・説教 出エジプト記14章13ー14節 「黙っていなければならない」
本日はマレーネ・シュトラスブルガー師が説教をして下さいました。
「アジアが生んだ天才的な小さな手」と称賛された、全盲のピアニスト、グレース・オーさんをお迎えして、ピアノ演奏とトークをお届けします。
2014.10.19
鴨下 直樹
ヨハネの福音書というのは、とても興味深い書き方をしています。この前のところで、仮庵の祭りの時に、主イエスの兄弟たちは、今こそ好機なのだからエルサレムに行って目立つような働きをすることこそが成功の近道だ、という提案をいたしました。しかし、そこで主イエスは「わたしの時はまだ来ていません」と言われて、この提案を拒んでいます。
ところがです。今日のところを見ると、10節で「しかし、兄弟たちが祭りに上ったとき、イエスご自身も、公にではなく、いわば内密に上って行かれた。」と書かれています。しかも、「内密に」と書かれているので「こっそりエルサレムに行ったような印象を持ってしまいますが、どうも14節をみると「宮に上って教え始められた。」とありますから、こそこそしたエルサレムの宮参りというわけではなかったようです。こともあろうに、神殿で大胆に語り始めてしまっているのです。
実は以前にもこんなことがありました。ガリラヤのカナで、あの水をぶどう酒に変えられた時のことです。主イエスの母が、「ぶどう酒がありません」と主イエスに言うのですが、その時も「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」と言われたのです。関係ない、わたしのでる時ではないのだと言いながら、主イエスは結果として、ご自分でやらないと言われたことをなさっておられます。いや、言われたこと以上のことをなさったと言ったほうがいいかもしれません。「あまのじゃく」という言葉がありますが、「やらない、やらない」と言いながら、ちゃっかりやってしまう姿に、そのような連想をするのも仕方ないことと言えます。
もちろん、ここで主イエスは、ご自分の兄弟や母の言われることをそのまま聞いて事を行われたのではありませんでした。人の期待に応えるために働かれたのではないのです。これは大切なことです。けれども、神の意志に従って、そこで主イエスは御業をなさいます。ですから、ここに書かれていることは、神が意図しておられることとして読むことが大切です。「わたしの時」とご自身で言われた、その時を来らすための大切な御業をここでなさっているのです。
ここで何が起こったのかといいますと、その神殿で主イエスが教えられたことに対する人々の反応が書かれています。 (続きを読む…)
2014.10.5
鴨下 直樹
来週の火曜日にマレーネ先生がひさしぶりに日本に来日されます。来日と言うべきか、再来日と言うべきか、いつもですと帰国するという言葉を使いそうになります。ついドイツ人であったということを忘れそうになるのですけれども、ドイツから来ておられますから、来日と言うべきなのでしょう。先日、マレーネ先生から郵便が届きまして、その中にドイツのクリスマスの季節のお菓子が入っておりました。もうドイツではクリスマスのものが店に並び始めるようで、とても懐かしい思いになります。この季節はドイツでは一番いい季節と言うことができるかもしれません。そう考えますととても楽しくなってきます。
この季節には、どこの国でもそうですけれども、秋祭りが行われます。この芥見の地域も子供たちが神輿を担いで回ります。最近は、色々な信仰の人がいるためか、おみこしも、アニメのキャラクターのものを作ったりしながら配慮をしているようですが、この地域も子供がすっかり少なくなってしまって、先日の回覧板によると、教会の前は通らないということでした。
最近は、10月になりますとオレンジ色のかぼちゃが店に並んで、ハロウィンというお祭りの気分を盛り立てています。あれはアメリカの習慣なのでしょうか。あまり詳しいことは知りませんが、もともとは、10月31日の宗教改革記念日とこの時期に祝われる収穫感謝祭を合わせたものと、土着の宗教観からうまれたもののようです。以前、教会に電話がありまして、ハロウィンというのはキリスト教の祭りだと思いますがどういう意味ですか、と聞かれたことがありますが、どうも、横文字のお祭りはキリスト教のものというイメージがあるようです。 (続きを読む…)
主日主題: 神の時
聖書: ヨハネの福音書7章1-9節
説教:「わたしの時とあなたがたの時」 鴨下直樹牧師
聖餐式
午後:役員会、各部会、聖歌隊練習(14:00~)
主日主題: 創造
聖書: 創世記1章1-4節
説教:「光よ。あれ」 小澤昌弘執事
午後:教会修養会
主日主題: 神の教え
聖書: ヨハネの福音書7章10-24節
説教:「このパンを食べる者は永遠に生きる」 鴨下直樹牧師
午後:防災訓練、聖歌隊練習、「楽しいキリスト教美術講座」(14:00~)、教団CS教師研修会(笠松教会)、手話講座(15:00~)
主日主題: 神との出会い
聖書:
説教:マレーネ・ストラスブルガー師
午後:ゴスペルカフェ「芋煮会」、教団地区別評議会@瑞穂(14:30)、手話講座(15:00~)
2014.9.28
鴨下 直樹
先ほど聖書朗読を聞かれて、ほっとした方があるかもしれません。やっと、ヨハネの福音書の第6章の最後のところまできました。二か月もかかってしまっていますが、71節までありますから無理もないことです。ただ、あまりにも時間がかかると大切な聖書の流れを忘れてしまいます。聖書は、このようにコツコツと読んでいくことはとても大切なことです。
先週のことですけれども、火曜日の祝日に私の古くからの友人で、長野の安曇野で伝道している小岩井牧師が、一緒に伝道をしているアメリカ人のジャンカー宣教師と一緒に芥見を訪ねてくださいました。何のために訪ねてくれたのかといいますと、彼らは自分たちの教会である書籍を出版しました。タイトルは『確かな土台』というものです。私もこれまで聞いたことがありませんでした。もともとは英語で書かれたもので、教会で聖書を教えるための基本をあつかったものということでした。4冊が一セットになった、なかなか立派な本です。その本を、私が教えている名古屋の東海聖書神学塾の神学生たちに無料で配布したいということで、届けてくださったのです。
水曜日までこの教会に泊まられて、翌日には岡山まで行くということでした。夜は近くの銭湯に行きまして、三人で話していたのですが、私がお風呂で、どういう特徴のある本なのか少し教えてくれないかと尋ねました。ずいぶん丁寧にジャンカー先生が話してくれたのですっかりお風呂でのぼせてしまったのですけれども、とても楽しい時間でした。そこで、ジャンカー先生がこんな話をしてくれました。「私はロード・オブ・ザ・リングの映画が好きなのだけれども特に三巻が好きなのだ。それで、ある時、教会で、ぜひ、この映画の三巻を見てほしい。」と話したのだそうです。この『ロード・オブ・ザ・リング』というのは、イギリスと児童文学者のトールキンが書いた『指輪物語』の映画のタイトルです。このトールキンというのは、カトリックの熱心なキリスト者で、この作品も言ってみれば光と闇の世界の戦いを描いたファンタジーです。小説は大変長いもので、日本語のものは確か七巻まであります。ジャンカー先生が教会でそんな話をしたので、教会のある方が。この映画のDVDを借りて来まして、三巻を見たのだそうです。すると、その方が、こんな感想を言いました。「確かに良い映画だと思いますが、いきなり三巻から見たのでは意味が分かりません。登場人物のつながりや、物語の流れも良く分からないし、なぜ、こんなことになっているのか、これまでの流れがさっぱり分かりません」と。それは当然のことです。すると、ジャンカー先生が私にこう言われたのです。 (続きを読む…)
2014.9.21
鴨下 直樹
先日、祈祷会の時にある方から、ひとつの質問が出されました。「神様が働いておられる教会で、神様に期待することは間違ったことなのか」というのが、その質問の趣旨でした。よくよく話を聞いていると、神様に期待をするというのは、教会の中で誰かに期待をするという意味のようでした。
今、ずっとヨハネの福音書を読み続けております。今日の箇所は、ガリラヤ湖の向こう岸に主イエスが到着されて、それを追いかけて来た群集、ユダヤ人たちとの主イエスとの対話といいましょうか、議論と言ったほうがいいでしょうか、その最後のところです。ここで、群集と描かれてきたユダヤ人たちと主イエスはどこで対話をしていたのかと言いますと、最後の59節で、「これは、イエスがカペナウムで教えられたとき、会堂で話されたことである。」と書かれていて、この議論が安息日に、当時シナゴーグと呼ばれたユダヤ人たちの会堂でなされた議論だったということが分かります。今で言えば教会です。このシナゴーグで人々は、主イエスと対話をいたします。ずっと話していることですけれども、主イエスに期待をしたのです。そして、今日のところで、この対話が終わります。その結果は、来週になるのですが、先に少し話しますと、主イエスの答えはこの会堂に来ていたユダヤ人たちには、納得のいかないもの、気に入らないものでした。
私たちは、実にさまざまな期待を持って教会に集います。神様であればそれは可能なこと、自分としては無理難題を押し付けている気はないのですけれども、その期待通りにならないということがあります。そういうことは、私たちをひどく落胆させます。
特に、その祈祷会で何を期待するのかということで話題にあがったのは、 (続きを読む…)
2014.9.14
鴨下 直樹
さて、この朝も、パンの話が続きます。ガリラヤ湖の対岸に行ってからというもの、それまで、群集と呼ばれていた主イエスを追いかけて来た人々との長い対話が続いています。そして、お気づきになった方があるかどうか分かりませんが、それまで「群集」と書かれていた、主イエスを追いかけてきてパンを求めて来た人々は、ここで「ユダヤ人」と突然書き方が変わっています。「ユダヤ人」と書くことによって、ここでの長い主イエスとの対話が、だんだんと敵対関係になっていく様子が描かれています。
そのきっかけとなった言葉は今日の最初の41節の「わたしは天から下って来たパンである。」という主イエスの言葉から始まります。ここから、群集たち、ユダヤ人との会話の雲行きが怪しくなってくるのです。それまでは、言ってみれば主イエスのファンクラブでもあったかのように、人々は、なぜ我々を置いて行ってしまったのだとは言うものの、主イエスに対する期待に満ちておりました。興奮していたのです。けれども、この長い会話の中で、主イエスはご自分が「いのちのパン」だとおっしゃいました。そして、わたしを信じるということが、本当のいのちを得ること、生活を救うことになるのだと語られたのです。そして、主イエスの話は、今日のところで、さらに展開して、「わたしは天から下って来たパンです」と言われます。
ずっと話を聞いてきている私たちからすれば、どこから雲行きがあやしくなったのかさっぱり分かりません。主イエスは最初からずっと同じことを言っておられるように感じるからです。けれども、よくよく注意して聞いてみると、 (続きを読む…)
2014.9.7
鴨下 直樹
今日はまた、先週に引き続いて32節からのみ言葉を聞きました。もうすでに先週32節から35節までを読みましたので、重なる部分についてはそれほど詳しい説明は必要ないと思いますけれども、どうしてもここに書かれた内容を考えますと32節からもう一度読む必要があると思っています。先月からヨハネの福音書の6章をずっと読み続けています。この6章の中心的なテーマはパンです。五つのパンと二匹の魚から大勢の人々がお腹一杯に食べ、なお余ったものを集めると十二の籠に一杯になったという出来事が記されています。また、モーセの時に天から降って来たマナのこともここで語られています。そして、ついに、今日のところでは、わたしが、神のパンそのものなのだと主イエスはここで宣言なさいました。このところから説教をする間、ずっと語ってきていることです。そして、今日の説教の中心的な部分でもありますけれども、主イエスは、「わたしはいのちのパンです」と自らのことを語られたのです。
はじめて外国語を勉強し始めた人のカタコトの外国語ならまだ何か理解できそうな気もします。私の妻は、自己紹介するときに、英語ですと、アイアム愛と言います。そうすると、どこかからくすっと笑い声が起こります。ドイツ語でもそうです。イッヒビンアイと言うのですが、ドイツ語でアイというのはタマゴのことですから、ここでもびっくりする人があります。アイアムパン、もちろん、ギリシャ語ではそう書かれているわけではありませんけれども、そう言われて、そこに何か特別な言葉の響きを感じなかったとしても、しかたがないかという気持ちにさえなります。
この「わたしは何々です」は、ギリシャ語で「エゴー・エイミー」と言います。すでに、20節に書かれている「わたしだ」と言う言葉がこの「エゴー・エイミー」という言葉だとすでに説明いたしました。そして、今日のところは、その「エゴー・エイミー」、「わたしが何々である」の何々のところに、「いのちのパン」という言葉が入ります。「わたしがいのちのパンである」という主イエスの自己紹介の言葉です。このヨハネの福音書の中には7つこういう表現が出てきます。「私は羊の門です」「私は良い羊飼いです」、「私が道です」このあとに続く主イエスの自己紹介の最初の言葉がここに出てきているのです。
「わたしがいのちのパンです。」主イエスはここで自らを、ご自分が人のいのちを支えるパンとなるのだと、ご自分のことを言い表されました。昨日もぶどうの木の句会がありました。指導してくださっている恵美子さんがこんな俳句を出されました。 (続きを読む…)
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