2016 年 8 月 14 日

・説教 エペソ人への手紙 6章10-24節「神の武具を身に着けて」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 18:42

 

2016.08.14

鴨下 直樹

 
 エペソ人への手紙をはじめから順に聞き続けて来ました。今日で、最後の箇所になりました。この10節にはこう記されています。

終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。

「終わりに言います」とありますから、パウロはここで手紙を締めくくろうとしているわけです。しかし、ここで語られているところは、非常に豊かな内容のある手紙の言葉です。それで、この箇所からだけでも一冊の本が書けてしまうほど、豊かな内容があります。けれども、「終わりに」とありますから、今日のところで終わりになるようにしたいと思います。

 このエペソの手紙は教会の手紙と言われます。教会の歩みは、ひとりひとりがキリストのように歩むことです。そして、最後にパウロはここで三つのことを語りながらそのまとめとして、キリストのように歩むために生じる信仰の戦いについて語っています。

 エペソ人への手紙はその最後に信仰には戦いがあるということを書いているわけです。信仰生活には実際にさまざまな戦いがあります。どのように信仰を証ししていくかという戦いもあるでしょう。あるいは、罪との葛藤もあるかもしれません。あるいは、信仰に生きるということ自体が戦いになることもあるのだと思います。パウロはこの手紙で、キリスト者のひとりひとりの生活が教会の歩みそのものなのだということを語りながら、最後に

主にあってその大能の力によって強められなさい。

とまず勧めています。これが最初の第一の勧めです。

 「強められなさい」というのは命令形の受動態で書かれているからです。「強めていただきなさい」というわけです。神様に強めていただいて、信仰の戦いを戦うのだということを、最後に確認しようとしているのです。というのは、信仰の戦いというのは、自分の力でするものではないからです。それで、ここでも「主にあって」と言っているのです。 (続きを読む…)

2016 年 8 月 7 日

・説教 エペソ人への手紙 6章1-9節「家庭の倫理、職場の倫理」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 18:25

 

2016.08.07

鴨下 直樹

 
 私たちの教会では毎日「聖書のまばたき」というみ言葉の配信サービスを行っています。配信サービスなどというと、少し大げさかもしれませんけれども、教育部の執事のKさんが毎日、み言葉や、さまざまな信仰の言葉を一つ選んでメールで送って下さっています。今、60名ほどの方が受け取っておられるのだそうです。毎日、実にユニークな取り組みですけれども、暗証聖句になるようなみ言葉が贈られてくるときもあれば、讃美歌の一節や、キリスト者の残した言葉が送られてくるときもあります。

 その中で先週一つの変わった聖書の言葉が送られてきました。「彼女は言った。いけません兄上。乱暴してはいけません。イスラエルでは、こんなことはしません。こんな愚かなことはしないでください。」という第二サムエル記13章の言葉です。さすがに驚かれた方も多いと思います。「何だこれは?」と思って聖書を開けられた方が少なからずあると思います。私も実は少し驚いたのですが、Kさんの意図としてはそうやって驚いて聖書を読んでもらいたいという意図があるんだそうです。この箇所はダビデの子どもたちの出来事ですが、ダビデには何人かの妻がおりまして、アブシャロムという後でダビデに反旗を翻す息子がおります。その妹のタマルに異母兄のアムロンが乱暴を働いてしまう出来事の箇所です。

 ある方が、私のところにまいりまして、あれはどういう聖書の箇所なのかと尋ねられましたので、私が今のようなことを簡単に説明いたしました。すると、聖書にはなんで、そういう人間のどろどろとした出来事が書いてあるのかと質問を受けました。みなさんもご存知の通り、このダビデを取り上げてみてもそうですし、先ほど「聖書のお話し」で語られたサムソンとデリラの出来事もそうかもしれません。聖書は人間の醜い姿をありのまま記しています。特にダビデの子育てといったらいいでしょうか、親子関係というのは、あまり手本になるようなものではありません。聖書人物から学ぶ親子関係というような本はあまり見かけないわけですが、それほど、理想的な親子像というものを聖書は記していません。むしろ、多くが失敗ばかりしていると言っていいと思います。その質問をしてくださった方にもその時にお話したのですけれども、聖書は人のあるがままの姿を正直に描きながら、それでも主はそのような罪深いものを憐れんでくださって神の民としてくださるということが書かれていると言えます。 (続きを読む…)

2016 年 7 月 31 日

・説教 エペソ人への手紙 5章21-33節「互いに仕えあう喜び」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 17:16

 

2016.07.31

鴨下 直樹

 
 今日の箇所を楽しみにして今朝、教会におみえになられた方があるかもしれません。今日の箇所は結婚式などでもよく語られる聖書の箇所です。「妻たちよ、夫に従いなさい」と書かれたこのみ言葉は、多くの場合、何か不条理なことが書かれているとお感じになる方が多いようです。それで、何とか納得のいく説明を聞けるのではないかと思って楽しみに来られた方があると思うのです。もうすでに、何人かの方からそのように聞きました。そして、多くの方は、心のどこかで、「そんなはずはない」と思っておられる気がするのです。私のかん違いであればそれは幸いです。
 この時代に、聖書は、「妻は夫に従うように」と書いている、なんというナンセンスなという思いがある。きっとそれは、生活の中でなかなか納得しづらい場面が多く見られるからなのだろうと推察いたします。しかも、最初に出て来ますので、余計にその理不尽さが際立つのかもしれません。

 新改訳聖書は残念ながら段組みを変えてしまっているのですが、本来この箇所は21節から読まれるべきです。21節にはこう書かれています。

キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。

まず、パウロはそのように言いました。パウロはこの21節から6章9節までで、夫婦について、親子について、そして奴隷についてどのような関わりで歩むべきかについて記しています。夫婦、親子、奴隷という関わりを語るうえで、まず、その前提としてこの21節をこう語りました。「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。」

 この「互いに仕える」ということがすべての前提です。今日、この礼拝の後で、ここ数年の間に洗礼を受けられた方々と、教保とで昼食を共にとりながら、交わりの時を持とうと思っています。主イエスを信じて洗礼を受けて、どう生活が変わったのか、それぞれ分かち合うことができればと思っています。キリスト者となって、生活がどう変わるのかというと、まさにそこで問われるのは、私たちがどのように人に仕えるようになったのかということに尽きると思うのです。夫婦の間で、親子の間で、あるいは仕事場で、私たちはキリスト者となって、仕える者となったのかが問われるのです。 (続きを読む…)

2016 年 7 月 24 日

・説教 エペソ人への手紙5章1-21節「神にならう者として」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 16:08

 

2016.07.24

鴨下 直樹

 
 今日は、5章1節から21節までを説教の箇所としました。少し前に説教の予定を変えたためです。この教会ではひと月前から説教箇所や讃美歌をすでに選んで配付しております。讃美歌なども、その説教箇所にあわせているために、説教の予定を変えてしまいますと単純に一週分ずらせばいいというわけにはいきません。本当は、今日は1節から5節で、次が6から21節という具合になるのですが、実は、その分け方もあとで考えるとすっきりはしていません。ご存知の通り、手紙というのは、当時はそのまま初めから最後までまとめて教会で朗読されました。今のように部分部分を細切れにしていたわけではないのです。ですから、5節までを分けて、6節から21節にするか、もう少し細かく分ける場合は、6-14節と15節から21節を分けるということもできると思います。ただ、ここでは同じテーマが何度も繰り返されて語られていますので、今日は1節から21節まででみ言葉を語りたいと思います。

 少し、前置きが長くなってしまいましたが、この1節から21節までの間には似たような言葉が何度も何度も繰り返されています。1節では

ですから、愛されている子どもらしく、神にならうものとなりなさい。

とあります。この1節の言葉はとても重要なテーマで、ここからは「神にならうものとなる」というのはどういう歩みをすることなのかということが、繰り返されているわけです。それで、3節では「聖徒にふさわしく」とか、8節では「光の子どもらしく歩みなさい」とありますし、15節でも「賢い人のように歩んでいるかどうか」という言葉が続いています。少しずつニュアンスがちがっていますけれども、言おうとしていることはみなこの1節の「神にならう者となりなさい」ということに結びついてくるわけです。

 3節と4節では「聖徒にふさわしい」生き方とは何かを語っていますが、そこでは「不品行」というような言葉に表されている性にまつわる罪と「むさぼり」として語られている金銭にまつわる罪のことが注意されています。これは、現代にはじまったことではないということですけれども、人は罪を犯す時に、性における罪と金銭をむさぼることの罪にあらわれてくる。そして、そのような生き方をするのは聖徒にふさわしい生き方ではないとパウロはここで注意しています。それこそが、偶像礼拝なのだとパウロは言うのです。ここにパウロのすぐれた宗教理解が表されています。 (続きを読む…)

2016 年 7 月 17 日

・説教 エペソ人への手紙4章17-5章2節「新しい人を身につけて」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 15:57

 

2016.07.17

鴨下 直樹

 
 クリスチャンになる前と、クリスチャンになった後と、私たちの生活はどのように変わるのでしょうか。洗礼を受けられた方は、ひょっとすると、自ら水をくぐって出た瞬間から新しい自分になることをイメージしていて、なかなかイメージ通りの急激な変化が起こらないことでがっかりしたという経験をお持ちの方があるかもしれません。パウロはここのところから、クリスチャンになるとどう変わるのかということを書いています。

 先日の聖書学び会で、こんな質問がありました。「先生は以前の説教で、良いと思って話した言葉であってもそれで相手が傷ついたり、躓いてしまったりしてしまうことがある、と言われたけれども、ではどうしたらいいのか」と尋ねられました。実に的を得た質問だと思います。自分はその人のために良かれと思って話したことばで、相手が傷ついてしまう。どうしようもないではないか、というわけです。この前の箇所の言葉、たとえば15節に「愛をもって真理を語り」とあります。自分としては愛をもって真実に話したつもりの事が、相手に躓きを与えてしまう場合があるとすると、何も話せなくなってしまうという恐れが生まれてくるわけです。

 パウロはこの手紙の中で、まず信仰に入る前、キリスト者になる前はどうであったのかということを17節から19節で丁寧に語っています。しかも、ここでは「主にあって言明し、おごそかに勧めます」と書かれています。ここに二つの言葉を重ねているのですが、「言う」という言葉と、「宣誓する」という言葉です。「宣誓」というのはもうしばらくするとオリンピックが始まりますけれども、選手たちが競技の始まる前に誓いをします。正々堂々と戦うと。そういう公に宣言するという言葉です。パウロからすればこれから私が話す言葉はそのくらいの覚悟を持って話すので厳粛な気持ちで聞いてほしいというわけです。
 それで、何を語っているのかと言いますと、「異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではならない」というのです。

 ご存知のように、この手紙の受取人は、異邦人たちでした。もともとユダヤ人であったわけではないのです。この異邦人というのはどういう人かというと、続く18節と19節ですが、

彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。道徳的に無感覚となった彼らは、好色に身をゆだねて、あらゆる不潔な行ないをむさぼるようになっています。

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2016 年 7 月 3 日

・説教 エペソ人への手紙4章1-16節(2)「愛によって建て上げられるキリストの体」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 15:01

 

2016.07.03

鴨下 直樹

 
 今日は、先週につづいてエペソ人への手紙4章1節から16節までのところから、み言葉を聞きたいと思っています。先週はほとんどふれられませんでしたけれども、特に12節から16節の部分に目を向けてみたいと思います。ここでは、教会のことが書かれています。教会はただキリストを見上げながら一つとなっていくのだということをパウロはひたすらここで書いているのです。

 明日から木曜日まで、私は、久しぶりに説教塾という牧師のセミナーに参加してまいります。もう五年ほどの間、なかなか都合をつけることができなかったために、参加することができなかったのですが、今年はセミナーの日程が変わったために、参加できることをとても嬉しく思っています。この説教塾を主催していてくださるのは、加藤常昭先生をはじめとする説教塾のメンバーの牧師たちです。私は今からちょうど20年前から参加するようになりました。実は、はじめて牧師として参加した時に、説教クリニックという時間がありまして、自分の説教を見てもらいたい人が、その場で実際に説教をやりまして、出席している牧師たちや、加藤先生からアドヴァイスを貰います。そこで、最初に加藤先生に言われたのは「君の説教はあと20年くらいたったら良くなるだろうね」という言葉でした。あれから20年たちますが、そうやって、自分のいけない部分に目をとめて、改善していきながら、できるかぎり誠実に説教することができるように、研修をするのです。

 なかでも、この説教塾で大切にしていることに、黙想というものがあります。ただ聖書を読んで理解するだけではなくて、自分の教会に来ている人たちのことを思い起こしながら対話をする。実際話したり、聞いたりしたことを思い浮かべながら、自分がこの聖書を説教するためには、何を考えなくてはならないのか、どこで配慮するべきなのか、何を語るべきなのか、そういったことを思い巡らせながら文章に書いていく作業を黙想というのです。

 そこで、ドイツの神学者でこの黙想を書くということを広めた人でもあるイーヴァントという牧師の書いた黙想を読むという作業を、いつも必ずいたします。そこで、明日から、セミナーに参加することを思い起こしながら、そういえば、このイーヴァントの書いた今日の聖書の箇所の黙想がないかと調べてみましたら、持っている資料の中に、ちょうどこの11節から16節までの黙想がありましたので、読みました。とても、刺激的な文章がいくつも目に飛び込んできました。 (続きを読む…)

2016 年 6 月 26 日

・説教 エペソ人への手紙4章1-16節(1)「招きにふさわしく生きる」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 11:48

 

2016.06.26

鴨下 直樹

 
 エペソ人への手紙の4章に入りました。お気づきの方もあるかもしれません。パウロはここに来て、急に「なになにしなさい」という戒めの形で、命じ始めています。パウロの手紙はいつもそうですけれども、前半は、どのように考えたらいいのか、信仰の基本的な考え方について丁寧に語ります。そして、後半は、具体的な勧めをいたします。このエペソ人への手紙も例外ではありません。パウロは、エペソなどのアジアの教会の人々にこの手紙が回覧されることを知っていました。そこで起こっていたさまざまな問題、特に、異邦人のキリスト者たちと、ユダヤ人のキリスト者たちとの間に起こる争いに、いつも心を砕いていました。そして、主イエスの信仰に生きようとする人々は、この問題を乗り越えて、この主の福音に自分たちが生きることができ、さらに多くの人々に主の福音を伝えていくことができることをパウロは信じていました。そのためには、まず、何よりもキリストの心を知ること、教会とはどういうところであるのかを語る必要がありました。それで、パウロは丁寧に、キリストがなにをして下さったか、そして、教会はどのように生きるのかを語り続けてきたのです。

 そこで、パウロはここからさらに具体的に教会に生きるキリスト者たちに語りかけようとしています。1節です。

さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。

 パウロは、この時牢獄に捕えられていました。ですから、この手紙は獄中書簡などと呼ばれているわけです。自分は捕らわれている、牢に閉じ込められている。そういう囚人がするべきことは何かというと、「刑に服する」ということです。このとき、パウロは教会の人々にお勧めしたいことがあったのです。それは―今、パウロは、囚人として刑に服している。何故かというと、キリストに捕えられた者であるから。自分を捕えた主のために牢に閉じ込められることもパウロは喜んで耐えることができる。ですから、あなたがたも、このキリストに捕えられた者としての生き方をしなさい―そう勧めているのです。この「勧めます」と言う言葉は、「傍らに立ってはげます」という意味の言葉です。どこか高みから、あるいは、知らないところから声高に命じているのではありません。自分は今、実際に捕えられている。だから、分かる。捕えられる時に、求められているのは、これは不当だ、自分はそんなつもりではなかったと、必死に抵抗するということよりも、むしろ、そこに身をゆだねて生きるということしかできない。そのように、あなたがたも、キリストに捕えられたのだから、キリストの願っているように生きてほしいと勧めるのです。 (続きを読む…)

2016 年 6 月 19 日

・説教 エペソ人への手紙 3章14-21節(2)「人知をはるかに超えたキリストの愛」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 18:47

 

2016.06.19

鴨下 直樹

 
 今日は、このエペソ人への手紙のパウロの祈りの部分から先週に引き続いてみ言葉を聞きたいと思っています。特に、今日の中心的なみ言葉は17節から19節の言葉です。パウロはその祈りの中でこんなことを祈っています。

こうして、キリストがあなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。

 パウロはここで何を祈っているかというと、このエペソの教会に集まっている人たちが、「人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように」と祈っているのです。

 ですから、今日のテーマは「愛を知る」ということです。私は愛知県の木曽川町で育ちました。子供の頃から、この「愛を知る」という言葉に愛着を持って来ましたが、不思議なことに、どこか遠くに旅行に出かけまして、「どこから来たのか」と聞かれますと、決まって「名古屋」と答えます。おそらく、愛知県に住んでいる人のほとんどがそう答えると思います。「木曽川町」なんて言っても誰も分かりません。しかも、この木曽川町は、私たちがドイツに住んでいた時に、隣の一宮市に吸収合併されてしまいましたので、今は無くなってしまいました。もちろん、そんなことがなくても、みんな「名古屋」と答えるわけです。愛知県に住んでいる人はあまり、この名前に誇りを持っていないようです。むしろ、この芥見の人の方が誇りを持っていると感じることがあります。芥見の人は岐阜駅の近辺に行くときには「ちょっと市内に行ってくる」という言い方をします。一応芥見も岐阜市内なのですが、そこは芥見の人のプライドなのか分かりませんけれども、自分たちは岐阜市内に住んでいるという自覚が不思議とありません。はじめ聞いたときに不思議に思ったのですが、今ではもう慣れてしまいまして、私も最近では「市内に行ってくる」という言い方を遣うようになりました。これは芥見を誇りとしているというようなこととは違うのかもしれませんが・・・。たいぶ余計な話をしていますが、愛を知るという名前の県に育っても、そこに住んでいる人たちはみな愛について知っているとは言えません。愛を知る、それこそがこの箇所のテーマです。

 今日は午後から古川さんを講師に「楽しいキリスト教美術講座」を行います。毎年、一年に二回、美術講座を行っています。今回は「印象派」と言われる画家たちを取り上げてくださるようで、私もとても楽しみにしています。「印象派」と言いますと、日本でも特に人気があるのはモネとかルノアールというような、まさに印象に残る綺麗な色使いで、独特のタッチで描かれているものをイメージされる方が多いと思います。また、その後で、後期印象主義というんだそうですけれども、セザンヌとかゴッホという人たちがあらわれます。特に、今日はこのゴッホの作品から何点か紹介してくださるようです。今回の美術講座のチラシにも印刷されていたのですが、ゴッホの描いた「善きサマリヤ人」という絵があります。これは、その前にドラクロワという画家が描いた作品の模写です。ゴッホは他にも、レンブラントの模写である「ラザロの復活」だとか、やはりドラクロワの模写の「ピエタ」も描いています。この模写、あるいは模倣と言ってもいいと思います。絵を描く人は誰でもそうだと思いますけれども、この模倣するというのが、描くことの基本なのだと思います。

古川秀昭「うさぎ」1956年,和紙,割りばし,墨
古川秀昭「うさぎ」1956年
和紙,割りばし,墨

 以前、古川さんのアトリエで、アルブレヒト・デューラーの「野うさぎ」を模写したものを見せてもらったことがあります。どうも聞くところによると、小学生の時に描いたもので、その絵を当時同級生だったAさんにプレゼントしたのだそうです。Aさんとは、やがて何年もして、再会して、結婚をすることになったのだそうです、その話を聞くだけでも何かとてもドラマチックな気がしますが、古川さんたちが結婚された後に、この、小学生の時に描いてプレゼントした絵を、奥様が大事に保管されていたことが判ったのだそうです。とても小学生が書いたとは思えない美しいものです。このように、模写する・真似をするということが、芸術家の道であることを、もう小学生の時から古川さんは知っていたのでしょう。マネをすることは美術の基本です。

 そして、実は、この模倣する、真似をするというのは、美術に限ったことではありません。芸術全般にもいうことができると思いますし、人間も、より良く生きるためにこの模倣をすることを通して、本当の自分になっていくという部分があるわけです。ですから、様々な人との出会いがその人の人格を築き上げていくためにはとても重要です。
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2016 年 6 月 12 日

・説教 エペソ人への手紙 3章14-21節「パウロの祈り」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 14:20

 

2016.06.12

鴨下 直樹

 
 今日のところは、パウロの祈りが記されているところです。昨日の家庭集会でも、祈りについてお話したのですが、この夏のキャンプのテーマでも祈りをテーマにしています。祈りは、私が牧師になったときからわたし自身のひとつの大きなテーマでもあります。神学生の時から、しばらく祈れなくなるという時期を経験しました。きっかけはたいしたことではないのです。仲間の神学生たちの祈りを聞いて、それを心の中で非難していたのです。けれども、人の祈りに耳を傾けて、文句ばかり言っているうちに、自分はどうだということになりまして、自分の祈りの生活を振り返って考えてみるようになりました。それで、自分も人のことを言えるほど豊かな祈りの生活ではないことに気づかされて、すっかり自信をなくしてしまったのです。

 その時から、多くの祈りについての本を読みましたし、色々な信仰者の祈りの本を読みました。もう何冊読んだか分からないくらい読みました。そして、聖書の中に記されている祈りについても注意深く見るようになりました。特に、聖書の中に記された祈りを読んでいますと実に、色々なことに気づかされます。その一つに、聖書に記されている祈りは、いわゆる個人の願い事というのはあまりないということに気づかされます。このことは、祈りを学ぶ意味でも、とても大きいのではないかと思います。

 今日の箇所もパウロの祈りです。ここでパウロは何を祈っているのかというと、とてつもなく壮大な祈りをしています。「人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように」と祈っているのです。みなさんの中に、こういうことをこれまでに祈ったことがある方がおられるでしょうか。ひょっとすると、私たちでは思いつきもしないようなことを、ここでパウロは祈っているのです。確かに、この祈りもパウロの個人的な願いごとであるかもしれませんけれども、むしろ、このいのりは、神が願っておられることを、パウロが祈っているようなものとも言えます。

 私たちは、祈りにおいて、自分の常識や限界を超えて、神に近づくことができます。それが、いのりです。祈りにおいて、パウロの祈りがそうであるように、神の思いと一つになると言ってもいいかもしれません。そういう祈りを祈ることができるときに、私たちは深い喜びに包まれます。
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2016 年 6 月 5 日

・説教 エペソ人への手紙3章1-13節「福音の奥義を知る者として」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 16:26

 

2016.06.05

鴨下 直樹

 
 みなさんは、自分が何者なのかということについてお考えになったことがあるでしょうか。不思議なことに、この問いは、私たち自身を問う問いですから、日ごとに自分に問いかけるべきものなのだと思うのですが、年を経るごとに問わなくなってしまう傾向があるように思います。自分が確立していない、そのために、何者かになろうとしている時期というのは、自分自身に問いかけるものです。けれども、次第に、諦めとともに、自分のことが分かったつもりになる。あるいはそれは、自分で、自分に期待できなくなるということと同じかもしれないのですが、何かになろうとすることを止めてしまうことによって、自分に対して期待心もなくなってしまうことが多いのです。

 私が言うのも変なことかもしれないのですが、若い、青年を見ていると、そのことを顕著に感じます。私からすれば、まだその人には無限の可能性があるように思えるのですが、中学、高校、大学を卒業し社会に出ると、なんとなく、自分はこのくらいの人間だということを周りを見ながら、納得してしまって、それ以上の自分になることを諦めてしまっている気がするのです。それは、ひょっとすると、私よりも年上の方々は、私くらいの年齢の者についても同様に感じているのかもしれません。私自身、最近、自分の口から、自分についてよく否定的な言葉を使っていることに気が付きます。これまでの牧師としての経験や、通って来た道のりを振り返りながら、まぁ自分はこんな程度だろうと、自分に見切りをつけてしまっているのです。

 今日、私たちに与えられている聖書の言葉は、エペソ人への手紙の第三章です。今日はその1節から13節までのところですが、ここでパウロは少し唐突に、自分のことを語り始めます。自分が何者なのかといことを書いているのです。実は、この箇所はこのエペソ人への手紙の中でも、特に重要な位置を占める箇所です。というのは、ここに書かれている内容で、ある人は、これはパウロの言葉ではないのだといい、ある人は、ここにこそパウロらしさが記されているのだという人もあります。あるいは、パウロと、パウロと一緒にいた仲間たちのことがここから読み取れると考える人もおります。私は、このエペソ人への手紙の説教を始めました時に、この手紙がそういう議論があるけれども、伝統的にパウロが書いたものとして受け止められて来たことを重んじて、パウロが記したものとして語りたいと言いました。このことは、このエペソ人への手紙を理解するうえでとても重要なことです。
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