2018 年 3 月 18 日

・説教 ルカの福音書23章33-43節「十字架の意味」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 16:34

2018.03.18

鴨下 直樹

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 今日は、ファミリー礼拝ということで多くのご家族の方々が子どもと一緒に礼拝に集ってきておられて嬉しく思っています。今、教会の暦ではレントという主イエスの十字架の来住を偲ぶ季節を迎えています。そして、4月1日にはイースター、主の復活をお祝いする日を迎えるわけです。

 今日は、「十字架の意味」という題で少しの間お話をしたいと思っています。教会には十字架がかけられています。私たちの教会も、三角錐のかたちをしている建物ですが、その頂点のところに十字架が掲げられています。今でこそ、十字架はアクセサリーになっていたりすることもあって、あまりネガティブな印象がなくなっていますが。もともとは死刑の方法です。

 先日のニュースで、何年も前に大きな社会問題になったある宗教団体のリーダーたちが、刑の執行のために場所を移されたということが報道されていました。人が処刑にされるという話は、あまり嬉しい知らせではありません。けれども、教会では主イエスの処刑の出来事をこうして教会で語り、主イエスの十字架の死とは、一体何だったのかということについて語りつづけているわけです。それは、私たちにとって、この世界の人々にとって、とても大きな意味をもつ出来事であったことを語りつづけているのです。

 特に今日、先ほど司式者の方が読んでくださったルカの福音書の出来事は、三本の十字架の出来事です。主イエスの他に、二人の犯罪人が十字架にはりつけにされていたことが記されています。

 特に、この34節に十字架の上で主イエスが祈った祈りが記されています。

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

主イエスがそのように祈ったということがここで記されています。

 新しい聖書翻訳の2017年訳をお持ちの方は注のところに少し詳しい説明が書いてあります。そこには「多くの有力な写本にはこの部分を欠いている」と書かれています。今日は、ここでこのことを詳しく説明する時間はありませんが、おそらくこの祈りの言葉はもともとはなかったのではないかと、今は考えられているわけです。けれども、これまでの聖書にはこの言葉は記されてきました。確かな伝承としてこの祈りは記録されているので、この祈りを鉤かっこで括ったり、削除しないで、このまま残されているのです。それは、それだけ、この主イエスの祈りが大きな意味をもつことを認めているからです。 (続きを読む…)

2017 年 12 月 24 日

・説教 ルカの福音書2章1-20節「クリスマスの主役は誰?」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 13:58

2017.12.24

鴨下 直樹

 昨日、子どもの通っている幼稚園のクリスマス祝会が行われました。年長組は、毎年クリスマスのページェントを行うことになっています。劇と歌でクリスマスの物語を演じるのです。十数人の子どもたちですが、小さな学年の時から上の子どもが演じるのを見ながら、私はマリアをやりたい。天使をやりたい。東の国の博士をやりたいと、いろいろ子どもなりに夢をふくらませているのです。でも、自分のやりたい役に、何人も希望者がでると残念ながら、自分が希望していない役であっても受け入れなければなりません。

 そんな時に、娘がこんなことを言いました。「クリスマスの主役はマリアさんでしょ」と言うのです。確かに子どものページェントでは特に女の子には人気のある役ですから、そう考えても不思議ではないのですが、でも、主役となるとどうでしょうか。単純に言えば、この日誕生されたイエスさまが主役ということになるかもしれません。けれども、イエスさまはここではセリフもありませんし、主役というには少し寂しい気もします。

 クリスマスには様々な人が登場します。マリアにヨセフ、東方の博士たち、羊飼い、天使ガブリエル、荒野で賛美をする天使たち、ヘロデ王に、ヘロデに仕える学者、宿屋の主人。クリスマスの劇をするならそのくらいでしょうか。誰が主役なのか。そんなことを問うまでもないほどに、それぞれにドラマがあります。

 先ほど、短いスキットをしていただきました。マリアとヨセフが住民登録のために故郷であるベツレヘムを訪れました。マリアは身重になっていて、そこにいる間に月が満ちたとありますから、お腹ももう大きかったことでしょう。妊婦でありながらナザレからベツレヘムまで旅をしているのです。距離にして約120キロ。その長い距離をロバに乗ったでしょうか。身重のマリアが夫に支えられて旅をする。それだけでもかなりのドラマです。そうやってようやく着いたベツレヘムでは、どこも部屋がいっぱいで、断らなければならない宿屋の主人にも現実的な問題があったと思います。泊めることができませんと断ったのも、決して意地悪ではなかったでしょう。けれども断った相手は妊婦です。実際問題として部屋は他の人で埋まってしまっているのです。どうしようもなかったのです。

 「飼い葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」と7節にあります。ですから、昔から多くの人は、きっと宿屋の主人が可哀想に思って、家畜小屋に泊まらせたのではないかと想像しました。飼い葉おけ。つまり、家畜のえさ入れです。そこに生まれたばかりの新生児を寝かせるということは、想像しにくいのですが、せめてもの宿屋の主人の気持ちがあったのではないか。そう読み取ることができます。この聖書の時代も今とまったく変わることなく、それぞれが自分の人生を必死で生きているのです。

 クリスマスの物語というのは、そういう現実的な生活の中に、神が赤ちゃんの姿となって入ってこられたこと。そこにメッセージがあるということができます。 (続きを読む…)

2017 年 8 月 20 日

・説教 ルカの福音書4章1-13節「荒野の試み」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 13:55

2017.08.20

川村江弥師

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2015 年 12 月 20 日

・説教 ルカの福音書2章8-20節「主の栄光の輝きに照らされて」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 14:02

 

2015.12.20

鴨下 直樹

 

 暗い夜道を歩いていると、突然、すぐ前の家の戸が開きました。すると、真暗であったところに、急に、家の中の明るい光が輝いて来るのです。その光の中で、はじけるような、家の中の楽しい笑い声が聞こえます。誰かを送り出そうというのでありましょう。やがて、ひとりの人が出て来ます。家の中からは、この人を見送るにぎやかな挨拶が聞こえてくるのです。すると、戸が閉じられます。道は、またもとのままの暗さになってしまいます。出てきた人も、闇の中に呑まれてしまって、あたりは、前と同じようになってしまうのです。
 こういう経験をなさったことのある方は、少なくないと思います。ところが、クリスマスの夜の有様は、それによく似ているのです。

 これは、竹森満佐一牧師のクリスマスの説教の冒頭部分です。私の書斎にはいくつもの説教集がありますけれども、おそらく一番沢山あるのはクリスマスの説教集です。クリスマスの聖書の箇所というのはそれほど多くありません。けれども、毎年、クリスマスの説教をする必要があるのでどうしても常に新しい発見をしたいと思うので、クリスマスの説教ばかりが集まってしまいます。ですから、この時期に私はいつもよりも沢山のクリスマスの説教を読むことになります。その中でも、毎年同じ説教を何度も何度も読み返すものがあります。いつか礼拝で紹介したいと思いながら、今日まで出し惜しみして来たのですが、今日、少し紹介させていただきました。もう、この説教を読んでいますと、それをそのまま初めから最後まで読みたくなるほど、私はこの人の説教に引き込まれてしまいます。今日の聖書を説教するのに、これ以上ないというほどに、見事な描写です。

 暗闇の中で夜番をしていた羊飼いたちがほんの一時、天が開けて天のありさまを垣間見た心情を、今の私たちの生活のある場面になぞらえてみながら、この出来事がどういうことであったのか、そこに思いをいたらせるのです。ここで、羊飼いたちが見た、天の輝きが天からこぼれ出て来たありさまは、夜に、家のにぎやかな声が闇夜にこぼれ出てきたのとは、実際には比較できないほどのものであったに違いありません。けれども、この説教の描写は、この時の出来事がどういうものであったか私たちに知らせるには十分の役割を果たしています。
 クリスマスの夜、それは沈黙の夜でした。クリスマスに賑やかだったのは、この地上ではなくて、天上の出来事です。天の御国のあるじを送り出すために、天使たちがグローリアを歌い、まだ、状況もよく呑み込めない羊飼いたちがその歌声を聞く光栄を与えられたのです。このクリスマスの季節にはいたるところで演奏会が行われます。バッハのクリスマスオラトリオやアベ・マリア、ヘンデルのメサイア、ベートーベンの第九とかがこの時期に各地で演奏が行われます。そういう素晴らしいコンサートにも比べられないような賛美がきっとこの時、天から捧げられたのでしょう。

 クリスマスの賑やかさ、華やかさは本来、地上でつくりだすものではなくて、天にすでにあったものです。私たちがそのことを忘れて、自分たちでクリスマスの楽しさを作り出そうとするのはやはり無理があるのだということに目を止める必要があるのだと思います。
 羊飼いたちが野原で夜番をしていた時、地上では眠りについていました。天では、神のところではあわただしくクリスマスの夜を備えておられたのでしょう。しかし、地上では誰も気づいていなかったのです。ここにクリスマスの大切な意味があります。

 クリスマスは何の備えも、用意もない、夜の闇が支配しているこの地上の世界に突如としてもたらされたのです。つまり、それは誰でも、このクリスマスに招かれているということです。自分で、クリスマスを作り出すのではなくて、思いがけず、天から与えられるもの。それがクリスマスなのです。 (続きを読む…)

2015 年 12 月 13 日

・説教 ルカの福音書2章1-7節「クリスマスのしるし」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 15:54

 

2015.12.13

鴨下 直樹

 
 昨日、私たちの教会では二つのクリスマス会が行われました。午前には子どもたちのクリスマス会です。近隣の小学校に案内を配布したこともありまして大勢の子どもたちが集まってくれましたし、教会でやっているハレルヤちびっこクラブという未就園児の子どもたちとそのご両親にも案内をいたしましたので、小さな子どもたちも、親と一緒に教会に集いまして、一緒に楽しい祝いの時を持つことができました。また、午後からは私は行くことができませんでしたけれども、マレーネ先生のお宅でもクリスマスの祝いの時を持ちました。たくさんの讃美歌を歌い、一緒に楽しい時間を持ったのだと思います。そのように、クリスマスには色々な方々をお招きして、一緒にクリスマスの喜びをお祝いいたします。それは、まさに、クリスマスが、神が私たちのところに降りてきてくださって、一緒に生きてくださる、共に歩んでくださることになった記念だからです。ですから、私たちも多くの方々を教会にお招きしまして、できるだけ多くの人たちと一緒に、このクリスマスの本当の意味を味わいながら、一緒に喜ぼうとしているのです。

 けれども、今日の聖書の箇所はルカの福音書の2章1節から7節までのところですけれども、ここに書かれている出来事はクリスマスの物語の一部ですが、ここからあまり嬉しい記事を見つけることはできません。書かれているのは当時のローマ皇帝の命令によって住民登録をするようにという勅令が出たこと、そして、その命令に従って人々はそれぞれ自分の生まれた町に戻るため、住民登録をする旅をしなければならなかったこと、そして、その中で、マリヤとヨセフという夫婦も命令に従いベツレヘムという町まで来たけれども、その旅先で子供が生まれたという出来事が記されています。けれども、その生まれたとき、宿屋には場所がなかったために、飼い葉桶にその子どもを寝かせたと記されています。 物語としてはとてもドラマチックですけれども、現実的に考えてみますととても厳しい出来事が記されています。
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2015 年 11 月 29 日

・説教「隣人となったのは誰か?」ルカの福音書10章25-37節

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 17:11

 

2015.11.29

村上 進

 
 ここから皆さんのお顔を拝見しますと、私のような者がここで「説教」などしてよいのか、と脚がすくむ思いです。「礼拝子ども」でメッセージをお話ししたり、大学のチャペル礼拝で短い奨励をさせて頂くことはありますが、主日礼拝の説教壇に立つのは、実は生まれて初めてです。
 私は神学大学や聖書神学塾で学んだこともありませんし、自分の生活態度を振り返ってみれば、祈りにおいても、聖書を読むことにおいても怠惰です。ところが仮にも牧師の息子ですので、生まれた時から、いや母の胎内にいる時から四六時中み言葉を聞いて育ってきたわけです。聞き貯めた言葉は豊富ですから、聖書の言葉を「それらしく」解き明かしたようなスピーチをして、安易に皆さんを感心させることが、おそらくできてしまいます。

 けれども私がそういう誘惑に陥らないよう、神さまは時々、私のまわりに「事件」をおこされます。私を当事者として巻き込むのです。私が、語ることを許されているのは、そのことだけなのだ、と肝に銘じて、自分の身の上に起こったこと、受け売りではない、神さまから直接私の心に受けとった言を、皆さんにお話ししたいと思っています。

 その前に、これは何年か前に女性会でお話しした「ネタ」ですので、覚えておられる方もいらっしゃるとは思いますが、クイズを一つ。礼拝堂の正面に十字架を掲げている教会と、そうでない教会がありますね。カトリックの礼拝堂などでは、十字の形の木だけでなく、磔にされたキリストの像が架けられていたりします。東京で私が通っていた代々木上原教会の礼拝堂には、十字架がありませんでした。建物の設計者は、正面の壁に十字架を取り付ける金具を用意していたのですが、そこには今も、何もかけられていません。それは「形のあるものを拝まない」という信仰の表現なのかもしれません。

 ではこの芥見キリスト教会の礼拝堂には十字架が掲げられているでしょうか。 (続きを読む…)

2013 年 12 月 15 日

・説教 ルカの福音書1章46―56節 「マリヤから学べること」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 12:15

 

本日はマレーネ・シュトラスブルガー師が説教をして下さいました。

2013 年 7 月 28 日

・説教  ルカの福音書10章38ー42節 「必要なことはただ一つ」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 09:15

本日は講壇交換で、四日市教会の堀内靖男先生が説教の奉仕と、国内宣教報告をしてくださいました。

2013 年 6 月 23 日

・説教 ルカの福音書19章28−35節 「主がお入用なのです。」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:29

本日は古川秀明長老が説教をして下さいました。

2012 年 12 月 23 日

・説教 ルカの福音書2章1-7節 「居場所のないキリスト」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:18

2012.12.23

鴨下 直樹

クリスマスになりますとさまざまなクリスマスに登場する人物に脚光が当てられます。主イエスの母マリヤ、天使ガブリエル、荒野にいた羊飼いたち、東の国の博士たち、そして、宿屋の主人。クリスマスの劇のことを生誕劇などと言いますけれども、かならず登場する人物たちです。けれども、宿屋の主人といいますのは、聖書を見てみますと、この「宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」という記事が載っているだけです。そこから、ああ、主イエスがお生まれになられた時に宿屋にも泊ることができず、それで家畜小屋でお生まれになったのだということが分かるのです。しかし、家畜小屋とか、馬小屋と言われていますけれども、その言葉さえ聖書には出てまいりません。「飼い葉おけに寝かせた」とあるので、飼い葉おけがおかれているのは家畜小屋であろうと推測しているのです。いずれにしても、主イエスがお生まれになられたこのクリスマスの夜、世界はこの赤子を受け入れる場所さえなかったのだと聖書は記しています。これがクリスマスのはじめの出来事でした。

今日、私たちはこの礼拝でクリスマスをお祝いしております。三人の方の洗礼式が行なわれ、聖餐式がとり行われます。クリスマスの賛美を歌い、クリスマスの出来事の聖書に耳を傾けています。おそらく、みなさん今年はいいクリスマスだと思っておられるのではないかと思います。まさに、喜びの祝いです。そういう喜びの出来事の中で、私たちはこの朝、もう一度クリスマスに何が起こったのかということについて考えてみようとしているのです。 (続きを読む…)

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