2023 年 1 月 15 日

・説教 ルカの福音書2章22-40節「主よ、今こそ」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 08:24

2023.1.15

鴨下直樹

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 今日、私たちは、この与えられたみ言葉の中に、とても美しい一人の年老いた信仰者の姿を見ることが出来ます。キリスト者であれば誰もが、こんな老人になりたいと思える人です。名前をシメオンと言います。新約聖書の外典によれば、シメオンはこの時112歳であったと記されています。

 実際に112歳だったかまでは分かりませんが、かなりの年齢であったようです。シメオンは自分の人生の終わりの時に至るまで望みに生きた人でした。

 25節で、このシメオンのことをこう記しています。

そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた。また、聖霊が彼の上におられた。

 シメオンはイスラエルが慰められることを望み続けていたことがここに記されています。この「イスラエルが慰められること」というのはどういうことでしょうか? 預言者イザヤは何度もこの「イスラエルの慰め」について語りました。イザヤが語る「慰め」というのは、バビロン捕囚が終わりを迎えることです。国を追われたイスラエルの人々が、本来いるべき地に戻ってくることができるようになることです。

 このシメオンが生きた時代には、すでにバビロン捕囚は終わっていました。けれども、シメオンはまだこの慰めが与えられていないと感じていたのです。シメオンはその時代にあってどんな宗教家たちにも増して、望みに生きることを知っていた人でした。この時代を代表する宗教家を、新約聖書では3種類の人々で描いています。まず、パリサイ派や律法学者と呼ばれる人たちがいました。この人たちは信仰を職業化させていった人たちです。外面的に良く見えるような生き方に心を砕いた人たちです。こうなると信仰は無味乾燥なものとなってしまいます。

 その次にサドカイ派と呼ばれる人たちがいました。これは信仰を世俗化させていった宗教となりました。信仰を人々が受け入れやすくしました。そう聞くと良さそうに聞こえますが、自分たちに都合のいいように変えたということです。神様の心ではなくて、自分たちにとって便利なことを優先させていったのです。

 もう一つゼロテ党とかゼロタイ派と呼ばれる人たちがいます。この人たちは打倒ローマを打ち立てて民族としてのイスラエルの再興を声高く主張しました。民族主義的信仰と言えます。

 律法学者のような職業化した信仰、サドカイ派にみられる世俗化した宗教、ゼロテ党の民族主義的宗教とさまざまな人々がいたのですが、神様はこのような宗教家たちではなく、シメオンをお選びになっておられました。シメオンは、26節によれば「主のキリストを見るまでは決して死を見ることはないと、聖霊によって告げられていた。」のでした。

 このシメオンは、神の民が慰められることを求めていました。神の思いがそこにあることを知っていて、神のみ心を望み続けて生きたのです。ここに、信仰者としての美しい姿が示されています。

 シメオンは、神殿を訪れた赤ちゃんの主イエスを見てすぐに分かったようです。どうしてかは分かりません。不思議としか言えません。主イエスの両親が生まれて8日目の割礼を授け、ささげ物をするために神殿にやって来ました。この時赤ちゃんの主イエスを見て、シメオンはこのお方こそ救い主、キリストであることが分かったのです。 (続きを読む…)

2022 年 12 月 25 日

・説教 ルカの福音書2章8-20節「恐れるな!」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 07:18

2022.12.25 クリスマス礼拝

鴨下直樹

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 今日、私たちは25日のクリスマスの朝に、こうして教会に集い、み言葉を耳にしています。今朝私たちに与えられている聖書は、「恐れることはありません」と語りかけています。

 これは、御使いが夜番をしている羊飼いに語りかけた言葉です。今朝は、この「恐れるな」という言葉を考えるところから始めてみたいと思います。

 羊飼いというのは、この地域では最も弱い立場の貧しい者たちでした。夜、暗闇の中で羊を襲う獣や盗賊と戦うのが仕事です。命がけの仕事なのに、身分が低いのです。

 今回カタールで行われたワールドカップは、暑い夏をずらして冬の開催となりました。12月でも、カタールは温かいのです。そんな中で、スタジアムの建設に当たった人たちは、貧しい出稼ぎの人たちでした。ドイツの友人から聞いたのですが、すでに10月の時点で、3000人以上の死者がこの過酷な労働のために出ているということでした。そのニュースを知ったヨーロッパの人々は、今回のワールドカップに抗議するために、テレビを見ないという運動をして、そういう人がかなりの数になったのだそうです。人のいのちを使い捨てのようにするやり方に、多くの人々が異を唱えたのです。

 このクリスマスに出て来る羊飼いは、このような貧しい人々を代表する存在として神様はお選びになりました。現代も、羊飼いという職業ではなかったとしても、さまざまな羊飼いのような立場の人たちがいることを私たちは考えさせられます。カタールで働いた労働者たち、また戦争のために暖もとれないウクライナの人たち。また今回大雪で、もう一週間近く停電のままでの生活を強いられている北陸の方々があります。あるいは、一人暮らしで孤独を覚えておられる方、病の中で苦しんでおられる方、さまざまな人たちがいます。羊飼いは、そのような弱さを覚えておられる方の代表と言えるのです。

 羊飼いたちは、その夜も夜番をしていました。眠気と戦いながら、周囲に気を配り、羊たちの面倒をみるのです。過酷な仕事です。今のような電気の柵が張り巡らされていて、羊が逃げ出したり、野獣が入って来たりすることがないような環境ではないのです。

 そんな羊飼いたちのところに、突然天が開け、まばゆいばかりの光が降り注ぎます。この時のことを9節はこう記しています。

すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。

 天使の登場と共に主の栄光が周りを照らしたのです。それを見た羊飼いたちは、非常に「恐れた」と書かれています。

 羊飼いたちが日常的に抱えている恐れは、狂暴な野獣が現れることでしょう。自分のいのちの危険を感じる時に恐れを覚えるのです。そうであれば、この恐れは私たちにもよく分かるのです。私たちは、子どもの頃から暗闇の恐怖を感じるものです。

 特に、怖い映画か何かを見ますと、いつも夜中に一人で行けるトイレさえ、怖いと感じることがあるものです。得体の知れないものがどこかから出て来るのではないか、そんな不安があります。けれども、ここで、羊飼いたちが感じた恐れは、その手のたぐいのものではありませんでした。もっと、本質的な恐れです。

 目の前に現れたのは、暗闇を打ち破るほどのまばゆいばかりの光です。そして、そこにはどんな姿であったのかそれ以上のことは書かれていませんが、御使いがいたのです。人の姿をした存在だったと考えられています。

 そこで、羊飼いが感じた恐れは、いのちを脅かされる恐怖ではありませんでした。聖いものの前に出る時に覚える畏れです。自分の卑しさを知らされたのです。羊飼いたちの心の中に、自分を卑下したくなるような、そんな思いが染みついていたのかもしれません。けれども、この自分は貧しい者でしかない、自分は聖なるお方の前に出るのにふさわしくないと感じる、そのような畏れは、決して主なる神が嫌われる思いではなかったはずです。

 御使いは羊飼いたちに告げました。まず10節です。

「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。」

 「恐れることはありません。これは民全体への喜びの知らせです」とまず、御使いは告げました。民全体の代表として、あなたがたを選んだというメッセージが、ここで当たり前のように告げられています。これは、民全体への知らせ、しかも大きな喜びの知らせを、全国民を代表するあなた方に知らせますということです。

 この世の王や、大臣や、商人たちでもなく、雇い主や、一族の長でもないあなたがたに、この知らせをまず知って欲しいと思っているのだという、神のメッセージがここにはあります。それは、まさに、この世界にいる、今どんな暗闇の中にいる人のことも神は見ておられるというメッセージです。
 神は、暗闇の中に潜むようにしてうずくまっているものを、見ておられるお方です。来年のローズンゲンを先日、みなさんにお届けました。来年のみ言葉は、「あなたはエル・ロイ!」と呼んだ主の御名が年間聖句になっています。

 この「エル・ロイ」というのは、「見ておられる神」「顧みられる神」という意味です。 (続きを読む…)

2022 年 12 月 24 日

・説教 ルカの福音書2章1-7節「居場所のない救い主」

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2022.12.24 聖夜燭火礼拝

鴨下直樹

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宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。

 ここには衝撃的な言葉が記されています。

 イスラエルの人々は、長い間、メシアとかキリストと呼ばれる救い主が生まれるとの約束の言葉を、600年以上の長い間待ち続けてきました。その救い主がいよいよお生まれになった。これがクリスマスの出来事です。

 この12月24日に生まれたという、神の御子主イエス・キリストはイスラエルの人々の長い期待と忍耐の末に、ついにこの世界に来られました。この聖書の中には、神の預言の成就が記されています。

 ところがです。神の約束の実現は、私たちに衝撃を与えます。

 聖書は「宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」と書かれているのです。神の救いの計画は、落ち度なく完璧であったはずです。神ご自身が、人間の姿をとってこの世界においでになられるのです。このルカの福音書の前の所には、主イエスの誕生の前に、ヨハネの誕生を備えておられたことが書かれていました。神は、ゼカリヤとエリサベツという年老いた祭司の夫婦を備えられたのです。そして、神の御子を宿すことになったマリアと夫のヨセフもまた、ダビデ王の末裔でした。この長い時間をかけた神の計画に、落ち度があったとは思えません。

 この主イエスがお生まれになられたのは、今から2022年前、ローマの皇帝アウグストがイスラエルを支配している時代でした。この皇帝は、自分の支配している全世界の住民に住民登録を強要します。臨月に入っていたマリアまでもが故郷に戻らなければならないほどの強制力のある命令です。臨月の女性に、100キロを超える旅をさせるなど、今では考えられないことです。「妻はお腹が大きくて来られませんでした」と言えばいいだけの気がするのですが、それができなかったのです。

 しかも長い旅の末、ベツレヘムに到着したのに宿屋もないのです。この宿屋問題にしても、このルカの福音書には実際には宿屋の話は少しも書かれていません。そもそも、自分の故郷に戻るのですから、親戚がいたはずなのです。住民登録に行くのですから、親類縁者も、郷里を離れていた一族や親族たちがベツレヘムを訪ねて来ることが分かっていたはずです。ダビデ王の家系なのです。大事にされなかったはずはないと思われるのですが、結果は臨月の妻が出産するにあたって「その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた」とあるのですから、誰もこのお腹が大きくなっていた若い夫婦を迎え入れなかったということなのでしょう。 (続きを読む…)

2022 年 12 月 18 日

・説教 ルカの福音書1章57-80節「伝統を乗り越える神の御業」

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2022.12.18

鴨下直樹

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 四年に一度のサッカーワールドカップが間もなく終わります。決勝戦はフランスとアルゼンチンです。今朝の三位決定戦もなかなか白熱した試合だったようですがクロアチアが勝ったようです。明日の決勝も今からとても楽しみにしています。アルゼンチンにはメッシという世界最高と言われている凄い選手がいます。フランスにはエムバペという、メッシを超えるのではないかと期待されている選手も出て来ています。メッシは年齢的に今年が優勝できる最後のチャンスで、このワールドカップで代表を引退すると言われています。さて、どちらの国が勝つのか、本当に今から楽しみです。

 今回の大会は、日本は強豪国に勝ったこともあって、本当に楽しい時となりました。いわゆるサッカー大国と言われるドイツやスペインに勝ったのですから、これはもう歴史的な出来事でした。これまで日本はドイツにもスペインにも一度も勝ったことがなかったのです。

 たとえばドイツには「ゲーゲンプレス」という伝統的な戦術があります。ボールを取られたらすぐ取り返すというやり方です。こういう戦術もあって日本はドイツやスペイン相手にほとんどボールを持つことができませんでした。ほとんどの時間ボールを持たれてしまっていたわけです。それなのに日本が勝ったわけですから、これまでのサッカーの価値観を大きく変えるような衝撃を世界に与えることになりました。

 今、私は「それまでの価値観」と言いましたけれども、これを私たちは「伝統」という言い方をします。サッカーの場合、ボールを持った方が有利であるという考え方が以前からあったわけです。こういった伝統的な考え方というのは、サッカーだけではなく、様々な場面に出てくるとても大切なもので、そこには歴史性や民族性というような特徴が表れています。この伝統が重んじられるのは、やはりその習慣が意味を持っていて、とても大切なことなので、次の世代にもこの伝統といわれるものを受け継がせていきます。

 今日の聖書の中にも、一つの伝統的な習慣が出てきます。それは、生まれて来る子どもに、親や親類の名前にちなんだ名前をつけるという伝統です。これは、とても大切な事でした。たとえば、イスラエルは家族に割り当てられた土地を代々受け継いでいきます。そうすると、ある地域にはその家族でいつもきまった名前の所有者がいるわけで、つける名前を固定することで、その父がどこの誰でどこの土地の所有者かが分かったのです。そうすると、子どもの代に替わったとしても、親類や家族の中で同じ名前が付けられていますから、すぐにこの土地はどの一族の土地であるというようなことが分かりました。これは、イスラエルの民にとっては非常に重要な伝統だったのです。そして、それはザカリヤのような祭司でも同様でした。

 今みたいに、みんなが自由に名前をつけてよいということになると、この時代であればとても大変なことになったわけです。

 さて、ここで母エリサベツは、生まれたばかりの子どもの名前を「ヨハネ」にすると言います。お祝いに駆け付けた人たちは、あなたの親類にそんな名前はないと言います。そして、今度はザカリヤに尋ねます。すると、話すことのできなかったザカリヤまでもが、書き板に「ヨハネ」と書いたので「人々は驚いた」と記されています。

 なぜ、人々は驚いたのでしょう。ここを読むと、ザカリヤは話せなかっただけでなく、耳も聞こえなくなっていたことが記されています。それで、この夫婦はどうやって会話をしたのだろう。そのことに驚いたのだと考える人もあるようですが、問題はそこではありません。それこそ、書き板に書くことだってできるわけです。ここでの驚きは、「ヨハネ」と名付けることに、二人が確信を抱いていることに対する驚きです。このヨハネという名前をつけることの背後に、何かがあったのだのだということを、人々は悟ったのです。 (続きを読む…)

2022 年 12 月 11 日

・説教 ルカの福音書2章11-14節「クリスマスの心」田中啓介師

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2022.12.11

田中啓介

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2022 年 12 月 4 日

・説教 ルカの福音書1章26-38節「恵みの告知」

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2022.12.04

鴨下直樹

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 今日の聖書箇所は、クリスマスの物語の中でも大変有名なところです。キリスト教美術の中でも、この箇所の場面を描いたものが最も多く、「受胎告知」と呼ばれています。御使いガブリエルが、一人の少女のところを訪ねて、「あなたから主イエス・キリストが生まれる」という告知をしたのです。

 このマリアにはいいなづけがいました。いいなづけはヨセフといいます。ですが、このルカの福音書にはヨセフのことは出てきません。あくまでも、マリアのことを描こうとしているのです。

 この時代、婚約をしている相手に、妊娠が発覚してしまいますと、婚約者が訴えれば石打ちの刑にされてしまいます。物語だけを読んでいますと、これはとても美しい出来事です。ですから、描かれている絵画も、美しく描かれているものが多いのですが、実際、このことが明らかになれば、マリアは夫となるヨセフに殺されてしまうという危機にあったのです。

 そのマリアの背景を、神はよくご存じだったはずです。そんなマリアに御使いガブリエルは神の恵みの告知をします。まず、28節にこう記されています。

御使いは入って来ると、マリアに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」

 
 最初から御使いは神の恵みを語ります。神の恵みの使いとなってガブリエルはマリアに「おめでとう」と告げました。

 みなさんは「おめでとう!」という言葉を誰かに言う時、そこにどんな意図を込められますか?

 「退院おめでとう」「合格おめでとう」「誕生日おめでとう」「ご結婚おめでとう」いろんな場面で私たちはおめでとうという言葉を使います。この「おめでとう」というのは、何か嬉しいことがあった時に使う言葉です。そして、その多くの場合、その人が願っていることが実現してよかったですねという思いが、その言葉の中にはあるのだと思います。

 この言葉を言われたマリアは、この「おめでとう」という言葉に思い当たることが何もありませんでした。だから、困惑しました。
 29節にこう記されています。 (続きを読む…)

2022 年 11 月 27 日

・説教 ルカの福音書1章5-25節「良い知らせを伝えるために」

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2022.11.27

鴨下直樹

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 今日こうしてまた皆さんと共に、礼拝をささげることができることを嬉しく思っています。先週、私は入院していたこともあって病室からオンラインで礼拝に参加しました。私にとって、オンライン礼拝に参加するというのははじめての経験でした。確かに、画面越しに説教を聞くことができますし、礼拝の様子を見ることができます。便利になったものだと思います。

 ただ、同時にやはり物足りなさを感じるのも事実です。何よりも、教会の皆さんと顔を合わせることができない、みなさんと語り合うことができないというのは、オンライン礼拝の最大の欠点です。特に、私は入院中個室にいたということもありますけれども、ほとんどこの9日間誰とも会話をすることができませんでした。もちろん、手術の後というのは喉を傷めていますので、飲み込むときにかなりの痛みがあります。ですから、積極的に会話ができる状態でもありませんでしたので、教会にいたとしてもお話しできたか分かりません。

 今もオンラインで礼拝をされておられる方が一定数います。日本中の教会でも3割ほどの人が礼拝に来なくなったという報告もあるようです。オンライン礼拝というのは、便利ですが、どうしても人との交わりという部分、あるいは教会の愛の姿を奪うものとなってしまう要因になっていることは、大きな課題と言えます。

 私自身、この入院している間、それこそ誰とも交わりをすることができませんでしたから、この9日間、強制的に沈黙の時間を得ることになりました。この期間、私は何をして過ごしていたかと言いますと、病室でテレビをみたり、インターネットをしたり、本を読んだりして過ごしていました。入院というのはそういうものなのかもしれません。ただ、今から思うと、もっと違う時間の過ごし方があったのではないかと思っています。とても、怠惰な時間を過ごしました。
 
 そんな中で、今日のみ言葉を心に留めていました。ここに記されているのは、バプテスマのヨハネ誕生の秘話と言うべき内容が記されています。どうやって、ルカがこの物語を知ったのか、そのこともとても興味があります。

 ルカは、順序だてて書いていく中で、洗礼者ヨハネの誕生の出来事の背後に、大きな神の働きがあったことを知って、そのことをこのように記録しました。それはヨハネの両親の上に働かれた神の御業を記すことです。

 バプテスマのヨハネの両親は、ザカリヤとエリサベツと言います。ザカリヤは祭司をしていてアビヤの組に属しています。これはダビデが王様だった時に祭司を24の組に分けて、一年に二回それぞれの組で担当者になった祭司が一週間神殿の祭儀の奉仕をする当番になるようになっていました。このアビヤの組だけでも当時700人の祭司がいたそうです。その中で一年に2度しかチャンスが回って来ないのです。一度に何人が当番になったか分かりませんが、その担当者を決めるためにくじ引きをして神殿での奉仕に担当者に割り振られます。神殿の奉仕担当になった人は大変名誉なことだったようで、一度くじに当たると、次からはくじのリストから除外されていたようです。ですから、祭司としてのどれほどこの働きが名誉なことだったかが分かると思います。

 そんな、まさに祭司冥利に尽きると言ってもいいような奉仕をしていた時に、ザカリヤに主の御使いガブリエルがあらわれたというのです。この時、ザカリヤに語られた御使いのメッセージは13節から17節に記されています。

 最初の知らせはこうです。13節をお読みします。

恐れることはありません、ザカリヤ。あなたの願いが聞き入れられたのです。あなたの妻エリサベツは、あなたに男の子を産みます。その名をヨハネとつけなさい。

 この時天使がザカリヤに伝えた知らせは驚くような内容でした。ザカリヤとエリサベツには子どもは無かったようです。そんな中で、二人は子どもが与えられるように祈ってきたのでしょう。この祈りは若い時にしたのかもしれません。その時の祈りが、もう諦めていたのかもしれませんが、その願いを主は聞き入れてくださったというのです。しかも、その子どもは「主の御前に大いなる者となる」と15節で語られて、続く16節と17節では「イスラエルの子らの多くを、彼らの神である主に立ち返らせます。彼はエリヤの霊と力で、主に先立って歩みます。父たちの心を子どもたちに向けさせ、不従順な者たちを義人の思いに立ち返らせて、主のために、整えられた民を用意します。」と記しています。 (続きを読む…)

2022 年 11 月 6 日

・説教 ルカの福音書1章1-4節「私たちの間で成し遂げられた事」

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2022.11.06

鴨下直樹

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 今日は信長祭りがこの岐阜市で行われています。朝はそれほどひどい渋滞ではなかったようですが、岐阜駅の近くからこの礼拝に来られた方は大変な渋滞を通って、教会にたどり着いたのではないでしょうか。今回の信長祭りは三年ぶりに行われまして、そこで行われるパレードに俳優の木村拓哉さんが出るのだそうです。かなり大きなニュースになりまして1キロのパレードの観覧者席1万5千人のところに96万人もの応募があったという話です。

 来年の1月にどうも織田信長の映画があるのだそうで、その宣伝も兼ねているのだとか。これまで、この織田信長をテーマにした映画や小説は沢山あります。私も歴史小説を読むのが好きなので、何冊も織田信長の小説を読みました。こういった歴史を扱う作品は、それなりに歴史的な事実関係を調べたうえで、そこに小説家の独自の解釈をしながら、信長像を作り出していきます。この解釈に基づいて作家たちはさまざまなエピソードを創作しながら物語の違いを生み出してきます。そういった意味では、今度の織田信長の映画もどんな物語になるのか、とても楽しみです。

 さて、何で信長祭りの話を冒頭にしたかといいますと、まさに今日からしばらくの間、共に聞いていきたいと思っているこのルカの福音書の特徴も、このことと関係があるからです。ここに記されているのは、主イエスが言ったこと、行ったことの記録です。「歴史」というのは、実際に起こった事柄ですが、それは書き残された記録によって知ることができます。この歴史の記録というのは、事実を記録していくのですが、その内容にはさまざまな記録があります。信長にはどういう部下がいたとか、兵隊が何人いたとか、石高はどうだったとか、どの地域で反乱がおこったとか、誰が武功を上げたかという記録です。あるいはそこで起こった事件なんかを発見された手紙などから読み取っていきます。

 歴史を読み解く人たちは、そのようなさまざまな記録を読み取っていくうちに、そこからおぼろげに見えて来る「信長像」というものを見出していきます。小説家たちは、その自分が掴んだ信長像に、さまざまな物語を付け加えることで、強調点を明確にし、そうであったという説得力を生みだしていくのです。歴史小説の面白さは、そのそれぞれの作家の豊かな想像力によって脚色された信長を楽しむことができるところにあります。

 そういう意味では、この聖書も神が働かれた事実を記録した歴史の証言です。特にこのルカの福音書は、歴史家と言われるようになったルカが記したものです。この記録を、現代の説教者たち、牧師たちが、この聖書を読んで解釈して伝える「イエス像」も、また「説教」も、小説家の記す小説に、似ている部分があるかもしれません。

 歴史の記録を読んで、解釈して、他の人に伝えるという意味では行う作業は非常に似ています。ただ、小説と、説教が決定的に違うことがあります。神が記録された歴史の書でもある聖書には、神からのメッセージ、使信があって、それを聞き取って、まさに神の名によって宣言することが説教です。ですから、聖書を読むという作業は、歴史書を読み説く作業も当然するのですが、そこから更に、神の言葉を聞き取るという作業が出てきます。そして、そのために牧師たちは神学校で、その方法を学び、身に付けていくのです。そうやって、ただの歴史を解釈するだけではなく、神の言葉を聞き取る訓練をしていくのです。これは、牧師だけでなく、みなさんも同じように神の言葉を聞き取る訓練をすることで聖書の中にある神の言葉を聞き取ることができるようになります。

 少し余談になりますが、祈祷会で行っている聖書の学びは、聖書をこうやって読むんですよ、神の言葉をこうやって聞くんですよということをみなさんと毎週、その訓練を積み重ねているということになります。ですから、ぜひ聖書を自分で読めるようになりたいと願われる方は、聖書の学びと祈り会に出ていただきたいと思います。

 さて、前置きが長くなってしまいましたが、このルカの福音書を記したルカという人物について、少し考えてみたいと思います。この福音書は、主イエスと出会ったことのないルカというマケドニア出身の医者が記したというところに特徴があります。

 ルカは、パウロの第二次伝道旅行の時に加わった人物で、マケドニアの出身です。ユダヤ人ではなく異邦人です。このルカはパウロの語る福音を聞いてキリスト者になった一人です。当然、主イエスに会ったことはありませんし、自分に福音を伝えてくれたパウロもまた、主イエスと共に歩んだ弟子ではありませんでした。

 しかし、このルカという人は、パウロの語る主イエスのことを聞けば聞くほど、ちゃんと調べてまとめてみたいという思いを持ったのでしょう。

 出来たばかりの教会には、はじめは主イエスの弟子たちや、復活の証人と呼ばれる人たちがいました。第一コリント人への手紙の15章3節を読みますとこう記されています。 (続きを読む…)

2022 年 3 月 20 日

・説教 ルカの福音書18章1-8節「私たちの祈りを聴く神」井上正彦師

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2022.03.20

井上正彦

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礼拝前半


 

礼拝説教から


 

 ただいまご紹介をいただきました私が津島佐織キリスト教会と北名古屋キリスト教会牧師の井上正彦です。

 私がこの芥見キリスト教会へ来始めました頃、丁度同時期ぐらいに同じ歳ぐらいの青年方が何人かすでに集っておられました。そのことを教会の方々は非常に喜んでくださいまして、当時青年だった私たちに「教会に青年が与えられるように祈っていたのですよ!」と満面の笑みで語りかけ喜んでくださいました。当時、信仰的な意味で理解ができていなかった私はその意味が十分に分からずにおりましたが、20年近く前にラジオ放送の「世の光」月間のニュースの巻頭言の原稿を依頼されて祈りつつ、その原稿を書いておりました時にふいに雷に打たれたような衝撃が走りました。

 実は私は教会へ集うようになる前から、朝早く美濃市の実家から名古屋の会社へ行く道中に毎朝ラジオ放送を聴いていました。私は毎朝、旧芥見教会会堂のある国道156号線沿いの「神は愛なり」という芥見教会の小さな電柱の看板を横目で見ていました。その看板を通過するその時間に私は「世の光」のラジオ放送を聴いていました。私は「世の光」のラジオ放送と三浦綾子の本に触れる中で、やがて私は教会へ通うことを決心して、日曜休みのある地元の工作機械の会社に転職し、芥見教会へ毎週通うようになりました。そして芥見キリスト教会は自分が毎日聴いていた「世の光」のスポンサー教会の一つであることを思い出し、私はそこに衝撃が走ったのです。私は自分の意志で教会の門を叩いたはずなのに、教会の方々の、当時見ず知らずの私たちに対するとりなしの祈りの中で、私たち当時の青年が教会に導かれて来たということを改めて感じ入ることができました。それと共に、私にとっては主なる神様にとりなしの祈りをささげることの大切さを痛感したエピソードでした。
 
 さて、本日の聖書のみことばであるルカの福音書第18章1節から8節には、一つの譬え話が出てまいります。登場人物は二人です。一人は「神を恐れず、人を人とも思わない裁判官」です。もう一人はやもめです。この二人の背景についてもう少し詳しくみる必要があると思いますので、説明しますと、この「神を恐れず、人を人とも思わない裁判官」は、どうやらユダヤ人の裁判官ではないようです。当時のユダヤの法律では、何かを裁く裁判官は3名いたようです。一人は原告側から選ばれ、もう一人は被告側から選ばれ、三人目は原告、被告とは関係のないところから裁判官が選ばれて、公正な裁定が下されていたといいます。他方、一人の裁判官が裁きを下していたということは、これはユダヤ人による裁判官ではなくおそらく当時のユダヤを支配していたローマ政府の治安裁判官であったと言えます。このような裁判官は公正な裁判をすることは少なかったようで、もし裁判を有利に進めようとすると、コネクション(縁故による人間関係)と賄賂を使うのでなければ、裁判に勝てる見込みはほとんどありませんでした。逆に言えば、裁判官にとってうまい話があれば、社会的正義や通常の道理を押し曲げることぐらいは平気でやるような人たちでありました。その一つとして、主イエスが十字架の刑にかけられるかどうかの裁定を下す際、当時ローマからの総督であったポンティオ・ピラトなどはその典型例と言えます。また、6節では、主イエス自らがこの裁判官のことを「不正な裁判官」とも断定して言われていることからも、十分にこの裁判官が問題に対して、正義や道理に照らし合わせて公正に裁判するような人ではなかったことがご理解いただけるかと思います。

 他方、もう一人の登場人物は、やもめです。聖書でやもめは貧しく弱い者のシンボル(象徴)でした。社会的地位もお金もないわけですから、先の「神を恐れず、人を人とも思わない裁判官」の所へ行って、「私を訴える人をさばいて、私を守ってください」との願いは普通ならば聞きとどけられることありえませんでした。ところがこのやもめには一つの武器と言えるものがありました。それは「しつこさ」です。先の裁判官は5節でやもめのことを「うるさくて仕方がない」「ひっきりなしにやって来て」と言っているように、このやもめは自分を守るための裁判を行うまでこの裁判官に執拗に食らいつきました。そして最後には、この裁判官は「このやもめは、うるさくて仕方がないから、彼女のために裁判をしてやることにしよう」と思うようになります。

 ですから、ここでたとえ血も涙もないような不正な裁判官であっても、執拗なやもめの嘆願に対して根負けしたからさばきをするというのです。そうしますと、今日の聖書のメッセージは、神様を不正な裁判官として見立てて、とにかくしつこく祈れば、その祈りは聴かれるということになるのでしょうか。そうではないと、今日のみことばはその後に続いて語られます。6節では、「主は言われた。『不正な裁判官が言っていることを聞きなさい。まして神は、昼も夜も神に叫びを求めている、選ばれた者たちのためにさばきを行わないで、いつまでも放っておかれることがあるでしょうか。」とあります。

 ここで、不正な裁判官とやもめのやりとりも念頭に置きつつ、それを今度は主なる神と私たちとのやりとりに置き換えて考えてみよ、と言われました。そうした時、不正な裁判官でさえ、やもめのしつような嘆願を聞きとどけるのだから、まして義と愛なる私たちの父なる神は不正な裁判官とは全く異なり、神の民の祈りを常に聞きとどけてくださり、速やかにその解決を与えてくださるというのです。つまり神様の前での私たちの祈りは決して無にはされない、ということです。私たちは日常での信仰生活において、神様が私たちの祈りを聴かれないとか、祈りが本当に聴かれているのだろうかと疑念をいだくことがあるかもしれません。しかし、やもめの執拗な嘆願を不正な裁判官は迷惑しつつも自分の日頃の行いを変えてまで行動するのだから、まして、私たちの主なる神様は私たちのことを決してお忘れにも、お見捨てにもならないと言われるのです。

 私たち福音派の教会は「デボーション」(日々聖書を読み、祈り、神と交わること)ということを入門クラスや日常の信仰生活の中で強調いたします。しかし、そこで、間違ってはならないのは、この「デボーション」を行う時に、「私にとって主なる神様、主イエス様はどのようなお方であるか」という視点です。そこを見落として、聖書を読み、祈っていくと信仰生活が私たちの行動規範の修正に終始し、信仰生活自体が自分を責めるだけのものとなり、重苦しいものとなってしまいます。そうではなくて、聖書を通して、生ける神ご自身が聖書の登場人物を通しての語りかけや手紙などを通して、どのような働きかけや関わりをしてくださり、どのようなお姿で私たちに関わってくださるのかを知る時に私たちは本当の慰めをいただけるのです。 (続きを読む…)

2021 年 12 月 19 日

・説教 ルカの福音書1章26-56節「あわれみ深い主への賛歌」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 08:39

2021.12.19

鴨下直樹

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Lineライブ

午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。

※ 本日の礼拝は洗礼式と聖餐式を行うため、LINEライブによる礼拝配信は、洗礼式の後から聖餐式の前までの部分のみです。
配信開始時刻は10時30分より遅くなります。Zoomでは礼拝全部をリモート配信していますので、可能な方はZoomでご参加ください。


 
「クリスマスおめでとうございます!」

 私たちは、クリスマスに「クリスマスおめでとうございます」と挨拶を交わします。しかし、実のところ、クリスマスの何がめでたいのか? 何のことでおめでとうと言うのか、人にとって様々な受け止め方があるように思います。

 マリアに天使が現れ「おめでとう、恵まれた方!」とみ告げを受けた時、マリアは意味が良く分からなかったはずです。許嫁のヨセフ以外の人の子どもを身ごもっているというのが、その知らせの中身だったからです。

 普通であればこの後に待ち構えているのは、ドロドロの展開と相場は決まっています。

 宗教改革者ルターはかつて「福音は奇跡というよりむしろ驚きである」と言いました。私は、このクリスマスにこの言葉の意味を深く心にとめたいと思うのです。

 私たちは、福音と聞くと、私たちの身に奇跡が起こることを期待します。クリスマスの福音は処女が身ごもったこと。この奇跡の中に福音があると考えてしまいがちなのです。けれども、マリアにもたらされた「おめでとう」の知らせの中身は、「奇跡」というよりも、むしろ「驚きの知らせ」だったのです。

 起こりえないことが、起こる。これが、マリアに告げられた知らせでした。

 私たちプロテスタント教会は、主イエスの母、マリアについてそれほど詳しく知りません。しかし、中世以降、主イエスの母マリアには七つの喜びがあったと言われるようになりました。

 その七つとは、次の七つです。

 「告知」「訪問」「誕生」そして「公現」。このはじめの四つはクリスマスにかかわることです。

 「告知」というのは「み使いがマリアに主イエスを宿すことになると告げた」ということです。「訪問」は、「マリアがその後、エリサベツを訪問したこと」です。そして、主イエスの「誕生」の後、東の国の博士の訪問を受けます。これを「公現」と言います。

 残りの3つは、主イエスが12歳になった時に家族で「神殿を訪問」した時の喜び。そして、「復活」主イエスが十字架の死の後によみがえったこと。そして、「マリアの被昇天」が最後に数えられています。この最後のものは、カトリック特有の考え方で、マリアが死を味わうことなく天に引き上げられたという伝説にもとづくものです。

 そして、今日は、マリアの七つの喜びの中でも特にこのマリアの生涯に与えられた最初の「告知」の何が喜びだったのかということを、もう一度考えてみたいと思います。

 今日は、ルカの福音書の特に第1章46節以下の「マリアの賛歌」、「マグニフィカート」と呼ばれるマリアの歌の内容に心をとめようとしています。

 み使いの告知を受けて不安の中にあったマリアは、親類のエリサベツを訪問します。エリサベツもまた、子どもができないまま、高齢になっていたのに、子どもが与えられたのです。それも、マリアと同じようにみ使いに告知を受けた後の出来事でした。

 この訪問で、マリアはエリサベツを通して神に不可能はないことを確信します。エリサベツはマリアにこう言ったのです。45節です。

主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。

 この言葉に励まされ、マリアは主をほめたたえます。それが、46節以下の「マリアの賛歌」です。

私のたましいは主をあがめ、
私の霊は私の救い主である神をほめたたえます。
この卑しいはしために
目を留めてくださったからです。
ご覧ください。今から後、どの時代の人々も
私を幸いな者と呼ぶでしょう。
力ある方が、
私に大きなことをしてくださったからです。

46節から49節の途中までをお読みしました。
 すばらしい賛美です。ここでマリアは何を言おうとしていたのでしょう。マリアの不安はどのように克服されたのでしょうか。
 それが、その後の続きのことばで語られています。

その御名は聖なるもの、
主のあわれみは、代々にわたって
主を恐れる者に及びます。

 まだ続きますが、ここでマリアは「主のあわれみ」を語っているのです。 (続きを読む…)

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