2019 年 1 月 6 日

・説教 詩篇34篇14節「平和を求め、それを追い続けよ」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 10:15

2019.01.06

鴨下 直樹

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 2019年のローズンゲンの定めた年間聖句はこの御言葉です。テーマは「平和」です。「平和を求めよ」と言うのです。

 アメリカの映画で、特に現代のものなどを見ていますと、スピーチをするという習慣が時々出てきます。そして、たいていの場合、そのスピーチの結びとして必ず出てでて来るセリフとして「世界平和のために」と言ってスピーチを終えるわけです。もうそれは、ほとんど建前のようになっていて、少し滑稽な描き方さえされています。「世界平和」というのは、誰もが納得できる良いスローガンなのですが、では平和のために何をしたらよいのかということは、あまり問題にされません。とにかく、「世界平和」と口にすることが大事になっています。

 けれども、私たちは昨年、何度も災害を経験し、あまりにもいろいろと起こりすぎて、この世界は次々に起こる事柄に、心がついていかない有様です。元旦礼拝でもお話ししたのですが、昨年の2018年を表す漢字として「災」という字が取り上げられました。この字は、学校や企業や、アンケートをもとに決められるのだそうですが、圧倒的に多くの人が、昨年は「災い」の多い一年であったと感じているわけです。「災い」という言葉の背後には、多くの自然災害や、戦争というのがその背景に考えられるわけです。そして、私たちはこういう災いに対して、自分の力では何もなしえないという諦めの気持ちがあるのだと思います。そして、その災いという字の対極にあるのが、今回の「平和」という言葉なのではないでしょうか。

 今回の年間聖句である詩篇34篇ですが、この14節の詩篇の少し前の箇所11節から見てみると、そこではこう書かれています。

来なさい。子たちよ 私に聞きなさい。主を恐れることを教えよう。
いのちを喜びとする人はだれか。幸せを見ようと 日数の多いことを愛する人は。
あなたの舌に悪口を言わせず 唇に欺きを語らせるな。
悪を離れて 善を行い 平和を求め それを追い続けよ。

詩篇 34篇11~14節

 この詩篇の詩人は、子たちに「しあわせな日々を送りたいと思うなら」と語りかけています。そして、その「幸せ」ということが、「平和を求める」ということに続くように書かれています。詩篇の作者、ダビデは、ここで子どもたちに語りかけています。幸いな日々というのは、悪口を言わず、欺きを語らない。一緒に生きている人を大切にすること。まず、そこからはじめることだと語っているのです。人の悪口を言わない、人をだまさない。そういうことが、自分の幸せを作ることになり、それが平和を築き上げることになるのだと教えているわけです。

 平和というのは、ただ世界平和を訴えていれば実現するというものではないのです。子どもの時から、幸せに生きたいと願うなら、人の悪口を言わないこと、嘘をつかないこと。そういう、人との関係を築くために基本的なことをしっかりと覚えるところにしか、幸いはないし、平和もないのだということを、ここでしっかりと教えているわけです。 (続きを読む…)

2018 年 12 月 24 日

・燭火礼拝説教 イザヤ書 60章1―3節 「あなたの光が来る」~レンブラントのクリスマスの絵画による~

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 18:21

2018.12.24

鴨下 直樹

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起きよ。輝け。まことに、あなたの光が来る。主の栄光があなたの上に輝く。
見よ、闇が地をおおっている。暗黒が諸国の民を。しかし、あなたの上には主が輝き、主の栄光があなたの上に現れる。
国々はあなたの光のうちを歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。

イザヤ書 60章1~3節

 今年の燭火礼拝はオランダの画家レンブラントの描いたクリスマスにまつわる絵をご覧いただきながら、聖書を聞いていただきました。

 レンブラントが最初にクリスマスの物語を描いたのは1627年、レンブラントが21歳の時で、「エジプトへの避難」というタイトルがつけられています。レンブラントは裕福な家族のもと、9人兄弟の6人目として育ちます。はじめ学者の道を進もうとラテン語学校を卒業したあと、15歳で学び始めた大学を辞めて画家の道を目指します。最初の先生に3年間ついて学び、そのあとイタリヤでカラヴァッジョの弟子として学んできたラストマンという画家のもとで絵を学びます。ところが半年後には独立しています。独立後もラストマンから学び続けたようです。そんな時代に書かれたのが最初の絵です。

レンブラント作 「エジプトへの逃避」
 私が興味を持つのは、クリスマスの物語を描く時に、大抵はもっとクリスマスらしい場面を描くのだと思うのですが、レンブラントはなぜか、この場面を選んだのです。エジプトへの避難というのは、東方の博士たちが、はじめ救い主の誕生の星を見つけた時に、当時イスラエルを支配していたローマの総督であるへロデ王のところに訪ねていったのです。そこで、聖書の預言によると、ベツレヘムで救い主が生まれるという預言があることを聞き、また、その星が博士たちを導いて、主イエスの生まれたところを訪ねることができたわけです。ところが、その後博士たちは夢を見て、帰りにヘロデ王のところに行かないように告げられたために、どこで生まれたのかをヘロデ王に知らせませんでした。そのために、ヘロデ王はベツレヘムの2歳以下の赤ちゃんを殺してしまえと命令を出すのです。その時、夢でヨセフはベツレヘムにいることが危ないと聞いて、エジプトへ避難をしたのです。

まさに、主イエスがこられたこの世界は闇と死に支配された世界であることがよく分かる出来事です。レンブラントの描いたマリヤの腕に抱かれている主イエスの光は、まだ弱々しいのです。闇の中に輝く光とはまだなり得ていません。

rembrandt_joseph_dream_1945 レンブラントがその次にクリスマスの出来事を描いたのはそれから18年後のことです。この18年の間にレンブラントは非常に多くのことを経験します。サスキアという裕福な法律家の娘と結婚をします。4人の子供をもうけますが、3人は生まれてすぐに死んでしまいます。結婚したのは1632年、レンブラント26歳の時です。ところが、この妻サスキアは結婚して8年後に亡くなってしまいます。そして、この後からレンブラントの人生は坂道を転げ落ちるようになっていきます。それまでの間、レンブラントは幻想的な装飾やエキゾチックな雰囲気を描いていたのですが、この後、そういった装飾性を排除した作品を知るようになっていきました。この2枚目の絵を描く2年前に、サスキアとの間に残った子どもの面倒を見るためにひとりの女性を雇いますが、結婚しなかったということで訴えられてしまいます。そういう生活の大変な中で描いたのが、この「ベツレヘムの馬小屋でのヨセフの夢」という絵です。この絵が描かれたのは1645年レンブラント39歳の時です。

そこには華麗な装飾はどこにも見当たりません。そして、ただ、屋根からこぼれ落ちる天からの光だけが唯一の装飾として描き出されています。貧しいマリヤとヨセフを慰めるものはただ、神からくる光だけだと物語っているのです。 (続きを読む…)

2018 年 12 月 23 日

・説教 テトスへの手紙2章11節「神の恵みがあらわれる時」

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2018.12.23

鴨下 直樹

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 明日は、クリスマス・イブです。教会ではこのイブの夜に燭火礼拝をします。今日は、アドヴェントの第四主日ですので、まだクリスマスではないのですが、今週の火曜に訪れるクリスマスのことを覚えて、クリスマスの礼拝をしようとしています。

 クリスマスというのは、神がなさった約束が実現したことをお祝いする日です。長い間、待ちに待ったものを頂くというのは、とてもうれしいものです。この季節、子どもたちを見ていると、そのことを教えられます。あと何日でクリスマスになるのか、一週間くらい前から毎日子供に質問されています。そして、時々、もうだいぶん待ったので、もうそろそろいいのではないかと交渉を持ちかけてくることもあります。何がそろそろいいのか、親としてはいろいろ考えさせられるわけですが、「まだクリスマスじゃないよ」とだけ答えます。

 きっと何か欲しいものがあるのでしょう。待ち遠しくて仕方がないのです。今日は子どもたちもたくさんこの礼拝に集ってくれています。どこの家でも似たような経験をされているのだと思います。

 「約束」というのは、きちんと果たされるべきものです。ただ、どんな約束でもそうですが、その約束が実現するためには、少し「時間」が必要です。少し待たなくてはなりません。教会ではこの約束と、この待つ時間のことを「すでに」と「未だ」という言葉で表現してきました。

 たとえば結婚の約束をするために、婚約というのをします。結婚することはすでに決まっているわけですが、まだ夫婦になったわけではないわけです。それと似ています。この結婚に備えるまでの期間というのは、とても大切な時間です。ある意味で言えば、一番いい時間を過ごすことができます。けれども、それは同時に準備の時間でもあるわけで、大変な時間でもあるわけです。

 水曜日と木曜日、教会では聖書の学びをする会が行われています。先週は今年最後の聖書の学び会となりました。それでいつもの学びをやめて、参加されているみなさんに、これまでのクリスマスの思い出を話していただきました。いろんな話を聞くことができて、とても楽しい会となりました。参加されている方は比較的年齢の高い方が多いのですが、その中で、クリスマスというと、若草物語の映画に出て来たクリスマスの場面の話や、あるいは、チャールズ・デッケンズの「クリスマス・キャロル」や、O・ヘンリーの「賢者の贈り物」だとか、アンデルセンの「マッチ売りの少女」だとか、クリスマスの季節をテーマにした文学の話がいくつか出てきました。今から40年前とか50年前とか、そのころに子どもであった方にとっては、クリスマスに大変な憧れがあったということがよくわかりました。今みたいに、商業化される前のことです。みなが、思い思いにクリスマスの祝い方を考えた時代です。

 祈祷会に参加されている方の中でも最年長のOさんは、友達の家にあったもみの木の枝を切ってもらって、その木の枝を家まで引いてきて、そして瓶に土を入れて、挿して立たせて、綿や、手作りの飾りを並べて飾ったというような話を聞かせてくださいました。
 クリスマスまでの4週間のことをアドヴェントといいます。このアドヴェントの期間、蝋燭を毎週ひとつずつともしてクリスマスが来るまでを心待ちにして待つのです。それはとても楽しい期間です。そこにあるのは「約束」を待ち望む心です。この約束を待ち望む心のことを「憧れ」という言葉で表現してもいいかもしれません。 (続きを読む…)

2018 年 12 月 16 日

・説教 マルコの福音書10章46-52節「何一つ持たないで」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 09:36

2018.12.16

鴨下 直樹

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 教会で長く祈られてきた祈りに、「キリエ・エレイソン」という祈りがあります。今日出てくる、「主よ、憐れんでください」というラテン語の祈りです。残念ながら、私たちはあまりこの祈りを祈る習慣がありません。讃美歌21にも、いくつかこのキリエの賛美がありますが、私たちはあまり礼拝でこの曲を歌うこともありません。ただ、礼拝の中で交読する「栄光の賛美」「グローリア」という祈りを、長い間私たちはしてきました。ここに、「主よ、私たちをあわれんでください」という、祈りの言葉が三度、繰り返されています。これが、「キリエ」と言われる祈りです。

 普段、私たちは自分を憐れな存在であると感じることがあまりないと思います。あまり、自分の恥をさらすべきではないと思いますが、11月25日の午後、天白の教会で教団の11月総会が行われました。今は、代表役員ということになっていますので、この総会のために、さまざまなことを整えて総会に臨みます。ところが、11月は本当にいろいろなことがありまして、総会の始まる直前に、総会資料のプログラムに目を通しておりましたら、最初の説教のところに、私の名前が書いてあるのです。自分でそのプログラムを準備したのですから、当然分かっているわけですが、その時まで、すっかり忘れておりました。今更バタバタにしても仕方ありませんから、腹を決めて詩篇27篇から説教しました。それは、ここでも先月説教しましたし、総会の二日前にあった葬儀もここから説教しましたので、だいぶ自由に話せます。

 ところが、私はその時の説教で、感極まってかなり感情的な説教をしてしまいました。この詩篇は、前半部分では非常に信仰的な祈りがなされていますが、後半になると、祈り手は、神を見失ってしまって「主よ、憐れんでください」という祈りになります。その説教の中で、私たちの中にもそういうことがあるという一つの例として、自分のことを話しました。朝の礼拝の前に灯油をこぼしてしまって背広が灯油まみれになってしまったこと、いろいろ思うようにならないで愚痴が出てしまうことなどを話しました。そして、後になって、反省しました。自分が憐れだなどということを、人前で説教するというのは、聞いていて気持ちがいいものではありません。人前で自分の弱さを語るということは恥ずかしいことだと思うのです。

 そんなこともあって、総会でした自分の説教を恥じていたのです。そんな中で先週、その説教を聞いたある教会の役員が、ぜひ鴨下牧師を来年の修養会で教会に招きたいという声が上がったという知らせを受けました。私としては何とも言えない複雑な気持ちになりましたが、好意的に聞いてくださった方もあることが分かって少しの慰めになりました。
私たちは、人に自分がみじめな人間だ、自分はかわいそうだなどということをあまり話したがりません。私たちにはプライドがありますし、そもそも泣き言というのは、聞いていてあまり気持ちのいいものではありません。だから、そういう感情を隠しながら、あるいは歯を食いしばりながらなんとか耐えているということがあると思います。でも、本当は大変なのに、誰にも分ってもらえないということもまた、とてもつらいものです。

 ここに、一人の人が出てきます。名をバルティマイと言います。これまでの聖書ではバルテマイとなっていました。今度の翻訳で「バルティマイ」としたのです。バルというのは、「だれだれの子」という意味です。ですから、「ティマイの子」という意味ですが、聖書の中に、十二弟子以外で、個人の名前が出てくることは珍しいことです。名前があるということは、あとで、この人は知られる人になったということでもあります。なぜ知られるようになったのか。それが、この物語を通して分かるわけです。

 バルティマイは目の見えない、物乞いをしていた人です。エリコの街の出入口で物乞いをしていたのでしょう。通りかかる人の気配を感じると手をあげたり、声をあげて、誰かが恵んでくれるのを待つのです。人の憐れみにすがって生きて来た人です。けれども、そのことが、このバルティマイにとっては最大の強みであったということができると思うのです。 (続きを読む…)

2018 年 12 月 9 日

・説教 マルコの福音書10章35-45節「土台のある人生」

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2018.12.09

鴨下 直樹


 先週、教団役員会で武豊教会を尋ねました。教会の前に、もみの木のクリスマスツリーが置かれていました。今年から武豊で牧会されているベルンス先生に聞くと、根の上の部分から切り落とした生のもみの木でした。プラスチックのものと比べるとやはり生のもみの木は雰囲気があって一段と綺麗に見えます。ただ、根がありませんので、しばらくすると枯れてしまいます。このクリスマスの季節だけ使うことを考えればそれで充分です。それで、この時期になると、切り倒してきたもみの木が売られているわけです。けれど、ひと月ほどは持つようですが、何か月かすれば枯れてきてしまうので、少し残念というか、もったいない気がします。今日は、「土台のある人生」という説教題にしました。土台がない、根がない人生ということについて考えてみたいと思います。

 今日の聖書の箇所は主イエスの弟子であるヤコブとヨハネの言葉からはじまります。

「先生。私たちが願うことをかなえていただきたいのです。」

 主イエスの2度目の受難予告の後の出来事です。主イエスがここで、自分が殺されるという話をしているのに、その後で出てくる質問としてはちょっとどうかと思う質問がここで出されています。33節で、主イエスは受難の予告をされたときに、エルサレムに上って行くという話をしています。昨年、冬のオリンピックで良い成績を収めた選手のパレードの様子を何度かテレビで見たことがありました。何万人という人が集まって、金メダルをとった選手を一目見よう、またお祝いの声をかけようと集まってくるのです。その時の歓声の大きさ、人の集まり、それはもうまさに大群衆というような人の群れが生まれます。主イエスがエルサレムを訪れる。今ほど人口の多い時代ではありませんから、何十万人というような人がエルサレムに集まることはないと思いますが、それでもかなりの人の群れがエルサレムに集まるのです。それほど、主イエスは当時の人々の注目を集めていました。大祭司や律法学者が妬みを引き起こすほどの人気ぶりだったのです。

 弟子たちは、そんなことを想像したのかもしれません。あるいは、これは私の想像が行き過ぎているのかもしれません。ただ、殺されるという話を聞いて、ならば今のうちにお願いできることはしておこうということだったのかもしれません。いずれにしても、ヤコブとヨハネは、自分たちの願い事をかなえていただきたいというものでした。兄弟二人で申し出たわけですから、このタイミングで思いついたということではなくて、前からお願いしたいと考えていたということでしょう。

 主イエスにかなえてほしい願い事がある。それは、よく考えてみれば、特に珍しいことでもないでしょう。私たちには実にさまざまな願いがあります。病気が治るように祈ることもあります。無くしてしまった財布が見つかるように祈ることもあるでしょう。遠くに住んでいる家族のために祈ることもあります。ですから、このヤコブとヨハネの申し出を私たちは簡単に場違いなひどい願いだと決めつけてしまうことはできないと思うのです。

そして、主イエスはこの二人の願い事に対してこう言われました。

「何をしてほしいのですか。」

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2018 年 12 月 2 日

・説教 マルコの福音書10章17-34節「金持ちとペテロと主イエスと」

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2018.12.02

鴨下 直樹

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 「本音と建て前」という言葉があります。時々、教会では本音で話せないというような発言が出ることもあります。信仰というのは、きれいな世界なので、どうしてもきれいごとを言わないといけないというような気持ちになることがあるのかもしれません。

 カトリックの作家の書かれた「本音と建て前」というタイトルの本があるのですが、ドイツから日本に来る宣教師たちが、日本人をよく理解するためにこの本を読むように勧められるのだそうです。そして、読んでびっくりするのだそうです。人前では建て前でものを言う。けれども、その心の中は全然違うことを考えているのだとしたら、それは「嘘」ではないかと思うのです。人の顔色を見ながら、体裁のいいことを言う。しかし、心の中では何を考えているか分からないのだとすると、もうどうしていいか分からなくなるのです。そういうことから、教会でもきれいごとを言わないで、もっとその心の中のドロドロしたもの、本音を出して話すべきだ、そういう議論が出てくるわけです。

 ここに、素直な一人のお金持ちが出てきます。彼は、小さなときから律法に忠実でした。きっと育ちがいいのでしょう。親がしっかりした人だったのかもしれません。性格も悪くなさそうです。他の福音書には青年と書かれていますから、若さも持っています。若くて、お金を持っていて、性格も良さそうで、両親もちゃんとしている。言ってみれば、大切なものを何でも持っている人です。これ以上、何を求める必要があるのかと思えるような人です。彼は、主イエスにこう尋ねます。

「良い先生。永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたらよいのでしょうか。」

 驚くべきことです。この人は、人が望むものをみな持っていても、それで幸せになるのではないということを知っているのです。永遠のいのちを得なければ、この世で何を持っていても、肝心のものが欠けているということを理解しているのです。

 彼は、目先のことだけを求めてはいません。しっかりとした考えを持ち、何が大事なのかを見極めることができているのです。こんなみどころのある青年が、果たしてどれほどいるというのでしょうか。立派な青年です。好青年です。非の打ちどころのない青年と言っても言い過ぎではないと思います。しかも、主イエスのことを「良い先生」と呼びかけるのです。あなたから学べるものがある。あなたは、普通の人ではない。良い先生です。私はあなたから、この大切なもの、今のいのちを豊かにするために必要なものを学びたいのです。必要な永遠のいちのをどうしたら得られるのでしょうと問いかけるのです。しかし、この人に主イエスはこう語りかけるのです。

「なぜ、わたしを、『良い』と言うのですか。良い方は神おひとりのほか、だれもいません。」

 これは、なぞなぞのような答えです。どういう意味なのでしょうか。主イエスのことを「良い先生」と呼びかけました。あなたから学ぶべきものがあると。しかし、主は「良い」方は神おひとり、つまり、わたしを見るのではなくて、神を見上げなければ見えてこないと言われたのです。そして、これが、この長いテキストの語っている答えのすべてなのです。
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2018 年 11 月 11 日

・説教 詩篇27篇 「心の歌」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 09:54

2018.11.11

鴨下 直樹

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 今日は召天者記念礼拝の主の日です。毎年、この時になりますと、天に召された方々のご家族やご友人の方々がこの礼拝にお集いになられて、共に礼拝をおささげしています。その中で、今日は詩篇27篇を一緒に聞きたいと思っています。私の願いは、ぜひ、一度ご自分で声をだして、この詩篇を読んでいただきたいということです。まるで、故人がこの祈りを祈っていたのではないかという気持ちになるのではないかと思います。また、まるで、自分の祈りそのものだという錯覚を覚える方もあるかもしれません。

 今週、私自身、何度も、何度もこの詩篇を読みました。そして、声に出して読むたびに、深い慰めを覚えてきました。私ごとではじめてとても恐縮なのですが、この一週間、私自身自分では抱えきれないほどの問題をいくつも抱え、気がつくとため息ばかりついていました。気分がなかなか晴れない。

 その中で、この詩篇を声にだして読んでみる。

主は私の光 私の救い。だれを私は恐れよう。主は私のいのちの砦。だれを私は怖がろう。

まるで、私の気持ちを知っているかのような言葉が、ここで祈りの言葉として記されています。この言葉を自分に言い聞かせるように、声に出して読む。そうすると不思議です。言い知れない深い平安が私を包むのです。

 自分を慰める言葉というのは、自分の中からは出てきません。自分で自分を励ますように言い聞かせたとしても、自分を奮い立たせることはできるかもしれませんけれども、いつまでももつものでもありません。また、それは誰かに元気になれるような言葉をかけてもらえればいいということでもありません。それこそ、一杯やりながら同僚と語り合うことも気分転換にはなりますが、自分を支える確かなものにはなり得ません。

 私を支える言葉、それはいつも外からくる言葉です。こう声をかけて欲しいというような自分の望むことではなく、外からくる言葉というのは、権威があり、存在を支えるような言葉です。それが、聖書の言葉だと言っていいと思います。

主は私の光 私の救い。だれを私は恐れよう。主は私のいのちの砦。だれを私は怖がろう。

「主は私の光」。冒頭から、こういう言葉が出てくる。この詩篇の作者は、「ダビデによる」とあります。ダビデはイスラエルの王です。王には、王の悩みがあったでしょう。ダビデの生涯を見てみると、ほとんどが困難の連続であったと言っていいと思います。聖書でなくてもいいかもしれません。NHKの朝ドラをみる。大河ドラマをみる。こんなに次々にいろんなことが起こるかと思うほど、いろいろなことが起こる。もちろん、ドラマというのは、そういうエピソードだけを切り抜いて、その人物を描き出すわけですから、当然なのかもしれません。さまざまなこと、それこそ予想もできないようなことが、次々と起こる中で、ダビデは自分を支えるのは、光の主なのだと祈りました。闇の中に自分を閉じ込めるようなお方が、私の主なのではない。私の主は光の主。私の救い。そういうダビデの祈りの言葉を聞く時に、私たちもまた、この聖書に記された神が、光の主であることを、救いの神であることを知ることができるのです。 (続きを読む…)

2018 年 10 月 28 日

・説教 マルコの福音書9章42-50節「小さい者として」

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2018.10.28

鴨下 直樹

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 今日のテーマは、「天国」と「地獄」の話しということができると思います。私は、父が牧師であったこともありますし、父が伝道者として色々な伝道集会で奉仕をしていたので、子どもの頃からたくさんの説教者の説教を聞いてきたと思います。その当時、教会の伝道集会であるとか、なんとかクルセードという名前の付けられた大衆伝道集会というものが比較的たくさん行われていました。クルセードというのは、もともとは「十字軍」のことを意味する言葉ですが、福音派の教会では「大衆伝道」という意味で使われていました。このクルセードという伝道集会で、福音派の著名な牧師たちは、天国と地獄の説教を何度となくしてきました。きっと今から30年ほど前に信仰を持たれた方は、そういう説教をよく聞く機会があったと思います。

 その説教というのは、神さまを信じないと地獄に落ちてしまうので、信じて天国に行きましょうというようなお勧めを語ってきたわけです。そして、そのころに、よく語られた聖書箇所が、今日の箇所だと言っていいと思います。

 ここに「ゲヘナ」という言葉が出て来ます。新共同訳聖書では「地獄」と訳しています。このゲヘナという言葉は、イスラエルに実際にあったベン・ヒノムの谷という、エルサレムの城外にあったゴミ捨て場のことです。そこでは、常にゴミが燃やされていたので、火が燃え続けている場所でした。そういう場所を語りながら、神の裁きを語ったのです。そして、神の裁きを受けるか、神の国に入るか、どちらが大切なのかということを、ここでは問いかけているわけです。

 「神の国」のことを、マタイの福音書では「天の御国」と訳しています。私たちがよく耳にする「天国」というのは、この神の国、主イエスが共にいてくださること、神が支配してくださるこという意味があります。ですから、この「天国」という言葉は、死後の世界、それこそ頭に輪っかがついていたり、天使の羽がはえていたりというようなイメージの天国というよりも、今ここで神が私たちと共にいて働いてくださるという意味があるわけです。もちろん、この神の国は将来のこと、死後のことも含んでいますけれども、今すでにということが大事なのです。そうであるとすると、この「ゲヘナ」とか、「地獄」とされている言葉も、死後の世界に、永遠に燃えている火で苦しむ場所というよりも、神の裁きという意味であると理解してくださるとよいと思います。

 さて、今日の箇所ですが、この直前の箇所までは、主イエスの寛容さが語られていましたから、ここから急に厳しいテーマに変わったという印象を持つ方があると思います。今日の前半の部分には何度も、「つまずき」という言葉が繰り返されています。このテーマはつまずきなのですが、最初の42節では「わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者」が神のさばきの対象、つまり、首に石臼をつけて、海に投げ込まれた方がよいと書かれているわけです。 (続きを読む…)

2018 年 10 月 21 日

・説教 ヘブル人への手紙11章23-30節、ヨハネの福音書14章27節「男はつらいよ! ~モーセ編~」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 07:41

2018.10.21

鴨下 直樹

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 先ほど、「聖書のおはなし」で、妻がモーセの生涯をその妻チッポラの視点から紹介してくれました。「フーテンの寅次郎」ならぬ、「フーテンのモーセ」といったようなモーセの生涯を少し理解していただけたのではないかと思います。

 モーセは、120年の生涯でしたが、落ち着いて一つのところに留まるということが出来なかった人です。妻のチッポラはそういう夫をどのような気持ちで見ていたのか、私は考えて見たこともなかったのですが、それはきっと大変なことだったのだと思います。

 このモーセについては、もう今からかなり前のことですが、映画の「十戒」という、当時はかなり注目を集めた作品がありますから、どこかで見たことのある方もあるかもしれませんし、あるいは少し前だと「プリンス・オブ・エジプト」というアニメの映画もあります。ぜひ、一度見ていただきたいと思います。モーセの生涯については先ほど、簡単に話していただきましたけれども、今日の聖書箇所であるヘブル人への手紙も、そのモーセの生涯をまとめて書いてあるところです。

 今日は、午後から私たちの教会の長老で、元岐阜県美術館の館長であった古川秀昭さんによる「楽しいキリスト教美術講座」を行います。この美術講座のテーマも今回は「男はつらいよ」としてくださいまして、モーセの生涯を描いた美術作品の紹介をしてくださることになっています。そんなこともあって、ここで、、シャガールの描いた絵を見ながら、モーセの生涯を簡単にお話ししたいと思います。

ファラオの娘と葦の籠

ファラオの娘と葦の籠

 

モーセは、当時イスラエルの人々がエジプトに移り住んでいてエジプトの奴隷として働いていた時代に生まれました。当時のエジプトの王はファラオと新改訳2017では訳されています。これまではパロと訳されていた王です。このエジプトの王ファラオは、エジプト国内にイスラエル人が増え続ける状況を恐れて、男の子が生まれたら殺してしまうよう命令を出します。モーセはそのような背景の中で生まれたのです。モーセの母親は生まれたばかりのモーセを殺すことができず、葦で編んだ籠に入れて川に流します。エジプトのファラオ王の娘がモーセを拾ったことで、エジプトの王子として育てられることになるわけです。この絵は、モーセの姉のミリアムが葦の籠に入っている赤ちゃんを見つけたファラオの娘に、乳母がいますと伝えている場面です。


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2018 年 10 月 14 日

・説教 マルコの福音書9章38-41節「弟子の視点と主イエスの視点」

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2018.10.14

鴨下 直樹

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 聖書を読む時に、大切なことがあります。コンテキストといいます。文脈と訳されることが多いのですが、その前後に何が書かれているかということをちゃんと理解をして聖書を読むことが大事なのです。

 今日の箇所は比較的短い箇所です。説教をするときに、どこで区切るのかということもありますが、今日の箇所は、この前の部分である30節から37節までのところと非常に深く結びついている箇所です。この前のところでは、誰が一番偉いのかということが主題になっていました。そして、主イエスは子どもを真ん中に立たせてから、37節のところで、

「だれでも、このような子どもたちの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。」

と言われたのです。
 今日の個所はそれを受けてのことです。そういう流れの中で、主イエスの弟子のヨハネが、主イエスに一つの報告をしたのです。

「先生。あなたの名によって悪霊を追い出している人を見たので、やめさせようとしました。その人が私たちについて来なかったからです。」

 主イエスは「わたしの名のゆえに受け入れる」という話しをなさったことを受けて、ヨハネなりに考えたわけです。主イエスの名によって小さな子どもを受け入れるのは、主イエスを受け入れることになる。それは、分かる。けれども、受け入れてはいけない場合もあるのではないか。そんなことをヨハネが考えたのでしょう。そこで、こういう場合はどうですかと、問いかけたわけです。 (続きを読む…)

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