2010 年 1 月 31 日

・説教 「試みの中で」 マタイの福音書4章1節-11節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 19:59

鴨下直樹

 最初に一枚の絵をお見せしたいと思います。この絵は、スタンレー・スペンサーというイギリスの画家の描いたもので、「荒れ野のキリスト-さそり-」という題がつけられています。私がこの絵をみるのは、「誘惑」という題がつけられたドイツの神学者ボンへッファーの小さな書物に白黒で印刷された絵を見たのが最初でした。主イエスは四十日四十夜断食をなさった。その試みにあっておられた時の絵です。おそらく、私だけでなく、多くの方が思うのは、「四十日も断食をしていたのに、このでっぷりと太りきった主イエスの姿はどういうことか」ということではないかと思います。人々が想像する主イエスのイメージはまったくありません。この絵を見ていると、「主イエスの受けられた誘惑というのは、どうも、私が思い描いているようなものとはひょっとするとまるで別の事柄なのではないか」と、そんな気持ちでこの書物を開いたことを忘れることができないのです。
Christ in the Wilderness - The Scorpion -  この絵が表紙に載せられたこの書物の冒頭で、ボンヘッファーはこんなことを言っているのです。言葉通りではありませんけれども、こういう内容です。「聖書全体が語る誘惑というのは、自分の力をためすということではなくて、自分の持つ力がすっかり敵の手に落ちてしまい、荒野へと追いやられること、つまり、わたしは見捨てられてしまっている。全ての人からも見捨てられ、神からも見捨てられてしまっているということだ」と。自分は見捨てられている、誰も理解してくれない、神さえも自分を見捨ててしまっているのではないかと思う。誘惑というのはまさに、そのような荒れ野を経験することだと言うのです。

 この「荒野の誘惑」として知られるこの物語はこのように語り始めています。「さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた」。主イエスは、「悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれた」と言うのです。ちょっと考えにくいことです。「御霊が導いた」のです。神が、そのような試練の場、自分は見捨てられていると感じるような場所に、主イエスを導いたという。それは果たして何のためなのでしょう。考えると、答えは一つしかないのです。 (続きを読む…)

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