2012 年 6 月 24 日

・説教 マタイの福音書25章1-13節 「望みに生きる」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 18:56

2012.6.24

鴨下 直樹

先ほど讃美歌21の230番「『起きよ』と呼ぶ声」を歌いました。讃美歌の上の教会暦のところにアドヴェントと書かれております。もう梅雨入りして夏を迎えようとしているときに、この教会ではアドヴェントの歌を歌うのかと思われた方もあるかもしれません。この曲は、アドヴェントの曲というより再臨の歌です。主を待つという意味ではアドヴェントも再臨も同じですから、こういうくくりになっているわけです。
歌詞を見ていただくと分かるように、この曲は今日私たちに与えられている聖書の箇所、一般的に「十人のおとめのたとえ」と言われているこの箇所から取られたものです。

「起きよ」と呼ぶ声、「めざめよエルサレム」。夜警(ものみ)ら叫びて、闇夜をつらぬき、ひびきわたる声よ。「備えよ、おとめら」。いざ、ともし火 高くかかげ ハレルヤ。花婿迎えよ、祝いの宴に。
こんな歌詞が一節につけられていますが、今日の主イエスのたとえ話がそのまま歌になっているのです。そこからも分かるように、今日のたとえ話はそれほど難しいものではありません。結婚式が花嫁の家で行なわれたようです。花婿の家でも出かける前にお祝いがあったのでしょうか。理由ははっきり書かれていませんけれども、花婿の到着が遅れてしまいます。夜中に到着したのです。そのために結婚式が始まるのが夜になってしまいました。ずっと待ち続けていた花嫁たちに、花婿が到着したからともし火を焚いて迎えなさい、と夜警が言うのです。ところが、どうしたことか、その時十人いた花嫁のうちの5人は油を用意していません。それで、油を備えている花嫁たちに分けて欲しいと言うのですが、分ける分はないので買ってきなさいと言われ、そのまま急いで油を買いに走ります。しかし、油を手に入れて戻って来た時には戸が閉じられてしまい中に入ることができなかった、という話です。油断という言葉がそのままあてはまるたとえ話です。

みなさんはこのたとえ話をお聞きになってどんな事をお思いになるでしょうか。 (続きを読む…)

2012 年 6 月 17 日

・説教 マタイの福音書24章32-51節 「滅びることのないもの」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 17:35

2012.6.17

鴨下 直樹

今、主イエスの最後の説教を共に聞き続けています。この説教は二十四章から二十五章まで続いていますので、本当ならば一気に読んでしまうほうが良いのですけれども、少しつづ区切って学んでいます。今日の三十二節からも本来ならばここで区切るべきではありません。内容がここで変わっているわけではないからです。
主イエスはここでずっと一貫して、終わりの時に生きる者としての心備えを語っておられます。ずっと語られていることは忍耐です。あるいは、主への信頼と言ってもいいかもしれません。終わりの時に備えて必要なことは神への信頼なのだと言っているのです。

私が教えております名古屋の東海聖書神学塾に、私が神学生の時に実習として行っていた岡崎教会の方が神学生として学びに来ております。私と同年代の方です。私がこの教会にいた時、ドイツの宣教師であるベルンス・ラインハート先生が岡崎で開拓を始めたばかりでした。そんなこともあって、彼の顔を見ていると神学校の授業中に思わず、私が岡崎で経験したことや、このベルンス先生のことを思い出して話をしてしまうことがあります。そうすると、授業そっちのけで雑談に花が咲いてしまうのですが、先日の授業でこんな話をしたのです。 (続きを読む…)

2012 年 6 月 10 日

・説教 マタイの福音書24章15-31節 「警告・終わりの時に」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 17:03

2012.6.10

鴨下 直樹

今日の聖書の中に面白い言葉があります。カッコ書きにくくられておりますけれども、そこには「読者はよく読み取るように。」と書かれています。どうしてわざわざこんな言葉があるのでしょうか。どうせ書くのであれば、もっと大事なところにあってもよさそうなものです。これはカッコには入れられていますけれども、最初から書かれていたらしいのです。ですから、新共同訳聖書などはカッコではなく縦の線が引かれていまして、その中に「読者は悟れ。」となっています。
何を悟るのでしょうか。何を読み取ったらよいのでしょうか。もちろん、その直前に書かれているところのことです。十五節にはこう記されています。

それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。

と記されています。その間に、「読者はよく読み取るように。」と書かれているのです。

この預言者ダニエルによって語られた「荒らす憎むべき者」については少し説明がいると思います。 (続きを読む…)

2012 年 6 月 3 日

・説教 マタイの福音書24章1-14節 「最後まで耐え忍ぶ者」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 15:04

 

2012.6.3

鴨下 直樹

 

 先週、七つの悲しみについて書かれた主イエスの言葉を聞きました。山上の説教で語られた八つの幸いに対応するように語られた言葉です。もう二年も前になりますから思い起こして頂かなければならないかもしれませんけれども、山上の説教で語られた幸いの言葉は、心の貧しい者は幸いです、悲しむ者は幸いです、と語られていました。決して幸せとは思えないようなことが、神がその生活を支配してくださるならば、悲しみも幸いとなるのだと語られていました。しかし、ここで語られている、忌まわしいものだ、わざわいだと語られている言葉は、この世界では当たり前に行なわれている、人にどうしたら自分を良く見せることができるかということです。けれども、神がその生活を見てくださっていないならば、そういう生き方はこの世界では通用したとしても悲しいことなのだ、と語られています。

 普通幸せではないと思えるところで主は幸せなのだといい、この世界で幸せだといわれるところで、それは悲しいことなのだと語る。ここに、主の心があることを私たちはいつも忘れないでいたいと思います。

 

 そして、その言葉が語られたところで、主イエスの嘆きの言葉はさらに続きます。 (続きを読む…)

2012 年 5 月 27 日

・説教 マタイの福音書23章13-39節 「偽善者として生きる?」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 13:08

 

2012.5.27

鴨下 直樹

 

 今朝もまたと言ってもいいかもしれませんが、説教の題が変わっています。予告されているものでは七つの悲しみとなっていましたけれども、「偽善者として生きる?」と改めました。いつものことですが、毎月前の月に来月の説教箇所とタイトル、讃美歌を選びます。六月のものもすでに印刷されて今日みなさんの手元に届いていると思います。けれども、まだ一ヵ月も先の説教までできているわけではないので暫定的なものにすぎません。これは、前任の後藤牧師の残していった遺産ということになっております。私にしてみれば、そのために毎回、今日もタイトルを変えなくてはならないと胃酸を飲みたくなる思いをしておりますが、そういうわけですからお許し頂きたいと思います。

 

 さて、今日の聖書箇所には「忌まわしいものだ。」という言葉が八回出てきます。これは口語訳聖書は「わざわいである。」と訳されたり、新共同訳聖書では「不幸だ。」と訳されております。この言葉は、マタイの福音書のはじめに時間をかけて学びました山上の説教の冒頭に八回にわたって語られた「幸いです。」という幸いの祝福を告げる言葉に明らかに対応して、ここでは「不幸だ。」、「わざわいだ。」と記されているわけです。

 わたしはいま聖書に「忌まわしいものだ。」とあると説明しましたけれども、すでにお気づきになられた方も多いと思いますが、新改訳聖書の第三版では、ここは「わざわいだ。」と訳が変えられております。 (続きを読む…)

2012 年 5 月 20 日

・説教 マタイの福音書23章1-12節 「一番偉大な者」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 17:35

2012.5.20

鴨下 直樹

昨年からみなさんに、ぜひ聖書を読んでくださいという話をしています。そのためか、みなさんずいぶん熱心に聖書を読んでくださっています。来週から聖書全巻痛読会という家庭集会も開かれようとしています。教会の牧師として大変嬉しく思います。ぜひ、聖書を読むということを日頃の習慣にしていただきたいと思います。
けれどもいざ聖書を読もうとすると、誰もが経験のあることだと思いますが、ただ読むだけでいいのかということがどうしても気になります。せっかく読むのであるから、何が書かれているか理解したいし、聖書が分かるという経験をしたいと願う。そうやって聖書を読んでいきますと、どうしたらこの箇所に書かれていることを実行する事が出来るかということに心がとまるようになります。自分はここから何をしなければならないかと考えて読むのです。そのように聖書を読んでいきますと、あまり難しいことを考えなくても比較的簡単に読めますから、ついついこのような読み方が身についてしまいます。
もちろん、そのように聖書を読むということは間違ったことではありません。けれども、そうやって「自分は何をしなければならないか」と考えながら聖書を読んでいるうちに、だんだん聖書を読むことが楽しくなくなってきます。聖書を読めば読むほど、自分がしなければならないことが増えていくからです。それで、気がつくとだんだんと聖書を読むことに疲れてしまって、ついには読むことを諦めてしまいます。まぁ毎週教会で説教を聞いているから大丈夫だとか、祈祷会で学んでいるからいいと考えてしまうかもしれせん。けれども、聖書を読むことを諦めてしまうということは、やはりとても残念なことです。

今日の聖書の箇所はいつも出てきています律法学者、パリサイ人に対して主イエスが語られているところです。読みようによっては、ここでパリサイ人たちをやっつけてしまわれた主イエスが、身内の者たちにまるでこれまでのうっぷんを晴らすかのように、ぐちぐちと批判をしておられるように読めます。この次のところなどは、いよいよ主イエスの口がなめらかになって、言いたい放題彼らの悪口をし始めているかのようですが、そうではないのです。 (続きを読む…)

2012 年 5 月 13 日

・説教 創世記3章1節ー12節 「あなたはどこにいるのか」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 12:12

本日は、野田 喜裕牧師が説教をして下さいました。

2012 年 5 月 6 日

・説教 マタイの福音書22章34ー46節 「最後の問い」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 22:27

2012.5.6

鴨下 直樹

今朝の礼拝説教のタイトルがまた変わっていることをすでにみなさんはお気づきになられたと思います。先週の週報や月間の予定表には「一番大切なこと」となっていました。この「一番大切なこと」というタイトルはすでに聖書をお聞きになれば何を意味しているかすでにお分かりのことと思います。パリサイ人が主イエスに「律法の中で、大切な戒めはどれですか。」と尋ねたことに対して、主イエスのお答えが「これが大切な第一の戒めです。」と言われたところがきているわけです。
「最後の問い」と言われると少し考えなければなりません。実は、ここは長い間なされた主イエスとパリサイ人やありとあらゆる人々との論争の最後の場面になるのです。主イエスをためすためになされた最後の問いが、実は今日の箇所なのです。

今日の聖書のところには少し面白い書き方がしてあります。

しかし、パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人たちを黙らせたと聞いて、いっしょに集まった。

と三十四節にあります。実は主イエスがエルサレムにお入りになられてから、これまであらゆる人々がやって来て主イエスに難問を突き付けてきておりましたが、実はまだ一度も直接パリサイ人からの問いはなされておりません。例えば十五節以下のところを読みますと、パリサイ人はヘロデ党の者に質問させているという場面はあります。また、主イエスのお答えが自分たちに向けて言われていることに気づいてイエスを捕らえようとした、などということはすでに記されておりますけれども、直接に問うのはここの場面なのです。 (続きを読む…)

2012 年 4 月 29 日

・説教 マタイの福音書22章23-33節 「生ける者の神」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:46

2012.4.29

鴨下 直樹

先週、私はある一冊の本を読んで過ごしました。それは、精神科医で作家でもある加賀乙彦さんが最近出版された『科学と宗教と死』という小さな本です。小さな本ですけれども、この加賀さんの自伝と言ってもいいような内容の書物です。自分が医師としてどのように生き、作家としてどう生きたか。特に、「死」という問題に生涯向かい合ってきた人ですから、死をめぐるいくつもの言葉が載せられています。
この本を読みながら、木曜に近くにありますキリスト教の老人ホームを訪れ、そこでイースターのテーマで短い説教をしてきました。大変印象的な体験となりました。そして昨日、執事であるKさんのお母さんが倒れたという知らせを受けました。
この一週間、死ということを心にとめ続けてきた一週間だったと言っていいと思います。

そのように、この一週間ずっと死ということを考えながら、この今朝与えられている御言葉を読み続けてきたのです。それは、私にとって特別な体験となりました。ここで語られていることも、「死」の問題です。
「人は死と向き合うとどうなるか。」 (続きを読む…)

2012 年 4 月 22 日

・説教 「慈しみという人格」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 12:10

本日は、鴨下 わたる 牧師が説教をして下さいました。

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