・説教 詩篇119篇57-64節「主は私の受ける分」
2021.03.14
鴨下 直樹
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昨日のことです。私が関わっております、東海聖書神学塾から一通の郵便が届きました。なんだろうと思って、封を切って見ましたら、私の顔の載ったチラシが入っていました。びっくりして、すぐに封筒の中に戻しました。あまり見たいものではありません。
実は、毎年4月から神学塾が、牧師のための継続教育のために、アドヴァンスコースというのをやっております。毎年、一人の講師を立てまして、ひと月に一回、4時間くらいの牧師のための講義をしてもらっているのです。実は、昨年も名古屋のある教会の先生にこの講師を頼んでいたのですが、コロナウィルスのために一年間、このアドヴァンスコースを開催することができませんでした。そして、今年こそはお願いできないかと思いまして、その先生にお願いしたのですが、断られてしまいました。
それで、誰か新しい講師を探さなくてはならないのですが、今年もしばらくコロナが続くだろうということで、講座を設けてもおそらくあまり参加者がいないので、講師のなり手もいないわけです。それで、誰かが責任をとらなくてはならないということで、一番被害の少ない教務主任でもある私が選ばれたわけです。
そのチラシに講師紹介を書く必要があるわけですが、私にはそこに書かれて華があるような立派な経歴は何もありません。優秀な学校を卒業したわけでもありませんし、本を書いたこともありません。せいぜい、趣味はキリスト教美術鑑賞と古書集め、あとは犬の散歩と書くのがやっとです。
事務の方が私の紹介記事を見まして、「パッとしませんねぇ」と言いました。それでも、何か出てくるわけでもないので、「適当にチラシを作ってください」とお願いしましたら、私の写真を大きくしまして、「このくらいしかできませんでした」と言われました。
そんなチラシです。ですから、まじまじと見るものでもなく、すぐに封筒に押し込めたわけです。
別に、自分を卑下しているわけでもなんでもなくて、自分の過去を振り返って見まして、それなりに歩んできたと思っているのですが、他の人がそれを見て、うっとりするようなものは、何もありません。頑張って探しても、本を沢山集めていますと書くのが精いっぱいです。
今日の詩篇の詩人も、ここで自分を振り返っています。私たちも時々そういうことがあるのではないでしょうか。自分の歩んできた道のりを振り返ってみる。そうすると、なにかパッとしなくて、がっかりするという思いになることはないでしょうか。もっとも、そうではなくて、今まで本当にさまざまな道のりを歩んでこられて、感慨深い思いになる方も皆さんの中には少なくないのかもしれません。
今日の59節にこう書かれています。
私は 自分の道を顧みて
あなたのさとしの方へ足の向きを変えました。
この詩篇の作者は自分の歩んできた人生の道のりを振り返っているのです。あるいは、61節にはこういう言葉もあります。
悪しき者の綱が私に巻き付いても
あなたのみおしえを 私は忘れませんでした。
どうも、詩人は悪しき者たちの綱にまかれるような状況に置かれているのだということが、ここから分かって来ます。そこから見えてくるのは、やはり、この詩篇の背景には、バビロン捕囚のような状況があったと考えるべきだと思うのです。もちろん、バビロン捕囚といえば、ユダの地からバビロンに連れていかれた時は、綱にまかれていたかもしれませんが、バビロンの地ではかなり自由にふるまうことが許されていました。今でいう、鞭で打たれる奴隷のような状況を想像しがちですが、そこまで厳しいものではなかったようです。
けれども、そうなってしまったのは、自分たちの歩んできた生き方に要因があるのは間違いないのです。それで、59節では、その自分の足の向きが、それまでは自分の向きたい方向を向いていたのを、その方向を、主の方へ、神の言葉を求める方へと、方向を変えたのだということを、ここで言おうとしているのです。
そして、今の状況、綱にまかれるような状況であったとしても、主の教えを忘れるようなことはしないのだと言えるようになってきているのです。
今日の詩篇の冒頭にこんな言葉があります。
主は私への割り当てです。
「主は私の受ける分です。」という言葉を聞いたことがあるでしょうか? 新改訳の第二版ではそのように訳されていました。哀歌3章24節にもこの言葉はそのまま引用されていまして、新改訳第二版では「主こそ私の受ける分」となっていました。
聖書が新改訳2017に代わりまして、この「受ける分」という言葉が「割り当て」と訳されるようになりました。聞きなれた言葉が変わってしまうのは残念なことですが、こうすることで、この言葉の意味するところが明確になってきます。
イスラエルの民は、それぞれ12部族に「割り当て地」というのがありました。しかし、バビロン捕囚のような状況というのは、捕囚ですから、何にもなくなってしまったわけです。先祖から受け継いだ土地、財産がない。けれども、今日の詩篇ではそんな割り当て地はなくても、主ご自身が私への割り当てですと、告白することができる信仰者に変えられているのです。
カナンの地、イスラエルというのは、この近隣は荒野ばかりの土地です。そのような地にあって、緑豊かな肥沃な大地は、イスラエル人の誇りであったはずです。各部族に割り当てられた先祖伝来の土地もそうでしょう。土地を失わないで、守り続けるということが、神の祝福の見える形だったはずなのです。
けれども、それらをすべて失った時に、自分自身に問うのは、「私は何をこれまでやって来たのか?」ということだったはずなのです。あるいは「私たちは、何をして来たのか」、「我が民はどう歩んできたのか」そういうことを考えたはずなのです。
その時に見えてくるのは、神の御言葉に従ってきた時に神から与えられた確かに祝福されてきた先祖たちの姿と、それを放棄した時に自分たちに架された、今抱えているこの現状との差です。そうであれば、どうあるべきだったかは一目瞭然だったはずなのです。
ただ、この「主は私の受ける分です」という言葉はどこから出てきたかと言いますと、イスラエルがエジプトでの奴隷から脱してカナンの地にやって来た時に、主は主のために働くアロンに言われた言葉が民数記18章20節にあります。そこではこう言われています。
主はまたアロンに言われた。「あなたは彼らの地で相続地を持ってはならない。彼らのうちに何の割り当て地も所有してはならない。イスラエルの子らの中にあって、わたしがあなたへの割り当てであり、あなたへのゆずりである。」
祈り手は、この民数記の言葉を思い起こしていたのかもしれません。アロンはじめレビ人という主の働きをする者には、もともと割り当て地は与えられていませんでした。彼らに、主はわたしがあなたへの割り当てであると言われたのです。それはどういう意味かというと、主があなたがたの生活の面倒をすべて見るから大丈夫だということなのです。
この詩篇119篇の祈り手は、バビロン捕囚のような状況に身を置いていたのではないかと考えられるわけですが、そういう状況の中で、この民数記の言葉を思い起こした。そして、まさにこのような言葉を語りかけてくださる主を思い起こしたのです。
自分の人生を顧みたときに、自分の中にある確かさはなにかと考えれば、自分がしてきた華々しい業績の数々、自分が手に入れた財産というのではなくて、かえってすべてを失うような経験だったわけです。けれども、それでも自分が生きて居られる。望みを持って生き続けることができるのは、このような言葉をもって語りかけてくださる主と出会ったということなのです。
この祈り手は、幸いにも主の言葉の確かさと出会うことが出来ました。だから、足の向きを変えることができたのです。進む方向を、自分の進む道ではなく、主が歩ませられる方向に委ねることを覚えたのです。
「主は私への割り当て」、私には、主が与えられている。今土地を失っていても、今置かれている状況としては最善と言えなかったとしても、「主は私の受ける分です」と告白する幸いを、この祈り手は経験したのです。
何もなくても、主がおられる。私は主と出会った。主を知っている。そして、この主に自分は覚えられている。その確かさを、この詩人はこのような言葉で表明したのです。
アッシジの修道士フランチェスコの祈りで「わが神、我がすべてよ」という祈りがあります。私は、この詩篇119篇の57節にある「主は私への割り当てです」あるいは「主は私の受ける分」という祈りは、このフランチェスコの祈りと同じことを祈っていると言えると思います。
主がすべてなのです。主が私に与えられている。このことが本当に分かるということは、私たちの信仰を成長させると思います。この祈り、「主は私への割り当てです」という祈りの中に、私たちが求めるべきものも、私たちに与えられているもの、私たちに約束されているすべてのものが集約されているのです。
人がうらやむようなパッとするようなものが無くても、履歴書に大したことを書けなくたって、何の問題でもないのです。「わたしがあなたへの割り当てであり、あなたへのゆずりである」と主ご自身が語りかけてくださるのです。
この部分の最後の64節にはこうあります。
主よ 地はあなたの恵みに満ちています。
この世界にあるあらゆるものの中に、神の慈しみが、神の御思いが、すべて凝縮されていると言っているのです。
すべてを支配しておられる主と出会う時に、目の前にある世界は違って見えるようになるという経験をするのです。それまでは、自分を捕らえているバビロンという世界であったとしても、「この地はあなたの恵みに満ちています」と言い得るようになるのです。
「わが神、我がすべてよ!」「マイゴット・マイオール」
アッシジのフランチェスコが祈った祈りです。この祈りのように、この世界はすべて我が主の御手の中にあるのです。主こそが、すべてのすべてです。そして、そのすべてを支配しておられるお方が、私たちの主なのです。
そうであるとするならば、私たちの現状がどうであろうと、たとえ外出禁止のような事態の中であろうと、自宅で孤独と向き合わなければならないような状況がまだまだ続いたとしても、主ご自身が私たちには与えられているのです。
だから、私たちは何も恐れることなく、「主がわたしのすべて」「主が私への割り当てです」と力強く告白する者でありたいのです。
お祈りをいたします。