2021 年 12 月 5 日

・説教 ローマ人への手紙7章14-25節「心の葛藤を乗り越えて」

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2021.12.05

鴨下直樹

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 パウロは、この7章で「律法」とは何かということを、丁寧に解き明かそうと試みています。この前の7章の1節から13節までのところでは、「律法」が人にとってどれほど大切なものであるのかということを語ってきました。そして、この律法があることによって、人はかえってそれに逆らおうとして苦しむことになる、ということを語ってきました。

 パウロはここで、もう一度この「律法」とは何かということを、別の視点で語ろうとしています。それが、今日の14節以下のところです。

 パウロはかつて、この「律法」こそが何よりも大切なものであると信じて、行動してきた人でした。彼は、キリスト者になる前は、律法に従って歩んできたのです。律法というのは、神が人に与えた神の御心を知らせるものです。ここには、神の願いが、人にどう生きてほしいのかという基本が、十二分に語られているのです。

 ところが、パウロは主イエスと出会います。そして、「福音」を耳にします。主イエスによって、これまで律法を大切にしてきたのとは全く異なる福音の光を知るのです。すると、今まで自分が何よりも大切なものであると信じてきた律法よりも、重要なものがあるということを知ることになったのです。

 パウロは、それまで律法の大切さを教えられ、信じてきました。律法を守る正しい生き方をするために、それこそパウロはいのちをかけて歩んできました。そういう意味では、パウロは他の人よりも高潔な生き方を志して生きてきた人だったといえると思います。いい加減に生きてきたわけではないし、自分をごまかしながら、言い訳をしながら、生きてきたわけでもありませんでした。

 そのパウロがここで言うのです。それがこの14節と15節です。

私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は肉的な者であり、売り渡されて罪の下にある者です。私には自分のしていることが分かりません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです。

 ここで、いくつかの大切なことが語られています。まず、考える必要があるのは、ここで使われている「私」という言葉です。この「私」は誰のことを指しているのか、聖書学者たちは、これはパウロ個人のことで、パウロが改心する前の「私」を語っているのではないかとか、いや、これは「私たち」のことではないかという議論があります。ただ、ここで語っている「私」は、パウロ個人のことだけではなく、私たちのことを語っているのは明らかです。むしろ、信仰に生きようと思っている人のことを、「私」と語っていると理解して読むことが大切です。

 そして、その次にパウロが語ろうとしているのは、律法が霊的なものであること、大切な神の意志を教えるものであるということです。パウロは律法の重要性をここで改めて語ります。

 そのうえで、神の心を律法で教えられて、正しいことが何かわかっているのに、それを行うことのできない、人間の弱い性質、ここでは「肉」と呼んでいる罪の性質、神の思いに相反して生きようとする自分があることを、認めなければならないのだと語っています。

 特にこの最後の部分でお話したことは、私たち誰もが、日常生活の中で経験することなのではないでしょうか。本当は、このことをしたい、正しいことをしたいと思っているのに、それができない弱さが、私たちの中には存在しているのです。

 たとえば、毎日の生活を振り返ってみてもそうです。それは、朝起きるところから、その葛藤が始まります。もう布団から出て、起きなければならないと分かっているのに、まだ布団から出たくない。もう仕事に出かけなければならないのに、準備が整わなくて遅れてしまう。そんなことからも分かります。

 もちろん、パウロがここで語ろうとしているのは、そんな生活の基本的な道徳を語っているのではありません。神の律法ですから、神が願っておられることです。神が願っておられるのは、私たちを道徳的に正しく判断できるようにしたいということに留まりません。私たちを罪から救い出し、私たちを死ののろいから解き放ちたいのです。そのために与えられているのが、律法です。

 私たちは神に喜んでもらえるような愛に生きたいと思うし、神に喜ばれる信仰の歩みをしたいと思う。毎日、聖書を読んでお祈りしたいと思うし、人のためになることをしたいと思う。人に対して親切で、愛のある振る舞いをしたいと願う。けれども、それを実行に移すことの難しさを覚えるのです。 (続きを読む…)

2021 年 11 月 28 日

・説教 ローマ人への手紙7章7-13節「律法の役目」

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2021.11.28

鴨下直樹

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 先週も紹介しましたが、我が家では最近、朝食の時に「にゃんこバイブル」という本を使って、聖書のみことばに耳を傾けています。この「にゃんこバイブル」という本は、猫の生態から聖書のメッセージが分かりやすく書かれている本です。それで、今日はそれにならって、わたしも「わんこバイブル」という本を書くことを狙ってみたいと思います。

 といっても、本当に本にしたいのではなくて、今日だけの試みです。

 7節

それでは、どのように言うべきでしょうか。律法は罪なのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、律法によらなければ、私は罪を知ることはなかったでしょう。

 我が家にはさくらという犬がいます。ラブラドールレトリバーと、プードルの子どもです。いわゆるミックス犬という種類です。その前に飼っていたのは、ラブラドールでした。実は、それまで犬を飼ったことがなかった私たちは、犬のしつけに自信がありません。それで、はじめ、盲導犬のパピーウォーカーというのをしたのです。パピーウォーカーというのは盲導犬として育てられる子犬を、一歳の誕生日まで預かって、家庭で育てるというボランティアです。盲導犬協会で二か月くらいの子犬を預かりまして、それからは月に一度、盲導犬協会に通って、犬の育て方、しつけ方を丁寧に教えてもらうのです。

 盲導犬というのは、目の見えない方の目の代わりに誘導する犬です。ラブラドールはとても人懐こい犬種で、歩くのも大好きなので、その役割はその犬の特性によく合っています。犬はとても楽しく目の見えない方をガイドすることができます。でも、そのためには、たとえば人の横について歩くとか、信号では止まるとか、「マテ」という命令には従うというようなことを、子どもの時からしつけておかなくてはなりません。そこで、私たちは、犬を散歩させるときに、どんな危険があるか、何に気を付けなければいけないかを丁寧に教えてもらって、しつけていくのです。

 今の我が家の犬は、いままで飼っていたラブラドールと少し違います。とても元気がよくて、何かが目に入るとすぐに飛び出していこうとします。特に、子どもの姿と、犬が目に入ると、すぐに走って行こうとします。だから、私は常に周りを気にしながら、突然犬が走りださないように警戒します。そして、「ヒール」とか「つけ」と言うのですが、常に自分の左側にぴったりくっついて歩くようにしつけます。これを教えないと、反対車線に犬や子どもの姿を見つけると、飛び出して行こうとしますから大変なことになります。反対車線から車が来るかどうかは犬には分からないからです。今さくらは二歳なのですが、なかなかしつけが入らなくて、苦労しています。もう、犬の自我と、しつけのせめぎあいが、毎日、朝と夕方の散歩の時に繰り広げられるのです。はじめのうちはリードを持つ左手が筋肉痛になるほどでした。

 しつけは、とても大切です。犬のいのちを守るものだからです。けれども、さくらにはそんなことは分かりません。散歩するとき、犬のさくらにとって飼い主の私は、自分の行きたい方向をじゃまだてする存在以外の何者でもないわけです。

 犬はしつけなしに生きたいのですが、飼い主が来て、しつけがはじまると、突然自我が働いて、もう自分のやりたいことに心を支配されるようになってしまうのです。

 しつけは悪いものではありません。しつけをするので自我が見えてくるのです。
 
 それが、今日の9節と10節が語っていることです。

私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たとき、罪は生き、私は死にました。それで、いのちに導くはずの戒めが、死に導くものであると分かりました。

 パウロはここで、言いたいのはまさにこのことです。律法というのはしつけのことです。罪というのは、自我のことと言ってもここではいいと思います。しつけがあるから、律法があるからその反動で、自我が働くようになって、かえってそれが自分自身を殺すものになっているのだということを語っているのです。

「わんこバイブル」書けそうですかね?

 続く11節でこう記されています。

罪は戒めによって機会をとらえ、私を欺き、戒めによって私を殺したのです。

 このことは、ちょっと犬に例えて理解しようとするとかえって難しくなってしまうかもしれません。

 実は、パウロはここで旧約聖書の創世記に記されている出来事を念頭に置いて、このことを書いています。それは、創世記の3章に記されている蛇の誘惑の出来事です。 (続きを読む…)

2021 年 11 月 21 日

・説教 ローマ人への手紙8章14-17節「神の子どもとしての祝福」

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2021.11.21

鴨下直樹

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 今週から礼拝のプログラムの「聖書のおはなし」を再開することになりました。コロナウィルスのために短縮礼拝をしていますが、少しずつ戻していければと願っています。

 先ほどの「聖書のおはなし」いかがだったでしょうか。

 きれいな映像と共に、この世界を創造された神が、私たちのことをどれほど大切に思っていてくださるか、どれほど愛してくださっているのかが語られていました。

 私たちが当たり前に感じている今の私たちの生活の中に、どれほどの神の愛が隠されているかを気づかされる思いになります。

 最近、我が家では、朝の食事前に短い本を読んでいます。タイトルは『にゃんこバイブル』という本です。きれいな猫の挿絵が描かれていて、「猫から学ぶ聖書のことば」というサブタイトルがつけられています。

 私は猫派か犬派かというと、犬派ですが、この本は猫ならではの習性から、聖書を紐解いていきます。たとえば聖書の中に「放蕩息子」と呼ばれる物語があります。親元を離れて、財産を持って出て行った息子が、湯水のように財産を使い果たして、父のところに戻って来る話です。この本では、この放蕩息子の物語を猫にあてはめながら聖書を読んでいくのです。猫は家を出ていくと、どこで何をしているか分かりません。けがをして帰って来ることもあれば、どこかで何かご飯を貰ってきたかのような匂いをさせて戻ってくることもあります。どんなことがあっても、帰ってくることのできる家がある。そして、自分が失敗してきたことも、何も言わなくても受け入れてくれる。それが家族というものだと書かれていました。

 この聖書の物語に出てくる放蕩して帰ってきた息子と、猫とを比較することで、聖書のメッセージが更に具体的なものになる。そんな新鮮な気付きをこの本から与えられています。

 今日のテーマは「神さまの子ども」です。その、世界を創造された神様は、私たちをご自分の大事な子どものように、愛していてくださいます。猫のような、ちょっと何を考えているのかわからないようなところと、私たちの姿というのは少し結びつくのかもしれません。

 我が家には犬がいます。犬は比較的分かりやすい生き物です。犬の気持ちは、尻尾を見ているとわかります。尻尾を振っている時は大抵うれしい時です。これが、特にうれしい気持ちになると、尻尾の振りが速くなって、それも高い位置で振り始めます。反対に、本当に嫌な時というのは、尻尾が足の間に隠れてしまいます。「尻尾を巻いて逃げる」という言葉がありますが、まさにそんな風になります。

 私たちと神様との関係はどこで分かるかというと、祈りの姿に現れます。「天のお父さま」と神に向かって呼びかける時、それは神様との関係が良い時です。けれども、全然祈らない時というのは、神様と私たちとの関係が悪くなってしまっているのです。

 今日の聖書の箇所には、私たちがこの世界を創造された造り主であられる神に向かって「父よ!」と祈りたい思いを持つというのは、私たちの心に神様の霊である聖霊が働いていてくださるからなのだということが書かれているのです。

 しかも、15節の後半にこう書かれています。

私たちは「アバ、父」と叫びます。

 ただ、「お父さん」と神様に声をかけるというだけではなくて「叫ぶ」と書かれているのです。

 子どもが、父親に叫ぶ時というのはどういう時でしょうか。考えてみると、たとえば、公園かどこかに遊びに行っている時に、まわりに人がたくさんいて、声が届かない時です。「自分はここにいるよ!」「私を見て!」という叫びです。そして、その時には何か訴えがあるはずなのです。聞いてほしいメッセージがその時の子どもにはあるのです。

 神様に向かって、どうしても聞いてほしいメッセージがある、どうしても自分の方を向いてほしい。そういう思いをもって神に祈る。「お父さん」「パパ!」。それが、この「アバ、父」という言葉です。

 神様にむかって、何かを叫ぶように語り掛ける。そんな祈りをすることができるのが、神さまの子どもの特権なのだというのです。

 今日の聖書の箇所の中心的な言葉は、今日の冒頭の14節です。

神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。

 神の子どもとしての特権は、私たちが祈る時に分かるのだということです。お祈りをすることができるというのは、神の子どもの特権なのです。

 今日は、子ども祝福式をお祝いする主の日です。親は子どもの祝福を願います。神の眼差しが子どもに向けられている。このことが祝福なのです。神が見ていてくださる。わが子のように、子どもが道を見失ってしまうことがあったとしても、子どもが自信を失ってしまうようなことがあったとしても、神はその子どもを見ていてくださる。そして、この神は、ご自身の子どもが神に向かって「父よ」と祈ることができるようにしてくださっているのです。 (続きを読む…)

2021 年 11 月 14 日

・説教 ローマ人への手紙6章23節「永遠のいのち」

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2021.11.14

鴨下直樹

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罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

ローマ人への手紙6章23節

 今日は召天者記念礼拝です。すでに、この世での生を全うし、今主の御前にある方々のことを覚えながら、私たちはこの礼拝に招かれています。

 ヨーロッパにある古くからその地域に建てられている教会は、その会堂の地下が墓所になっているというところがいくつもあります。礼拝堂の足下に家族が眠っているのです。それも、何百年という永い年月の家族が、そこに眠っています。

 バロック建築、ゴシック建築、もっと古いものだとロマネスク様式などという何百年にも及ぶ歴史の長さを覚える礼拝堂がいたるところにあります。

 私がドイツにいたときに、各地を旅して、そういう古くからある礼拝堂を訪ねることが、旅の最大の楽しみでした。何年も、何十年も、何百年も変わらないその礼拝堂の席に腰を下ろして、ステンドグラスを眺める。十字架を眺める。古くからそこにある教会の装飾品や建築物を見ながら、その歴史を感じるというのは、本当に豊かな経験です。

 そこで大きく深呼吸をします。私の出会ったことのない昔の信仰者の息遣いを感じるのです。その町の困難な時代に生きた人々がどんな人生を送ったのか、どんな病の時代を通り抜けてきたのか、どんな戦争を経験してきたのか、どんな貧しさをその土地の人々は味わってきたのか。私がその礼拝堂の中で、肌で感じられるものはわずかなものでしかありませんが、そういう歴史を肌で感じるという対話の中から、私なりに「永遠のいのち」とは何なのかというものに少しでも触れた気になるのです。

 以前、妻と「永遠のいのち」という言葉は現代人にとって福音なのだろうかという話をしたことがあります。聖書が語る「永遠のいのち」というものに、今の人々は魅力を感じていないのではないか。そんな問いかけです。

 私たちが死を迎えた後に、聖書が語る「永遠のいのち」という世界が私たちにもたらせてくれるものに対する魅力といったらいいでしょうか、憧れといった方がいいのかもしれません、この永遠のいのちは、私たちにどんな魅力を、そして憧れを示してくれるのでしょう。この世界のいのちが、死後にもずっと続くということよりも、「今この瞬間の美しさ」「今この時」というその一瞬の経験にこそ、今を生きる人々は魅力を感じているのではないか。そんなことを妻が話してくれました。

 その妻の指摘は、ある一面の真理を示しているのだと思うのです。そこには、「今この時」というその一瞬一瞬を大切に生きたいという、現代人の今を大切にする思いがあるように思います。そして、そのことは私たちが生きていくうえでとても大切なことだと思うのです。

 聖書は「永遠のいのち」を、どのように私たちに示そうとしているのでしょうか。

 先日ある本を読んでいたら、こんなことが書かれていました。

 「グランドキャニオンを撮影した写真は数多くありますが、どのような写真も、この地形の持つ真の魅力を伝えることはできません。グランドキャニオンは自分の目で直接見なければならない光景なのです」

 私もグランドキャニオンに行ったことはありません。写真や映像で知っているだけです。それらを見て、少し分かった気になります。けれども、実際にそこに行って見たことのある人は知っています。グランドキャニオンを実際に見たときに、そこで肌で感じる風や空気、空の高さ、圧倒的な目の前に広がる景色の壮大さ、それらは写真が伝えてくれるものと全く別物なのだということを。

 私たちが分かった気になれるのは、ごく一部でしかないのです。

 「永遠のいのち」もきっとそういうものであるに違いないのです。それは観念的にイメージできるものではないのでしょう。私たちが漠然と思い描く、この日常がずっと果てしなく続くというような永遠のいのちの世界ではないはずなのです。

 神と共にある今を、私たちはこの世で経験したものから部分的にイメージできるにすぎません。しかし、今この世から去って、自由を得て神の御前に召された方々は、いま主の御前で永遠の今を経験しているのです。

 私たちの憧れとは何でしょう? 私たちが思い描く、人生の終わりには何が待っているというのでしょう。 (続きを読む…)

2021 年 11 月 7 日

・説教 ローマ人への手紙7章1-6節「新しい御霊によって」

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2021.11.07

鴨下直樹

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説教全文はただいま入力・校正作業中です。 近日中に掲載いたします。

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 今日の聖書の話は、なかなか考えさせられる話が書かれています。あるところに、夫と別れたい妻がいました。この人は、夫のために自分は苦しめられている、不自由を強いられていると感じていたのです。それで、離縁して新しい人と人生をやり直したいと考えるようになってきたのです。けれども、聖書の戒めである律法によれば、相手が生きている間は再婚することができません。それで、人知れず、夫が死んでくれたらいいなと思っている。そんな人の話を、パウロはここで話し始めたのです。

 パウロはここで、律法によれば、相手が生きている間に再婚すると、「姦淫の罪」と言われる。でも、相手が死別した場合は、自由になる。そういう話をここでし始めました。

 昼ドラのような話です。人の心の闇の部分を語っているのです。パウロがそこで語っているのは、その自由を求めている人にとっては、二つの邪魔な存在があるということです。一つは、「夫」であり、もう一つは「律法」と言うことになります。

 そんな決まり事さえなければ自由になれるというのです。けれども、別の言い方をすれば、その決まりごとがあるから、人はみだらな生活にならずに済んでいるということもあります。そして、その時の問題はというと、その自由を求めている人は、自分の欲望が、正しいと考えてしまっていることにあります。

 パウロがこの話をし始めたのはこの前の6章23節でした。

罪の報酬は死です。しかし、神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

 先週の箇所では「罪の奴隷」になっている、欲望に従う生活というのは、死を招くのだということが語られていました。それで、その罪の欲望が死を招くということを、ここで一つのたとえ話を通して、イメージしやすいように話し始めたのです。

 今日の聖書の箇所は、私にとってとても慰められる箇所です。というのは、パウロはここであまり上手な説明ができていないからです。パウロのような人は、いつも完璧な説明と理屈があるように感じるのですが、この話はインパクトは凄いのですが、ちょっと何が言いたいかはっきりしてこないところがあります。

 それで、少し整理してみたいと思います。パウロはここで二つの生き方を描き出そうとしています。一つは、神のために実を結ぶ生き方があると言っています。そして、もう一方では死のための実を結ぶ生き方があると言っています。この二つの生き方を描こうとしているのです。

 では、その悪い方の生き方である死の実を結ぶという生き方とはどういうことなのでしょう。「死の実を結ぶ」というのは、考えてみるととても恐ろしいことです。この死の実を結ぶ生き方というのは、自分の欲望に支配された生き方ということです。けれども、自分の欲望に生きるということは、自分も殺すし、相手も殺すような生き方になってしまいます。

 パウロもかつては、この「死の実を結ぶ」生き方をしてきた人でした。その頃のパウロはというと、律法主義的な生き方をしている人の代表のような人でした。決して、自分の欲望を満足させるために生きていたわけではありませんでした。けれども、その時のパウロはというと、キリスト者を見つけ出して、殺していこうという仲間と共に働いていました。しかも、自分は正しいのだと考えていたのです。

 ここでパウロが描いて見せた再婚を求めている人の姿と、かつてのパウロの姿というのは、まるで正反対のような生き方に見えるのですが、実は本質的には同じことを考えています。その意味でも、このたとえ話がうまくかみ合っていないと感じる部分でもあります。けれども、今の夫と別れて、新しい生き方をしたいというのは、自分の考え方が正しいので、その考え方を貫くためには、他の人を殺してしまえばいいという考え方になっていたのです。

 私たちは、相手を殺してまで自分の理想を手に入れたいとまでは、なかなか考えてはいないと思います。この例は、少し極端な例といえるかもしれません。けれども、パウロはここで、私たち自身の中にある、「自己正当化」というものは、相手を殺すことなのだということに目を向けさせようとしています。 (続きを読む…)

2021 年 10 月 31 日

・説教 ローマ人への手紙6章15-23節「罪の支配と義の支配」

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2021.10.31

鴨下直樹

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 パウロの手紙は、このところで何度も何度も同じ言葉を繰り返しています。同じことを繰り返して言うというのは、そこのところがパウロの言いたいところだからです。今日の箇所で何回も出てくる言葉は何かというと「奴隷」という言葉です。そして、人はみんな何かの奴隷となっている。何かに支配されているのだということを、ここで繰り返して語っています。

 今日の箇所で、パウロが言おうとしているのは難しいことではありません。私たちは罪の奴隷なのか、神の奴隷なのか、罪に支配されているのか、神に支配されているのか、どちらかの生き方しかないのだと言っているのです。そして、神に支配されるということは、神の、あるいは義の奴隷となることだと言うのです。

 「奴隷」というのは、とても強い言葉です。「あなたは義の奴隷です」と聞いてうれしい気持ちになるという人はあまりいないと思うのです。奴隷という言葉に良いイメージがないからです。

 この奴隷というのはどういうことかというと、16節では「従順の奴隷」という表現もされていますが、この「従順」とか「服従」という言葉がここで何度も繰り返されています。繰り返されているということは、このことを、パウロはここで大事なこととして語ろうとしていることが分かります。

 私たちは誰でもそうですが、何かに支配される生活なんてまっぴらだと考えていると思うのです。自由でありたいとどこかで考えています。けれども、私たちはそうやって自由にふるまっているつもりで行動するわけですが、実際には罪に支配されていて、そういう生き方は恥ずかしくて人に見せられないような生き方になっているのだとパウロはここで語っています。そして、その義から自由に生きた結果は、死へ続く道に至るのだと言っているのです。それが、人の姿なのだというのです。

 パウロは今日の箇所で色んなことを話していますが、罪の奴隷として生きるか義の奴隷として生きるか。人にはその二つに一つの道しかないのだと言っています。これが、今日の箇所の中心的なところです。

 罪の奴隷としてではない、もう一つの生き方のことをパウロは「義の奴隷」として歩むと言っています。義の奴隷というのは、神にお従いして生きるということです。神のしもべとして生きるということです。そして、その生活は具体的にどういうことかというと、19節にあるように、「その手足を義の奴隷として献げて、聖潔に進みなさい」ということです。聖なる生き方をしようと勧めているのです。

 ただそうなると、そこで問題が起こります。「聖潔に進みなさい」とか22節では「聖潔に至る実を得ています」という言い方がされているのですが、ここに来ると私たちは立ち止まってしまうのだと思うのです。いかがでしょうか。

 先日の祈祷会で、この聖書を学んだ時に、「これは努力目標でしょうか?」と質問した方がありました。うまい言い方だなと思います。ある意味で、確かにこの言葉は私たちの努力目標と言ってもいいと思います。

 ただ、「努力目標」と言った時に、どこまで目指すかは完全に私たち次第ということになります。100点を目指す聖なる生き方をすることもできれば、10点でも仕方がないよねということも可能です。そして、どこまでを目指すかは、完全に私たちに任されていると言えるわけです。

 そうなると、大きな問題が起こります。先日もある方が言われたのですが、これは律法的な響きがあるのではないかという気がしてくるのです。ちゃんとやりなさいというのは、律法主義的な勧めであるように思えるのです。その時、ちょうどその日の朝に、我が家で起こった会話の話をしました。

 4年生の娘が朝、こんな話をしました。「今日は体育があるけれども、先生がいなかったら国語のテストをすると言われた」というのです。それで、私は「それならまだ時間があるから少し漢字の復習をしておいたらどうか?」と娘に勧めました。けれども、娘はそんな勉強なんかしたくないわけで、ぐずる娘に、私が究極の言葉を口にしてしまいました。「それで、勉強しないで悪いテスト持って帰って来たらどうなるか分かっとるやろうなぁ!」と言ってしまったのです。あまりいい父親とは言えませんね。私の性格の悪さが暴露されているようなものですが、そんな話をしていたわけです。

 この聖書箇所も、この話と少しどこかで似ている気がするのです。神様は、性格の悪いお方ではありません。けれども、神様の思いとしては、私たちにキリスト者として聖潔に歩んでほしい。できたら100点を取るような者になってほしいと考えておられるように思えるのです。

 パウロはここで、そのことを言っているようにも読めるのです。「ちゃんとやらんかったらどうなるか分かっとるやろうな! お前は神様の子どもなんやから」ということです。

 言わないといけないことだからパウロはここで心を鬼にして言っている。そのように読むと、それを聞いた私たちも「えーそれは、努力目標ってことでいいですか?」と答えたくなってしまいます。

 ただ、もしこの聖書の箇所がそう語っているのだとすると、それは恵みの言葉でも何でもありません。ここで言われていることは確かに、私たち個人個人の応答にかかっているということは言えます。だから、私が、娘にちゃんとやれよと言うように、皆さんにも、「ちゃんとやらんかったらどうなるか分かっとるやろうな!」とすごんで見せることもできるのかもしれませんが、そんなことを言われてやる気になる人はあまりいないと思うのです。それは、福音としての響きが何もないからです。

 そこで、改めて15節を見てみたいと思います。

では、どうなのでしょう。私たちは律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから、罪を犯そう、となるのでしょうか。決してそんなことはありません。

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2021 年 10 月 24 日

・説教 ローマ人への手紙6章1-14節(2)「キリストと共に生きる!」

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2021.10.24

鴨下直樹

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 私がドイツに住んでいたころ、週に一度、村の人たちとサッカークラブで、一緒に汗を流しました。あちらは、多くの人が仕事終わりにそのようなサークルとかクラブというようなものに所属していて、一緒にいろんな活動をします。私は、サッカーを学生のころにしていたわけではありませんが、一緒にやらないかと誘われて、サッカーをすることになりました。

 いつも、集まって来るのは8人とか10人というメンバーです。それを二つのチームに分けまして、体育館でサッカーをするのです。ただ、私が驚いたのは、1時間ひたすら走り続けるのです。休憩なんてありません。ずっと走り続けるので、足の皮は剥けてしまうし、何しろ疲れるのです。ゴールキーパーなんて人数が少なくて作れませんから、ゴールは跳び箱の一番上の段を裏返しにしたものです。そのわずか1メートルほどのゴールに入れなければなりません。さらには、ちょうどそのゴールの周りに、ハンドボールコートで使う半円のペナルティーゾーンという入ってはいけないエリアの線があるのですが、そのサッカーでもその線の中には入れないという特別ルールがあります。だから、ゴールまで敵のいないフリーな状態でボールをもらっても、その小さなゴールに入れるのは至難の技です。そこで、私がゴールを外してしまうと、みんないつも一つのポーズを取ります。

 腹に剣を刺して、横に引く、いわゆる「腹切り」のパフォーマンスをするのです。こんな簡単なゴールを外す奴は切腹ものだと言うわけです。一緒にサッカーをしていた彼らはどこでその習慣を知ったのか知りませんが、「日本人は失敗をしたら、腹を切って詫びを入れる」そういうことだけは知っていたようです。

 長い自分の話をしてしまいましたが、私が言いたいのはこういうことです。日本人であっても、さらにはドイツ人でさえもと言うべきかもしれませんが、古くから罪を、過ちを犯した代償は死であるということは知っていたということです。そして、そういう意識というのは、今でもどこかで残っている気がします。昨日、妻と話していましたら、手話で「罪」は「つ」という指文字を作って、そのあとで親指を立ててお腹を切る、そういう表現をするそうです。罪とは腹切りだというのが、手話でも罪をあらわしているのです。

 今日、私たちがこの聖書から考えたいのはこの罪の支配をどのように乗り越えることができるのかということです。私たちがそこで考える必要があるのは、私たちが罪を犯してしまった相手というのは、ゴールが入らなかったとか、他人に迷惑をかけたとか、そういうことではなくて、神に対しての罪を犯したのだということです。神を裏切ってしまった。そして、そのために神の支配されている神の国という世界から追い出されてしまうほど、私たちは神の前に立つことができないほどの罪を、負債を、神の前に負っているということ、これが、聖書が語る罪です。

 しかし、私たちは自らの罪の責任を取るために腹を切る必要はなくなりました。主イエスが、私たちの罪の責任をとって、十字架で死んでくださったからです。私が負わなければならない死を、主イエスが代わりに負ってくださったのです。これが、福音の知らせです。

 主イエスは、私たちの神に対する罪を、自ら引き受けて下さって、神の裁きを私たちに代わって身に受けて下さったのです。

 そして、主イエスがその時に十字架で死んでくださったというのは、そこで、罪人であった私たちが死んだということです。だから、私たちも、そこでキリストと共に死んだはずなのです。そうでないと、私たちの罪の問題の解決はありません。私たちの罪が、私たちからなくなるためには、私たちが死ぬ必要があるのです。悔い改め、というのは、その死を通して、私たちは死んで、そこから新しいいのちがはじまったということなのです。

 5節の冒頭にこう書かれています。「私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら」と書かれています。

 ここで、パウロは何を言っているかというと、「私たちはキリストの死と同じようになった」、「同じようになって一つになったのだ」と言っています。これが、主イエスが十字架で死なれた意味です。主イエスがあの十字架の上で死なれたのは、私たちと一つになったのだと。

 主イエスは、その後、3日目によみがえられました。私たちは、主イエスと同じように一つとされて、あの十字架の上で、この私は死んで、そして、よみがえらされたのです。だから、そこでもうすでに私たちは罪から解放されているのだとパウロはここで語っています。

 この7節では、(すでに)「罪から解放されている」とパウロは語っています。主イエスが私たちに代わって死んでくださった。そのことを受け入れて、信じて、洗礼を受けたというのは、もう私たちはそれまでの罪から解放されているのです。もう、罪が私たちを支配することはないのです。

 しかし、です。私たちはそう言われるとそこで立ち止まってしまいます。この言葉は、私たちを苦しめるのです。なぜなら、罪の支配が無くなったという実感がないからです。

 パウロが言うように洗礼を受けたということは、一度そこで、古い罪に支配された自分は死んで、新しくされたのだ。だから、その罪は私を支配しないと言われるのです。けれども実際には、私たちはそう感じるどころから、洗礼を受けてからの方が、私たちの中にあるこの罪の自覚に苦しむようになるというのが、私たちの実感なのではないかと思うのです。
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2021 年 10 月 17 日

・説教 ローマ人への手紙6章1-14節(1)「新しいいのちに歩む」

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2021.10.17

鴨下直樹

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 パウロは、5章から8章までのところで、信仰に生きるようになった人の新しい生き方とは、どういうものなのかをここで語っています。

 前回の説教の最後で私は一つのたとえを話しました。死に向かう滅びの列車に乗っていた私たちに、反対方向に進む、いのちに向かう列車が来た。この列車に乗り込むことが、主イエスを信じて、悔い改めるということだという話です。

 その説教を聞いたある方が、昔歌った子ども賛美歌を思い出したと言われました。
「福音の汽車」という讃美歌です。ご存じの方がどのくらいいるか分かりませんが、私も子どもの頃、よく歌った歌です。こんな歌詞です。

福音の汽車に 乗ってる 天国行きに ポッポ 
罪の駅から出て もう戻らない
切符はいらない 主の救いがある それでただゆく 
福音の汽車に 乗ってる 天国行きに

 よくこのことをあらわした歌だと思います。主イエスの救いがやって来て、汽車というのはもうないので列車と言った方がいいかと思いますが、その列車に飛び乗っていのちの方に向かって進むようになった。そんな話をいたしました。

 そして、もう一つの話をしました。それは天秤の話です。私たちの罪の重さと、キリストのしてくださった恵みの大きさの話です。あまりにもこのキリストがして下さった恵みの御業が、大きいのでその秤からあふれるほどだというのです。そこで、パウロは5章の20節でこう言いました。

罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました。」と。

 多くの罪を犯した者は、その大きな罪の重さをはるかに超えるキリストの恵みの大きさを知ることができるとパウロは言ったのです。ここまでが前回の話です。

 しかし、この言葉は、別の理解をもたらす危険をはらんでいました。それは、沢山の罪が赦されるのだから、罪を犯せば犯すほど、神様の赦しが分かるのだとしたら、罪をどんどん犯してもいいのではないかと考える人が出てくるかもしれないということです。

 まるで、ゲームの無敵のアイテムを手に入れたような状態です。ルールを無視してもOK、「あなたは義だ」と神様が言ってくださるのだから、もう鬼に金棒です。そんな風に考える人がでることを考えてパウロはここで話を進めているのです。

 そこで、パウロはその考え違いをここで解き明かしていこうとしています。そして、その説明としてパウロが選んだのは、「洗礼を受けることの意味」です。

 3節でこう言っています。

それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。

 パウロはここで、主イエスを信じてバプテスマを受けたということは、そこでキリストと共に死んだのだということなのだと語っています。 (続きを読む…)

2021 年 10 月 10 日

・説教 ローマ人への手紙5章12-21節「キリストとアダム」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 00:15

2021.10.10

鴨下直樹

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 今日の聖書箇所はかなり難解なところなのですが、このローマ人への手紙の中でも中心とも言われているところです。とても重要なところですから、本当は何回かに分けて説教すべきところだと思います。けれども、この箇所の中心部分をできるだけ聞きとっていきたいと思っています。

 今日の冒頭の12節にこうあります。

こういうわけで、ちょうど一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がったのと同様に――

 私たちは、今世界中で何十万人という死者を生み出した新型コロナウィルスのことを、よく知っています。はじめは今から2年ほど前に中国の武漢で発見されたと言われていますが、瞬く間に世界中にこのウィルスがまん延していきました。まさに、一人の人から始まった出来事が、世界中に影を落とすことになるということを、私たちは身をもって経験しているわけです。

 パウロがここで言おうとしているのは、アダムによって罪がこの世界に入って来たということです。けれども、それはアダムだけの問題ではなくて、すべての人が罪を犯したことになるのだと言って、そのために死がすべての人に広がったのだとここで言っています。

 この12節の言葉を通して、パウロは3つのことを語り始めるのです。もう一度言うと、まず第一、アダムによって罪がこの世界に入ったこと。第二は、それはすべての人の犯した罪なのだということ。そして、第三は、そのために死が広がったのだということです。

 しかし、パウロはこの12節の冒頭で「こういうわけで」と語り始めています。「こういうわけで」と言うということは、その前にその原因が語られているはずです。しかし、この原因であるどういうわけなのかということが残念ながらよくつかめません。

 この前のところでパウロは、罪の中に生きていた私たちは主イエスの血によって義とされて、神と和解することができるようになったと話しています。私たちの罪と、主イエスの救いの業をパウロは語りました。では、その罪とは何かということを、ここで語り始めているのです。

すべての人が罪を犯した」とこの12節で言っています。一人の人が犯した罪とは、この後読んでいくと分かりますけれども、それは創世記に出てくるアダムのことです。しかし、そこで犯したアダムの罪というのは、アダムだけの問題ではなくて、「すべての人の罪」なのだとここで言っているのです。ただ、私たちが考える「罪」というのは、人の物を盗むとか、嘘をつくとか、人を殺すとか、そういう個々の罪のことがすぐに思い浮かぶと思います。だから、「すべての人」と言っても、赤ちゃんには罪がないとか、自分にしても、人から何か咎められるような違反行為をしたつもりはないという考え方が出てくるのだと思うのです。

 「罪」というのは、創世記ではじめの人であるアダムが、神との約束であった「エデンの園の中央にある善悪の知識の木の実を取って食べてはならない」という約束を破ったことから、人類はこの罪を引き受けることになりました。これが、聖書が語る罪の理解です。実は聖書が、アダムの犯した罪は私たちが犯した罪でもあるのだということを明確に語っているのは、ローマ書のこの12節が初めてなのです。聖書はアダムの犯した罪というのは、私たちが犯した罪なのだということを、ここではじめて語っているのです。

 けれども、そう言われると多くの人は抵抗したくなります。どうして、アダムの犯した罪が、私たちの罪なのでしょうか。すべての人がその根底に抱え続けているこの罪のことを「原罪」という言い方をします。この原罪と言われる、人の中に宿っている神に逆らう思いというアダムの出来事は、すべての人の代表者として、アダムが犯した罪であったので、これは私たちすべての人の中にある原罪なのだと聖書は書いているのです。 (続きを読む…)

2021 年 10 月 3 日

・説教 ローマ人への手紙5章1-11節「恵みによって」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 00:44

2021.10.03

鴨下直樹

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 パウロはこの5章から、新しいテーマで語り始めます。それは、義とされた者、神に救われた者の新しい生活についてです。

 1節

こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。

 パウロはこの4章までで、主イエスを信じる時に、私たちの罪が赦されて義と認められると語ってきました。この義とされた時に、私たちは平和を持つのだとここで、はじめに語っています。「平和」とは「平安」という言葉です。「平和」がない、「平安」がない。それが、神から離れてしまった人の姿です。けれども、信仰によって私たちにこの待ち望んでいた「平和」を得ることができるようになる。それこそが、新しい生活なのだというのです。

 私たちは、この「平和」を、「争いがない状態」という意味で理解してしまいがちです。けれども、ここでは「平和を持っています」と書かれています。これは「神の前に立つことができるようになる」という意味です。最後に出てくる「神と和解する」ということです。

 そこで、私たちが考えなければならないのは、私たちは完全な正しさ、まさに義なるお方の前に立とうとすると、どうなるかということです。義なる神の御前に私たちが立つ時、私たちは自分の罪を恥じるしかなくなってしまいます。それほどに、私たちの罪と神の義しさの間には大きな淵があるのです。

 今日の1節から11節の中に何度も、義とされる前の私たちの状態のことが記されています。例えば6節「不敬虔な者」とあります。8節では「罪人」と言っています。10節では「」という言い方もあります。これが、私たちの姿だというわけです。

 そのような罪人である私たちは、どうやったら平和を持てるようになるのかと悩みながら救いを求めるわけです。そして、「宗教」に救いを見出そうとします。自分の中にある罪、醜い心、弱さ、ダメな自分をどうにかして何とかしていただきたいと願います。それは、人の持つ真剣な求めです。そのために、修行をするとか、少しでも徳を高めるような生き方をするとか、この苦しみから解放されるために一生懸命に伝道活動や奉仕活動をするとか、高い壺を買うとか、高名な名前をつけてもらうとかして、とにかくできる限りのことをして、何とか安心を得たいと考える。それが、「宗教」の一つの答えの示し方です。

 パウロはここで、「義」とされることで「平和」を得られるのだと語っています。この「平和」というのは、私たちは自分たちの努力によって何とか得られるようになりたいと願うのですが、私たちの努力で得られるものではなくて、神の側から与えられるものだと言っています。というのは、「義」というものは、私たちの努力で手に入れることができないものだからです。

 たとえば、誰かが自分の正義を主張したとします。そうすると、残念なことですがそこに「平和」が生まれることはないのです。平和の反対に争いが起こり、衝突や不和が生じたり、抑圧が起こったりしてしまいます。どこかの宗教が、「聖戦」だと言って自分たちの正義を主張しはじめると、そちら側にいない人にとっては迷惑なことでしかないのです。私たちが通そうとする正義、義では、平和は残念ながらもたらされることはないのです。

 ではどうしたら私たちに平和がもたらされるのか。それは、完全なる義である神の側から、私たちに救いを示されることによって、神の側から赦しの宣言を受けることによってはじめて平和を受け取ることができるようになるのです。 (続きを読む…)

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