・説教 ルカの福音書19章1-11節 「Follow Me!」
本日は伝道礼拝でマレーネ・シュトラスブルガー師が説教をして下さいました。
2011.12.25
クリスマス礼拝説教
鴨下直樹
「そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。」
毎年、毎年、クリスマスになると読まれる聖書の個所です。皇帝アウグスト。このローマの皇帝の名前ほど今日の世界で名前の知られた皇帝はいないと言えるかもしれません。今日にいたるまで、すべての教会でクリスマスを祝うごとに、この名前が覚えられているからです。
けれども、このアウグストというのは、この王のもともとの名前ではありませんでした。もとの名前はオクタビアヌスと言います。「アウグスト」というのは、「尊敬されるべき者」という意味です。しかし、このアウグストという名前は後にはさらに別の意味を持つようになります。「現に生ける神」。これが、この「アウグスト」という名前の持つ意味だといわれるようになったのです。 (続きを読む…)
2011.12.24
聖夜 燭火礼拝説教
鴨下直樹
今から十年前のことになります。ドイツの北の方にハンブルグという美しい港町があります。この町を訪れました。少し時間があったので、礼拝堂を見るのが好きな私は、このハンブルグにあるいくつかの礼拝堂を訪ねました。町の中に、オレンジ色のレンガ色をしたロマネスク様式の古い教会がありました。さっそく中に入って見ますと、外側の古い建物の雰囲気とは対照的な非常に近代的な雰囲気がするのです。といいますのは、礼拝のありとあらゆるところに、3メートル四方もするような大きな写真のパネルが掲げられていたのです。まるで、モダンアートのギャラリーに来たかのようです。写真を一枚一枚よく注意してみますと、すべてが女性の写真です。 (続きを読む…)
鴨下直樹
先週の日曜日、私たちは加藤常昭先生をお迎えして伝道礼拝をいたしました。そこでは加藤先生を通して伝道説教を聞きました。キリストを通して救いを受けるという伝道的な言葉を聞きました。それは、本当に私たちにとって幸いな時となりました。本当に多くの方々がこの福音の言葉、伝道の言葉を耳にしたのです。私ごとで恐縮ですけれども、その翌日の月曜から木曜日までの間、名古屋で説教者トレーニングセミナーに参加してまいりました。そこで指導してくださったのも、説教塾という牧師たちの説教のための学びを指導してくださっております加藤常昭先生でした。今回そこで学んだのは伝道説教です。加藤先生の心の中に、日本中の牧師たちがこの伝道の言葉を獲得して欲しいという思いがあるのです。
私たちは特別伝道礼拝などを計画しますと、先週のように、伝道説教者として成功している牧師などをお招きします。けれども、やはり自分の教会の牧師が伝道説教していくことが何よりも大切なことです。
先週の日曜日の夜、実は長老をはじめ執事の方々とマレーネ先生、そして私たち夫婦は加藤先生を囲んで食事の時を持ちました。大変楽しい時となりましたけれども、その最後に加藤先生が、「明日から鴨下牧師は説教の学びに参加するから、今度の日曜日の説教を楽しみにするといい。」と役員の方々に言ってしまいました。私としてはプレッシャーをかけられてしまったようなものですけれども、そう言われて引き下がるわけにいきません。それで、いつもマタイの福音書から順に御言葉を聞き続けておりますけれども、今朝は予定を急きょ変更いたしまして、説教セミナーで多くの牧師たちと共に学びました伝道説教の箇所であるこの御言葉に、ともに耳を傾けていきたいと思うのです。 (続きを読む…)
– クリスマス・ファミリー礼拝 –
鴨下直樹
今日はクリスマス・ファミリー礼拝ということで、子どもと大人とが一緒にクリスマスのお祝いをしています。先程、エプロンシアターで、クリスマスの物語りを聞きました。クリスマスには、今エプロンシアターで見たように、羊飼いたちや東の国の博士たちといった色々な人たちが、生まれたばかりのイエス様のところにお祝いをするために尋ねてきたのです。こうして、クリスマスには色々な人たちが、特に家族が集まって来て、一緒にお祝いするという習慣がうまれました。
先日、ある方とお話をしていて、面白い話を聞かせてくれました。 (続きを読む…)
鴨下直樹
この9月に入りましてから、Giftというテーマで三回のメッセージをしておりますけれども、今日はその最後の三度目になります。私たちは神さまからどのように大きなギフト、贈り物を頂いているかということについて御言葉から聞き続けております。
今日は三回目ですから、少し違った角度からまたこのギフトについて考えてみたいと思っているのですけれども、私たちはこの聖書から二度にわたってどんなに素晴らしい贈り物を与えられているかを学んできました。それは、この神からの贈り物は、聖書を通して与えられるということを同時に意味していたということができます。つまり、聖書をどのように読むかということと、私たちが神様から頂いた贈り物、ギフトを用いて生きることとは非常に深く関わりあっているのです。
聖書をどのように読むかということについては、主イエスがおられた時代にもさまざまな読まれ方があったようです。 (続きを読む…)
本日は、芥見キリスト教会員 赤塚尚武兄と山田健兄が奨励をして下さいました。
赤塚尚武
聖書の中にいくつのたとえ話が出てくるでしょうか?
それを幾人の画家がいくつの作品に描き、この世に残しているのでしょうか?
私が最初に聖書の中のたとえ話を絵画作品で知ったのはレンブラントの「放蕩息子」です。最初は画集で見ました。しかし、その後、私は二度もその作品が常設されているサンクト・ペテルスブルクにあるエルミタージュ美術館で、それを鑑賞する機会に恵まれました。
それは毎年4月にサンクト・ペテルスブルクにある露日友好協会主催「日本の春」が開催されており、その行事に2001年と2005年に二度招待を受けて合唱団を連れて出かけました。その時にエルミタージュ美術館へ招待されたのです。
この本はその時に、記念品として協会長のグレゴリー教授から貰った画集です。彼は大の親日家で退職後、京都の鞍馬に、それも竹やぶのあるところに住みたいと語っていました。
これがそのレンブラントの名作「放蕩息子」です。
さて、ルカ15章4節から32節までに三つの有名なたとえ話がでてきます。
初めの二つのたとえ話は取税人や罪人とイエス様が交わりをされることに対してパリサイ人や律法学者が侮辱的な言葉を浴びせることに対する主の答えだと思います。迷った一匹の羊と銀貨のたとえは神の捜し求める愛の姿を表しています。
第三のたとえ話は神の赦しと愛を表し、父によってのみ現わされる深くて温かい恩恵を描かれ、独特な美しさに輝いています。そこには「喜び」が基調となっています。
本日は時間の都合もありますので、三つの例え話の内、最初と最後について、語ってみたいと思っています。 (続きを読む…)
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