2021 年 3 月 28 日

・説教 詩篇119篇81-96節「みことばを慕い求めて」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 06:24

2021.03.28

鴨下 直樹

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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 

 今週から受難週に入ります。金曜日には受難日を迎えます。今、詩篇119篇のみことばを順に聞き続けていますが、今週はまさに受難週にふさわしい箇所といえるみことばが私たちには与えられています。

冒頭の二節にこう記されています。81節と82節です。

私のたましいは あなたの救いを慕って
絶え入るばかりです。
私はあなたのみことばを待ち望んでいます。
私の目は あなたのみことばを慕って
絶え入るばかりです。
私は言います。
「いつあなたは私を慰めてくださるのですか」 と。

 同じような言葉が二回繰り返されていますが、少し内容が違っています。そして、その違っているところに目を留めると、この祈り手の背後にあるものが見えるようになってきます。

 祈り手は、魂から、その存在の奥底から主の救いを求めています。そして、その救いを求めると言っている言葉を、その後で、「あなたのみことばを待ち望んでいます」と言い換えています。

 つまり、救いが自分にもたらされるというのは、みことばのことだと言っているわけです。続いて記されているところに目を向けると、「私のたましい」と最初の81節にあったのが、「私の目」と言い換えていることに気が付きます。私の目がみことばを慕っているのです。

 つまり、祈り手は、みことばを目にすることができないような状況に、長い間置かれているということが分かるのです。聖書がない。みことばを目にすることができない。そういうみことばに対する飢え渇きを、祈り手は覚えているのです。

 礼拝で手話通訳をしてくださっていました、K兄が年末に脳溢血で倒れて、今も病院で入院生活が続いています。それは、本当に寂しいことです。今、必死にリハビリを励んでおられます。

 もう、一月ほど前でしょうか。妻のLINEにK兄から短い文章が届きました。そのメッセージに「みことば」と書かれていました。
 まだ、なかなか自由がきかない手で、必死に送った文章です。みことばが欲しいということなのでしょう。それから、教会のみなさんも、K兄にいろんなみことばを送ってくださっているようで、本当に嬉しい思いがしています。しかし、特にK兄がまさにみことばを慕い求めている姿に、感動を覚えるのです。

 もう入院されて三カ月たつのですが、オンラインの礼拝もできていないかもしれないと思いまして、先週から礼拝説教の原稿を送るようにしました。そうしたら、「よぶきもほしい」という返信が来ました。全部ひらがなです。

 先週、予定でヨブ記の話をするのを知っていて、その原稿も送ってほしいと言われたのです。残念ながら、先週はヨブ記をすることができなかったので、ヨブ記の原稿を送っていないのですが、本当にみことばを慕い求めているのだということが伝わってきます。みことばが、困難な生活の中で、心の支えになるということをK兄は知っているのです。

 この詩篇の祈り手はバビロンにいるのでしょうか。神殿もない、みことばもない、自分たちに残されているのはユダヤ人であることを示す割礼だけというような状況にあって、みことばに対する飢え渇きを覚えているのです。
 そして、「いつあなたは私を慰めてくださるのですか」と主に訴えているのです。いつ、みことばが聞けるのですかという訴えです。 (続きを読む…)

2021 年 3 月 21 日

・説教 詩篇119篇65-80節「苦しみにあったことは私の幸せ」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 07:24

2021.03.21

鴨下 直樹

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 詩篇119篇の71節にこういう言葉がありました。

苦しみにあったことは 私にとって幸せでした。
それにより 私はあなたのおきてを学びました。

 苦しみの経験というのはできればしない方がいいに決まっています。しかし、この詩篇の祈り手は、「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした」と言えることを経験したのでした。苦しみによって、神のおきてを学ぶことができたのだと言っているのです。神のおきて、神のお考えを学ぶということは、それほどに重要な意味を持っているというのです。

 ただ、私たちにとって、何か悪いことが身に降りかかると、それにはどんな意味があるのだろうかと、その意味を何かしら信仰にからめて読み取ろうという気持ちというのは、私たちに少なからずあると思います。けれども、多くの場合、そこに意味を見つけ出すことはできないという事がほとんどです。すべてのことに、何か意味を見つけようとしたり、どれもこれも、神さまのせいだと考え始めると、きっと私たちは信仰の歩みをすることが困難になってしまうのではないでしょうか。

 今日の詩篇は、そのことを考えるきっかけにもなりそうな箇所だと言えるかもしれません。

先週の〈ざっくり学ぶ聖書入門〉で「エステル記」を学びました。このエステル記に記されているエステルがした経験というのは、まさに、このみ言葉に記されているような経験だったということができるのかもしれません。

 ペルシャのクセルクセス王の時代の出来事です。王妃ワシュティがクセルクセスの宴席に呼ばれたのですが、自分は見世物ではないと出席を拒みます。それでこの王妃は退けられてしまい、新しい王妃が選ばれることになります。そこで王妃に選ばれたのがエステルでした。エステルはユダヤ人でしたが、そのことを隠していました。ある時、新しく大臣に就任したハマンは、門番でエステルの育ての親であるモルデカイが自分を敬わないことに腹を立て、ユダヤ人虐殺の命令を、クセルクセス王に出させてしまいます。その命令のためにユダヤ人は、断食をして悲しみます。その時に、エステルの育ての親であるモルデカイは、エステルに、自分は王妃だから助かると考えるのではなくて、この時のために王妃に選ばれたのかもしれない。だから、王にこの計画を中止するように頼みなさいと告げます。しかし、この時代の王妃というのは、勝手に王の所に近づくことはできませんでした。許可なく近づくと、殺されてしまうこともあり得たのです。それで、ユダヤ人たちに、三日間断食して、自分のために祈ってほしいとエステルはみんなにお願いします。そして、その結果、ユダヤ人たちもエステルも助かるという経験をするのです。

苦しみにあったことは 私にとって幸せでした。
それにより 私はあなたのおきてを学びました。

 エステルは同胞のユダヤ人たちが、皆殺しにあうかもしれないという危険を経験し、自分がそれを取りやめるよう王に求めたら自分が殺されるかもしれないという危険の中で、その計画を取りやめるよう王に求めます。そういう経験が、「私にとって幸せ」とは、なかなか言えるものではありません。しかし、すべてが終わってみると、まさにそのことのゆえに神のおきてが明らかになるということがあるのです。

 ただ、多くの場合、苦しみの意味という事を考えると、そんなに簡単にはいきません。聖書の出来事になるようなことと、自分の日常のこととは同じだとは考えにくいのです。 (続きを読む…)

2021 年 3 月 14 日

・説教 詩篇119篇57-64節「主は私の受ける分」

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2021.03.14

鴨下 直樹

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 昨日のことです。私が関わっております、東海聖書神学塾から一通の郵便が届きました。なんだろうと思って、封を切って見ましたら、私の顔の載ったチラシが入っていました。びっくりして、すぐに封筒の中に戻しました。あまり見たいものではありません。

 実は、毎年4月から神学塾が、牧師のための継続教育のために、アドヴァンスコースというのをやっております。毎年、一人の講師を立てまして、ひと月に一回、4時間くらいの牧師のための講義をしてもらっているのです。実は、昨年も名古屋のある教会の先生にこの講師を頼んでいたのですが、コロナウィルスのために一年間、このアドヴァンスコースを開催することができませんでした。そして、今年こそはお願いできないかと思いまして、その先生にお願いしたのですが、断られてしまいました。

 それで、誰か新しい講師を探さなくてはならないのですが、今年もしばらくコロナが続くだろうということで、講座を設けてもおそらくあまり参加者がいないので、講師のなり手もいないわけです。それで、誰かが責任をとらなくてはならないということで、一番被害の少ない教務主任でもある私が選ばれたわけです。

 そのチラシに講師紹介を書く必要があるわけですが、私にはそこに書かれて華があるような立派な経歴は何もありません。優秀な学校を卒業したわけでもありませんし、本を書いたこともありません。せいぜい、趣味はキリスト教美術鑑賞と古書集め、あとは犬の散歩と書くのがやっとです。

 事務の方が私の紹介記事を見まして、「パッとしませんねぇ」と言いました。それでも、何か出てくるわけでもないので、「適当にチラシを作ってください」とお願いしましたら、私の写真を大きくしまして、「このくらいしかできませんでした」と言われました。

 そんなチラシです。ですから、まじまじと見るものでもなく、すぐに封筒に押し込めたわけです。

 別に、自分を卑下しているわけでもなんでもなくて、自分の過去を振り返って見まして、それなりに歩んできたと思っているのですが、他の人がそれを見て、うっとりするようなものは、何もありません。頑張って探しても、本を沢山集めていますと書くのが精いっぱいです。

 今日の詩篇の詩人も、ここで自分を振り返っています。私たちも時々そういうことがあるのではないでしょうか。自分の歩んできた道のりを振り返ってみる。そうすると、なにかパッとしなくて、がっかりするという思いになることはないでしょうか。もっとも、そうではなくて、今まで本当にさまざまな道のりを歩んでこられて、感慨深い思いになる方も皆さんの中には少なくないのかもしれません。

 今日の59節にこう書かれています。

私は 自分の道を顧みて
あなたのさとしの方へ足の向きを変えました。

 この詩篇の作者は自分の歩んできた人生の道のりを振り返っているのです。あるいは、61節にはこういう言葉もあります。

悪しき者の綱が私に巻き付いても
あなたのみおしえを 私は忘れませんでした。

 どうも、詩人は悪しき者たちの綱にまかれるような状況に置かれているのだということが、ここから分かって来ます。そこから見えてくるのは、やはり、この詩篇の背景には、バビロン捕囚のような状況があったと考えるべきだと思うのです。もちろん、バビロン捕囚といえば、ユダの地からバビロンに連れていかれた時は、綱にまかれていたかもしれませんが、バビロンの地ではかなり自由にふるまうことが許されていました。今でいう、鞭で打たれる奴隷のような状況を想像しがちですが、そこまで厳しいものではなかったようです。

 けれども、そうなってしまったのは、自分たちの歩んできた生き方に要因があるのは間違いないのです。それで、59節では、その自分の足の向きが、それまでは自分の向きたい方向を向いていたのを、その方向を、主の方へ、神の言葉を求める方へと、方向を変えたのだということを、ここで言おうとしているのです。

 そして、今の状況、綱にまかれるような状況であったとしても、主の教えを忘れるようなことはしないのだと言えるようになってきているのです。
 

 今日の詩篇の冒頭にこんな言葉があります。

は私への割り当てです。

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2021 年 3 月 7 日

・説教 詩篇119篇49-56節「悩みの時の私の慰め」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 06:58

2021.03.07

鴨下 直樹

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 『百万人の福音』というクリスチャンのための情報雑誌があります。そこで俳句のコーナーの選者をしてみえます辻恵美子さんは、皆さんもご存じですが、この芥見の教会員です。昨年、恵美子さんは、選者をされるようになって五年経ったということもあって、皆さんから投句された信仰の俳句をまとめられて、一冊の本を出されました。『合同俳句集 野の花 空の鳥』というタイトルです。とても素晴らしい句集です。この本は昨年出版されたのですが、すぐにコロナウィルスの問題が起こってしまい、なかなかこの本のことを紹介することができないまま、もう一年がたとうとしています。しかし、岐阜県の緊急事態宣言も先日解除されましたし、もういいだろうと思いまして、今日は、少しこの本のことを紹介したいと思っています。

 昨日も、「ぶどうの木句会」という句会がこの私たちの教会で行われました。この句会は毎月行われております。コロナも少し落ち着いてきましたので、今はこの集まりも再開されております。その句会でどんなことをするかといいますと、句会に集まって来る人は、その季節の俳句の季語を使った俳句を5句出します。その自分の俳句を、短冊に書きまして、一つの短冊に一句書かれているものを、人数分で分けます。そうやって配られ、自分に割り当てられた俳句を、それぞれの参加者が清記用紙という紙に書き写していきます。そうすることで、この俳句を誰が書いた俳句か筆跡を分からなくするわけです。

 一枚の清記用紙には、四句か五句の俳句が書かれているのですが、その清記用紙を、参加者に順番に回していきまして、自分が気に入った俳句を、自分の選句用紙という紙に書き写していきます。そして、その中から、出席人数によって変わるのですが、自分がいいなと思った俳句を五句とか六句と選んでいきまして、最後に発表していくのです。そして、自分が選んだ中でも一番いい俳句だと思った特選の俳句を選びます。

 こうやって、それぞれが選んだ句を司会者が読み上げる時に、その読まれた句が、自分が書いた俳句であれば、自分の俳句が読まれた人は「だれだれ」と名乗りをあげます。そこで、はじめて、その俳句を書いた人が誰か分かるようになっているのです。

 ちなみに、昨日の句会で、私が特選に選んだ俳句はこういう俳句でした。

「みちゆきの一絵一絵や春日影」

 これは辻恵美子さんの俳句でした。

 「みちゆき」というのは、先日の説教でもお話ししましたが、カトリック教会の壁に掲げられている主イエスの十字架までの道行きを描いた絵のことを指しています。おそらく、どこかのカトリックの教会を訪ねられたのでしょう。今はレントですから、まさにこのみちゆきを見ながら、主イエスの十字架の苦しみのお姿を心に刻むわけです。そうやって、一絵一絵というのは、みちゆきとして描かれた一枚一枚の絵ということですが、その絵に春の日差しが差し込んでいるというのです。

 「春日影」というのは、私も知らなかったのですが、日の光を指す季語のようです。けれども、この影という文字に私は、十字架の重さを感じました。同時に、けれども、その影は重い影を落としているのではなく、光なのだという意味だったのです。

 私は、これはいい俳句だと思いまして、この俳句を特選に選びました。わずか17文字で、これだけのことを表現できるわけです。昨日は、他の方の俳句もたくさん見たのですが、私の心がなかなか重くて、言葉が私の中に届いてこない、そんなことを感じているなかで、この俳句は私の今の心のありかたを教えてくれるような思いで、とてもいい俳句だと思ったのです。

 俳句を選ぶというのも、なかなか難しいものです。その人がその俳句で伝えたいと思っているものが、なかなか読み取れないという読み手の想像力の貧しさもあるでしょう。季語の持つ意味の深さが分かればわかるほど、その言葉を読み取る力も付くのだと思いますし、俳句を作る時にも、自在にその季語を使えるようにもなるのだと思います。

 こういう俳句が、この「野の花 空の鳥」という本の中には満ち溢れています。一句一句とても味わい深い俳句ばかりです。芥見教会の方々の俳句も何句か載っております。ぜひ、手に取って読んでいただきたい本です。もうちょっと宣伝すると、恵美子さんから買い求めることもできますが、いのちのことば社の通販用のサイトでも取り扱っておりますので、そこから注文することもできると思います。

 今日、この牧師は俳句の話からはじめて、どうしたんだろうと思われる方もあるかもしれません。今、まさにお話したように、俳句を読み取るというのは簡単なことのようでありながら、たくさんの俳句に触れれば触れただけ、想像力が働いて、深く読み取ることができるようになると思うのです。

 なぜ、こういう話から始めたかと言うと、今日の詩篇のテーマは「悩み」です。 (続きを読む…)

2021 年 2 月 28 日

・説教 詩篇119篇41-48節「王たちの前で」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 00:22

2021.02.28

鴨下 直樹

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よ あなたの恵みが私にもたらされますように。

 今日の詩篇はこのような言葉からはじまっています。

 「恵み」という言葉は、聖書の中に何度も出てくるとても大切な言葉です。この言葉のヘブル語は「ヘセド」と言います。もう、何度もこの言葉について語ってきました。「慈しみ」と訳されることの多いこの言葉ですが、この言葉の中には、神のさまざまな思いが詰まっているのです。

 旧約聖書の中に、ホセア書という預言書があります。この預言者ホセアは、主に従って姦淫の女ゴメルを妻に迎えます。二人の子どもが生まれますが、ホセアはこの妻ゴメルとの関係に悩みます。何度も何度も夫を裏切り、不貞を働くのです。ホセアはこの妻のために非常に苦しむのです。しかし、主はこのホセアにこう語ります。ホセア書3章1節です。

夫に愛されていながら姦通している女を愛しなさい。

 主は、ホセアに愛とは何かということを教えられながら、神ご自身がイスラエルの民をどのように愛しておられるのかを、妻ゴメルを愛するということを通してホセアに示そうとされました。

 そして、6章の6節にこう記されています。

わたしが喜びとするのは真実の愛。
いけにえではない。

 ここで語られている「真実の愛」と訳された言葉、この言葉が「ヘセド」です。この出来事は、今日の詩篇で恵みと訳されているヘセドという言葉の意味をよく表しています。

 カトリックの雨宮慧という聖書学者がおられます。この人は実に多くの本を書いているのですが、その雨宮慧の代表的な本で『旧約聖書のこころ』という本があります。この本は、旧約聖書を代表するさまざまな言葉の解説を丁寧にしてくれている本なのですが、この中に、ヘセドについて書いている文章があります。そこにこんなことが書かれています。

「ヘセドとは、親と子・友人同士など、人と人を結ぶきずなのことであるが、このきずなには二つの側面がある。一つは両者を結ぶ愛であり、他はその愛に対する誠実さである。」

 それぞれの関係を結ぶきずな、これがヘセドなのだと説明しています。そして、そのきずなには二つの側面があって、愛と誠実さによってあらわされるきずななのだと説明しているのです。預言者ホセアと妻ゴメルの中に生まれるきずなというのは何かというと、相手がたとえ自分を裏切ったとしても、その相手に対して誠実さで、その愛を示すのだというのです。

 ですからこのヘセドという言葉は、「慈しみとまこと」という意味だと雨宮先生は説明しています。あるいは、このホセア書に書かれているように「真実の愛」ということもできるわけです。

 また、更にはこの「ヘセド」には契約という要素が深く結びついている言葉で、ヘセドをもってする交わりのことを契約と言うのだと、雨宮先生はその本の中で説明しています。契約と言うのは約束ですから、その愛の関係は途中で途絶えることなくずっと続いていくのです。

 「主よ、あなたのヘセドがわたしにもたらされますように」これが、今日、私たちに与えられているみ言葉です。

 主の真実な愛が私にもたらされるように、主の慈しみと誠実さが、私にもたらされるように、主と私の間にあるきずなが、ちゃんと築かれていますように。そして、その言葉の後に、「あなたの救いが みことばのとおりに。」と続くのです。

 み言葉に語られているように、主のヘセドによる、慈しみによる救いが私にもたらされるようにと、ここで祈り手は願っています。神の言葉は、まさにその神との間にきずながしっかりとあって、そのきずなを結んだ関係である神の民のことを、たとえ相手が裏切るようなことがあったとしても、神は真実な愛で、私たちに救いをもたらしてくださるというのです。 (続きを読む…)

2021 年 2 月 21 日

・説教 詩篇119篇33-40節「ゴールを目指して」

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2021.02.21

鴨下 直樹

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 今朝は、予定されていた説教題を変えまして「ゴールを目指して」としました。何やら、サッカーでもしそうなタイトルですが、私たちの人生のゴールという意味で、ゴールとしました。

 ジョン・バニヤンが書いた『天路歴程』という物語があります。読んだことのある方がおられるでしょうか。クリスチャンの信仰の歩みをテーマにした旅の物語です。この物語は、滅びの町に住んでいる背中に大きな荷物を背負ったクリスチャンという名前の主人公の物語です。ある時、クリスチャンが読み物を読んでいて、いずれこの世界は天から火が降って来て滅んでしまうと知り、どうしたら救われるのかと、救いを求めて旅をする物語です。途中、エバンジェリスト(福音宣教者)という名前の人と出会い、遠くに見える光のところに小さな門があるから、そこに向かって進むように教えられます。そして、その天の都の門にたどり着くまでの旅が記されているのですが、途中でさまざまな人達と出会い、何度も道を踏み外しては危険な道を歩んでいく、そんなクリスチャンの冒険物語です。教会の図書にもありますので、是非、読んでみてほしい一冊です。

 今日の詩篇を読んでいますと、まさにこの天路歴程の物語を思い起こすような書き方がなされています。
33節と34節にこう記されています。

よ あなたのおきての道を教えてください。
そうすれば 私はそれを終わりまで守ります。
私に悟らせてください。
私があなたのみおしえから目を離さず
心を尽くしてそれを守るために。

 詩篇119篇は「道」という言葉がほとんどどの段落にも出てきます。ここでは「あなたのおきての道」という言葉が出てきます。その道はどこに続いているのか、祈り手は、その道を「終わりまで守ります」と言っています。「終わりまで」ということは、死に至る時までその道は続いているということです。自分の人生の歩みをかけて、その道を進んで行くというのです。なぜなら、その先にゴールがあると信じているからです。それが、天の都の門です。そして、そのゴールを目指して主が歩ませてくださる道が、自分の人生をかけて進んでゆくのにふさわしい道だと信じているのです。

 その道を進むために「あなたのみおしえから目を離さず」とここで言っています。この道を進む先にあるゴールを目指して進んで行くのです。

 そのゴールを目指して進むときに、目を離さずに、しっかりとゴールの方向、進むべき方向を見据えていることが大切です。

 問題は、「目を離さず」とあるのですが、私たちはすぐに目を離してしまって、どこに向かって行くのかが分からなくなってしまうことです。

 天路歴程の物語も、さまざまな登場人物が登場します。最初に出てくるのは、カタクナ氏と、イイカゲン氏です。その他にもヨワタリ氏、オキテマモル、カタチバカリ、コワガリ、シンジナイ氏など色々なユニークな名前の人物が登場してきます。こういう名前の人たちが、主人公のクリスチャンの進む道を邪魔していくのです。

 私たちの人生の進む道もそうです。セケンテイ氏だとか、ミンナヤッテル氏だとか、リュウコウさんやら、フツウさんやら、さまざまな人が私たちに声をかけて、この進むべき主の道とは違う道を示そうとしてきます。そして、その都度、私たちはそういう言葉にも一理あると思いながら、遠回りを繰り返してしまうのです。

私に悟らせてください。
私があなたのみおしえから目を離さず
心を尽くしてそれを守るために。

とありますが、これは私たちにとって切実な祈りなのではないでしょうか。

 今日の詩篇のところは、「へー」というヘブル語から始まるのですが、面白いことに、最後の40節以外のすべての節で、この「へー」という文字が入る単語から文章が始まっています。そして、そのすべての箇所はすべて命令形で記されています。

 〇〇してください、〇〇し給えというのは、お願いですけれども、文法としては命令形になるわけです。悟らせてください。み教えから目を離さないで、心からその教えを守ることができますようにという祈りです。
この祈り手は主に願い求めながらどうしても、知りたいのです。主の道を歩むことが最善であると。それが分かれば、わきのものに目を奪われることはなくなるのです。 (続きを読む…)

2021 年 2 月 14 日

・説教 詩篇119篇25-32節「真実の道」

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2021.02.14

鴨下 直樹

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 今日の詩篇は少し重い空気が立ち込めています。

25節の冒頭には

私のたましいは、ちりに打ち伏しています。

とあります。

28節

「私のたましいは、悲しみのために溶け去ります。

31節

主よ、どうか私に恥を見させないでください。

このような重たい言葉が繰り返されています。

 今、水曜日にオンラインで聖書を各巻ごとに、ざっくりとした解説をしています。先週でもう15回になりました。先週は第一歴代誌をとりあげました。第一歴代誌というのは、アダムからダビデが王として立てられるまでの神の民の歴史を取り扱っています。第二は、その後のソロモン王からイスラエル王国が崩壊して捕囚を経験するまでの流れが記されています。

 こうやって聖書をずっと学んでいきますと、見えてくるのは神の民イスラエルというのは本当に小さな存在だということです。吹けば飛ぶような弱小国です。そんな国が、神の民として支えられ、励まされ、導かれて来た姿を歴代誌から読み取ることができます。そうやって見ていきますと、そこから見えてくる神の姿というものがあります。それは神の愛とか、恵みとか、慈しみという言葉で表現されるわけですが、本当に温かいものです。

 神であられる主は、神の民である私たちの存在がどれほど小さくても、神はそこに全力の愛を傾けてくださるお方なのです。そして、その神の愛はどういう形で、その小さな民に示されているのかというと、それは神の言葉によってです。この神の言葉によって、私たちは主が真実なお方であるということを知ることができるのです。

 言葉というものを、神はご自身の思いを伝える伝達手段としてお取りになりました。

 愛の伝達手段というのは、いろいろとあると思います。花束を贈るとか、プレゼントを贈る。その人の喜ぶことをする。お手伝いをする。綺麗な景色を見せる。おいしい食べ物を一緒に食べる。一緒に楽しい時間を過ごす。挙げればきりがありませんが。さまざまな方法がある中で、神は、「言葉」をお用いになりました。

 ただ、言葉というのは、もろ刃の剣です。良かれと思ってかけた言葉が、かえって相手の心を傷つけるという苦い経験をしたり、されたりという経験は誰にでもあると思います。それを、あえて神がなさったというのは、驚くべきことです。

 聖書の神は、言葉の神です。私たちは、それぞれの意思伝達をするために、言葉を使います。例えば、今こうして横で手話通訳が行われています。手の指を使っていろいろな形をさせながら、それを言葉として思いを伝えています。声であったり、文字であったり、手話であっても、私たちは言葉を用いて、思いを相手に伝えます。そこには、日常の情報交換のような言葉から、私とあなたという個人の関係があることが前提で交わされる深い内容の言葉まで、いろんな種類の言葉があります。軽い言葉から、重たい言葉まで、言葉は伝える内容の違いで、その重要度は異なってきます。 (続きを読む…)

2021 年 2 月 7 日

・説教 詩篇119篇17-24節「旅人として」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 07:16

2021.02.07

鴨下 直樹


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 今朝は、予定していた説教題を変えまして、「旅人として」としました。年末までは「Go toトラベル」と言って、「旅行に行きましょう」ということを政府が打ち出しました。旅行に行くことで、コロナの中にあって経済を回そうという政策がとられていました。しかし、そのために感染が拡大してしまい、今は旅行どころではなくなって、反対に、「外出自粛」が叫ばれるようになっています。この岐阜市でも、この週末までとされていた外出自粛期間が来月まで延長されまして、旅行という雰囲気ではなくなっています。

 そんな中で、今日の詩篇の中にある「私は地では旅人」という言葉にどうしても目が留まります。「ああ、また旅行に行けるようになりたいなぁ」。そんな思いを持っておられる方は少なからずいると思います。

 聖書が「旅人」という言葉を使っているのを見て、そこにどんな意味があるのか、私たちはいろいろと想像します。「旅人」という言葉にはネガティブなイメージはありません。どちらかと言えば、楽しそうな、心がリフレッシュできそうな、そんなイメージを抱くと思います。

 先日の聖書の学び会でも、「旅人」というのは、どういう意味なのかという質問が出ました。他の聖書の翻訳では「寄留者」となっています。「寄留者」というのは、イスラエルの民の中に住んでいる異国人です。日本語で「外人」という言葉があります。どちらかというと、それに近いニュアンスの言葉です。

 ある解説のものを見ていましたら、このヘブル語は「ゲール」というのですが、「法的保護を必要とする『よそ者』を指す」とあって、さらには「ヤハウェの保護を必要とするはかなき者の意」と書かれていました。立場の弱い者です。そういう異国からの寄留者を、主は保護するように律法の中で戒めてきました。「この地では旅人」というのは、自分はこの地では立場の弱い、よそ者というような存在なのだと、自分のことを語っているのです。そうすると、この言葉はずいぶん違ったイメージになると思うのです。

 この詩篇119篇は最初の「アーレフ」というヘブル語のアルファベットで始まっています。最初の部分は、この詩篇の導入部分にあたります。次の「ベート」の部分は「若者への呼びかけ」となっていました。そして、今日の三番目の部分「ギーメル」で始まる部分ですが、ここからが詩篇の本論と言える内容になっています。

 この詩篇119篇は「神の言葉への愛」がテーマです。ここでいう、「神の言葉」というのは、「律法」のことを意味しています。イスラエルの人々への主が定めた法律です。

 主は、エジプトで奴隷であったイスラエルの民を救い出し、40年にわたる荒野の旅の後で、約束の地、カナンの地にイスラエルの人々を招き入れられました。こうして、主は、この世界の人々に、神の思いはどこにあるのかということを明らかにされました。そこで、語られているのが、律法です。イスラエルの人々が喜んで生きていくことができることを願って、生きていく上で大切なことを、神はこの律法の中に込められたのです。ですから、この律法の中には、主の愛と恵みが満ち溢れた内容となっています。

 どの国でもそうですが、その国の法律というのは、その国民を守るために作られます。民から搾取するためではなくて、安心して生きることが出来るようにするためです。そういう法律の、基になったのがこの神の律法と言えるわけです。

あなたのしもべに豊かに報い 私を生かし
私があなたのみことばを守るようにしてください

と17節にあります。

 み言葉を与えてくださる主は、私たちが豊かに生きることができるようにしてくださるお方なのだとここで告白しているのです。主は私たちを豊かに報いて、生かしてくださる。そのために、み言葉を大切に守って生きることができますようにと祈っているのです。

 神のみ言葉は、私たちの豊かな人生にとって必要不可欠なものなのです。

 そのために必要なことは何か。続く18節でこう言っています。

私の目を開いてください。
私が目を留めるようにしてください。
あなたのみおしえのうちにある奇しいことに。

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2021 年 1 月 31 日

・説教 詩篇119篇9-16節「清さを保つ道」

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2021.01.31

鴨下 直樹

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 みなさんは、新しい電化製品を購入した時、まず取扱説明書を丁寧に読んでから使いますか、それとも、まず使ってみて、分からないところがあれば調べるでしょうか。私は後者です。というか、ほとんど説明書を見ません。機械にトラブルがあって、エラーが出てから、仕方がなく説明書を開きます。

 少し前のことですけれども、テレビを見ていましたらコピー機を駆使していろんなことができるという番組をやっていました。2チームに分かれまして、出された色んな課題をどちらが早くクリアーできるかという番組でした。出て来た課題はどういうのかというと、紙のサイズがそれぞれ全く違う何種類かの紙を、綺麗に一つのサイズにまとめてコピーするというものでした。別の課題は、分厚い本をコピーするときに、真ん中に影が入らないようにどちらが綺麗にコピーできるか。そういった課題がいくつも出されて、順番にクリアーしていくわけです。
 そこで私は初めて知ったのですが、コピー機というのは、実にいろんな機能があるんだそうで、紙のサイズが違っても、全部紙のサイズを自動で整えてくれるとか、そういった機能もあるんだそうです。もっとも、「へー」と見ていただけですから、自分で試してみようとは思いませんでしたので、やってみたことはありません。ただ、「ああ、そういう機能があるのね」ということを知って、感心したわけです。
 取扱説明書を丁寧に読めば、せっかく高いお金を出したコピー機ですから、実にさまざまな機能を駆使して、色んな事ができる可能性が広がるのです。

 創造者であられる神は、この世界を、そして、私たち人間を創造されました。そして、神は、私たちにこの世界と私たちの取扱説明書として、聖書を与えてくださいました。ですから、聖書の中には、私たちの生活の中で起こるさまざまなトラブルやエラーの対処法があらかじめ記されているわけです。もし、記されていないとすれば大変なことです。

 今日、私たちに問いかけられているのは、こういうテーマです。

どのようにして若い人は
自分の道を 清く保つことができるでしょうか。

 「若い人」がテーマです。そう聞くと、「ああ、じゃぁ今日は私とは関係ないわ」と思わないでいただきたいのです。

 「若い人」。かつて、若かった人も、現在進行形の方もあると思います。若さというのは、力です。可能性に満ち溢れています。まだ、さまざまな限界がない状態と言えるかもしれません。臓器に負担を感じていないとか、骨に異常がないということさえ、そういう問題を抱えている人にしてみれば、うらやましく思えるのかもしれません。けれども、もう一度若い時からやり直したいですか?と質問してみるとどうでしょう。今の年齢にもよりますし、年代によっても違うかもしれませんが、想像するに、それほど多くの方が、若い時からやり直したいという思いにはならないのではないでしょうか。なぜそうなるかというと、若い時の大変さというのも分かるからです。若い時には、必ずその上に立ちはだかる人がいて、やりたくないことをやらされて、苦労してきたという経験が皆あるのではないでしょうか。 (続きを読む…)

2021 年 1 月 24 日

・説教 詩篇119篇1-8節「幸いな人」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 07:06

2021.01.24

鴨下 直樹

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Lineライブ

午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 
 今日から詩篇119篇のみ言葉を丁寧に聞いていきたいと願っています。この詩篇はアルファベットの詩篇となっていまして、アルファベットの頭文字が詩の冒頭に来るように作られています。ヘブル語のアルファベットは22あります。それが八節ずつの区切りで、全部で176節となっている非常に長い詩篇です。

 毎回、アルファベットの一つ、つまり8節ずつを取り上げていきたいと思っていますので、単純にこの詩篇のみ言葉をすべて取り扱うには22週間かかるということになります。

 今、水曜日に「ざっくり学ぶ聖書入門」という学びをオンラインで公開しています。そこでは一つの書簡を一回で取り上げていますから、同じようにすれば、一度でこの詩篇119篇を取り扱うこともできます。けれども、とても豊かな内容ですので、ぜひ、この機会に丁寧に、詩篇119篇のみ言葉の豊かさを共に味わいたいと願っています。

 詩篇119篇全体のテーマは「神の言葉への愛」と言っていいと思います。

 神の言葉、神の戒め、律法、色んな言い方ができると思いますが、この詩篇には、この神の言葉である律法のことを、実にさまざまな言葉で言い換えています。
今日の1節から8節の中にも、「道」、「みおしえ」、「さとし」、「戒め」、「仰せ」、「おきて」、「さばき」と七つの言葉で言い換えられていますが、そのすべては、神の言葉、直接的には律法のことを言い換えているのです。これが、この詩篇119篇の特徴です。

 その一つ一つの言葉の意味は、少しずつ触れていきたいと思いますが、今日特に覚えたいのは、この最初の言葉です。

幸いなことよ
全き道を行く人々
主のみおしえに歩む人々。

 この詩篇は、この冒頭の言葉が176節全体の導入になっています。この詩篇が語ろうとしているのは、詩篇冒頭の1篇の一節にも出てくる「幸いなことよ」で始まっている言葉です。直訳するとすれば「幸いな人だ」ということになります。この詩篇にかぎったことではなくて、聖書全体が人の幸いを語っていると言えます。

 こういう人は幸せ者だ! と宣言するのです。それだけ力強く言いうるのは、主は人を幸いにしてくださるお方だからです。主は、私たちに幸せになって欲しいと願っておられるのです。そのお方が私たちの主なる神なのです。

 その後にはこう記されています。「全き道を行く人々」と。この世界に完全な道などどこにあるというのでしょうか。私たちは今週、宣教40周年を迎えました。この40年の道のりは決して平坦な道のりではありませんでした。今尚、困難な道を歩み続けています。

 けれども、私たちは知っています。自分たちが歩んできた道を振り返ることを。その時、険しかったはずの道が、これが正しい道だったのだという事を後になって私たちは気づかされるのです。私たちの歩む道というのは、何度も道が途切れそうになったり、何度も横道にそれそうになったり、右や左に大きく逸れてしまうようなこともしばしばです。そして、これから歩んでいく道のりもそれは同じことです。歩行者天国のように、整えられて、危険なものが入り込まないような道を私たちは歩んで行けるわけではありません。険しい道です。きつい坂道もあるでしょう。けれども、主が私たちに備えられる道には、その道を進むための「地図とコンパス」が与えられているのです。

 それこそが、「主のみおしえ」である神の言葉がもたらすものです。 (続きを読む…)

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