・説教 ピリピ人への手紙1章12-18節 「敵意の中の信仰」

2013.6.16

鴨下 直樹

パウロは捕らえられて、今牢に繋がれています。それは、それ以上福音を宣べ伝えさせないため、パウロがこのまま働き続けることは良くないことだという判断をしたということでしょう。それは、誰もが思うことです。牢に捕らえられてしまうということは、「もう一貫の終わりだ、これで、パウロも終った」と考えるようになるということでしょう。そういう中で、牢にいるパウロから手紙が届きます。そして、読み終えてから、パウロが無事に牢から出られるようになるように祈ろう、ということが起こったかもしれません。しかし、パウロはこう記しました。

さて、兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音を前進させることになったのを知ってもらいたいと思います。

そんなことがあるとでもいうのでしょうか。考え難い事です。異邦人伝道を精力的に行なっていたパウロが捕らえられるということは、福音が停滞してしまうことを意味すると、私たちは誰もが考えるのではないでしょうか。それ以上、どうして福音が前進することがあるでしょうか。しかし、パウロは福音を宣べ伝え、そのために捕らえられてしまってもなお、福音が前進すると言うのです。それは、一体どういうことなのでしょうか。 続きを読む ・説教 ピリピ人への手紙1章12-18節 「敵意の中の信仰」

・説教 ピリピ人への手紙1章3-11節 「すぐれたものを見分ける愛」

2013.6.9

鴨下 直樹

先週の月曜日から水曜日にかけJEA、日本福音同盟、一般には福音派と言われる教会の総会が神戸で行なわれ、これに私は始めて出席いたしました。大変豊かな時間でした。と言いますのは、総会の間に礼拝の時間やシンポジウム、講演が入れられていまして、そのために朝から夜まで一日中会場にいるのですけれども、苦痛に感じないほど豊かな発題がそこでなされました。
総会のシンポジウムで東日本大震災の取り組みの中から見えきたことがシンポジウムで取り上げられました。四人の発題者の中で最後に発題された福音伝道教団の鈴木真先生が、震災のボランティアの活動としてイザヤ58ネットというネットワークを作って支援活動しておられるのだそうですけれども、その活動の中から見えてきたことをお話し下さいました。これは、非常に興味深い内容の発題でした。少し簡単に説明してみたいと思いますが、色々な先生の話が頭の中にごちゃごちゃになっていますので、私が全体として聴き取ったことということになると思いますが、それはお許し頂きたいと思います。 続きを読む ・説教 ピリピ人への手紙1章3-11節 「すぐれたものを見分ける愛」

・説教 ピリピ人への手紙1章1-6節 「愛と喜びの手紙」

2013.6.1

鴨下 直樹

先週の月曜日に岐阜県基督教連合会の総会が行なわれました。岐阜県のプロテスタント教会、カトリック教会の殆どすべての教会がこの連合会に名を連ねております。ここで何をしているのかと言いますと、岐阜県には岐阜刑務所と笠松刑務所という二つの刑務所があります。そこで、定期的に受刑者の方に福音を語る機会を与えられている教誨師と言う方々がいます。それで、岐阜県基督教連合会では二名の教誨師を送り出しているのです。私はこの総会に昨年初めて参加させて頂いたのですが、初めての参加であったのにも関わらず、会計と書記という役割を担わされてしまいました。それで、今は深く関わることになったのですが、特に今年の総会は、来年から新しい教誨師になる方を選ぶための話し合いがもたれました。今年一年かけて次の教誨師を選ぶ必要があるのです。出席してくださった教職者の方々も、すぐに自分がするとはなかなか言えません。教会の理解も必要ですし、そうとうの覚悟も必要になります。けれども、これまで岐阜県の教会が互いに協力し合いながら、今日まで三十年以上にわたって、刑務所で福音を届ける働きを続けてこれたことは大変素晴らしいことだと思っています。
スイスの説教者であったカール・バルトは、かつて、刑務所で福音を語ることを自分の使命としました。この刑務所で行なわれた礼拝の説教がやがて本にまとめられまして『捕らわれた者たちに解放を』というタイトルがつけられました。このタイトルを聞けば、受刑者に向けられた者に解放の福音を語ろうとしたということが直ぐに分かります。もちろん、バルトがここで言っている解放というのは、刑務所から解放されるということではなくて、罪から解放されるということです。たとえ刑務所にいたとしても、その罪から解放されて生きることができると語ろうとしたのです。しかしそれは、受刑者に限ったことではないのです。全ての人が何かに支配されてしまっている。何かに捕らわれてしまっているということができるのです。 続きを読む ・説教 ピリピ人への手紙1章1-6節 「愛と喜びの手紙」

今月の礼拝予定(2013年6月)

6月2日 三位一体後第1主日

主日主題: 喜び
聖書: ピリピ1:1-6
説教:「愛と喜びの手紙」 鴨下直樹牧師
聖餐式

午後:愛餐会(女性会担当)、各部定例会、聖歌隊練習(14:00~)、映画会(教育部)

6月9日 三位一体後第2主日

主日主題: 愛
聖書: ピリピ1:7-11
説教:「豊かにされる愛」 鴨下直樹牧師

午後:役員会

6月16日 三位一体後第3主日

主日主題: 祝福
聖書: ピリピ1:12-19
説教: 「敵意の中にある祝福」 鴨下直樹牧師

午後:礼拝準備会、手話講座(教育部)

6月23日 三位一体後第4主日

主日主題: 礼拝
聖書:
説教:古川秀昭長老

午後:女性会、ミッションパーティー(教団海外宣教委員会)於:稲沢(未確定)

6月30日 三位一体後第5主日

主日主題: 福音
聖書: ピリピ1:20-25
説教: 「生きるにしても、死ぬにしても」 鴨下直樹牧師

午後:福祉の集い(教団)於:岩倉教会

・説教 使徒の働き2章1-13節 「主の教会の誕生」

2013.5.19

鴨下 直樹

今日はペンテコステです。教会に聖霊が与えられたことを祝う日ですが、この日は教会の誕生日などと言われる日でもあります。私たちの教会の歩みはここから始まったということができるのです。
今日特にこの礼拝で考えてみたいと思っていることは、教会はどのように歩んでいくのかということです。このペンテコステの日が教会のスタートでした。これまでは、主の弟子たちの集まりというのはユダヤ教の中の一部という見方でしか見られていませんでした。けれども、このペンテコステ以降、教会ははっきりとユダヤ教の分派ではなくて、まさに、主はこの教会を建て上げるために、これまでの歩みを備えてきてくださったのだということが、この世界に示されたのです。そのために、不可欠なのは何かというとこの日、私たちに与えられた聖霊です。

この日、何が起こったのか。そのことはこの使徒の働き2章の1-4節に記されています。

五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

この日、集まっていた人々の上に分かれた舌のような炎がひとりひとりにとどまって、どうなったかといいますと、他国のことばで話し出したのでした。私ごとですけれども、私たちがドイツに行った時に、最初の一年の間、特に心に覚えたのはこの聖書の言葉でした。私たちにも聖霊が与えられているのだから、どうして、ドイツ語をたちどころに全てを理解して話せるようにならないのかと。言葉の壁にぶちあたるたびに、この聖書の言葉に羨ましさを覚えました。もちろん、これは、単に外国語が話せるようになったということなのではなくて、すべての国の人々に福音を語ることができるようにされたという、ひとつの大きなしるしの出来事です。 続きを読む ・説教 使徒の働き2章1-13節 「主の教会の誕生」

・説教 詩篇27篇7節 「聞いてください、主よ」

2013.5.12

鴨下 直樹

今日は復活節の第六番目の主の日です。この日は、「エクサウディ」、「聞いてください」という名前のつけられた主の日で、この詩篇二十七篇七節が読まれます。この御言葉が今朝与えられているというのはやはりとても意味深いことです。
教会の暦ではこの次の日曜にはいよいよペンテコステを迎えます。ペンテコステというのは、教会に主イエスが約束された聖霊が与えられたことを祝う日です。イースターから五十日目がこのペンテコステです。四十日目、ちょうど先週の金曜日ですが、この日は昇天日です。弟子たちと共に過ごされたよみがえりの主が天に帰って行かれた日でした。主イエスはもう一度来てくださるとの約束をして、天に帰っていかれたのです。今朝は、主イエスが弟子たちから去られた後の主の日で、また、ペンテコステを前にした主の日です。ここで、この「聞いてください、主よ」という御言葉が与えられているのです。

聞いてください。主よ。私の呼ぶこの声を。私をあわれみ、私に答えてください。

と七節にあります。この言葉が今朝の中心的な御言葉です。
この詩篇の詩人は表題にダビデと記されています。ですからダビデの祈りと考えられるのですが、この詩篇全体の内容を見てみますと、ちょうどこの七節から突然内容が大きく変わります。
一節から六節までは光と喜びに満ち溢れた深い神さまへの信頼の祈りです。
「主は、私の光、私の救い。」という大変美しい祈りの呼びかけからはじまります。そして、主の確かな救いの中にいる喜びを心から賛美しています。それで、この詩篇は詩篇の中でも最も美しい詩篇の一つに数えられることもあるほどです。ところが、七節から事態は一気に変わります。 続きを読む ・説教 詩篇27篇7節 「聞いてください、主よ」

・説教 詩篇66篇20節 「祈る心を整えて」

2013.5.5

鴨下 直樹

復活節の第六主日、この日は「ロガーテ」という名前がつけられています。「祈れ」と言われる日です。しかも、今日は五月五日子どもの日です。子どもの日に祈れという主の日を迎えているのですけれども、考えてみますと、祈りは子どもでもできる簡単なことと言うこともできます。
もう今からずいぶん前のことで私が神学生をしていた頃、「かみさまへのてがみ」という本が詩人の谷川俊太郎さんの訳で出版されました。これはもともとはアメリカのものです。子どもたちが神さまに宛てて書いた手紙が紹介されており、そこに谷川さんの翻訳が添えられているものです。
子どもが神さまへ宛てて書いた手紙です。最初はこんな手紙で始まります。「かみさま、ぼくも なかまに いれてよ。 あなたのともだち ハービーより」
紹介したい内容が沢山ありますが、少しだけ紹介します。

「かみさま あなたは きりんを ほんとに あんなふうに つくりたかったの? それとも あれは 何かの まちがいですか?  ノーマ」
「かみさま ちかごろ あたらしい どうぶつを はつめいしないのは なぜなの? いまいるのは ふるいの ばっかりだよ。  ジョニィ」
「かみさま どうせ わたしの のぞみが わかってるんなら どうして おいのりも しなきゃならないの? でも あなたが 気分いいなら わたし するわよ。  スー」

素朴な神さまへの疑問を手紙につづっているのが良く分かると思います。神さまへの手紙というのは、そのまま神さまへの祈りと言い換えてもいいと思いますが、不思議なものです。手紙にしてみると、具体的になるようです。私たちも祈る時に、一度神に書いてみるといいのかもしれません。まさに、神さまに宛てて書く手紙のようにです。子どものように素直な気持ちで、どんなことでも祈ることができる。それが、祈りの素晴らしさでもあります。

この朝は、祈るということについて、一緒に少し考えてみたいと思います。 続きを読む ・説教 詩篇66篇20節 「祈る心を整えて」

・説教 詩篇98篇 「主に向かって喜び歌おう」

2013.4.28

鴨下 直樹

復活節の第四主日を迎えました。今日は「カンターテ」、「歌え」と言われる主の日です。それで、この主の日には詩篇の九十八篇の一節が読まれるのです。

新しい歌を主に歌え。

冒頭にそのようにあります。

このカンターテと言われる主の日の強調点は「歌え」です。復活の喜びに生きるものは歌え、と命令されているのです。「歌う」というのは、私たちの生活の中でもそうですけれども、思わず歌ってしまうという時があるとしたら、それは心の中に喜びがある時でしょう。悲しい気持ちでいる時に歌うことはできません。「歌え」と命令することができるのは、歌いたくなるような喜びに支配されているからです。主の復活というのは、単なる生命として歌えるようになることなのだと言われているのではないのです。そうではなくて、歌い出したくなるような事実に包まれているから、その事実は心から溢れだしてくる喜びではないか、思わず歌いだしたくなることではないか。だから歌おう、心から主に向かって歌おうではないかという招きなのです。

みなさんの日常の生活の中に鼻歌を歌うということがどれほどあるでしょうか。 続きを読む ・説教 詩篇98篇 「主に向かって喜び歌おう」