・説教 ルカの福音書21章5-19節「一本の髪の毛までも」

2026.02.01

鴨下直樹

 

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 今、私たちは教会で総会の準備を進めております。先日、教会のホームページの一年間の取りまとめの資料が出されたので、目を通しておりました。これまでも、教会のホームページの閲覧数は、なかなか多い方だと思っていたのですが、昨年突然と言っていいと思うのですが、1.5倍に増えたという報告でした。今はYouTube配信もしておりませんので増える要因はそれほど思いつきません。ただ、これまで長い間、こつこつとホームページの管理をしてくださっている方々や、説教の原稿の校正をしてくださる方があって、続けてきている働きの一つです。そのような働きを、一年ごとに振り返って確認するというのはとても大切なことだという気がしています。

 今日の聖書の箇所は、少しこのことと似たようなことが記されています。5節です。

さて、宮が美しい石や奉納物で飾られている、と何人かが話していたので、イエスは言われた。

と書かれています。エルサレムにはこの時代、ヘロデが改修したとても立派で大きな神殿が建てられていました。今はすでにこの時あったエルサレムの神殿は壊滅してしまっています。この神殿は、ゼルバベル神殿と呼ばれた、バビロン捕囚からの帰還のあと、ネヘミヤやゼルバベルによって再建された神殿を、のちの時代になってヘロデが大幅に改修したものです。当時、エルサレムの神殿は白く光り輝く神殿として有名になり、ローマの世界の中でも巨大な神殿として知られ、権力の象徴のような建物となっていました。この立派な神殿を眺めながら、何人かの人々が話をしていたのが、今日の箇所の導入です。

 このような建物を見て人々が喜んでいた時、主イエスはこの建物はやがて粉々に壊れてしまう時が来ると話をはじめられたのです。私たちのこの礼拝堂もそうですけれども、献堂して20年が経ちました。立派な建物です。昨年ようやく借入金の返済も終わったことですから、これからしばらくは安泰だとどこかで思う気持ちがあります。

 私たちは時折、自分たちのしてきたことを振り返りながら、その業績のすばらしさを誇りたい気持ちになることがあります。たとえば貯金通帳にたくさんの預金額を見て、嬉しくなる思いに似ています。ホームページの閲覧数が増えたこともですけれども、こういったことは、とても喜ばしいことです。誇るべきことです。ほっとできるひと時だとも言えます。

 ところが、そんな時に主イエスはその会話に口を挟んでこう言われるのです。「それらのすべてがダメになってしまう日が来る」と。主イエスはどんなつもりで、この話をなさったのでしょうか? 少し意地悪な気持ちなのでしょうか? それとも、ここから何かを考えさせたいと願っておられるのでしょうか?

 聖書には、やがて終わりの時が来ることが、何度も記されています。特に、このルカの福音書の21章の5節から21章の終わりの38節のところまでで、主イエスは終わりの時への備えについて語っています。

 私たちは日常の生活の中で、この「やがて終わりの時が来る」というテーマはとても大切なテーマなのですが、どこかで頭の外に置いておきたいテーマの話なのではないでしょうか? 「終わりの時」と言っても、いろんな終わりの時があります。自分の人生が終わりの時を迎える「死」というテーマもあります。あるいは、地震や災害などの天変地異に見舞われたり、戦争などが起こるために、今の生活を続けられなくなるというような終わりの時もあるかもしれません。あるいは、仕事上のトラブルで、もうこれ以上続けられなくなったり、病気にかかって今の生活を続けられなくなったりするような時も、「終わりの時」と言えるかもしれません。

 もちろん、そのために保険をかけたり、健康に気を遣ったり、丁寧な生活設計、仕事の環境づくりをすることで、ある程度は対策できるものもあると思います。けれども、どうしてもそのリスクをゼロにすることはできません。

 このルカの福音書もすでに21章までやってきました。22章に入るともうここからは主イエスの受難の出来事になっていきます。主イエスの十字架への道が見えかかっているところです。この箇所はその前に、主イエスの遺言のようにして、ここで「終わりの時に備える」という話をなさっておられるのです。そこで、主イエスはまず、自分の業績を見て安心することに対する危険性に目を向けるように話しておられるのです。

 そこで、最初に出てくる問いはこうです。7節です。

それで彼らはイエスに尋ねた。「先生、それでは、いつ、そのようなことが起こるのですか。それが起こるときのしるしは、どのようなものですか。」

 人々は主イエスに尋ねました。終わりの時というのは一体いつ起こるのか? そして、どんなしるしがあるのか? という二つの質問をしました。この二つさえ分かれば対策を立てられると考えたわけです。

 ただ、よく考えてみるとこの問いによって対策を立てるということは、その時点ですでに自分たちの業績を奪わせるつもりはないという意思表示だとも言えます。終わりの時が来るのであれば、何か手立てをしておけばなんとか回避できるのではないかと考えていることになります。

 主イエスがここで、エルサレムの神殿のことを6節で、やがては「どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることのない日が、やって来ます。」と言われました。実際、この時の話をなさってから約40年後の紀元70年、エルサレムは陥落してしまいます。この6節はこのことを直接的には指しています。実際に戦争が起こってあの大きなエルサレムの神殿は粉々に破壊されてしまったのです。

 主イエスはこの出来事が起こる前に、あらかじめ語っておられたわけですが、それに対してなんの対策も講じることはできていません。それほどに、終わりの時というのは、思いがけない時に突如として訪れるのです。しかしこれもしるしであって、本当の終わりの時の出来事ではないのです。

 主イエスはこのいつ起こるのか、どんなしるしがあるのかという問いに答えて、3つのしるしがあることを明らかにしておられます。まず、第一に、8節では「惑わすものが出てくる」と言っています。これは、偽キリストと呼ばれる人物が現れるということです。第二番目の答えは9節で、「戦争や暴動の噂を耳にする」ということです。これは10節でも同じように語られています。そして、三番目は11節で「地震や飢饉、疫病が起こる」ということです。

 けれども、このようなしるしがあることをお語りになりながらも、ここで一番大事なことは9節の「まず、それらのことが必ず起こりますが、終わりはすぐには来ないからです。」という部分です。

 特に、8節と9節ではそのために、「惑わされないように」「後について行かないように」「恐れないように」と3つの命令形の言葉で語られました。ここでの主イエスの意図は、落ち着いて見極めることだと語っておられます。偽キリストも、戦争も、地震も疫病もすべては「しるし」なのであって、終わりの時そのものではないのです。

 13節にこうあります。

それは、あなたがたにとって証しをする機会となります。

 これは、私たちには少しびっくりする言葉かもしれません。ここに挙げられているような終わりの時のしるしを見る時がくる。けれども、その時に大切なのは、そこに私たちキリスト者がいるということなのだというのです。このようなしるしを見る時には、証しするチャンスが来る。そのことが大事なのだと主イエスはここで語っておられるのです。

 戦争や地震が起こり、疫病や飢饉が起こると、人々は不安を感じ始めます。実際にコロナの時もそうです。地震が起こる時もそうです。立派な家を建てても、お金をいくら貯めても、このような災害が襲いかかってくるならば、すべてが無駄になってしまいます。それで、世界の多くの人は言うのです。「そんな日は来ない」「それは惑わしだ」と。「すべてが終わることなどあってたまるか」という思いがあるのかもしれません。

 そのような中で、私たちキリスト者は一体何ができるのかとも思うのです。しかし、主イエスは、その時こそ証しをするチャンスだと言われるのです。しかし、そんなことを言われても、私たちには何か気の利いたことを語れるような言葉もなければ、自信もないかもしれません。しかし、14節で主は、「どう弁明するかは、あらかじめ考えない、と心に決めておきなさい。」とあります。ちゃんと考えておきなさいと言うのではなく、考えなくても大丈夫だということを理解しておきなさいと言うわけです。ここまできて、少しホッとします。

 主がどのように私たちに証しをさせてくださるのか、私たちにはよく分かりません。自分は立派に成し遂げるだろうという自信もないかもしれません。けれども、主イエスがここで、こう言われます。15節です。

あなたがたに反対するどんな人も、対抗したり反論したりできないことばと知恵を、わたしが与えるからです。

 これはとても心強い言葉です。主がその時には必要な言葉を与えるから心配しなくても良いと言ってくださるのです。なぜ、主はこのように語られるのでしょうか?

 そのような時に、私たちが証しできるかどうかは、私たち自身の信仰の問題ではなく、神ご自身の問題だからだということです。主ご自身のこけんに関わるからです。

 人はいったい何によって生きている、生かされているというのでしょうか。それは、どんな試練が襲ってきたとしても、たとえ戦争や地震があったとしても、家族や友人たちから敵対されるようなことがあったとしても、わたしはあなたを守ると言ってくださる主とともに生きることができるということです。

 「あなたは絶対にわたしが守る、だから安心しなさい、平安に過ごしなさい」と主は言われるのです。この主と共に生きることができることこそが、人間の喜びであり、生きる意味なのだということを主は私たちに知らせたいのです。

 多くの人々は、自分のしてきた業績が後世に残ることに意味を見出そうとします。あるいは、自分自身の満足のために生きている人も大勢います。しかし主は、人はわたしたちが、自分の力によるのではなく、神によって安心して生きることができる存在なのだということを明らかにしたいとお考えなのです。

 そのことをあらわすように、続く16節から18節に異なる二つのことが書かれています。16節では「あなたがたは、両親、兄弟、親族、友人たちにも裏切られます。中には殺される人もいます。」と書かれています。17節では「また、わたしの名のために、すべての人に憎まれます。」とも書かれています。

 こんな言葉を読むと、私たちは心中穏やかではいられません。「殉教」と言う言葉があります。私たちはあまり普段意識したことのない言葉だと思います。けれども、信仰のために命を失うこともあり得るとここには書かれています。また、「すべての人に憎まれる」という言葉もあります。文字通りの意味だとすると、少し考えてしまいたくなります。

 ところが、18節にはこう書かれています。

しかし、あなたがたの髪の毛一本も失われることはありません。

 毎朝、枕に付く抜け毛が気になる私からしてみると、「本当ですかイエス様?」と言いたくなるところです。これはどういうことなのでしょうか?

 16、17節の「殺されます」、「憎まれます」という言葉と、この18節の「髪の毛一本も失われることはない」という言葉が、一致しているようには思えないわけです。殺されてしまっては、髪の毛が何本残っていようとそれこそ意味がないということにはならないでしょうか。

 殉教できるような立派なクリスチャンになりなさいとここで主イエスは言おうとしているのではないのです。信仰のゆえに殺されることがあるかもしれない、家族や、友人から敵対視されることもあるかもしれない。皆から憎まれてしまうようなこともあるかもしれない。けれども、安心しなさい。たとえ殺されてしまうようなことがあったとしても、わたしたちは神の前では、髪の毛一本さえも失われることなく、私たちの心も体も、完全に神の御手の中にあるのだということです。

 先週の日曜日、私たちと信仰の歩みをしてまいりましたMさんが天に召されました。二度目の脳梗塞を9月に患われてから、入院生活が続いていて先週召されたのです。Mさんが洗礼を受けたのは今から2年ほど前のことです。奥様が教会に来られるようになって、いつも一緒に教会にこられるようになりました。私たちは最初の脳梗塞を患われてからのMさんのことしか知りません。病気のこともあってか教会ではあまりご自分のことは話されませんでした。けれども、洗礼をうけられて、ご家族の息子さんがたに「自分のことは大丈夫だ」と語っておられたのだそうです。

 Mさんは病のために天に招かれたのですが、いまMさんのいのちはまさに、髪の毛一本にいたるまで完全に神の御国に招かれています。なぜ、そう言えるかと言うと、ここにそう約束されているからです。ここに、私たちの救いの確かさが約束されています。私たちのいのちは主の御手の中に抱かれているので、私たちはどんな厳しいところに置かれることがあったとしても、私たちは大丈夫だということができるのです。

 そのために、私たちに求められているのは「忍耐」です。この「忍耐」は「自分のいのちを勝ち取る」と19節で言われています。神のものとされているこの救いのいのちを捨ててしまわないように、偽キリストに惑わされたり、その後に従って行ったりすることがないように、主イエスに留まり続けることを、ここで「忍耐」と言っています。主とともに歩み続けること、この生き方こそが、神のみ前にある意味のある豊かな人生となっていくのです。私たちは、私たちを御手の中に握りしめてくださる主とともに生きる者とされています。主は、終わりの時にいたるまで私たちのことを守ると約束してくださるお方です。この主から、離れることのないよう、この主と共に終わりの時までこの道を進み続けてきたいのです。

 お祈りをいたします。