御自身が注意を投げかけておられます。ここで何が語られているかと言いますと、人は祈りの姿において偽善者になると言うのです。そのように主イエスから言われてしまうと余計に人前で祈れないということにもなりかねません。もちろん、主イエスは人前で祈ることを禁じておられるわけではありません。ただ、そのような祈りの中で起こる誘惑に対して注意を投げかけておられるのです。

 

 主イエスはここでこのように語っておられます。 (続きを読む…)

2010 年 7 月 4 日

・説教 「喜びの中へ」 ルカの福音書15章11-32節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:00

鴨下直樹

 先週の日曜日、私たちは加藤常昭先生をお迎えして伝道礼拝をいたしました。そこでは加藤先生を通して伝道説教を聞きました。キリストを通して救いを受けるという伝道的な言葉を聞きました。それは、本当に私たちにとって幸いな時となりました。本当に多くの方々がこの福音の言葉、伝道の言葉を耳にしたのです。私ごとで恐縮ですけれども、その翌日の月曜から木曜日までの間、名古屋で説教者トレーニングセミナーに参加してまいりました。そこで指導してくださったのも、説教塾という牧師たちの説教のための学びを指導してくださっております加藤常昭先生でした。今回そこで学んだのは伝道説教です。加藤先生の心の中に、日本中の牧師たちがこの伝道の言葉を獲得して欲しいという思いがあるのです。

 私たちは特別伝道礼拝などを計画しますと、先週のように、伝道説教者として成功している牧師などをお招きします。けれども、やはり自分の教会の牧師が伝道説教していくことが何よりも大切なことです。

 先週の日曜日の夜、実は長老をはじめ執事の方々とマレーネ先生、そして私たち夫婦は加藤先生を囲んで食事の時を持ちました。大変楽しい時となりましたけれども、その最後に加藤先生が、「明日から鴨下牧師は説教の学びに参加するから、今度の日曜日の説教を楽しみにするといい。」と役員の方々に言ってしまいました。私としてはプレッシャーをかけられてしまったようなものですけれども、そう言われて引き下がるわけにいきません。それで、いつもマタイの福音書から順に御言葉を聞き続けておりますけれども、今朝は予定を急きょ変更いたしまして、説教セミナーで多くの牧師たちと共に学びました伝道説教の箇所であるこの御言葉に、ともに耳を傾けていきたいと思うのです。 (続きを読む…)

2010 年 6 月 27 日

特別伝道礼拝「あなたの居場所」ピリピ人への手紙3章2-11節

Filed under: 特別説教,礼拝説教 — admin @ 10:30

加藤 常昭

今から二十三年前に「説教塾」というグループが生まれました。今は成長して正式にメンバーとなっている者は二百人を超えます。二十教派を超える説教者たち、牧師、伝道師たちが集まって色々なかたちで説教を学んでいます。明日から名古屋でその学びが四日間あります。ここの教会の鴨下先生も、もうかなり前からこの説教の学びの仲間でありまして、大変親しくさせていただいている若い、頼もしい説教者です。その先生から皆様のこと、この教会のことを何度も伺ってまいりました。今回ようやく導かれて、この日の朝の礼拝をその皆様と共に捧げることができます。
皆様も同じですけど、私は日曜日の朝が来ると、この日曜日はもう二度と戻ってこない、自分の生涯にとってかけがえのない時、その時をこのような礼拝で過ごすことができる。今すでに読まれた聖書の中に「復活に生きる」という言葉がありました。日曜日は主イエス・キリストがよみがえりになったお祝いの日です。その生命(いのち)を祝う時を、今朝は私は皆様と共に過ごすことが出来る。もう二度と帰ってこない。そして恐らく、この教会のこの場所に立って説教することもないかもしれません。その様な思いを込めまして、私は何年か前から、一つの教会の伝統に従いまして説教のはじめに、聖書の言葉によって、説教を聴く方たちに祝福の言葉を贈ることにしています。

今朝、私どもが神の言葉として聴きますのは、伝道者パウロがピリピの教会に書き送った手紙であります。その手紙の中にあります、これはしばしばキリスト教会で祝福の言葉として朗読されるものでありますが、それをここで皆様に贈ります。

「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくださいます。」

アーメン。(ピリピ4:4-7)。

信じること、キリスト者になること。それはどういうことだろう。色々と説明することが出来ます。今朝、司式者によって朗読されましたピリピ人への手紙の第三章の言葉はこの手紙を書いたパウロが、ある意味では珍しいことですけれども、自分の歩みについて、とても簡潔な言葉で自分の生涯を語ってくれているところです。何故、自分がキリスト者になったか。これはとても大きな変化でした。このパウロの言葉の中に、六節に、「その熱心は教会を迫害した程」とあります。パウロ、この人が聖書の中に登場してくるのは、使徒の働きと呼ばれる、教会がどのように最初の歩みを始めたか、ということを語っている書物の最初の方です。教会の指導者の一人でありましたステパノが最初の殉教者になりました。エルサレムで、教会を快く思わない人達によって捕らえられて、石で打ち殺されたのです。血を流して死んだのです。そこでパウロ、その時には「パウロ」という名前でなくて「サウロ」という言葉で、名前で記されていますけれども、サウロはステパノが殺されることに賛成したとはっきり書いてあります。人殺しに賛成したのです。キリスト者を殺すことに賛成した。それどころでないのです。ここに記されているように、その後、教会を迫害して歩いたのです。生まれたばかりのキリスト教会をぶっ潰すというグループの先頭に立ったのです。とっ捕まえて牢に放り込む、キリスト者なんか殺されてしかるべきだと思っていた人です。

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2010 年 6 月 20 日

・説教 「施しの心」 マタイの福音書6章1-4節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 17:19

鴨下直樹

 今週の月曜日から、長野県の御代田で私たちの教団の牧師の修養会が行われます。今年のテーマは「休息」です。牧師たちが集まり、四日間にわたって「休息」について考えるというのもどうなのかという気がいたしますけれども、その修養会の中で「働きと休息」というテーマで一度聖書からの考察をしてほしいという依頼を受けました。それで、先週はこの説教の準備をするとともに、「休息」ということを考えながら御言葉から聞き続けておりました。そうすると、どうしても考えざるを得ないのは、なぜ「休息」というテーマを選んだのかということです。その一つの大きな意味の一つは間違いなく、牧師たちがゆっくり休むことができないという考えがあるのではないかと思わざるを得ません。

 けれども、ゆっくる休むことができないというのは、牧師たちだけのことではありません。むしろ、様々な仕事をしておられる方々の方が、本当に忙しく働いておられるのではないかと思います。私たちは誰もがそうですけれども、この「忙しい」という言葉を好んで使います。「忙しいから出来ない、無理」というようなことを言うことが、現代の口癖になっていると言っても言い過ぎではありません。そうすると、そこでどうしても「休息」ということともに考えざるを得ないのは、今日の聖書の御言葉です。 (続きを読む…)

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