・説教 ルカの福音書20章41-47節「あなたの主はどんな方?」
2025.12.28
鴨下直樹
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先ほど、私たちは洗礼入会式を行いました。洗礼に先立ってSさんの救いの証しを聞きました。Sさんは芥見教会に来られて10年以上、いわゆる求道生活を続けてこられました。どうなったら自分はクリスチャンになれるのか、教会に通う間、ずっと考え続けてこられたのです。
きっかけは今年の夏のことです。私たちの教会は「信徒交流会」という名称で、毎年7月の後半から8月いっぱい、教会の水曜日と木曜日の祈祷会の時間を使って、信徒のみなさんが順に一人ずつ証しをする時間をもうけています。まだ洗礼を受けていなかったSさんに、長老が「この時間に証しをしないか?」と声をかけたのです。
そこで聞いたのが、先ほどの証しの内容でした。お姉さんがエホバの証人に入ってしまって、そこから助け出すために、今から30年ほど前でしょうか、Sさんは豊橋の教会を初めて訪問したのです。その時に、牧師から「お姉さんをそこから救い出す前に、まず自分が信仰とは何かを知る必要がある」と言われて、教会に通うように勧められたのです。それがきっかけでSさんは教会の礼拝に通うようになったのです。それ以来30年近く、引越しをしたりしながらも教会に通い続け、そして芥見教会に来られるようになったのです。でも、その間どうなったら救いが理解できるのか分からないまま、時間が過ぎてしまったようです。
この信徒交流会でSさんの証しをお聞きして、すでに信仰の歩みをしておられることがよく分かりました。もうすでに信仰に生きているので、これ以上何がどう変わったら良いか分からなかったのです。お姉さんを導こうとする、さまざまな牧師の説教を聞き続ける間に、お姉さんではなく、Sさん自身が信仰に生きる者とされていたのです。今日からこうして、私たちの教会の一員として共に信仰の歩みをすることができることを、とても嬉しく思います。
今日の説教題を、「あなたの主はどんなお方?」としました。この問いかけは、主からの私たち自身への問いかけです。みなさんも、それぞれ様々な主イエスとの出会い方をしてこられたと思います。「私にとって主イエスは、私の隣にいつもいてくださるお方です」という方もあるでしょう。「私を苦しみから救い出して下さったお方です」という方もおられるかもしれません。私たちは、それぞれに主イエスのイメージを持っていると思うのです。
今日の聖書箇所は、そういうことを考える意味ではとても良い箇所と言えます。前回の終わりの言葉、40節にこう書かれていました。
彼らはそれ以上、何もあえて質問しようとはしなかった。
主イエスがエルサレムに入られてから、ここまでずっとさまざまな質問が投げかけられてきました。きっかけは主イエスがエルサレムの神殿で商売をしていた人たちを追い出してしまったからです。それで、「あなたは一体何者ですか?」という質問が立て続けに投げかけられたのです。主イエスが彼らの問いかけに丁寧に、また見事に答えていかれる中で、彼らは主イエスの欠点を見つけることができず、質問することができなくなってしまいます。
すると、今度は主イエスの方からお尋ねになられているのが今日の箇所です。主イエスの問いかけはこうです。
「どうして人々は、キリストをダビデの子だと言うのですか。」
当時の人々は救い主としてお生まれになられるお方は「ダビデの子」だと言っていました。このことは、私たちもよく知っています。今、私たちは降誕節、クリスマスをお祝いする季節を迎えています。先日のイブの礼拝の時にも東方の博士たちが、救い主はダビデの町、ベツレヘムで生まれると聞いて、ベツレヘムまでやってきたという物語を読みました。ですから、救い主はダビデの子孫だということは、わかっていたわけです。
そこで、主イエスはお尋ねになるのです。ダビデ自身が詩篇110篇の中で、やがて来られるキリストのことを「私の主」と呼びかけているではないか。それなら、やがて来られるキリストは、ダビデの主なのであって、ダビデの子であるというのは、おかしいのではないか? そういう問いかけです。
あまり考えずに読んでいると、よく分からないまま読み飛ばしてしまいそうな箇所です。人々は「救い主」のことを「ダビデの子」と呼んでいます。ここには、二重の意味が込められています。一つは、クリスマスの物語の中にも出てきたようにダビデの子孫という意味です。そして、もう一つは「ダビデ王のような力強いお方」という意味が込められていました。
イスラエルは、長い捕囚の生活の中で、次々に近隣諸国から支配され続けました。その中で、やがて救い主を送ってくださるとの約束の言葉に、希望を見出してきました。
「救い主」というのは、ヘブル語では「メシア」と言います。新約聖書の言葉、ギリシャ語では「キリスト」という言葉です。もともとは「油を注がれた者」という意味の言葉です。これまで、神からの特別な使命を帯びてイスラエルを導く人々が、油を注がれ、その使命を果たしてきたのです。ですから、当時の人々はみな誰もが、「キリスト」としてやがて来られるお方は、ダビデ王のような力強い人物で、ローマ帝国の支配を打ち破ってユダヤの民を解放してくださると信じてきたのです。
でも、当のダビデはどう考えていただろうかと、主イエスは問いかけておられるわけです。これを記したルカは、この詩篇110篇の聖書の言葉に特別な思い入れがありました。と言うのは、主イエスの弟子の代表でもあったペテロがペンテコステの時に、この詩篇110篇から説教しているからです。今はその聖書を開かなくて結構ですけれども、使徒の働きの2章14節から42節に、この時のペテロの説教が記されています。この説教でペテロはダビデのことを語っています。29節から36節で、ダビデは預言者だったので、自分の子孫の一人を王座に就かせると神が誓われたことを知っていたと語っています。その根拠として、詩篇110篇のこの箇所を取り上げているのです。そこでペテロはこのように説教しています。
「ダビデが天に上ったのではありません。彼自身こう言っています。
『主は、私の主に言われた。
あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。
わたしがあなたの敵を
あなたの足台とするまで。』ですから、イスラエルの全家は、このことをはっきりと知らなければなりません。神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」
この説教を当時たくさんの人々が聴いていました。そして、この日だけで三千人が主イエスを信じて、バプテスマを受けたと、そこには書かれています。
ルカにとって、このペテロの説教は衝撃的な内容であったに違いありません。まさに、このペテロの説教から教会が誕生したとさえ言えるわけです。そして、この人々を悔い改めに導いた詩篇110篇は、ペテロがオリジナルで語ったのではなくて、主イエスがまさに今日の箇所でお語りになられた意味を、ペテロは驚きながら聞いたのでしょう。ペテロは今日の箇所を主イエスから直接聞いて、深く心に残ったのでしょう。それで、自分の説教の時に、この詩篇110篇から語ったのだと考えられます。ルカはそのことをよく理解して、今日の箇所を注意深く記しました。
ダビデ自身、この詩篇110篇で、やがて来られるお方が主とお呼びするのに相応しい方であると預言していたのです。そして、主イエスはこの事実を人々に知って貰いたいと思われたのです。
ダビデ自身、自分の持っている力、権力、政治力に期待していたわけではなく、神の約束の実現を期待し、望みに生きたのです。
そこで、主イエスは問われるのです。「あなたの主はどういうお方か?」と問いかけておられるのです。「自分の勝手なイメージで、やがて来られる救い主・キリストのことを小さくしてしまっていないか?」と。
「キリストは救い主です」確かにそうです。
「キリストは王です」確かにその通りです。
「キリストは力強いお方です」確かに、それは正しいのです。けれども、それだけではないのです。ダビデ自身が、この来るべきお方を「主」と呼んだのです。このことが、大事なのです。キリストは私の主である、ここに大切な意味があるのです。
「主」という言葉は、私たちは普段の生活ではあまり使いませんので、この「主」と呼ぶことのイメージが貧しすぎるのかもしれません。
ちょっと変な譬え話かもしれませんが、映画で「スターウォーズ」という作品があります。この映画は、主人と弟子の主従関係が鍵になっている作品です。特別な力を持っている「ジェダイ」と呼ばれる戦士が悪と戦うのですが、このジェダイの戦士に「マスター」と呼ばれる師匠が必ずセットになって登場します。ジェダイの戦士はこの師匠のことを「マスター」と常に呼んでいます。日本で言うと「先生」に近い感覚かもしれません。
弟子たちは、主人のことを常に「師匠」とか「マスター」とか「先生」と呼んで、自分はこの「主」から教えを受けているのだということを、常に覚えているわけです。
「イエスを主と呼ぶ」ということは、私たちの生活の中心に、いつもこの主、マスター、師匠がいて成り立つ生活であることを、弟子である私たちは常に心に留める必要があるわけです。
ダビデは、まだ見ぬ自分の子孫のことを「私の主」と呼んでいます。それは、ダビデ自身、自分はそのお方の僕(しもべ)にすぎないと常に意識していたことの表れなのです。
今日、洗礼入会式をされたSさんだけではありません。私たちはみな、このお方を「主」とお呼びし、このお方を私たちの生活のすべての面での「師匠」であると受け止めながら、このお方のことをさらに知り、新しく発見し、この主に倣って歩む者であることを心に留めたいのです。
さて、主イエスはそのように問いかけられた後で続けて45節から47節でこんなことを言われました。
「律法学者たちには用心しなさい。彼らは長い衣を着て歩き回ることが好きで、広場であいさつされることや会堂の上席、宴会の上座を好みます。また、やもめの家を食い尽くし、見栄を張って長く祈ります。こういう人たちは、より厳しい罰を受けるのです。」
主イエスはここで、弟子たちにもう一つのこととして、律法学者たちのようになるなという話をなさいました。これは、どういうことかと言うと、人の上にたち、立派な生活をする、人から尊敬される、そういう生活をしていると、自分は偉い存在、立派な存在だと考えるようになってしまいます。確かに、人からは立派に見えるかもしれないのですが、自分を大きく見せようとするその姿は、神の前にどう見えているか。神はこのような者を厳しく罰されることになると、結論として主イエスはここで語っておられるわけです。この律法学者たちは「主」のお姿が見えていない。だから、自分の姿を示すことに夢中になっているのだと批判しておられるのです。まことの主を、主としない時、人は自分のことを主としてしまうのです。
主イエスは私たちに問いかけておられます。「あなたの主はどんなお方なのか?」と。
スイスの説教者ヴァルター・リュティの書いた「あなたの日曜日」というエッセーがあります。これまでも、何度かこの本から紹介したのですが、この中に「森の中での主の祈り」というものがあります。そこに出てくるのは、一人の鍛冶屋の父親です。この鍛冶屋さんはリュティ牧師の友人だったそうです。この方が亡くなった時に、その息子さんから聞いた、この父親の話が記されています。
子どもの頃日曜になるとよく、黒い森と呼ばれるシュヴァルツヴァルトに家族で散歩に出かけたのだそうです。父親はとても物知りで、どんな動物の足跡でも言い当てることができ、どんな草花の名前も知っていて、草むらの実がどんな薬効を持っているかも知っている人だったそうです。けれども、その息子は言うのです。「しかし、教わったのは、このような実用的なことだけでありません」と。
その息子は声を低めどこか思いを噛み締めるように、さらに続けて話します。「私や妹たちがこの散歩で決して忘れられないのは、もっと他のことで、人はそんなふうには言わないのでしょうが、ある珍しいことなのです。それがどうしてなのか私には分からないのですが、父は、ある異様なものに触発されて、モミの木の下にじっと立ち、帽子を両手に持って『我が子らよ、祈ろうじゃないか』と言うのでした。そして一緒に“主の祈り”をささげたのです。」
この時の経験が忘れられないのだと、その息子は言うのです。その息子は博士をしているような立派な人物なのだそうです。でも、自分にはこの父親に有ったものが欠けていると感じているのだと、リュティ牧師に話したのそうです。
モミの木の下に立つと、何かに祈らずにはいられなくなる鍛冶屋の父親の姿は、その子どもたちに、まさに日曜日の祝福を与えてきたのだと、リュティ牧師は書いています。その父親は、まさに、主イエスのことを、「このお方は私の主」と呼びかける祈りの祝福を知っていたのです。そして、その父の中には有ったものが、自分には決定的に欠けているのだと息子は言うのです。
折に触れて、私たちは神に向かって「あなたは私の神、わたしの主」そう呼びかけることができます。この祝福を、ぜひ、みなさんに知っていただきたいのです。
主は問われるのです。「あなたはわたしのことを何と呼ぶか?」と。それは、人前に自分を誇示するようなものではないのです。誰も見ていないようなところで、それこそ森の中のモミの木の下であっても、神のおごそかさを感じる時に、「天の父よ」と祈る幸いを知っているかどうかが、私たちにも問われているのです。自分を誇ることに心を傾けるのではないのです。主はここで「あなたにとって主はどんなお方なのか?」そのことを問いかけておられるのです。
「あなたはわたしの主です。」折に触れて、そう祈ることができる人生は何と祝福された歩みでしょう。嬉しい時も主を呼び、悲しい時にも主に語りかけ、あなたは私と共に歩んでくださる主ですと、そう呼びかけることのできる幸いが確かにあるのです。主は、私たちにそれを知らせることを楽しみにしておられます。そして、私たちは、主を私たちの人生のマスターとして、師匠として、期待しつつこのお方のことを、ますます知っていきたいのです。
お祈りをいたします。
