2011 年 9 月 18 日

説教:マタイの福音書15章21-28節 「りっぱと主に言われた祈り」

Filed under: 礼拝説教 — 鴨下 愛 @ 13:32

2011.9.18

鴨下 直樹

 先週の水曜日と木曜日の祈祷会の時に、長い間アメリカで牧師として働いてこられた田中啓介牧師から「仏教と信仰」というテーマでお話くださいました。実は私もその時まで知らなかったのですけれども、この田中牧師は岐阜の高山に陣屋というところがありますけれども、そのすぐ近くにあります大きなお寺の息子として青年時代までを過ごしたということでした。そして、アメリカにわたって信仰を持ち、牧師になった。ところが、アメリカに住んでいる多くの日本人たちが日本に住んでいる日本人以上に仏教を熱心に信じる姿をみながら、必然的に仏教についてもう一度学びなおす必要があったのだそうです。それは良く分かることです。先週も、実に明確に仏教について、特に、ブッタが教えて信仰について教えてくださいました。

 そのお話の中で私が特に面白く聞いたのは、日本の仏教に限らず、人が祈る時に何を祈るのかということをお話になりました。祈りの内容を大きく分けると、家族が無事であること、病気や災いから守られること、お金の必要が満たされることの三つだと言われました。家内安全、無病息災、商売繁盛というわけです。その話をなさりながら田中牧師が問われたことのは、この三つの祈りの祈りと私たちの祈りのどこが違うかということでした。私たちも同じように祈っているのではないかということを問いかけられたのです。 (続きを読む…)

2011 年 9 月 11 日

説教:マタイの福音書 15章1-20節  「神の言葉によって」

Filed under: 礼拝説教 — 鴨下 愛 @ 20:16

2011.9.11

鴨下直樹

「食事をする前には手を洗いましょう」と私たちは小さな時から聞かされています。大事なことです。今から何年か前のことですけれども、夏に学生の長期キャンプというのを行なっていました。マレーネ先生と共に、二十名ほどの学生たちを連れて色々なところに出かけました。そこで、二週間ほどのキャンプをするのです。その年は割合に近いところ、岐阜県の白川郷でキャンプを行ないました。いつもは北海道とか、沖ノ島というような遠い所に出かけますから帰りの準備をするのは大変なのですけれども、白川郷はそれほど遠くありません。それで、キャンプが終わる最後の昼食はバーべキューをして帰ることになったのです。もちろん、みな楽しく食事をしまして、車に乗り合わせて高速道路を走って帰ります。すると、私のお腹の調子が良くない。すぐにお腹が痛くなってしまってトイレに立ち寄ります。パーキングを出て少し走るとまたお腹が痛くなる。私が何度もトイレに走る姿を学生たちはずいぶんと楽しそうに見ていました。誰かが「食中毒ではないか?」と言いだします。食事の準備をしたマレーネ先生としてはそんなことは聞き逃せません。そんなに変なものを出したつもりはないというわけです。すると、別の学生が言うのです。「いや、鴨下先生だけは手を洗わないで食べていた」と。

家に帰ってすぐに病院に行きましたら、残念ながら本当に食中毒ということでした。他の誰もなっていないのに、私だけです。食事をする前に手を洗うというのがどれだけ大事なことなのかを身を持って体験することになったわけです。

しかし、この聖書の物語を読んで慰められるのは、食事の際に手を洗わなかったのは、主イエスの弟子たちだけでのことではなかったようです。どうも主イエスも手を洗っておられなかったのです。主イエスが手を洗っておられたとすれば、その弟子たちも当然手を洗ったはずです。そうしますと、手を洗わなかった私としては少し慰められるところです。 (続きを読む…)

2011 年 8 月 28 日

・説教 マタイの福音書14章22-36節 「恐れに立ち向かわれる主」

Filed under: 礼拝説教 — naoki @ 12:39

 

 

2011.8.28

 鴨下直樹

 

 今、信徒交流月間ということで、毎週行なわれている祈祷会で信徒の方々が色々な話をしてくださっています。今年はほとんどの会に参加することができていますけれども、本当に毎週大変楽しみにしています。先々週のことですけれども、医師をしているTさんがお話くださいました。この方は外科医をしていまして、腫瘍が専門です。そうすると、どうしても死を目の当たりにしている方々と関わることになります。そこで、ひとりのキリスト者の医師として、死にある患者に対して自分がどういう思いで接することができるかということをお話くださいました。

 死と向かい合うというのは、誰もが避けては通れない道です。その中でTさんは、多くの癌患者が初めは非常に激しい抵抗を見せるけれども、誰もがしばらくすると、どこか腹が据わってくるようで、自分の与えられた命の時間を受け止めて行くのだということをお話し下さいました。これは私には非常に興味深いことでした。その人の中で何かが起こるというのです。Tさんはその人の中で何が起こっているのか聞いてみたいけれども、なかなかそれはできないということでした。 (続きを読む…)

2011 年 8 月 21 日

・説教 マタイの福音書14章13-21節 「貧しい食卓の幸い」

Filed under: 礼拝説教 — naoki @ 12:41

 

2011.8.21

 鴨下直樹

 

 今お聞きしましたこのマタイの福音書の物語は「五千人の給食」と呼ばれて非常に多くの人々に親しまれている出来事です。福音書のなかにはいくつもの奇跡物語が記されていますけれども、十字架と復活の出来事と同じように、この物語だけはすべての四つの福音書に記されています。

 それは、それだけ、この出来事が人々の心に残ったということでしょうし、また、この出来事の持つ魅力は多くの人々の慰めになったのだろうと思います。

 

 五つのパンと二匹の魚で男の数だけで五千人の人々が食べて満腹したという奇跡の物語です。多くの人々はこの物語にさまざまな魅力を感じてきました。その中でも特に代表的なものは、このような奇跡を通して神様はその時の必要を満たしてくださるお方だというように理解されることが多いのです。あるいは、少ししか持っていなくても、神様の手によれば何倍にも祝福されて増えるという理解です。

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2011 年 8 月 14 日

・説教 マタイの福音書14章1-12節 「喜びの食卓の中の悲しみ」

Filed under: 礼拝説教 — naoki @ 12:42

 

 

2011.8.14

 鴨下直樹

 

 今朝、私たちに与えられている聖書の個所は多くの画家たちによって描きだされ、あるいは、戯曲やオペラの映画などのテーマにもなっている良く知られた物語です。そこではこの少女の名前「サロメ」というテーマがつけられることがほとんどです。

 ところが、すでにお気づきの方も多いと思いますけれども、今お聞きになられた聖書の中には、この「サロメ」という名前は一度も出てきておりません。これは、マタイの福音書のみならず、他の福音書にも記されていないのです。けれども、このヘロデヤの娘の名前はサロメであるということは、もはや誰もが知っています。といいますのは、この時代の歴史学者のヨセフォスが、このバプテスマのヨハネの殉教の物語をずいぶん詳しくその歴史書の中で記しているからです。そこに、このヘロデヤの娘の名前がサロメであったということがはっきり記されているのです。

 サロメという名前は、へブル語のシャロームという名前に由来する言葉です。平和という名前なのです。しかも、ここでは少女であると記されています。十代の半ばであっただろうと考えられています。十五、六歳の平和という名前の少女です。そのような名前を持つ少女がここで、「今ここに、バプテスマのヨハネの首を盆に載せて私に下さい」と言ったと言うだけでも確かに人の心をひきつけるものがあるのかもしれません。そして、この考えられないような非日常的な出来事に、多くの人々が想像力を掻き立てたのです。

 そのような想像力は、最後にはまだ少女であったこのサロメがバプテスマのヨハネを愛していたのではなかったかというところまで膨らんで行きます。そして、その愛が叶わないのであれば、首を求めるものによってまでして、自分のものにしようとしたという、女の恐ろしいばかりの愛の執念というモチーフが多くの芸術家のかっこうの題材になったのでした。 (続きを読む…)

2011 年 7 月 31 日

・説教 マタイの福音書13章53-58節 「味わい見よ、神の御言葉を!」

Filed under: 礼拝説教 — naoki @ 12:49

 

 

2011.7.31

 鴨下直樹

 

 

 今日、私たちに与えられている聖書の個所には大変有名な言葉があります。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、自分の家族の間だけです。」

 この「預言者は自分の郷里では敬われない」という言葉は色々なところで使われました。例えば牧師が、自分の故郷で伝道すると言う時には、必ずと言ってもいいほど引用されます。「イエス様だってできなかったんだから、自分にできるはずがない」と言うのです。

 

 私が神学生のころに、比較宗教学という授業がありました。その中で、当時世間を騒がせていた宗教団体、無差別殺人を企てるような反社会的な宗教のグループがありまして、その教祖の書いた物をレポートするという課題がありました。それで、その教祖の書いた本を手にとって読んだのですけれども、どうしてこんな稚拙な文章しか書けないような人物のところに、多くの学歴の高い人々が虜になったのか良く分からいくらいでした。

 その本の中にはいくつもの聖書の言葉を引用しています。その中でも特に印象をもったのが、この「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、自分の家族の間だけです」という言葉を用いて、自分は自分の故郷にいくと、敬われていないのだと述べて、だから自分はメシヤなのだという論理で書き記しているのです。故郷の人や、家族と言うのは、本当の自分のことを分かってくれないのだ、見抜けないのだというのです。メシヤにはそのような苦しみがあるのだと言っているのです。 (続きを読む…)

2011 年 7 月 24 日

説教:マタイの福音書13章44-52節 「天国の専門家として」

Filed under: 礼拝説教 — 鴨下 愛 @ 19:36

2011.7.24

鴨下直樹

先週の日曜日、私はマレーネ先生と一緒に青年キャンプの奉仕に行ってまいりました。青年キャンプのテーマは「旅」です。聖書の中には旅を連想させる言葉がいくつもあります。

今、水曜日と木曜日の祈祷会で創世記をずっと学んでおりまして、現在はヤコブのところをもう少しで終わろうとしています。この祈祷会でアブラハムの生涯から順に学びはじめまして、ヤコブのところまで来たのです。私が、聖書の中から「旅」と聞いて直ぐに思い起こすのは、このアブラハムの生涯です。先日も、祈祷会の時に、少しアブラハムの生涯を振り返ってみたのですけれども、アブラハムの旅というのは、大変なものであったと言っていいと思います。まず、神から約束の地に行きなさいと言われて、約束の地、カナンの地に到着するのですけれども、そこには食べ物がなかったのです。到着したという報告もないままに、聖書は「さて、この地にはききんがあったので」と創世記第十二章十節に書かれています。

みなさんでも、そうでしょうけれども、どこかに旅行に出かけて、ついたホテルに食事がなかったなどということになったら、そんな旅行契約を立てた旅行会社に文句を言いたくなるでしょう。神様が旅を計画してくださるのだから、安心して身を預けたらいいということが記されているかと思うと、そんなことは全くないのです。

主イエスもまた、アブラハムと同様、旅の生涯をおくった人と言っていいと思います。ところが、主イエスもまた、天からこの地にお生まれになった時から、泊る宿さえなかったのだと、このマタイの福音書は記しています。神が私たちに与えてくださるこの人生の旅路というものは、どうも、それほど居心地のよいものではなさそうです。 (続きを読む…)

2011 年 7 月 10 日

説教:マタイの福音書13章24-43節 「よいものと悪いものとの中で」

Filed under: 礼拝説教 — 鴨下 愛 @ 21:55

2011.7.10

鴨下直樹

マタイの福音書の第十三章にはいくつもの主イエスがなさったたとえ話があります。有名なたとえ話と、あまり知られていないたとえ話があります。有名な、というのは少し正しくないかもしれません。よく耳にするたとえ話というのがあるのです。それは、なぜかと言うと、ほかの福音書にも同じたとえ話がでてくるからです。けれども、今朝、私たちに与えられているこのたとえ話は、主イエスがなさったたとえ話の中でも、マタイの福音書にしか記していません。ですから、それほど良く知られているたとえではないと言えるかもしれませんけれども、だからと言ってそれが大事の話ではないということにはならいのです。そのたとえ話が二十四節から三十節までに記されている、一般に「毒麦のたとえ」と言われているたとえ話です。 (続きを読む…)

2011 年 7 月 3 日

説教:マタイの福音書13章1-23節 「天の御国の秘密」

Filed under: 礼拝説教 — 鴨下 愛 @ 19:20

2011.7.3

鴨下直樹

私たちの教会では年に二回、「楽しいキリスト教美術講座」を行なっています。前回は二週間前に行なわれました。講座を開いてくださっているのは、私たちの教会の長老でもあり、岐阜県美術館の館長でもある古川秀昭さんです。特に、今回は20世紀の宗教画家ともいえるジョルジョ・ルオーの絵を紹介してくださいました。

これは大変興味深い講座でして、いつもよりも多くの方々が参加してくださいました。この講座の中で古川さんが、いくつも興味深い話をしてくださいましたが、私の心に特に残ったのは、このルオーが娼婦と道化師を沢山描いているのですが、どれも非常に醜く描いているということでした。あるいは裁判官も描いているのですが、それもやはり非常に醜く描かれているのです。なぜ、そのような人間をルオーが好んで醜く描くのかというと、古川さんはその講座の中で、醜い人間の姿のなかに、現代の人間の闇を捕らえていて、そこに、キリストの光が届くことを願っていた画家であったと言われました。 (続きを読む…)

2011 年 6 月 12 日

説教:マタイの福音書12章38-45節 「届く言葉を与えられ」

Filed under: 礼拝説教 — 鴨下 愛 @ 21:40

2011.6.12

鴨下直樹

今朝、私たちはペンテコステの主の日の礼拝を覚えて祝っています。ペンテコステと言うのは、神の霊が、弟子たちの上に与えられて新しい存在へとされたことを覚えて祝う日です。私たちが真の人間として回復される、本当の自分を取り戻すことができることを覚えて祝う日です。ですから、この朝私たちは、この希望を覚えて祝っているのです。

今、私たちはマタイの福音書の十二章を学んでいます。この十二章の大部分の割合をしめていますのは主イエスとパリサイ人たちとの論争です。論争というくらいですから戦いです。勝ち負けがつくのです。もちろんそのように挑んで来ているのはパリサイ人たちです。けれども、そのきっかけは、当時のユダヤ人たちが働いてはならないとしてきた安息日に、主イエスの弟子たちが麦を摘んで食べたことからはじまっています。そして、その後で、まるでこのパリサイ人たちに挑むかのように会堂で癒しの業をなさったのは、主イエスの方からでした。ところがこの癒しを見て、パリサイ人たちは、これは悪魔の頭が悪霊をお追い出しているだけのことと、調子に乗ってその種明かしをしたのです。それに対して主イエスはそんなことは論理的にも起こり得ないことだし、また、その罪は赦されない罪だと言われたのでした。 (続きを読む…)

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