2017 年 3 月 5 日

・説教 詩篇91篇「全能者の陰に宿る人」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 14:53

 

2017.03.05

鴨下 直樹

 
 先週の水曜日から教会の暦でレント、受難節を迎えました。主イエスが十字架につけられる40日前からの期間を、受難節と言って、主イエスの苦しみを覚えながら歩むという習慣があります。もちろん、私たちには主イエスが受けられた十字架の苦しみを理解するということはとても難しいことです。主イエスが受けられた苦しみは、私たちの日常の歩みの中で受ける困難さや、苦しみとは、まったく種類の異なるものといっていいと思います。主イエスの受けられた苦しみは、自分がつらい、苦しいというのではなくて、人の苦しみを受け取るという苦しみでした。主イエスは人の罪のために、苦しめられ、十字架につけられたのです。こうして主イエスの受難は、主イエスの愛のしるしとなりました。

 この受難節に、私たちは詩篇のみ言葉からともに聞きたいと願っています。この詩篇91篇は、個人の祈りという性質のものではありません。むしろ、語りかけの詩篇です。この中に、何度も「あなた」という呼びかけの言葉があります。一般的には詩篇で「あなた」と語りかける場合は、主ご自身に対する語りかけですが、この詩篇は、祈りの聞き手である読者に対して語りかけている詩篇です。

 先週の祈祷会の時に、この詩篇をみなさんと一緒に読んだのですが、いつもは詩篇を一緒に学ぶためにプリントを用意するのですが、先週はできませんでした。ですから、まさに、何の備えもなしに、みなさんと共にこの詩篇を味わいました。その時に、マレーネ先生が、この1節がドイツ語の翻訳と日本語訳とではずいぶん異なっているということに気づかせてくれました。

 新改訳聖書で1節はこうなっています。

いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。

とても、綺麗な言葉です。特に翻訳に問題があるわけではないのですが、ドイツ語や英語の翻訳はこの1節がつづく2節につながるように訳されているのです。そういう人は、自分に語りかける、「わが避け所、わがとりで、私の信頼する神」と。となっていて、3節からでてくる「あなた」は、誰のことを指しているかというと、1節のように生きている人、つまり、全能者の陰に宿る人は、こうなるのだという文章になっているというのです。 (続きを読む…)

2017 年 2 月 26 日

・説教 詩篇62篇「私の魂は黙って主を待ち望む」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 19:06

 

2017.02.26

鴨下 直樹

 
 牧師館の裏に小さな庭があります。毎年、春が来るまえに花の苗を植え替えます。日当たりがあまりよくないので、何を植えてもほとんどうまくいきません。雑草さえ生えないような庭です。ところが、その庭にほとんど唯一といってよいのですが毎年花をさかせてくれるのがクリスマスローズです。

 私は、クリスマスローズというのは、クリスマスの季節に咲くということなのかと思っていたのですが、咲き始めるのは冬も終わる頃です。何を植えてもうまくいかないのですが、クリスマスローズだけは綺麗に咲いてくれます。昨年は苗があまりにも大きくなり過ぎたので「株分け」というのを行いました。ところが、今年は、一つだけ花が咲きそうですが、株分けした他の株はほとんど咲きそうにありません。何かがうまくいかなかったのでしょうか。花を咲かせるというのはこんなに難しいことなのかと改めて思わされています。きっとあとは肥料をやって、水やりをして、じっと待つことが大事なのかもしれません。

 今週も詩篇です。詩篇には色々な詩篇があり、花のように、その違いを楽しむことができます。今日の詩篇62篇は、これまで取り扱ってきた詩篇とは少し内容が異なっています。これまで紹介して来た詩篇は、祈り手が祈っても、神は応えてくださらないという、神の沈黙ということが語られている詩篇が多かったように思います。

 最近、カトリック作家遠藤周作の「沈黙」がハリウッドで映画化されました。「サイレンス」というタイトルです。もうご覧になった方もあると思います。この映画の舞台はキリシタンの弾圧がテーマになっています。踏み絵を踏むかどうか。踏み絵を踏むということは信仰を捨てることになる。そういう信仰の危機的な状況の中でも神は沈黙を貫かれたことが一つの背景になっています。詳しい内容は映画を見ていただいたらと思いますのでここではお話しませんが、詩篇の中にもこういう神の沈黙というテーマは何度も記されています。

 しかし、この詩篇は神が沈黙しておられるのではなくて、黙るのは自分の方です。しかも、詩篇の内容を見ても分かりますが、黙ってやり過ごせるような状況にこの祈り手は置かれてはいませんでした。この詩篇は「ダビデの賛歌」と表題があるように、ダビデの生涯のどこかの場面で祈られた祈りということを想定することができます。3節に「おまえたちはいつまでひとりの人を襲うのか」とありますから、多数から追われているような場面を思い描くことができます。ダビデの生涯は、イスラエルの最初の王であったサウルにいのちを狙われ続けていました。晩年には自分の息子アブシャロムからもいのちを狙われて追われることになりました。この詩篇がダビデのいつの時代のことをさしているのか分かりませんが、ダビデの生涯はいつも、多くの人にいのちを狙われるような状況にいたわけです。
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2017 年 2 月 19 日

・説教 詩篇102篇「悩める者の祈り」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 19:03

 

2017.02.19

鴨下 直樹

 
 以前、車で根尾のキャンプ場まで行った時のことです。ふと、いつもと違う道を走ったら近道ができるのではないかと思いつきました。今はカーナビを見ればそんなことは起こりませんが、このまままっすぐ行けば近道なのではないかという勘がときどき働きます。

 みなさんも、そういった経験があるのではないでしょうか。私はその道をどんどん前に前に進んで行ったのですが、どんどん道が狭くなり、林の中に入りこんでしまって、結局行き止まりになってしまいました。途中まではわくわくしながら、新しい発見かと期待をするのですが、結果は散々です。あまりにも道が狭かったために、何百メートルも林の中をバックしなければなりませんでした。途中で間違ったと気づいたら、引き返してもとの道に戻るべきですが、そういう時は、行けるのではないかという思い込みが、健全な判断を鈍らせてしまうのです。

 今日の詩篇102篇は七つの悔い改めの詩篇といわれる詩篇の一つです。けれども、さきほどお聞きになられて分かるように、この詩篇には悔い改めの言葉はありません。「悔い改め」というのは、間違って進んでいた方向を改めて正しい方向に進みだすということです。そういう意味では、この詩篇は途中から正しい方向に向かい始めていますから、確かに悔い改めの詩篇であるということが言えるのだと思います。

 この詩篇も先週の詩篇77篇と構造はとてもよく似ています。内容も似ていると言ってもいいと思います。1節から11節までの前半部分は、祈り手が深い悩みのなかで嘆きの言葉を発する嘆きの詩篇です。後半の12節から最後までの部分は一転して、神への賛美となっています。 (続きを読む…)

2017 年 2 月 12 日

・説教 詩篇77篇「思い起こせ主の業を」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 12:09

 

2017.02.12

鴨下 直樹

 
 私たちの教会に「ぶどうの木」という俳句の会があります。この句会で以前、俳句には大きな俳句というものと、小さな俳句というものがあることを聞きました。五七五の短い言葉なのに、大きな俳句と小さな俳句というものに分類されるというのは、私にとってはとても興味深い話しでした。ところが、指導してくださっているMさんに聞いてみると、とてもよく分かるのです。俳句の内容が何を物語っているかといことで大きな俳句とか、小さな俳句という言い方になるというのです。

 この詩篇77篇は、そういう意味でいえば小さな詩篇です。偉大な神を高らかにほめたたえる詩篇というよりは、自己中心的な詩篇といってもいいかもしれません。大きな詩篇というよりは、普通の人の祈りなのです。もっと言うと、私たちが日常する祈りと似ているかもしれません。この詩篇の内容を全体的に見てみますと前半の部分は神に向かって祈りをささげます。ところが、祈りながら嘆きの言葉が繰り返されていくのです。

 1節と2節はこう始まります。

私は神に向かい声をあげて、叫ぶ。私が神に向かって声をあげると、神は聞かれる。苦難の日に、私は神を尋ね求め、夜には、たゆむことなく手を差し伸ばしたが、私のたましいは慰めを拒んだ。

祈りのはじめは神に向かって祈り始めます。けれども、神の慰めを求めて祈ったけれども、神は答えてくださらないので慰めを求めることを諦めてしまいます。そして、3節にはこうあります。

私は神を思い起こして嘆き、思いを潜めて、私の霊は衰え果てる。

 ここに「思い起こす」という言葉があります。「思い出す」という意味の言葉です。何を思い出したのでしょうか。この祈り手は「思い起こす」と言いながら、自分の内面を見つめ始めていきます。そして嘆き始めるのです。つづく4節にはこうあります。

「あなたは私のまぶたを閉じさせない。私の心は乱れて、もの言うこともできない。」

 この祈り手は、あまりにも不安で、不安で眠れなくなっていると言うのです。「神は私を眠らせてくれない、もう疲れ果てて何も言うことができないほどだ」と言っているのです。そうやって、不安の中で神に祈りながら、この祈り手はさらに自分の内面へと向かっていきます。それが、「思い起こす」という言葉にあらわれています。5節。

私は、昔の日々、遠い昔の年々を思い返した。

こうやって祈り手はどんどん自分の内面を見つめつづけていくのです。

 私たちの日ごとの祈りの中で、私たちも何度も、何度もそういう祈りを繰り返すことがあると思います。主に向かって祈り始めたら、だんだん何を祈っていたのかよく分からなくなってしまって、気が付いたら自分のことばかり考えてしまうということがあると思います。立派な祈りをしたいと思いながら祈り始めたのに、気づくと心はどんどん内向きになっているのです。 (続きを読む…)

2017 年 2 月 5 日

・説教 詩篇138篇「心を尽くして感謝する」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 12:57

 

2017.02.05

鴨下 直樹

 
 この詩篇は「ダビデによる」というタイトルがついています。この旧約聖書のもっとも古い翻訳で紀元前にすでに作られていた70人訳聖書とよばれるギリシャ語の翻訳の聖書があります。そこには、このタイトルは「ダビデ、ゼカリヤとハガイ」となっています。つまり、ダビデの詩篇がバビロンからの捕囚が終わって帰還してきたときに読まれた詩篇ということになるわけです。
 そうしますと、この詩篇の意味が少し整理することができます。1節にこうあります。

私は心を尽くしてあなたに感謝します。天使たちの前であなたをほめ歌います。

 ここに「天使たち」という言葉がでてきます。新改訳聖書は下に注が出ていまして「あるいは『神々』」となっています。かつてのバビロンには都の大通りに「ベル」と「ネボ」という神々の像が置かれていて、やがてそれが荷台に載せられて取り除かれたという記録がイザヤ書46章に書かれています。けれども、今はこのバビロンの都からエルサレムに帰って来て、神殿で礼拝をささげるようになりました。その様子がここで歌われているのです。そして、そのテーマは「感謝」です。まさに、今おかれている自分の状況を思い起こしながら神に感謝をささげているのです。

 この詩篇を正しく理解するために、大切なのはこの2節の部分です。

私はあなたの聖なる宮に向かってひれ伏し、あなたの恵みとまことをあなたの御名に感謝します。

とあります。
 今、この詩人は神の御前で礼拝をささげているのです。この時代の礼拝というのは、神殿でささげものを捧げるという礼拝でした。その大切な部分は神への感謝です。神が、生活の中で守り、支え、導いてくださることに感謝をささげるのです。まさに、礼拝をささげるために神の御前にでるのです。

 私たちも礼拝を捧げにやってまいります。しかし、ひょっとすると私たちの礼拝は、神に感謝をささげ、自分を捧げるということよりも、み言葉を聞いて、神に恵みをいただくためにやってくるということに強調点があるのかもしれません。もちろん、礼拝というのはそのどちらの要素もあるのです。

 この四月から、私は名古屋の東海聖書神学塾で15年ぶりに礼拝学を教えることになりました。礼拝とは何をすることなのかということを学ぶのです。そのために講義のノートを整理しながら改めて気づかされることがいくつかあります。

 特に、旧約聖書で礼拝を表す言葉は3つあります。ひとつは「シャーハー」という言葉で「拝む」とか「地にひれ伏す」という意味の言葉です。もう一つは「アバード」で、これは「仕える」とか「奉仕する」という言葉です。もうひとつは「カーハール」という言葉で「集まる」とか「出会う」という意味の言葉です。どの言葉もそうですが、神に対してどういう態度をとるのかということが言われていることが分かります。礼拝というのは、徹底的に自分本位ではなくて、神を神とする行為をいうわけです。
 この2節の「ひれ伏し」という言葉は「シャーハー」という言葉です。神を恐れ、自分を捧げるために、地にひれ伏すわけです。そうすることによって、神は神であられるということを明らかにしたのです。そこでは、この世にある、ありとあらゆる神々のようではなく、主こそがまことの神であられることを、礼拝の態度で明らかにしたのです。

 興味深いのは、そのように礼拝をささげるとどうなるのかということが3節に書かれています。 (続きを読む…)

2017 年 1 月 29 日

・説教 詩篇42、43篇「谷川を慕う鹿のように」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 15:42

 

2017.01.29

鴨下 直樹

 
 もう何年も前のことですが、岐阜の白川郷の近くで学生会の長期キャンプに行きました。その時に渓谷を散歩したことがあります。深く切り立った谷間を苦労しながら降りていくと、本当に川とは呼べないほどの僅かな水が流れているところに出ました。その谷間を歩いていると、崖の上から勢いよく黒い塊が落ちて来ました。何かと思って身構えるとニホンカモシカでした。私はニホンカモシカをはじめて見ましたのでびっくりしました。色の黒い角の短い鹿が突然目の前に現れたのです。私もびっくりしたのですが、鹿もびっくりしたのでしょう。慌てて今降りて来たばかりの谷をまた登って行ってしまいました。時間にしてほんのわずかな間の出来事です。その時とっさに、この詩篇の冒頭の言葉を思い出しました。

「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。」

 とても印象的な言葉で始まる詩篇です。情景をよく描くことができます。私は目の前で起こった出来事を見ながら、水を求めて谷を降りて来た鹿も、まさにここに書かれているように命がけなのだということを思い知らされました。あの谷間に降りていけばそこには必ず水がある。鹿が身の危険を冒してまでもそうせずにいられないのは、生きるのに水が必要不可欠だからです。そして、私たちにもまさにそのように、神が必要なのだということに気づかされるのです。

 けれども、普段、私たちはそれほどまでに神を求めなくても何となく生きていけるということを繰り返しているうちに、どこかで、神はいつでもそこにあって、自分が必要になったらいつでも神を呼び出せるなどと考えてしまっているのかもしれません。そんなことを考えさせられる詩篇です。

 この詩篇42篇の前に第二巻と書かれています。詩篇はここから新しい巻物になります。そして、この詩篇第二巻はエロヒーム詩篇と呼ばれています。エロヒームというのは「神」というヘブル語です。第一巻は主の御名である「ヤハウェ」という言葉で主が語られていたのですが、ここでは「神」という名前に抽象化されているわけです。この42篇と43篇はもともとひとつの詩篇であったと考えられますので今日はまとめてここから主のみ言葉を聞きたいと思います。この詩篇の表題は「コラの子たちのマスキール」。どうも、このコラの子というのは神殿の礼拝で賛美を歌う役割を担っていたようで、「マスキール」というのは「教訓歌」というような意味があります。しかし、内容は非常にダビデの詩篇のような特徴があります。私はダビデによるものではないかと感じます。

 この詩篇の詩人はどうも大きな悲しみの中にいたようです。3節には「私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした。」と言っています。子供の頃には泣き虫だと言われたことがある人もいるかもしれませんが、大人になるにつれて人はだんだん泣かなくなります。できるかぎり泣かないですごせるように生きているわけです。泣かないで生活できるということはある意味ではとても幸いなことです。ですから私たちにとって「昼も夜も涙が私の食べ物」というような経験はあまり味わうことはないかもしれません。けれども、この言葉に言い表されているような心の渇きということは理解できるのではないかと思います。 (続きを読む…)

2017 年 1 月 22 日

・説教 詩篇37篇「比較からの自由」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 15:23

 

2017.01.22

鴨下 直樹

 
 毎年、新しい年を迎えますとカレンダーを新しくします。何人かの方は星野富弘さんのカレンダーを使っておられる方もおられると思います。星野富弘さんは、もともと中学校の体育教師でしたが、指導中の事故で頸椎を損傷し、体が不自由になってしまいました。動かせるのはごくわずかです。ところが、体の自由が奪われてから、彼は口に筆をくわえて絵や詩を書き始めます。そして、その絵や詩は多くの人の心を慰める作品としてとても親しまれています。この星野富弘さんがまだ入院して間もなく、同じ怪我で入院した中学生のター坊という少年と出会います。そのことが星野さんの本の中に記されています。星野さんは、このター坊のことをずいぶんかわいがっていたようで、ター坊の回復のために祈る気持ちでいたそうです。そして奇跡的にター坊が回復して、腕や足が動くようになります。

 ところが、そこから星野さんの気持ちの中に変化が生まれます。そのことがある本の中に書かれています。こんな言葉です。「私は心の中でどうしようもない寂しさが芽生えてくるのを認めないわけにはいかなかった。みじめなことだけれど、それはター坊への嫉妬であった。神に祈るような気持であれほどター坊の回復を願っていた私なのに、奇跡のようにター坊のからだが動き始めたときから、ター坊を見つめる私の目には、小さな影ができてしまった。『喜べ。ター坊の回復を、一点の曇りなく喜べ。お前はそれほどみみっちい男ではないはずだ。』私は叫ぶように自分に言い聞かせた。」

 同じ病を抱えながら、ある人は癒され、ある人は癒されない。心の中に複雑な気持ちが生まれます。それは、人と自分を比較するところから始まります。人と比較することから生じる悩み、苦しみ、これは、私たちが誰もが毎日のように味わう経験です。

 今日の詩篇は少し長い詩篇です。二節ずつ区切られていまして、ひとまとまりの詩篇というよりも、箴言のような散文的な文章が続いています。これはアルファベットの詩篇で二節ずつ頭文字がアルファベット順に並んでいる詩篇です。しかも、内容は先生がまるで教えているかのような響きがあります。そして内容を見てみますと、「悪者」と「正しい者」との対比です。比較しているわけです。しかも、この詩篇を読んで気づくのは、「悪者」、つまり「神を敬わない者」は栄えているという現実が突き付けられているわけです。神を信じているものが、成功して、神を信じていないものがうまくいっていないというのなら話は分かりやすいのですが、ここではそうではありません。

 冒頭にこう記されています。

悪を行う者に対して腹を立てるな。不正を行う者に対して妬みを起こすな。

このような言葉を聞いて、素直に、納得できるでしょうか。先日も祈祷会である方が、改まって、「悪いことをしてくる人に対して腹を立ててはいけないんでしょうか?」と尋ねられました。みなさんはどう思われるでしょうか。 (続きを読む…)

2017 年 1 月 15 日

・説教 詩篇36篇「あなたの恵みは天にあり」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 15:25

 

2017.01.15

鴨下 直樹

 
「罪は悪者の心の中に語りかける。彼の目の前には、神に対する恐れがない」という言葉で、この詩篇ははじめられています。「悪者」と言う言葉がこの詩篇の冒頭に出てきます。「悪人」と聞くと、「物凄く悪い奴」とすぐに頭の中で置き換えてしまいがちですが、「神を敬わない者」という意味の言葉です。罪が人の心に語りかけると書かれています。「神のことなんか考えなくていい」と。神など恐れなくてもよい。どうせ神などいないのだから。何をやったって誰にもわかりっこないのだから。ひょっとすると私たちは毎日、色々な生活の場面でそういう心の葛藤を感じているのかもしれません。あるいは、そんな声も気にならないほどに、神に心を向けないことが当たり前になってしまっているかもしれません。

 この詩篇は、冒頭で、まさに人の罪の本質に目を向けさせています。2節の言葉は少し翻訳が難しいために分かりにくい言葉になっていますが、他の聖書、新共同訳聖書では

自分の目に自分を偽っているから、自分の悪を認めることも、それを憎むこともできない。

となっています。自分の罪に気付かなくなってしまっている。もう当たり前になってしまっていて、自分の悪い部分に気づかなくなってしまう。ここに、罪の恐ろしさが描き出されています。自分の心を偽りすぎて、無感覚になってしまうというのです。

 先週、成人式が各地で行われました。毎年、ニュースになるのは、新成人たちが各地で起こした「悪ノリ」と言ったらいいのでしょうか。お酒を飲んで、酔っぱらって注目を集めようとして、警察に取り押さえられるニュースが毎年毎年、変わることなく繰り返されます。お酒を飲んで、気持ちが大きくなって、だんだん悪いことをしている自覚がなくなっていく。まさに、それに似ているのかもしれません。

 「罪」というのは、私たち、すべての人間の心の奥底に潜んでいます。そして、何度も何度も繰り返していくうちに、悪いことをしているという意識がなくなって、自分の罪を認めることができなくなってしまうのです。あるいは、みんなもやっていることだからという思いが働いて、普通に考えたらやってはいけないことなのにブレーキがかからなくなってしまう。お酒の力をかりて、自分勝手に振る舞うことをよしとしてしまう。ついうっかり、ということもあると思います。私たちは毎日、この悪の思いとの葛藤があります。けれども、その葛藤もブレーキが利かなくなってしまうとどんどんエスカレートしていってしまいます。3節の後半にはこう記されています。

彼は知恵を得ることも、善を行うこともやめてしまっている。

悪いことだと分かっていたはずなのに、いつのまにか知恵ある行動にでることができず、正しいことも行わず、気づくと表面を取り繕うことに心を向ける。この詩篇の冒頭の言葉は、私たちに罪とは何かということをするどく問いかけています。 (続きを読む…)

2017 年 1 月 8 日

・説教 詩篇27篇「主は私の光」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 13:23

 

2017.01.08

鴨下 直樹

 
 この詩篇は二つの大きく異なる内容が組み合わさった詩篇です。前半の1節から6節は「信頼の歌」とも言える神への信頼を讃える内容ですが、7節からの後半は全く逆の「嘆きの歌」となっています。神は沈黙したまま応えてくださらない。そのために、全く異なる二つの詩篇が時間の経過とともに間違って一つにされてしまったのではないかと考える人もいます。

 けれども、私たちの信仰の歩みは、まさに同じようです。ある時は心から神を信頼して神を讃えたい気持ちでいるのに、次の瞬間にはもう神がどこかにいってしまっているように感じてしまうことがあります。以前、神学校で神学生がこんな会話をしていたことがあります。「クリスチャンホームで育った神学生は、何があっても神がいなくなったりしないのに、そうではない自分は時々神がいなくなってしまうことがある。その違いは埋めようがない。」と話していました。私はクリスチャンホームで育ちましたから、その神学生の言いたいことが完全には理解できませんでしたが、言おうとしていることは分かる気がします。ひとたび、神に対する疑いの思いに捉われてしまうと、神なんかいないのではないかとさえ、思いたくなるということなのだと思うのです。0か100か。そんなふうに考えてしまうような弱さが、私たちにはあるのかもしれません。

 この詩篇27篇はとても美しいことばで始まっています。

主は私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。

 神を「光」という言葉で言い表す。それはよく考えてみると、聖書の冒頭から、そのように記されています。神は光を造り出されるお方です。「神は光です」と言い表したときに、そこには神がすべてのものを明らかにし、照り輝かせてくださって希望と温かさを与えてくださる。この神の「光」という性質そのものが「救い」なのだと言い表しています。とても、美しい信仰の言葉です。
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2016 年 12 月 18 日

・説教 詩篇25篇「慈しみ深い主」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 15:20

 

2016.12.18

鴨下 直樹

 
 今、司式者の読まれたこの詩篇をお聞きになって、少し重苦しい言葉が並んでいるとお感じになられたかもしれません。あるいは、内容が少し難しいと感じられたかもしれません。けれども、同時にいくつもの言葉が心にとまったのではないでしょうか。実は、この詩篇はアルファアベットの詩篇という、とても変わった形式で書かれています。各節の冒頭の言葉をアルファベット順に並べて書き記しているわけです。そうしますと、当然、表現できる内容というのは非常に限定された言葉遣いを選び取らなくてはなりません。けれども、読んでみて気づくのは、とても限られた言葉を選んで書き記しているとは感じさせないほど豊かな祈りとなっています。

 この詩篇は全体としてはとても重苦しい内容になっています。このような詩篇を嘆きの詩篇と言います。また表題に「ダビデによる」とあります。この詩の祈り手がダビデであることをよく表している詩篇だと言えます。というのは、この祈り手は、「敵」に苦しめられて「道」を探し求めているからです。ダビデは常に敵のただ中で生きた人だと言えます。

 この詩篇はこういう祈りの言葉ではじまります。

主よ。私のたましいは、あなたを仰いでいます。

1節です。今、年末を迎えています。年末というのは、一年間を振り返る時です。一年間、それぞれの歩みがどのように支えられて来たか。そうすると、色々なことに気が付きます。その時は気が付かなくても、ああ、ここでも、ここでも主が私たちの一年の生活を支えてくださって、ここまで歩んで来られたのだということに目が留まります。その時、天を仰いで、主に祈るのです。

 エルンスト・バルラハというドイツの彫刻家がいます。素朴でありながら力強い作品をつくる彫刻家です。このバルラハの作品に「ベットラー(Bettler auf Krücken)」という作品があります。日本語にすると「杖をついた乞食」という名前でしょうか。両腕に松葉づえを抱えながら上を向いている男の作品です。私はドイツの色々なまちでこの作品をみました。すくなくとも4箇所、それぞれまったく違う場所でみました。いたるところで見かけるという事は、多くの人々に愛されている作品だということです。その多くはレプリカなのだそうです。この作品をみるとすぐに思い出すのは宗教改革者ルターの言葉で「私は乞食である、それは確かなことである」というものです。自分には何もない、何も持たない者であっても神を仰ぐことはできる。そして、神を仰ぐことこそが、人間に求められていることだと言っていいと思うのです。 (続きを読む…)

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