2020 年 9 月 19 日

・説教 創世記29章31節-30章24節「女の闘い?」

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2020.09.20

鴨下 直樹

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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。

 

2020 年 9 月 13 日

・説教 創世記29章1-30節「ヤコブとレアとラケル」

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2020.09.13

鴨下 直樹

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 今日の聖書は、とても興味深い箇所です。今日の聖書箇所に出てくる登場人物は4人です。この物語の主人公でもあるヤコブ。そして、ヤコブの母リベカの兄であるラバン。そして。ラバンの二人の娘であるレアとラケルの四人です。

 私が聖書を読んでいて面白いと思うのは、聖書にはへんなお世辞はありません。最近の言葉で言うならば「忖度がない」のです。ヤコブは後にイスラエルと名前が変わりますが、そういうイスラエルの物語だから美しく書いておこうというような記述はないのです。

 また、誰から見てなのか分かりませんが、この二人の姉妹の美しさを書いています。レアはそれほど美しくなかったようで、それに比べて妹のラケルは美しい女性でした。よく考えてみますと、ヤコブも、イサクも、アブラハムもそうですが、聖書はこの男性たちが美しかったとかイケメンであったというようなことに、あまり興味がないのか知りませんが、そういうところは書いておりません。ところが、女性のこととなるとそうではないのです。

 現代ならセクハラ案件なのかもしれません。そもそも美しいというのは、誰目線なのかも、実ははっきりしないのです。もし、神様目線だということになると、大変です。もしそうなら、それこそ寝る時も、お風呂に入る時も、神様に綺麗に見せるためにお化粧しなくてはならなくなるのでしょうか。

 実は、先日の聖書の学び会の時に、ある方が私にこんな質問をされました。

「先生に聞きたいことがあるんだが、この話は先生の身に当てはめてみて、どうなんだ?」

と言われたのです。

 今日の聖書の話を自分に当てはめてみてどうかという質問に、実はいろいろ思うところがあって、どう答えようか、しどろもどろになっていますと、その方が続けてこう言われたのです。

「先生の奥さんは二人姉妹で、それこそ、レアとラケルだ。なぜ姉の方ではなくて、妹の方と結婚したのか?」

と言われました。それを聞いていた皆さんは笑われたんですが、私も少しほっとしながら、残念ながらお姉さんとは出会いがなかったんですと、答えました。

 こういう聖書の質問ではないものは、時々、どう答えたものかとドキドキします。まぁ笑い話ですむのであればよいのですが、どちらが美しいかというような個人的な好みというか、感性の問題になると、どう答えてよいか分からなくなってしまいます。

 聖書はそういうきわどい話を、このようにさらっと書いております。それでは、美しいと評価されたラケルがすべての点において、神の目に留っているのかというと、そうではないわけです。

 それは、また来週の話になりますが、神は決してこの姉のレアを軽んじていたということではないことが、この箇所を読んでいきますと、だんだん分かってきます。

 さて、今日のところでいうと、まず、ヤコブです。ヤコブは長い逃亡生活の果てに、ついに目的地であるハランにたどり着きます。着いたと分かったのは井戸のある場所です。聖書を読むと、その井戸のしきたりがまず書かれています。そこで羊に水を飲ませるためには、すべての群れが集まってから井戸をふさいでいる石をどかして、飲ませるのです。そうすることで、少ない水を勝手に飲ませて争いになるのを避けたのです。

 ところが、このところで、ラバンの娘が羊の群れを連れてやって来ることを知ると、ヤコブはそれまで話していた、他の群れの人に、「まだ日も高く、羊を集める時間でもないから、水を飲ませたらさっさと羊を連れて行ってはどうか」と提案し、ラバンの娘のラケルがやって来るや否や、勝手に石をどかして彼女の羊に水を飲ませる始末です。

 ヤコブ一人が盛り上がって、涙を流し、感動の対面を果たして、ラケルにキスまでするのですが、周りにいる人々にしてみれば一体何が起こっているのか、というような出来事なのです。

 最近の言葉でいえば「ドン引き」ということなのかもしれません。本人ひとり盛り上がって感動して、涙を流しているのですが、聖書の書き方はいたって客観的です。 (続きを読む…)

2020 年 9 月 6 日

・説教 創世記28章10-22節「石の枕」

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2020.09.06

鴨下 直樹

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 先週の日曜日の夜、私の大好きなテレビ番組がありまして、先日その録画を見ました。「逃走中」という番組です。見たことのある方があるでしょうか。簡単に言うと、子どもの頃にした「鬼ごっこ」なんですが、最近は幼稚園の子どもも鬼ごっこと言わないで、「逃走中、やろ!」と言うのだそうです。鬼は、真っ黒のスーツを着た人が、黒いサングラスをしてプレイヤーを追いかけるのです。子どもの頃は、そういう遊びで追いかけられる中を必死になって逃げるというスリルを味わったものですが、大人になるとまずそういうことは起こりません。

 先日の祈祷会で来られた方に聞いてみたのですが、夢でならあるけれど、現実にはないと、皆が口をそろえて話してくださいました。何か犯罪とか、そういうまずいことをしてしまえば、走って逃げるということはあるかもしれません。普段の生活で、そんなに必死になって逃げなければならないようなことが起こるとすれば、それはもう事件です。

 今日のヤコブは、逃げています。どうも、かなり急いで逃げています。ベエル・シェバという、家族と長年住み慣れた土地を出て、叔父のラバンのいるハランを目指して、逃げているのです。そして、あるところで、野宿するのですが、あとで「ベテル」と名づけたその地まで約100キロあります。一日で逃げた距離にしてはかなり長い距離ですが、もちろん一日であったとか書かれていませんが、読んでみるとそんな雰囲気で書かれていることが分かります。

 そこまで急ぐのには理由があります。エサウから逃げるためです。エサウは狩人ですから、健脚だったでしょう。マラソン選手のよう長い距離を走ることができたかもしれません。だから、そんな近くで休んでいてはすぐに見つかって、殺されてしまうと考えたのでしょう。だから、ヤコブはかなり急いで走って逃げたのです。兄エサウはアウトドア派の体育会系の人物だとすると、弟のヤコブはどちらかといえばインドア派で、いつも天幕の中にいて母親とお話をするのが大好きというような青年です。そんなヤコブが珍しく頑張って逃げる、まさに逃走中だったわけです。

 無事に叔父の住むハランまでたどり着けるか、そんなことばかりを考えていたかもしれませんし、まだ見ぬハランの地で、どんな生活をすることになるのか色々を考えて心配したかもしれません。念願の神の祝福をいただき、100キロ走る体力があっても、この先の不安感があるならば幸せを感じることはできないでしょう。

 ちょっと余談ですが、先日ユニセフが先進国の子どもの幸福度調査の結果を発表しました。「レポートカード16」と言われるものです。ユニセフというのは、児童国際基金という組織です。その結果をテレビでご覧になった方も多いと思います。衝撃的な結果でした。

 その中で「身体的健康」という項目では日本は先進国38国中1位という結果でした。健康面では、日本の子どもは世界で一番恵まれているということです。ところが、「精神的健康」という項目では37位、下から2番目だったというのです。

 生きている環境は病気の不安から守られていて、とてつもなく恵まれている環境なのに、子どもたちは精神的に追い詰められているということが、ここから分かるということなのです。これは、この国が子どもの心に大切なものを与えていないということの現れです。ちょっと考えさせられる結果でした。

 このレポートには他にも「スキル」という項目もあります。日本の子どもはどんなに追い詰められて勉強しているのかと思ったら、スキルは27位です。下から数えた方が早いのです。この「スキル」というのは「読解力や数学分野の学力、社会的スキル」というものを見ているということなのですが、日本の子どもたちは先進国の中でスキルは大して高くない。となると、一体何で子どもたちはそんなに追い詰められているのかという大きな疑問が浮かんできます。家族の中での子どもの姿や、学校でのいじめの問題などもその背景にはあるのかもしれません。医療など健康を支える環境は世界で一番といえるようなところにいながら、心は荒んでいるのが、日本の子どもたちを取り巻く状況なのだというのです。多くの親たちが、何とかスキルを身につけさせたいと思って一所懸命なのに、それほど結果は出ていなくて、反対に子どもたちはどんどん傷ついて耐えながら生きているというのです。

 それは、ここで逃走中のヤコブの状況と似ているのかもしれません。何かに追われるように生きているのに、先を見据えることができない、そんな不安を抱えて生きているのです。一体、何が足りないというのでしょうか。どうしたら、このような状況から抜け出すことができるのでしょうか。 (続きを読む…)

2020 年 8 月 30 日

・説教 創世記27章46節-28章9節「全能の神の祝福」

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2020.08.30

鴨下 直樹

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 聖書には時々、矛盾するようなことが書かれていて、これをどう理解したら良いのか、わからなくなってしまうような箇所があります。そして、聖書の解説を見ても、そのところはよく分からないということは少なくありません。

 今日は、久しぶりに創世記のヤコブの物語の続きの部分です。少し時間がたっているせいで、もう前回の内容を忘れている方があるかもしれませんので、簡単に前回の箇所を振り返ってみたいと思います。 

 27章の後半で、ヤコブはイサクからの祝福を受けるために、父イサクをだまし、兄エサウを出し抜いて祝福を受け取ります。そして、だまされた兄エサウはヤコブを殺そうと決意します。ところが、そのことに気づいた母のリベカは、ヤコブにここから逃げて、ハランに住んでいるリベカの兄のラバンのところに逃げるようにアドバイスしたのです。

 そして、それに続く個所が今日の箇所です。それが28章で、ヤコブがラバンのところに行く理由が記されています。それが、27章の最後の46節に記されている兄エサウの妻のふるまいです。リベカはエサウの妻のヒッタイト人のために嫌気がさしていて、そのことがきっかけとなって、妻をさがすためにラバンの所に行くようにと書かれているのです。今日のところでは、父イサクは落ち着いてヤコブを祝福し、ラバンの所に妻を探しに行くようにということが記されているわけです。

 27章では、ヤコブはエサウから逃れるために家族から離れてハランのラバンのところに行くことにしているのに、28章では、良い結婚相手を探すために、ラバンの所に行ったという話が書かれているのです。ここには、二種類の別の内容が記されているのです。一体どっちの話が正しい話なのかと考えてしまいます。

 はっきりしていることは、ヤコブが家族のもとを離れた理由について、二つの理由が考えられていたということです。一つは、エサウを恐れて逃げたという理解です。そして、もう一つの理解は、エサウのような結婚をしないように叔父であるラバンのところに行ったということです。

 けれども、聖書の後の時代になりますと、例えばホセア書12章12節にこう書かれています。「ヤコブはアラムの地に逃げて行き、イスラエルは妻を迎えるために働いた。妻を迎えるために羊の番をした」と。ここではヤコブのことが、後の名前であるイスラエルとなっていますが、この時のヤコブのとった行動は、後の時代にヤコブはラバンのところに逃げていったという理解の方が浸透していることは間違いないことのようです。ただ、今日の聖書箇所が伝えたいのは、もう一つの理由があって、それは結婚のためであったということなのでしょう。

 いずれにしても、ここに記されているヤコブの物語はとても暗い物語です。ヤコブは父イサクと母リベカから離れて生活しなければならないのです。そして、父と母から見ても愛する息子と別れなければならないのです。確かに、今日の箇所では、ここを去る理由は結婚相手を探すためですから、ネガティブな理由だけではないということを語ろうとしているとは言えますが、この時の別れで、結局イサクもリベカも、もうヤコブと再会することはできなくなってしまうのです。

 さきほどのホセア書にもあるように、私たちはこの後にヤコブがイスラエルと名前が変えられて、イスラエル民族の父となることを知っています。このイスラエルという名前は、今に至るまで、世界中で知らない人がいないほどの名前となりました。それほどまでに、神に愛され、祝福を受けたのです。

 けれども、私たちがこの箇所から知るのは、そのような神の祝福を受けたヤコブであっても、その人生には大きな悲しみが存在したのだという事実です。

 家族がバラバラになってしまう、家族崩壊のような出来事がここには記されています。神の祝福というのは、絵にかいた餅のように、何の問題もないような幸せな毎日ということではないのだということが、よく分かります。

 ヤコブの生涯はまだはじまったばかりです。結論は、もうすでにはじめから分かっているのです。ヤコブは神に祝福されるのです。イサクの物語はここまでで、ここからはヤコブの物語です。そして、このヤコブの物語は、約束の土地からの別離という出来事から始められるのです。

 確かに、ヤコブの生涯は祝福が支配しているのです。けれども、その祝福は試練が伴わない祝福ではないし、悲しみを経験しないような日々を送るという事でもありません。この後、ヤコブの物語を見ていきますが、「ヤコブは」というか、「ヤコブも」と言った方がいいかもしれませんが、試練の連続です。私たちはそのようなヤコブをこれから見ることになるのです。

 けれども、そこから見えてくるのは、ヤコブの人となりではないのです。見えてくるのは、神の配慮です。ヤコブと共に歩んでくださる主の慈しみのお姿です。 (続きを読む…)

2020 年 8 月 9 日

・説教 創世記27章30-45節「エサウの恨み」

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2020.08.09

鴨下 直樹

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 さて、今朝はイサクから祝福を与えられたヤコブの物語の続きのところです。弟ヤコブに祝福を奪われた兄エサウはその後、どうしたのかというのが、今日のところです。

 それで、前回あまり丁寧に考えることができなかったので、そもそもイサクが与えた祝福の内容に、もう一度注目してみたいと思います。

27節から29節です。

ヤコブは近づいて、彼に口づけした。イサクはヤコブの衣の香りを嗅ぎ、彼を祝福して言った。
「ああ、わが子の香り。
主が祝福された野の香りのようだ。
神がおまえに
天の露と地の肥沃、
豊かな穀物と新しいぶどう酒を与えてくださるように。
諸国の民がおまえに仕え、もろもろの国民がおまえを伏し拝むように。
おまえは兄弟たちの主となり、
おまえの母の子がおまえを伏し拝むように。
おまえを呪う者がのろわれ、
おまえを祝福する者が祝福されるように。」

 内容は、三つのことが言われています。第一は、豊かな収穫の約束です。第二は、近隣諸国との平和な関係の構築です。そして、三番目に書かれているのは、家族内での尊敬と平安と言っていいと思います。そして、この三つの祝福の内容は、こう言い換えることができると思います。仕事の成功、社会との平和な関係、そして、家庭内の平和です。

 弟ヤコブにこのような祝福が与えられたということは、同時に、兄エサウはこれらのことを失ったことになります。

 考えていただきたいのですが、仕事がうまく行かず、社会との関わりが薄く、あるいは悪くて、家庭内でも争いばかりあるとしたら、人はどこに生きがいを見出すことができるでしょう。実に、神の祝福というのは、私たちが生きていくうえで必要不可欠なものであるということが、ここからもよく分かると思います。

 仕事がうまく行かない、それはヤコブのせい。対社会とよい関係が築けない、それもヤコブのせい。家庭内でいざこざがある、それもこれも、みんな弟ヤコブのせいと、常に恨みを抱かなくてはならない生活というのは、とても悲しいものですし、苦しいものです。いや、ヤコブだけではない、祝福をうっかり渡してしまった父イサクを責めたくなる気持ちにもなるでしょうし、弟をかばいだてする母リベカに憎しみを抱くということもあると思うのです。

 あるいは、その後の人生で何度も何度も、なぜ自分はあの時長子の権利を弟にレンズ豆の煮物で譲り渡してしまったのかとか、母親を疑うべきだったかとか、自分を責めたくなることもあったでしょうか。

 あるいは、いや、それもこれも、そもそも神が悪いのだと神に対する敵対的な感情をもつこともあったかもしれません。

 このような反応は、私たちが何か思いがけない出来事に見舞われるときにしてしまいがちな三種類の反応です。他者を責めるのを他罰的思考と言います。自分を責めるのを自罰的思考といいます。そして、いやそもそも誰かが悪いのではなく、このシステムが悪いとか、神が悪いと考えるのを無罰的思考と言います。

 もちろん、これはどれが正しくて、どれが間違いと安易に言うことはできないと思いますが、自分にはどういう傾向があるか知っておくことで、その対処の仕方も、また見えてくるものでもあります。
 このエサウの場合はどうも、他罰的な傾向があると言っていいと思います。

 さて、少し聖書に戻って考えてみたいと思います。 (続きを読む…)

2020 年 8 月 2 日

・説教 創世記27章1-29節「ヤコブの祝福」

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2020.08.02

鴨下 直樹

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 今日の聖書の物語を私たちはどのように聞いたらよいのでしょうか。母と子どもが結託して、年老いて目の見えなくなった父イサクの祝福をだまし取ろうというのです。そもそも、そんな嘘にまみれた祝福に、どんな意味があるのか。そんな気持ちにさえなります。

 私の手元にある聖書注解を見ても、皆それぞれに違う解釈を記しています。それだけこの出来事を正しく理解するのは難解なのだということがよく分かります。ある注解者はここのリベカの考察から、そもそも、女性というのはと、女性批判を始めている人もいるほどです。読んでいて、この文章を書く前に夫婦喧嘩でもしたのだろうかとさえ思えてくるようなものまであるのです。

 ここで、私はあまり難しい議論の紹介をすることに意味はないと思いますので、要点だけお話ししたいと思います。

 この物語を聞いて、私たちはイサクが兄エサウを祝福しようとしていることをまず知ります。そして、兄であるエサウは、父の願いをかなえるために野に出かけます。それを陰でイサクの妻リベカが聞いていて、弟のヤコブにそのことを伝えます。そして、リベカは夫イサクを欺いて、ヤコブが祝福を受け取れるようにする計画を伝えます。ヤコブはこれを聞いてはじめ、尻込みしますが、結果的にはイサクを見事にだまして、祝福の祈りをしてもらったという出来事がここに記されています。

 けれども、よくよく注意深く読んでみますと、いろいろな腑に落ちない出来事がここで行われていることに気づくのです。

 さて、この箇所を正しく理解するカギは、リベカがこの双子の子ども、エサウとヤコブを身ごもった時にまでさかのぼります。
25章の22節と23節にこう書かれています。

子どもたちが彼女の腹の中でぶつかり合うようになったので、彼女は「こんなことでは、いったいどうなるのでしょう、私は」と言った。そして、主のみこころを求めに出て行った。

すると主は彼女に言われた。
「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから別れ出る。一つの国民は、もう一つの国民より強く、兄が弟に仕える。」

 ここで、リベカは生まれてくる双子のことを主に聞いた時、「兄が弟に仕える」という言葉を聞いていました。問題は、このことをイサクは知っていたのか、知らなかったのかということです。あるいは、どの程度このことを心に留めていたかということが問題になります。
 
 リベカは当然、イサクにこのことを話していただろうと考えることはできると思います。ただ、もしそうだとすると、イサクは主の心が弟を祝福する計画であることを知っていたのに、自分の気持ちを押し通して、兄を祝福しようとしたということになります。もし、そうだとすると、リベカに向けられた非難の目は、イサクに向けられることになります。

 では、もう一人の被害者であるはずのエサウはどうでしょう。エサウは長子の権利をあのレンズ豆の煮物で弟ヤコブに明け渡していたのに、そのことをイサクに告げないで、父から祝福の知らせを聞いた時に、そのことを弟のヤコブに知らせず、こっそり野に出かけて獲物を捕まえて来て、祝福を自分のものにしようとしたことになります。

 つまり、ここに出てくる4人の人物には、それぞれのやましさが満ち溢れていることになるのです。ですから、これは決して美しい物語であるということはできません。

 しかし、もしイサクが、神が弟を祝福しようとしておられる計画をリベカから聞かされていないのだとすると、この出来事はどういうことになるのでしょう。

 リベカは夫の計画を耳にします。父イサクは兄のエサウを祝福しようとしているのです。けれども、リベカは子どもが生まれる前から、主の計画を聞かされているのです。イサクの思いを尊重するのか、神の思いを尊重するのかという決断を、一瞬でしなければなりません。そしてリベカは、後者を選び取りました。

 ただ、これも、今日の箇所だけを読むならそれすらわからないのです。今日のこの27章に書かれている情報だけ読めば、リベカは自分の好きな息子に祝福が与えられるために、この計画を実行したことになります。けれども、このリベカはヤコブを愛していたということも、実は、このリベカが主の言葉を聞いた後の、25章の28節に記されているわけですから、その部分だけを切り抜いて、リベカは自分の好みの息子に祝福を受けさせるために、この計画を実行したと理解するのは、聖書からリベカに対する悪意しか読み取っていないことになります。聖書が伝えたいのは、そういうことではないはずなのです。

 リベカは、子どもが生まれる前に、主に祈って伺いを立てたのです。そして、その結論として、神の計画である弟を祝福しようとしているとの神の言葉を、大事に受け止めたと考えるのが、一番自然なことです。 (続きを読む…)

2020 年 7 月 26 日

・説教 創世記26章17-25節「いのちを支える神」

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2020.07.26

鴨下 直樹

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※今週からライブ配信の時間およびアカウント(ライブチャンネル)が変更になっております。ご注意ください。


 
 創世記26章は、イサクの生涯の物語が短く記されています。そして、今日の箇所は前回の箇所の続きの部分です。

 前回、あまり注意深く話しませんでしたが、12節にこのように書かれています。

イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。主は彼を祝福された。

 「イサクはその地に種を蒔いた」のです。飢饉の時です。しかも、父アブラハムは遊牧民でしたから、農夫のようなことはしていませんでした。飢饉のときに、ペリシテの地に主に命じられるまま滞在して、そこで、それまでの羊や牛を飼う、酪農の仕事に加えて、種を蒔いて、農業までやりはじめたと書かれているのです。

 これは、イサクの生きることへの逞しさが描かれていると言えます。そして、これが、イサクなのです。父と同じではないということです。

 立派な父を持つ子どもというのは、父の背中を追い続けているだけではなくて、そこに自分なりの挑戦もする。聖書というのは、そのことを、特別なドラマのようなナレーションは入れていませんが、しっかりと書き記しています。そして、こういう発見をすることが、聖書を読む、面白さでもあります。

 そして、12節の続きの部分では「百倍の収穫を見た。主は彼を祝福された。」と書かれています。イサクは、イサクなりの生き方をして、神の祝福を経験するのです。ここに、主がイサクの生き方を喜んで受け入れておられる姿を見ることができます。

 しかし、聖書はそのような、イサクの成功だけを描いているのではなくて、そんな中でイサクが経験したことにも目を向けています。

 14節と15節にはこう書かれています。

彼が羊の群れや牛の群れ、それに多くのしもべを持つようになったので、ペリシテ人は彼をねたんだ。それでペリシテ人は、イサクの父アブラハムの時代に父のしもべたちが掘った井戸を、すべてふさいで土で満たした。

 ここに、「ペリシテ人は彼をねたんだ」と書かれています。主の祝福は、すべてのことがうまく行くようになったということではなかったようです。確かに、収入の面では目を見張る成果があったのです。しかし、生活のしやすさという視点でみると、イサクは決して、その地で生活しやすかったということではなかったようです。

 というのは、その周りに生活している人々は、神の思いとは関係なく生きているからです。人は、それぞれに意志があります。イサクの周りの人々は、イサクのことを喜んで受け入れてくれるという可能性もあったのでしょうが、実際にはそうはなりませんでした。目の前で成功している人を見ると、どうしても自分と比較するという心が、人の心の中には存在します。そして、そんな中で、人の醜さが出てきてしまうのです。

 問題は、そうなった時にどうするかということです。いろいろな考え方があると思います。徹底的に戦って、自分の意志を貫くということもできたでしょう。あるいは、別の形で仕返しをするという選択もあります。お金を渡して、解決するという方法もあります。

 イサクはそこでどうしたのか、それが、今日の17節からのところです。

「イサクはそこを去り、ゲラルの谷間に天幕を張って、そこに住んだ。」と17節にあります。このイサクの選択をみなさんがどう思われるか、そこにも、みなさんの考え方が反映すると思いますが、イサクは嫌がらせされている土地を去るという選択をしました。そこにイサクの意外性が描かれていると私は思うのです。

 しかもです。移動した場所で井戸を掘りあてると、またそこにゲラルの人があらわれて、「この水はわれわれのものだ」と言って、争いが起こったと書かれています。そして、どうも、読んでみると、そんなことが二度もあったようで、三度目にようやく、争いもなく、井戸を使うことができるようになったようです。

 この腰の低さと言いましょうか。争わない姿勢が、イサクの選んだ決断だったのです。弱腰と言う事もできるのかもしれません。もっと勇ましい選択もあり得たと思います。しかし、イサクのこの選択は、自分たちのことだけを考えるという考え方ではなくて、自分たちが掘り当てた井戸を、すぐにゆずることができるゆとりを持っていたということです。そして、このイサクの在り方こそ、神の望まれる考え方だったのではないかと思うのです。 (続きを読む…)

2020 年 7 月 19 日

・説教 創世記26章1-16節「二つの試練」

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2020.07.19

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 突然ですが、もしみなさんがあまり会いたくない人にこれから会わないといけない時、どうするでしょうか。苦手な仕事の取引相手、義理の両親とか、あるいは、仕事の同僚や、近所づきあいの中とか、私たちが生活していくうえで、そういう出会いを避けて通ることはできません。

 出たとこ勝負で、不安を抱えたままその日、家を出るという人は少ない気がします。あるいは、家を出かける前にお祈りをして出かけるという方もあるかもしれません。あるいは、これは色んな人と話していると時々耳にするのですが、相手の人の出方を想定しておいて、様々な対処法を考えておいてから出かけるという方もあるようです。備えあれば憂いなしということです。場合によっては、もう前の日から気持ちが沈んでしまって、あれこれ考えて、仕事も手につかなくなるという人もあるかもしれません。

 このような、「心配の先取り」というのは、まだ起こってもいないことを先にイメージして、気分まで落ち込んでしまうというのですから、あまり賢い選択ではない気がするのですが、不安になってしまう気持ちというのは、どうしようもないのかもしれません。

 今日から、また創世記に戻ります。今日のところは、アブラハムの息子であるイサクの物語です。そして、そのイサクもまた、父アブラハムと同じようなことを経験したことが記されている箇所です。

 残念なことですけれども、アブラハムの信仰は、そのまま息子イサクの信仰になるわけではありません。そういう意味で、信仰の継承ということが、いかに難しいことなのかということをここからも考えさせられます。

 親の信仰がいくら優れていたとしても、あるいは親が経験したことだといっても、それはその子どもには直接的には何の関係もないことです。ですから、父アブラハムが経験したことを、息子イサクもまた、同じように経験しなければならなかったわけです。

 「他人のふんどしで相撲をとることはできない」のです。親の信仰は親のもの、自分の信仰は自分のもの、その意味で言えば、クリスチャンの場合、親の七光りというものは存在しないのです。少なくとも神の御前では、です。

 ここで、イサクは父親同様に、飢饉を経験します。父アブラハムはその時、エジプトに逃げて、難を逃れようとしました。そして、彼はその地で美しい妻のために自分が殺されるかもしれないとの危険を覚えて、妻のことを妹であると吹聴して、難を逃れようとした出来事がしるされていました。それと、同じことを、イサクはここで問われているのです。
 さて、ところが、その時に、主はイサクに語り掛けられました。

2節から5節です。

主はイサクに現れて言われた。「エジプトへは下ってはならない。私があなたに告げる地に住みなさい。あなたはこの地に寄留しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福する。あなたとあなたの子孫に、わたしがこれらの国々をすべて与える。こうしてわたしは、あなたの父アブラハムに誓った誓いを果たす。そしてわたしは、あなたの子孫を空の星のように増し加え、あなたの子孫に、これらの国々をみな与える。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。これは、アブラハムがわたしの声に聞き従い、わたしの命令と掟とおしえを守って、わたしへの務めを果たしたからである。」

 主なる神は、イサクにこの土地、つまりその時いたペリシテの地に留まるようにイサクに語り掛けられました。エジプトに行ってはいけないというのです。そして、アブラハムと約束された子孫繁栄の約束をここでイサクにも約束してくださったのです。

 このように、イサクはその人生の試練の時に、すぐに神からの約束の言葉をいただいたのでした。あとは、その約束に従うか、自分で判断するかの選択を委ねられているわけです。 (続きを読む…)

2020 年 5 月 24 日

・説教 創世記25章27-34節「何に価値を見出すか」

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2020.05.24

鴨下 直樹

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 ドイツにいた時のことです。最後の半年間私はある町の教会でインターンとしての実習を受けることになりました。その教会の牧師は日本でも宣教師として働いたことのあるクノッペル先生の教会です。当時、まだ青年だった私はこのクノッペル先生ととても仲がよくて、良い時間を過ごしていましたので、このインターンの期間はとてもよい実習の時となりました。

 この牧師の書斎の机の上にいつもひとつの石ころが置いてありました。遠くから見ているだけでは特に変わった石には見えません。ごつごつした黒っぽい石です。私自身は、石ころにとてもロマンを感じます。これは、どこにあった石なのか、どんな歴史を経て来たのか、何万年前からあるのか、そんな想像力を掻き立てられます。あるとき、私がクノッペル先生に、この石はなんですかと質問してみました。すると、クノッペル先生は顔を輝かせて、まるでその質問を私がするのを待っていたとばかりに、その石について語り始めました。最初に見せてくれたのは、その石の後ろにライトを当てて、よく見るように言われました。すると、なんとその石の後ろに置かれた光を通して見てみると、その石の中に水が溜まっているのが見えるのです。そして、この石の中の水はいつからここに閉じ込められていて、何万年前の水かと想像するとわくわくするという話を聞かせてくれたのです。

 何となく、この人は私と同じタイプの人間なんだと共感できた一瞬でした。もちろん、何の興味もない人からすれば、それはただの石ころでしかないのですが、ちょっと関心を向けると、そこにはとてつもないドラマがあることが分かります。一見、何の変哲もない石に見えても、そこに秘められたドラマに価値を見出すこともできるわけです。

 今日の聖書は、エサウとヤコブの兄弟のある一日の出来事が記されています。読みようによっては、何の意味も感じられないような出来事なのかもしれません。弟が作っていたレンズ豆の煮物を、兄が食べたいと言った時の小さな会話。それだけのことです。けれども、小さな出来事の中に、聖書は実に大きなテーマを取り扱おうとしています。
 それは神の選びと委棄の物語です。「委棄」(いき)という言葉はあまり普段使わない言葉です。委ねられたものを放棄するということです。つまり、この場合、長男としての権利を、エサウは放棄したということです。

 私は五人兄弟の二番目で、長男です。上に姉がおり、下に、弟が二人と、妹が一人います。子どもの頃、まだ小学生の頃のことです。弟は、この話が気に入ったのか、時々神様は弟を祝福するというテーマの話を私にしていました。私は弟になったことがありませんでしたので、兄の持つ価値ということに、あまり興味がありませんでした。もっとも、姉はそうではなかったようで、兄弟げんかがはじまると、その責任を問われるのはいつも姉でしたからずいぶん悩んだのだと思います。そう意味では、私は気楽な二番目の長男だったわけです。けれども、たとえば、おやつを兄弟と分けるというような場合になれば、長男の権利を発動して、大きなものを取ることができましたので、長男のありがたみをそれなりに満喫していたのだと思います。けれども、弟からしてみれば、いつもいい方を兄である私がかっさらって行くわけですから、面白くなかったのでしょう。そんなこともあって、この聖書の物語にことさらに興味を覚えたのかもしれません。

 あるとき、ヤコブがレンズ豆を煮ていると、兄のエサウが疲れて帰ってきます。何日も狩りに出かけてへとへとになって帰って来た。そんなことだったのかもしれません。そして、兄はちょうど料理をしていた弟に、その豆の煮物を欲しいと頼むのです。それは何でもない日常の一コマの出来事です。「いいよ」と言って差し出せばそれで済む話です。ですが、ヤコブはその時にこう言います。

「今すぐ私に、あなたの長子の権利を売ってください」

31節です。 (続きを読む…)

2020 年 5 月 17 日

・説教 創世記25章19-26節「イサクとリベカの祈り」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 08:53

2020.05.17

鴨下 直樹

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午前9時よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。

 
 先週の15日、新型コロナウィルス感染拡大防止のための緊急事態宣言の解除が出されました。この岐阜県でも段階的に解除していくという指針がだされています。本当に長い期間に感じられましたが、少しずつ本来の生活を取り戻していくことができるようになればと願っています。

 特に、教会に集って礼拝ができなくなるなどということは、これまでの歴史のなかでもそれほどないことです。ですから、多くの方がまた一緒に礼拝ができる日が来るようにと祈ってこられたと思うのです。

 さて、今日のテーマは「祈り」です。イサクが祈り、またリベカも祈っています。私たちもまた祈ります。このような事態から一日も早く回復できるようにと祈ります。祈りには色々ありますが、ここに記されている祈りは、願い求めの祈りです。
 私たちはお祈りをするという時に、そのほとんどが、この願い求めの祈りだと思います。神様に願い事をする。願い求めの祈りをする。それはごく日常のことです。車に乗るとき、運転が守られるように祈る。仕事に出かける時、玄関先で短く、今日の一日の守りを祈る。家族の健康が支えられるように祈り、あるいは、他の人の病気がいやされるように祈る。私たちの祈りの生活の多くが、そのような願い求めの祈りです。そして、時折、私たちにはどうしても祈りをかなえてほしい願いがでてくることがあります。

 時々、お話しすることですけれども、私が中学3年生の時、毎日窓を開けて、天を見上げながらある祈りをしました。それは、私はあまりにも勉強をしていなくて、入学できそうな公立の高校がありませんでした。先生からも私立の受験をすすめられていましたが、我が家にはそんな経済的な余裕がありません。それで、私は一念発起しまして、その日から、毎日祈りました。「神様、どうか私の頭がよくなるようにしてください。あなたはソロモンに知恵を与えられました。私にもできるはずです。」とかなんとか言う祈りです。毎日、毎日、勉強もしないで、祈り続けました。結果、頭は全然よくなりませんでした。幸いに、何とか県下の工業高校に当時は最高の2.6倍という倍率を乗り越えて、公立ぎりぎりの高校に入ることが出来たのは、神様の憐れみだったのだと思います。なんでそんなに倍率が高かったのかよく分かりませんけれども、たぶん、そこが公立の一番下のラインという事で、受験する人が殺到したのだと思います。

 みなさんにはこんな経験があるでしょうか。私たちが祈るとき、時としてとてもわがままな祈りになってしまうことがある気がします。

 ですが、少し考えてみる必要があると思うのです。たとえば、みなさんが相手は誰でもいいのですが、誰かから、顔を合わせるたびに、「ねぇ、お願い、お願い」と願い事ばかりを頼まれたらどうでしょう。ちょっとうっとうしく感じるのではないでしょうか。そういう人と少し距離を取りたいと思うのではないでしょうか。

 よく、デパートに買い物に出かけますと、小さな子どもがおもちゃ売り場の前で泣いていて、母親が腕をひっぱったり、あるいは子どもを無視したりしている光景を目にすることがあります。私はあの光景を見るのは嫌いではありません。がんばっている親の姿を見て、どこか応援したくなる気持ちがあります。みんなそういうことを通して、願うものは何でも手に入れられるわけではないのだという事を、体験的に学んでいくわけです。

 ところがです。不思議なこともあるものですけれども、こと神様にお願いをするときに、私たちは時折この子どものような祈りをしてしまうことがあるのも事実です。祈ったものが与えられないと、へそを曲げたり、腹を立てたりします。でも、よく考える必要があるのです。親は、自分の子どもにでさえ、すべてのものが手に入れられるわけではないことを教えるのに、神さまは全部何でもいうことを聞いてくれると考えるのは身勝手なことなのだ、ということがそこで明らかにされている。それ以外の何物でもないのではないか。そんなことに気づくことが必要なのだと思うのです。

 さて、今日のところからイサクの物語に移っていきます。そして、聖書はここでイサクを描くのにあたって、まずこう書いています。21節です。

イサクは自分の妻のために主に祈った。彼女が不妊の女だったからである。

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