2020 年 11 月 1 日

・説教 創世記35章6-29節「イスラエルを祝福される神」

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2020.11.01

鴨下 直樹

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 今日でヤコブの生涯の説教の終わりを迎えます。けれども、お気づきの方も多いと思いますが、今日の終わりのところに書かれているのは、ヤコブの死ではなく、父イサクの死で結ばれています。そして、物語はヨセフへとつながっていくのです。このヨセフの物語の最後の部分で、ヤコブの死が記されています。

 この創世記というのは、父の生存中に息子たちの物語を記しているのです。これは、聖書の一つの考え方を表しています。つまり、子どもたちは父の祝福の中で生を与えられているのだというメッセージです。

 私たちは、自分の生涯は自分の力で生きていると思いながら毎日の生活をしています。私たちは学生の時代を過ごし、成人して、その後に独立して、家庭を築いていくことが多いと思いますが、その背後には意識していようとしていなかろうと父がいるのです。そして多くの場合、その生涯の途中で父を天に送るということが起こるわけですが、それまでの間、父の守りの中で、生きているのだと、聖書は考えているのです。この聖書の考え方はとても大切なものです。というのは、さらに、その背後には父なる神の眼差しがあり、神の御手が差し伸べられていることを知ることになるからです。

 もちろん、人生には様々なことが起こります。病のため、あるいは何かの事故のために早く両親と別れてしまうということも起こります。そうだとしても、聖書の考え方は、その背後に父の眼差しがあるということを伝えようとしているのです。

 もちろん、私たちの生涯の中にも様々な出来事が起こります。今日の35章に書かれているヤコブの物語にしてもそうです。

 ベテルに移り住むこと、そして、母リベカの乳母の死、神からの祝福、妻ラケルによって、ベニヤミンの誕生と、妻ラケルの死、そして、長男ルベンの不品行、そして、父イサクの死。どうまとめたらいいのか分からないほど、さまざまな出来事が記されています。

 私たちの人生もそうでしょう。様々なことが同時進行で起こるのです。兄弟のこと、子どもたちのこと、親のこと、会社のこと、友人や知人のこと、さまざまな人との関わりの中で生かされているわけですから、簡単ではありません。時々疲れてしまって、休みたくなることもあります。全然前に進み出せず、足踏みしてしまうこともあります。あるいは、大きな後退と思えることもあるのです。

 そういうことが次々に起こり出すと、本当に苦しい思いになります。逃げ出したいと思うことがあります。途方にくれてしまうことがあります。それは、聖書に出てくる人物も、私たちもまったく同じです。

 聖書を読んでいますと、何度も何度も、同じような言葉が繰り返されています。たとえば、今日の箇所ですと、11節にこのような主の言葉があります。

神はまた、彼に仰せられた。「わたしは全能の神である。生めよ。増えよ。一つの国民が、国民の群れが、あなたから出る。王たちがあなたの腰から生まれ出る。わたしは、アブラハムとイサクに与えた地を、あなたに与える。あなたの後の子孫にも、その地を与えよう。」

 昨年から、アブラハムの生涯の説教を始めまして、イサク、ヤコブと続いて説教してきました。その間に、何度も何度も、これと似たような言葉が語られ続けていますので、続けて読んでいる私たちには、また、同じ言葉が書かれていると慣らされてしまうような気がします。けれども、聖書が何度も、何度も同じように、祝福の言葉を語り続けるのは、神の祝福の言葉を聞き続けていなければ、私たちは生きていかれないからです。

 もちろん、子どもが生まれるという嬉しいニュースもありますが、妻の死が突然起こったり、息子からの辱めを受けたり、大好きだった乳母が死んでしまったりという、悲しい出来事も起こるのです。

 私たちは、生きて行かなければなりませんから、いつまでも泣きつづけることはできません。立ち上がらなくてはなりません。目当てを持って生きて行かなければならないのです。

 何のために自分は生きているのか。その根本的なことを忘れてしまう時に、私たちは前に進めなくなってしまうのです。だから、主は語り続けるのです。

 あなたは、わたしの祝福の担い手、わたしがあたえた祝福を、この世界に示すために生きている。あなたから王がでる。あなたの子どもたちはどんどん増えることを通して、わたしが全能の神であることが示されるのだと、主はここでヤコブに語りかけておられるのです。

 神の御名がかかっているのです。その名も「全能」と言うとてつもなく大きな名前で神が、ご自分のことを語られています。この神の全能が示されない生き方を私たちがするなら、神の名折れです。

 私たちは、ヤコブの子孫です。新しいイスラエルの民です。私たちの信じている神は、ヤコブに全能の神として、ご自身を示されたお方です。このお方が、私たちの神、主なのですから、私たちの人生にも次々に色んなことが起こっても、慌てふためかなくてもよいのです。

 神が、ヤコブにそうされたように、私たちにも、神の御業を示してくださるのです。 (続きを読む…)

2020 年 10 月 25 日

・説教 創世記34章1節-35章5節「家族の危機」鴨下直樹牧師

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2020.10.25

鴨下 直樹

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 ヤコブは神との格闘に勝利し、兄エサウとの問題も克服して、いよいよ、神の約束の地であるカナンでの生活がはじまりました。

 物語であるならば、もうこれでハッピーエンドです。あとは、「ヤコブは家族と共に、神さまの約束の地でいつまでも幸せにくらしましたとさ。」そうやって結ばれるはずです。しかし、です。聖書はいつも、私たちに理不尽さを突き付けてくるのです。

 あろうことか、ヤコブの12人の子どもの一人、しかも名前が記されている子どもの中では唯一の女の子であるディナが、一族が住み着くことになった、あの父祖アブラハムのゆかりの地で、はずかしめられたのです。そのことは、家族にとって、どれほど深い悲しみとなったことでしょう。特に、ディナの兄弟であったレアの子、シメオンとレビは烈火のごとく憤ったのです。ここに記されている出来事はあまりにも残虐で、丁寧に説明する気も失せるほどの、残虐非道なふるまいです。

 この時、ディナを辱め、さらにディナとの結婚を求めた憎むべき相手であるシェケムは、同じ名前のシェケムの地の人々の中でも、「だれよりも敬われていた」と19節に書かれています。ということは、この土地の人々は略奪婚というような方法をとっても、名誉が傷つくことはなかったということです。つまり、そういうことがまかり通る倫理観を持っている地域であったということでしょう。そして、この地の人々はヤコブたち一族と姻戚関係を結べば、ヤコブ達の財産を奪うことができると考えていました。

 一方で、ディナの兄であるシメオンとレビですが、妹が辱められたということで、怒りを覚え、割礼をうければ婚姻を認めると、だまして、その結果、シェケムの男たちを皆殺しにし、略奪するという、残虐非道な方法で仕返しをするのです。

 私たちはこういう物語を聖書で読むときに、ここから一体何を神は語ろうとしておられるのか、途方にくれるような思いがします。ヤコブがこの時とった振る舞いも、なんとなく、気弱な態度に見えるのです。それほど息子たちを叱るのでもなく、近隣の地域をなだめるというような方法もとらず、その地を離れただけ。そのように読めるのです。

 この残忍なシメオンとレビの振る舞いを、私たちはどう考えたらよいのでしょうか。確かに、歴史小説であれば、妹のため立ち上がって復讐を果たすという物語は、年末のドラマにはうってつけのテーマなのかもしれません。それは、まるで英雄譚でも見ているような思いになれるのかもしれません。

 そもそも、ヤコブたち一族には何ら落ち度があったわけでもなく、ただの被害者である。そう考えれば、シメオンとレビは英雄なのであって、悪いのは完全にシェケムの地の人間である。そう考えることはできます。

 昔から、聖戦だとか、正義の闘いといって繰り広げられる物語は、相手方が絶対悪で、こちら側は絶対的正義を身にまとっているものです。人と争う時も、ほとんどがこの考え方です。自分の考え方が絶対に正しいと決めてかかっているのです。相手側の文化や、価値観の違いは認めないというのであれば、それもまかり通るのかもしれません。非道徳的だと決めつけることができるのかもしれません。

 けれども、古代の世界の中で、何の保護もない、族長時代と呼ばれるこの頃の世界観の中に、聖書の神が語るような高度な倫理観を備えた国が、いったいどれほどあったというのでしょう。おそらく、シェケムの人々は、自分たちの振る舞いはごく日常的なことで、パダン・アラムからやって来たこの外国人が、どんな家族観や結婚観を持っているのかなどという事は、想像もできなかったのだと思うのです。

 では、聖書はこのことをどのように語っているのでしょう。そこで、思い出す必要があるのは、神がアブラハムにかつて語られた、あの約束の言葉です。 (続きを読む…)

2020 年 10 月 18 日

・説教 創世記33章1-20節「兄エサウとの再会」

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2020.10.18

鴨下 直樹

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 みなさんは、食事の時に嫌いな食べ物があったとしたら、それは最後まで残しておく方でしょうか。それとも、先に食べてしまう方でしょうか。私は、子どもの頃から、嫌いなものは最後まで残しておく方でした。そして、あわよくば食べなくても良くなることを期待していたのです。ところが、今は違います。苦手な食べ物は先に食べるようにしています。

 これは、何も食べ物に限ったことではありません。やらなければならない仕事を後回しにするか、先にやってしまうか。これも、そうですが、私は以前は、最後まで先延ばしにしてしまって、やらなければいけないことにギリギリまでかかってしまう方でした。今でも若干そういうところはありますが、できるだけすぐにやろうと心掛けるようになりました。ですから、以前は、礼拝説教などは、ほとんど日曜の朝方にできるとか、夜中の2時までかかるとかいう具合でした。最近は土曜の夕方には終わるようにしています。もちろん、うまくいかないこともしばしばですが、先延ばしにしないように気を付けるようになりました。というのは、仕事ができる人というのは、すぐにやるんだということに、ある時気が付いたからです。

 また、人との関係が難しくなってしまった時となると、余計に私たちはそういうことは先送りにしたくなってしまいます。なかなか気が進まない、そんな経験はみなさんのなかにもあるのではないでしょうか。

 ヤコブも同じです。いやなことは最後の最後まで先延ばしにするタイプの人間だったようです。決断が遅いのか、その間に何かが起こることを期待しているのか。気が進まないことを先延ばしにして、漠然と時間が解決してくれることを期待したい、ヤコブのそんな思いは誰もがよく分かると思います。幸い、ヤコブは先延ばしにした結果、その何かが起こります。それが、最後までヤボクの渡し場の所で、一人残っていた時に、ある人と出会い、格闘をし、勝利を得るという出来事だったのです。

 そして、この時戦った相手はというと、主なる神ご自身であり、主はそこでヤコブに新しい名前である「イスラエル」つまり、「神に勝利した者」という名前を与えてくださったのでした。

 先週あまりその後のことを詳しく話しませんでしたが、ヤコブはその場所の名前を「ペヌエル」と名づけました。

「私は顔と顔を合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」という意味である。

と32章の30節に書かれています。

 この時、ヤコブは主ご自身と顔を合わせたと言っているのです。兄エサウと顔を合わせるのが怖くて、おびえていたヤコブは、ここでもっと偉大なお方、最も畏れるべきお方である主と顔を合わせたのに私は生きていると言ったのです。ただ、勝者と言われていますけれども、気づいてみるとヤコブは、正反対の敗者のようになっていました。主に足を打たれて傷を負ってしまうのです。ももの関節、腰の筋を打たれてうまく歩けなくなってしまったと、32章の最後のところに書かれています。

 そして、今日の、聖書箇所は衝撃的な言葉からはじまっています。1節です。

ヤコブが目を上げて見ると、見よ、エサウがやって来た。四百人の者が一緒であった。

 嫌なことというのは、いつまでも先延ばしにすることができません。必ず夜は明けるように、その時は来るのです。大事なことは、その時を迎えるまでにどんな準備をしておくことができるかです。

 ヤコブは、不思議なことにエサウと会うために何の備えもしなかったはずなのに、主がヤコブと出会われて、格闘し、ヤコブは意図していなかったのに、必要なすべての準備を主が整えてくださったのです。

 しなければならないことを先延ばしにしたところで、本当はそこには何の解決もありません。なぜなら、するべき準備もせず、自分に与えられている責任を果たそうとしないで、逃げているからです。ヤコブは、そのような者だったのです。

 ところが今日の33章から、新しいイスラエルという名前をいただいたヤコブの変貌ぶりが示されています。 (続きを読む…)

2020 年 10 月 11 日

・説教 創世記32章1-32節「神との格闘」

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2020.10.11

鴨下 直樹

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 ヤコブはいよいよ、故郷に戻ろうとしています。20年の寄留生活の中で、ヤコブはさまざまな経験をし、二人の妻を迎え、11人の子どもたちが与えられ、二つの宿営を持つほどまでに豊かになりました。ヤコブは20年の歩みを通して、神の祝福を経験し、大手をふって、顔を上げて故郷に帰ることができる日を迎えることができました。

 ヤコブという名前の意味は「押しのける者」という意味であったと、最初に私たちはその名前の意味を心に刻みました。まさに、ここまでのヤコブの歩みは、その名前にふさわしい歩みでした。人を押しのけて、自分が一番になりたい。そういう歩みをしてきたのです。そして、神ご自身もまた、そのようなヤコブを支えてこられたのです。

 そして、いよいよカナンの地に戻ることで、一つの避けて通ることのできない大きな壁がまだヤコブの前には立ちはだかっていることが明らかになります。それは、ヤコブがラバンのところを訪ねる前に起こした争いの相手、兄エサウと再会しなければならないということです。ヤコブは兄エサウの祝福を奪い取り、兄が自分のいのちを狙っていることを知って、父たちの住んでいた神の約束の地であるカナンから逃げ去ったのです。

 自分が押しのけた兄と再会するためには、兄と和解をしなければなりません。そして、自分がしてしまったことは到底赦されることではない、ということをヤコブは理解していました。

 32章はまさに、このヤコブの人生の最大の試練である、兄との和解という大きな壁をどうやって成し遂げるかという、重大局面を迎えているのです。聖書にはこの32章の冒頭にこういう出来事が記されています。1節と2節です。

さて、ヤコブが旅を続けていると、神の使いたちが彼に現れた。ヤコブは彼らを見たとき、「ここは神の陣営だ」と言って、その場所の名をマハナイムと呼んだ。

 この出来事にどんな意味があるのか、昔から聖書学者たちを悩ませてきた記事がここに唐突に出てきます。神の使いたちの「神の陣営」を見たというのです。新改訳聖書には欄外に注が書かれています。そこを読みますと、「陣営」という言葉の注には「マハネ」と書かれていて、「マハナイム」という言葉には「マハネの双数」と書かれています。双数というのは、両脇にある数という意味です。つまり、「二つの陣営」という言葉が、「マハナイム」という意味だという説明です。

 ヤコブはいよいよ、最大の試練に向かう前に、突然、神の二つの陣営を見たと言うのです。これは、この後、ヤコブが兄に会うために自分の宿営を二つに分けたこと書かれていますが、このことと何か関係があるはずです。こういう聖書の説明は、聞いていても面白くないかもしれませんが、この箇所を読み解くヒントになっているはずです。

 問題は、ヤコブがこの神の陣営を見て、どう思ったのかという事が書かれていないことです。怖いと思ったのか、励まされたのか。それさえよく分かりません。そうすると、ヤコブの身になって想像してみるより外ありません。

 私はこう思うのですが、エサウの陣営が突然目の前に二つ現れるのと、神の陣営が突然二つ現れるのとどちらが恐ろしいのでしょうか。この後の話を読んでいきますと、ヤコブはじつに、ぐずぐずやっています。ちっとも、エサウの前に出ようとしないのです。

 まず6節にこう書かれているのですが、最初にヤコブはエサウの所に使者を送ります。エサウがどんな態度なのか様子をさぐるためです。その遣わした使者が戻って来るのですが、その時に使者がこう言ったのです。

「兄上エサウ様のもとに行って参りました。あの方も、あなたを迎えにやって来られます。四百人があの方と一緒にいます。」

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2020 年 10 月 4 日

・説教 創世記31章17-55節「巣立つヤコブに」

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2020.10.04

鴨下 直樹

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 10月に入りました。このコロナ禍にありながら、私の生活はこの一週間で一気にいろいろと変わり始めています。今、新しく何かが始まろうとしていることを感じています。

 先日、JEAの宣教フォーラムが行われました。JEAというのは日本福音連盟の略ですが、いわゆる私たちが所属しております福音派と呼ばれている教会が、宣教について考える研修の時を持ったのです。今回は、例年ですとどこか一つの所に全国から集まりまして、会議や講演が行われるのですが、今回はオンライン会議という方法で行われました。200名ほどの牧師たちが参加しました。ここで主に語られたのは、このコロナ禍の状況で、日本の教会は今何が問われているのかというテーマの講演がいくつもなされました。

 先週行われた私たちの教団の日の集いでもそうですが「ピンチはチャンス」という言葉をいろいろなところで耳にします。この機会を、どのように積極的な意義としてとらえるのかという事が、様々な方面から語られていて、とても面白いと思いました。

 その中で主に語られていたのは、このオンラインで礼拝を配信したり、在宅でオンライン会議などができるようになったことで、さまざまな可能性が広がるということです。そのことに、積極的な意味を見出していこうということです。

 このフォーラムの中で、ある牧師は、その時の発題の中で、「身体性」というテーマの話をされていて、教会の集いに来ないと、身体性が損なわれているのか、オンラインのモニター越しであっても、そこにも身体性を見出すことができるのかという問いかけがなされました。

 簡単に言うと、教会に何らかの事情で来ることが難しい人がモニター越しで礼拝を捧げることを、教会に来ていることと同じように考えることができるのかどうかということを話されたわけです。

 その発題の時に、質疑の時間がありまして、その講演をされた先生にこんな問いかけがなされました。
「オンラインになると、聖餐式ができなくなる。そのことについてどう考えますか?」
という問いかけです。この講師の発言の急所を突く質問でした。その時に、その発題をした先生は、今の自分個人の考え方はという限定的な言い方でしたけれども、「聖餐は、象徴なのだという考え方が強くなっている」と答えられました。

 この発言はとても大きな意味をもっているのですが、要するに聖餐がなくても、オンラインの参加であっても、その画面の前にはその人がいるのだから、それでいいのではないかということです。

 今後、この考え方が主流になっていくのかどうかは、全く分かりません。私個人としてはそうならないことを願っています。

 というのは、このフォーラムで別の講師の方が発題をなさった時にも、同様の質疑があり、その時にそれに答えられた吉川直美先生、この方は聖契神学校で霊性の神学を教えておられる先生ですが、その質問に答えて、こんなことを言われました。今、教会は聖餐が出来ない、愛餐と言われる食事が一緒にできない。交わりができない。ロシア正教会などでは聖なる口づけという習慣ができなくなっているし、カトリック教会では亡くなった方にする終油という、油を注いでお別れをするということができなくなっている。それは、愛するという具体的な行為が教会から奪われているということだという話をなさったのです。これは、今さかんに言われているソーシャルディスタンス、人との身体的な距離を取る必要があるということの中で起きてきたことですが、人との距離をとらなくてはいけないという流れの中で、具体的な愛の業が失われてしまっている。そのことを問われたのです。

 私は、この方の話を聞きながら、まさにそのことこそが、このフォーラムで考えられるべきテーマだったのではないかと感じました。

 そして、先週から、私が関わっております名古屋の東海聖書神学塾の講義が始まりました。名古屋まで様々な事情で来られない方がありますので、対面の講義と同時進行で、オンライン配信もすることになりました。なれない高齢の先生が多いために、事務の方々は大変な一日でした。

 私はその中で、説教学基礎という講義を教えています。昨日は、最初の講義でしたので、まずその導入、イントロダクション的な話をいたしました。そこで、そのフォーラムで考えさせられている話をいたしました。

 今、愛の行為が教会から奪われている。これが私たちが抱えている課題だというのです。そして、実は、それは教会だけではない、私たちの世界が抱えている大問題です。人と、身体的な距離を取らなければならないということは、人の愛や優しさ、思いやりというものが感じにくい、まさに人との距離が出来てしまって生きにくい社会を生きているわけです。

 けれども、教会は愛の業が奪われて何もできないと言っていていいのだろうか? オンラインのその向こうに、その人の体があるので、オンラインでいろいろなことができる。そこに可能性がある。それは、一面ではそうだと思うのです。けれども、その可能性をどこに見出すか。このことこそが、重要なのではないか。 (続きを読む…)

2020 年 9 月 27 日

・説教 創世記30章25節-31章16節「私の行く先々で主が」鴨下直樹

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2020.09.27

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 今、テレビドラマで「半沢直樹」という銀行マン、ドラマではバンカーというらしいですが、この物語が放送されています。ご覧になっておられる方も多いと思います。不正をする上司に立ち向かっていく物語です。半沢の決め台詞である「倍返しだ!」というセリフとともに、人気ドラマになっています。今夜は、いよいよ最終回で、今から楽しみにしている方も多いと思います。

 今日の、ヤコブの物語はこのドラマ「半沢直樹」に勝るとも劣らない物語です。ヤコブと、その上司であるラバンの物語です。ただ、ドラマでは決め台詞である「倍返しだ!」というセリフがありますが、もちろんヤコブはそんなことは言いません。不正を働いてヤコブを苦しめるラバンに、ヤコブは「私の行く先々で主は」と言うのです。

 今日の物語は、これまで、二人の妻を得るため14年間ラバンのもとで働かされてきたヤコブですが、ついに、14年の年季が明ける時が来たところから始まります。そもそも、この14年も、ラバンの策略によるものでした。本当は、ラケルとだけ結婚したかったヤコブですが、ラバンの策略により、姉のレアとも結婚することになったわけで、その分として余計に7年間働かされてきたのです。

 ただ、主はそのようなラバンの策略を逆手にとって、愛されていなかったレアにも心をとめてくださり、この二人の妻と、二人の女奴隷から11人の男の子が与えられるという祝福を見せてくださいました。

 しかし、結婚して14年たってもなお、ヤコブはラバンの奴隷でしかなかったのです。それで、もう私は、私の父の家に帰りたいと申し出ます。すると、大和田常務ならぬ、上司のラバンは、半沢ヤコブにある提案を持ち掛けます。「もう少し働いてくれたら、財産を分けてやるのだが」と言ったのです。その時に、ラバンが言った言葉がこうです。

27節、28節

ラバンは彼に言った。「私の願いをあなたがかなえてくれるなら――。あなたのおかげで主が私を祝福してくださったことを、私は占いで知っている。」さらに言った。「あなたの報酬をはっきりと申し出てくれ。私はそれを払おう。」

 ラバンは、自分の財産が増えたのはヤコブのおかげであることを占いをして知っていると言うのです。どうも、ラバンという人は、自分の財産がどんどん増えていることについては喜んでいるわけですが、その理由であるヤコブとともにおられる主について、もっと知りたいとは思わなかったようです。

 これは、今の世界でも同じことが言えるのかもしれません。聖書が、キリスト教が、どれほどこの世界の平和に貢献していて、その祝福に与っているかを、世界は知っているのですが、その祝福の源である主を知りたいと思う人は多くないのです。特に私たちの国ではそうです。これは、残念なことです。

 このラバンの言葉に対してヤコブはこう答えます。30節です。

「私が来る前は、あなたの財産はわずかでしたが、増えて多くなりました。私の行く先々で主があなたを祝福されたからです。」

 「私の行く先々で主が」とヤコブは答えました。これほど、力強い言葉はありません。私が進む道の前に、その先々に主が祝福を準備しておられるのです。だから、あなたはその祝福に与ることができたのだと、ヤコブは告げることができたのです。

 これが、ヤコブの現実だったのです。確かに、ラバンの策略に陥ったのかもしれません。それで、だまされて結婚したこの後の7年間もヤコブはラバンの奴隷として過ごしてきました。そして、今尚、自分は奴隷の身分のままです。これも、たしかに事実ではあるのです。けれども、その中身は、「私の行く先々で主が」おられるから、私のところには祝福があるのだと、ヤコブは胸を張って言うことができたのです。 (続きを読む…)

2020 年 9 月 20 日

・説教 創世記29章31節-30章24節「女の闘い?」

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2020.09.20

鴨下 直樹

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 ここ半年ほどでしょうか。コロナ禍ということもあって、私は日中に外に車で出かけるという事が少なくなっているのですが、今週は何度も出かけました。ここのところ、ぼーっとしていることが多いせいか、ちょっとピリッとした会話といいますか、「どこまで譲歩するか」みたいな会話をしていなかったせいか、ずいぶん油断がありまして、昨日も、なんとなく相手に負けたというような気持ちで家に帰ってきました。

 そうしましたら、妻がちょっといたずらっぽい顔をしながら、東京の方にお土産でいただいた「東京ばなな」にだまされたんじゃないのと言うのです。もっと老舗のお菓子もあるだろうに、最初からなめられていたんだと言われて、もちろん冗談ばなしですが、なるほどそういうものかとも思いました。

 ちょっとこの牧師はいきなり何の話をしているのかと思う方も少なくないかもしれません。漠然とした、抽象的な話で申し訳ないのですが、私たちは何かにつけて負けるというのは、嫌な気がするものです。軽い会話のつもりで出かけて行ったら、そこに三人くらい待ち構えていまして、何やら専門家まで登場して、終始相手のペースで会話が進んでしまう。しまったと思っても、時すでに遅しです。大事な話し合いと言うのは、準備の段階で、勝ち負けが決まっているようなものです。

 今日の話は、女の闘いです。ヤコブの妻になったレアと、ラケルの闘いのさまがここに記されています。夫の愛情が欲しい姉のレア、そして、子どもが欲しい妹のラケル、その二人の闘いが記されています。この女の駆け引きと言うか、闘いの様は、出来事として読むには、興味深く、面白いものですけれども、読む私たちの側からすれば、なんとなく不毛な闘いの劇を見せられているような、そんな思いにもなります。

 私は、子どものころから教会学校でこの話を聞くたびに、ラケルが主人公で、レアは物語に色を添える登場人物のように描かれることがほとんどですから、なんとなく、聖書はそう描いているのだろうと、長年思い込まされてきました。一昨日、たまたま娘に読んだ聖書物語も、ちょうどこの物語でした。

 その時、私が読み終わったところにはこう書かれていました。

「さて、ヤコブにはふたりの、おくさんができたわけだけれど、もちろんラケルの方をことのほか愛した。」

 ここまで読み終わって、なんとなく心がもやもやしたまま、娘とお祈りをして、眠りました。こういう書き方はどうなんだろう、まるで夫に愛されるラケルの生き方が神様の目に留まって、レアは神様からも相手にされていないようではないか。そんなふうに思ったのです。 (続きを読む…)

2020 年 9 月 13 日

・説教 創世記29章1-30節「ヤコブとレアとラケル」

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2020.09.13

鴨下 直樹

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 今日の聖書は、とても興味深い箇所です。今日の聖書箇所に出てくる登場人物は4人です。この物語の主人公でもあるヤコブ。そして、ヤコブの母リベカの兄であるラバン。そして。ラバンの二人の娘であるレアとラケルの四人です。

 私が聖書を読んでいて面白いと思うのは、聖書にはへんなお世辞はありません。最近の言葉で言うならば「忖度がない」のです。ヤコブは後にイスラエルと名前が変わりますが、そういうイスラエルの物語だから美しく書いておこうというような記述はないのです。

 また、誰から見てなのか分かりませんが、この二人の姉妹の美しさを書いています。レアはそれほど美しくなかったようで、それに比べて妹のラケルは美しい女性でした。よく考えてみますと、ヤコブも、イサクも、アブラハムもそうですが、聖書はこの男性たちが美しかったとかイケメンであったというようなことに、あまり興味がないのか知りませんが、そういうところは書いておりません。ところが、女性のこととなるとそうではないのです。

 現代ならセクハラ案件なのかもしれません。そもそも美しいというのは、誰目線なのかも、実ははっきりしないのです。もし、神様目線だということになると、大変です。もしそうなら、それこそ寝る時も、お風呂に入る時も、神様に綺麗に見せるためにお化粧しなくてはならなくなるのでしょうか。

 実は、先日の聖書の学び会の時に、ある方が私にこんな質問をされました。

「先生に聞きたいことがあるんだが、この話は先生の身に当てはめてみて、どうなんだ?」

と言われたのです。

 今日の聖書の話を自分に当てはめてみてどうかという質問に、実はいろいろ思うところがあって、どう答えようか、しどろもどろになっていますと、その方が続けてこう言われたのです。

「先生の奥さんは二人姉妹で、それこそ、レアとラケルだ。なぜ姉の方ではなくて、妹の方と結婚したのか?」

と言われました。それを聞いていた皆さんは笑われたんですが、私も少しほっとしながら、残念ながらお姉さんとは出会いがなかったんですと、答えました。

 こういう聖書の質問ではないものは、時々、どう答えたものかとドキドキします。まぁ笑い話ですむのであればよいのですが、どちらが美しいかというような個人的な好みというか、感性の問題になると、どう答えてよいか分からなくなってしまいます。

 聖書はそういうきわどい話を、このようにさらっと書いております。それでは、美しいと評価されたラケルがすべての点において、神の目に留っているのかというと、そうではないわけです。

 それは、また来週の話になりますが、神は決してこの姉のレアを軽んじていたということではないことが、この箇所を読んでいきますと、だんだん分かってきます。

 さて、今日のところでいうと、まず、ヤコブです。ヤコブは長い逃亡生活の果てに、ついに目的地であるハランにたどり着きます。着いたと分かったのは井戸のある場所です。聖書を読むと、その井戸のしきたりがまず書かれています。そこで羊に水を飲ませるためには、すべての群れが集まってから井戸をふさいでいる石をどかして、飲ませるのです。そうすることで、少ない水を勝手に飲ませて争いになるのを避けたのです。

 ところが、このところで、ラバンの娘が羊の群れを連れてやって来ることを知ると、ヤコブはそれまで話していた、他の群れの人に、「まだ日も高く、羊を集める時間でもないから、水を飲ませたらさっさと羊を連れて行ってはどうか」と提案し、ラバンの娘のラケルがやって来るや否や、勝手に石をどかして彼女の羊に水を飲ませる始末です。

 ヤコブ一人が盛り上がって、涙を流し、感動の対面を果たして、ラケルにキスまでするのですが、周りにいる人々にしてみれば一体何が起こっているのか、というような出来事なのです。

 最近の言葉でいえば「ドン引き」ということなのかもしれません。本人ひとり盛り上がって感動して、涙を流しているのですが、聖書の書き方はいたって客観的です。 (続きを読む…)

2020 年 9 月 6 日

・説教 創世記28章10-22節「石の枕」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 09:48

2020.09.06

鴨下 直樹

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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 
 先週の日曜日の夜、私の大好きなテレビ番組がありまして、先日その録画を見ました。「逃走中」という番組です。見たことのある方があるでしょうか。簡単に言うと、子どもの頃にした「鬼ごっこ」なんですが、最近は幼稚園の子どもも鬼ごっこと言わないで、「逃走中、やろ!」と言うのだそうです。鬼は、真っ黒のスーツを着た人が、黒いサングラスをしてプレイヤーを追いかけるのです。子どもの頃は、そういう遊びで追いかけられる中を必死になって逃げるというスリルを味わったものですが、大人になるとまずそういうことは起こりません。

 先日の祈祷会で来られた方に聞いてみたのですが、夢でならあるけれど、現実にはないと、皆が口をそろえて話してくださいました。何か犯罪とか、そういうまずいことをしてしまえば、走って逃げるということはあるかもしれません。普段の生活で、そんなに必死になって逃げなければならないようなことが起こるとすれば、それはもう事件です。

 今日のヤコブは、逃げています。どうも、かなり急いで逃げています。ベエル・シェバという、家族と長年住み慣れた土地を出て、叔父のラバンのいるハランを目指して、逃げているのです。そして、あるところで、野宿するのですが、あとで「ベテル」と名づけたその地まで約100キロあります。一日で逃げた距離にしてはかなり長い距離ですが、もちろん一日であったとか書かれていませんが、読んでみるとそんな雰囲気で書かれていることが分かります。

 そこまで急ぐのには理由があります。エサウから逃げるためです。エサウは狩人ですから、健脚だったでしょう。マラソン選手のよう長い距離を走ることができたかもしれません。だから、そんな近くで休んでいてはすぐに見つかって、殺されてしまうと考えたのでしょう。だから、ヤコブはかなり急いで走って逃げたのです。兄エサウはアウトドア派の体育会系の人物だとすると、弟のヤコブはどちらかといえばインドア派で、いつも天幕の中にいて母親とお話をするのが大好きというような青年です。そんなヤコブが珍しく頑張って逃げる、まさに逃走中だったわけです。

 無事に叔父の住むハランまでたどり着けるか、そんなことばかりを考えていたかもしれませんし、まだ見ぬハランの地で、どんな生活をすることになるのか色々を考えて心配したかもしれません。念願の神の祝福をいただき、100キロ走る体力があっても、この先の不安感があるならば幸せを感じることはできないでしょう。

 ちょっと余談ですが、先日ユニセフが先進国の子どもの幸福度調査の結果を発表しました。「レポートカード16」と言われるものです。ユニセフというのは、児童国際基金という組織です。その結果をテレビでご覧になった方も多いと思います。衝撃的な結果でした。

 その中で「身体的健康」という項目では日本は先進国38国中1位という結果でした。健康面では、日本の子どもは世界で一番恵まれているということです。ところが、「精神的健康」という項目では37位、下から2番目だったというのです。

 生きている環境は病気の不安から守られていて、とてつもなく恵まれている環境なのに、子どもたちは精神的に追い詰められているということが、ここから分かるということなのです。これは、この国が子どもの心に大切なものを与えていないということの現れです。ちょっと考えさせられる結果でした。

 このレポートには他にも「スキル」という項目もあります。日本の子どもはどんなに追い詰められて勉強しているのかと思ったら、スキルは27位です。下から数えた方が早いのです。この「スキル」というのは「読解力や数学分野の学力、社会的スキル」というものを見ているということなのですが、日本の子どもたちは先進国の中でスキルは大して高くない。となると、一体何で子どもたちはそんなに追い詰められているのかという大きな疑問が浮かんできます。家族の中での子どもの姿や、学校でのいじめの問題などもその背景にはあるのかもしれません。医療など健康を支える環境は世界で一番といえるようなところにいながら、心は荒んでいるのが、日本の子どもたちを取り巻く状況なのだというのです。多くの親たちが、何とかスキルを身につけさせたいと思って一所懸命なのに、それほど結果は出ていなくて、反対に子どもたちはどんどん傷ついて耐えながら生きているというのです。

 それは、ここで逃走中のヤコブの状況と似ているのかもしれません。何かに追われるように生きているのに、先を見据えることができない、そんな不安を抱えて生きているのです。一体、何が足りないというのでしょうか。どうしたら、このような状況から抜け出すことができるのでしょうか。 (続きを読む…)

2020 年 8 月 30 日

・説教 創世記27章46節-28章9節「全能の神の祝福」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 07:22

2020.08.30

鴨下 直樹

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 聖書には時々、矛盾するようなことが書かれていて、これをどう理解したら良いのか、わからなくなってしまうような箇所があります。そして、聖書の解説を見ても、そのところはよく分からないということは少なくありません。

 今日は、久しぶりに創世記のヤコブの物語の続きの部分です。少し時間がたっているせいで、もう前回の内容を忘れている方があるかもしれませんので、簡単に前回の箇所を振り返ってみたいと思います。 

 27章の後半で、ヤコブはイサクからの祝福を受けるために、父イサクをだまし、兄エサウを出し抜いて祝福を受け取ります。そして、だまされた兄エサウはヤコブを殺そうと決意します。ところが、そのことに気づいた母のリベカは、ヤコブにここから逃げて、ハランに住んでいるリベカの兄のラバンのところに逃げるようにアドバイスしたのです。

 そして、それに続く個所が今日の箇所です。それが28章で、ヤコブがラバンのところに行く理由が記されています。それが、27章の最後の46節に記されている兄エサウの妻のふるまいです。リベカはエサウの妻のヒッタイト人のために嫌気がさしていて、そのことがきっかけとなって、妻をさがすためにラバンの所に行くようにと書かれているのです。今日のところでは、父イサクは落ち着いてヤコブを祝福し、ラバンの所に妻を探しに行くようにということが記されているわけです。

 27章では、ヤコブはエサウから逃れるために家族から離れてハランのラバンのところに行くことにしているのに、28章では、良い結婚相手を探すために、ラバンの所に行ったという話が書かれているのです。ここには、二種類の別の内容が記されているのです。一体どっちの話が正しい話なのかと考えてしまいます。

 はっきりしていることは、ヤコブが家族のもとを離れた理由について、二つの理由が考えられていたということです。一つは、エサウを恐れて逃げたという理解です。そして、もう一つの理解は、エサウのような結婚をしないように叔父であるラバンのところに行ったということです。

 けれども、聖書の後の時代になりますと、例えばホセア書12章12節にこう書かれています。「ヤコブはアラムの地に逃げて行き、イスラエルは妻を迎えるために働いた。妻を迎えるために羊の番をした」と。ここではヤコブのことが、後の名前であるイスラエルとなっていますが、この時のヤコブのとった行動は、後の時代にヤコブはラバンのところに逃げていったという理解の方が浸透していることは間違いないことのようです。ただ、今日の聖書箇所が伝えたいのは、もう一つの理由があって、それは結婚のためであったということなのでしょう。

 いずれにしても、ここに記されているヤコブの物語はとても暗い物語です。ヤコブは父イサクと母リベカから離れて生活しなければならないのです。そして、父と母から見ても愛する息子と別れなければならないのです。確かに、今日の箇所では、ここを去る理由は結婚相手を探すためですから、ネガティブな理由だけではないということを語ろうとしているとは言えますが、この時の別れで、結局イサクもリベカも、もうヤコブと再会することはできなくなってしまうのです。

 さきほどのホセア書にもあるように、私たちはこの後にヤコブがイスラエルと名前が変えられて、イスラエル民族の父となることを知っています。このイスラエルという名前は、今に至るまで、世界中で知らない人がいないほどの名前となりました。それほどまでに、神に愛され、祝福を受けたのです。

 けれども、私たちがこの箇所から知るのは、そのような神の祝福を受けたヤコブであっても、その人生には大きな悲しみが存在したのだという事実です。

 家族がバラバラになってしまう、家族崩壊のような出来事がここには記されています。神の祝福というのは、絵にかいた餅のように、何の問題もないような幸せな毎日ということではないのだということが、よく分かります。

 ヤコブの生涯はまだはじまったばかりです。結論は、もうすでにはじめから分かっているのです。ヤコブは神に祝福されるのです。イサクの物語はここまでで、ここからはヤコブの物語です。そして、このヤコブの物語は、約束の土地からの別離という出来事から始められるのです。

 確かに、ヤコブの生涯は祝福が支配しているのです。けれども、その祝福は試練が伴わない祝福ではないし、悲しみを経験しないような日々を送るという事でもありません。この後、ヤコブの物語を見ていきますが、「ヤコブは」というか、「ヤコブも」と言った方がいいかもしれませんが、試練の連続です。私たちはそのようなヤコブをこれから見ることになるのです。

 けれども、そこから見えてくるのは、ヤコブの人となりではないのです。見えてくるのは、神の配慮です。ヤコブと共に歩んでくださる主の慈しみのお姿です。 (続きを読む…)

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