2021 年 1 月 3 日

・説教 ルカの福音書6章36節「憐れみ深く生きよう!」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 06:58

2021.01.03

鴨下 直樹

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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 

「あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くなりなさい。」

 今年のローズンゲンによる年間聖句は、このルカの福音書の6章36節のみ言葉です。この一年、この御言葉を心に留めて歩みたいと願っています。

 今、まさに世界に求められているのは、この御言葉に尽きるのだと思うのです。昨年、私たちは大変な一年を過ごしました。そして、その大変さは今年一年も続くだろうと考えられています。新型コロナウィルスの拡大は、この冬になってますます広がっています。もう、私たちは「未曽有の危機」とか、「緊急事態」という言葉さえも、あまり危機感を感じないほど、耳慣れしてきています。

 人と人とが顔を合わせて会話するという、この当たり前の人とのコミュニケーションが禁止されているのです。入院している家族との面会も許されていませんし、老人ホームのような施設でも家族の面会が禁止されています。

 人を愛している、大切にしているということを伝える手段が奪われてしまうような、そんな生活を、私たちはなおもし続けていなければならないのだというのです。

 そして、それは、権力を持っている誰かが、禁止しているというのでもないのです。自主的にそうするように要請されているのです。

 そんな中で、私たちはこの御言葉をこの一年の聖句として与えられているのです。

「あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くなりなさい。」

 私たちが、何よりもまず、心にとめなければならないのは、私たちの父なる神は、「憐れみ深いお方である」という事実です。

 主は、この憐れみ深いというご自身の性質を、主イエスを通して、私たちに示してくださいました。

 ルカの福音書の第6章というのは、マタイの福音書で語られている山上の説教と呼ばれる内容と、似ているのですが、ルカの福音書では6章の17節で「イエスは彼らとともに山を下り、平らなところにお立ちになった。」と書かれていまして、そこでなさった説教が記されているところです。それで、「平地の説教」と一般に言われているところです。

 そこで、主イエスは弟子たちに、また主の教えを聞きたいと思って集まって来た人々に、説教をされました。特に、この部分は6章26節から36節では「愛すること」が語られています。そこで語られているのは、敵を愛することと、与えることです。

 愛するというのは、観念なのではなくて、具体的な働きとなって示されるのです。敵を赦すこと、そして、与えることが、愛することだと言っているのです。

 主イエスの敵とはいったい誰のことを指しているのでしょう。単刀直入に言えば、それは、私たちのことを指しています。

27節、「憎む者たちに善を行いなさい。」
28節、「あなたがたを呪う者たちを祝福しなさい。」
29節、「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬も向けなさい。」
30節、「求める者には、だれにでも与えなさい。」
31節、「人からしてもらいたいと望むとおりに、人にしなさい。」

 主イエスが語る、人を愛するというのは、こういうことだと続けざまに語られています。これを、聞いていた人々はにこやかな顔のままでは、この言葉を聞くことはできなかったと思います。私たちにしてもそうでしょう。

「悪には悪で報い、愛には愛で報いる」というのが、私たちの世界の常識です。そして、それは、キリスト者であってもほとんど例外なしに、同じような感覚で生活してしまっていると思うのです。

 しかし、父なる神はそれを、私たちにしたのだというのです。そのことが、私たちに明確に示されたのは、あの、主イエスが十字架にかけられる前のゲツセマネの祈りの姿で、私たちはそのことを心に刻むことができます。敵を愛するということが、どれほど厳しいことなのかが、あの時の主イエスの姿の中に示されています。

 自分の敵のために、自分を傷つけてくる人のために、自分自身を与える、それが愛するということなのだということを、主イエスはあのゲツセマネの祈りを持って、私たちに示してくださったのです。それが、どんなに苦しいことなのか、どれほどつらいことなのか、まさに、愛するといことは、苦痛と困難を祈りによって乗り越えた先にあるものなのだというのです。

 「憐れみ深く生きよう!」という説教題をつけました。

 これが、この一年、主から私たちに託された宿題です。それは、とてつもない困難な課題です。

 そのために、祈るのです。そのために、お互い支え合っていくのです。そして、そのことができるようになるためには、あなたがたの父の憐れみ深さを知ることが何よりも重要です。

 その人のことが好きとか、嫌いとか、私たちの持つ感情に目を向ける時に、それは何に根差しているのかをよく知る必要があります。その判断を下しているのは、自分自身です。そして、そこにあるのは、自分自身の正義という判断が働いているはずです。もちろん、そこにはさまざまな苦い経験があるのかもしれません。これまでに、どれほど犠牲を払ってきたか分からないという部分があるのかもしれません。

 しかし、愛するのは、感情ではないのです。意志です。そして、その意志というのは、神のご意思なのだということです。神がそう願っておられる。そして、その神の意志は、私を愛するということのために費やされた意志でもあるのです。そして、この神の意志の背後には、神の正義があるのです。

 神が、その人を愛したいと願っておられるという、事実が、神の正義が私たちの意志を支えるのです。私も愛そうという思いを支えるのです。

 私たちの主は義なる神です。たとえ敵であったとしても、その人を義としたい、その人をよしとしたい、その神の思いがそこにはあるのです。

 私たちの父なる神は、あわれみ深いお方です。そして、そのお方は、その憐れみを、まず、何よりも私たちに示してくださいました。そして、今度は、私たちから、私たちの周りの人たちに示されることを願っておられます。

 私たちが愛を示すのはもちろん、敵のような人ばかりではありません。家族にも、友人にもそうです。教会の中でもそうです。私たちの周りには、強い人もいるでしょう。弱い人もいます。心寄せる人もいれば、苦手だと思う人もいます。主は、私たちに憐れみ深さを示すことを、その人たちを愛することを求めておられます。

 この主のご意思が、私たちを通して示される一年となることを私たちは祈り求めて生きたいのです。

 お祈りをいたします。

2020 年 12 月 24 日

・聖夜燭火礼拝説教 ルカの福音書1章26-38節「お言葉どおりこの身になりますように」

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2020.12.24

鴨下 直樹

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*1:ライブ録画から抽出した音声を掲載しています。聞きづらい点はご容赦ください。

Lineライブ

午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 
 今日、私たちに語り掛けられている言葉はこういう言葉です。

「おめでとう、恵まれた方。」

 スマートフォンでインターネットの記事を読んでいると、突然、「おめでとうございます。」という画面になって、よく読んでみると、「アイパッドが、あなたに当選しました。」という画面が突然現れたことがあります。そうすると、私はすぐにその画面を消して、検索をかけます。「アイパッド、当選」と検索しますと、すぐに「当選詐欺」という情報を見つけることができます。

 今から20年も前のことですが、当時はFAXでしたが、シェル石油のゼネラルマネージャーを名乗る人からのFAXでした。私と同じ苗字の、シェルのナンバー2の方が家族で事故にあってしまい、その莫大な遺産、たしか何千億円だったかという金額が書かれていました。そのお金が、もうすぐ政府に没収されてしまいます。そのため、誰かにこの遺産を引き継いでもらいたい。あなたはたまたま同じ苗字なので、あなたにその権利を差し上げたいので、銀行口座と名前、そして、暗証番号をFAXして欲しいという内容のFAXがナイジェリアから届いたことがあります。

 なぜ、暗証番号が必要なのかと思うわけです。不思議なもので、詐欺だとすぐに分かるのですが、少し夢があります。一瞬そんなにお金貰ったらどうしようかなぁなどと考える自分がいます。

 私たちはこの「おめでとう、恵まれた方」という言葉ほど、今日うさん臭い響きの言葉はないということを知っています。

 しかし、私たちはこのクリスマスに改めて、この言葉を聞きたいのです。

「おめでとう、恵まれた方。」これが、クリスマスの出来事の神からの最初のメッセージだったのです。

 今、私たちはそれぞれに、さまざまな異なる状況を抱えて生きています。誰もが、嬉しい思いで毎日生活しているわけではありません。今年、とりわけ今年のクリスマスは、世界中が闇に覆われた年のクリスマスだと言えると思うのです。

 この世界中に爆発的に広がっているウィルスのために、経済が停滞しています。外出自粛がまた叫ばれています。病院はひっ迫し、適切な医療を受けられない方々が沢山います。今、病気の人たちがいます。家族とこの年末年始も会うことができない人もいます。経済的にとても厳しい人たちも少なくありません。将来の姿が描けない中で、私たちは今、この聖書の言葉を聞こうとしているのです。

 そんな中で、何が「めでたい」と聖書は語ろうとしているのでしょう。不安しかない、押しつぶされそうな思いの中で、この聖書の言葉を聞こうとしているのです。

「おめでとう、恵まれた方。」

 何もおめでたくない。そんな言葉を聞くのもつらい、そんな中で、神はこの言葉を私たちに届けようとしているのです。

 何が、「おめでとう」なのでしょうか。クリスマスにはどんな喜びがあるというのでしょうか。

 ひょっとすると、私たちはこうして、教会に集まっては来ますが、本当のところ、クリスマスのめでたさなんていうものを、そもそも期待してここに来ているのでしょうか。

 この知らせを受けたマリアは、この時まだ十代の少女でした。

「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
しかし、マリアはこのことばにひどく戸惑って、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。

 
 当時は、スマホなんてありませんから、すぐに検索するというわけにはいきませんので、そうであれば考え込むしかできません。これは、いったいどういうことなのか?

 すると御使いは、こう告げます。

「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。
見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。」

 本人の同意もなしに、一方的に、男の子を産むだろうと言うのです。何かが当たりましたというような知らせでは済まないのです。

 マリアは婚約していました。それなのに、子どもを産むことになるという知らせは、「おめでたい」知らせではありません。はた迷惑な話です。この神からの一方的で、拒否権もない、この知らせのどこに、おめでたさがあるというのでしょう。 (続きを読む…)

2018 年 7 月 15 日

・説教 ルカの福音書 13章1―9節 「悔い改め? 反省?」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 22:14

2018.07.15

鴨下 直樹

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 今日は第三週です。いつも第三週はファミリー礼拝と紹介していますけれども、まだ教会に来て間もない方であるかと、初めて礼拝に集った方のために分かりやすいテーマでお話しようと考えております。今回のテーマは「悔い改め?反省?」というテーマにしました。今月の役員会の時に、今回のテーマである「悔い改め?反省?」というタイトルは、教会にあまり来たことのない人から考えてみると、興味を引き起されるテーマではないのではないかという議論が起こりました。それで、私もなんとかこのタイトルを変えようと思ったのですが、すみません、そのままになりました。いろいろ考えすぎて一周して元に戻った感じです。ですが、タイトルについてここであれこれ考えるより、今日の聖書にさっそく飛び込んだ方がよいかもしれません。

 今日の聖書の箇所はかなり衝撃的な内容から始まっています。1節に、当時エルサレムで起こったある事件のことが書かれています。ローマの総督であるピラトが、「ガリラヤ人たちの血を、ガリラヤ人たちが献げるいけにえに混ぜた」というのです。ガリラヤ人というのはガリラヤ地方に住んでいるユダヤ人たちのことです。その人たちがいけにえをささげにエルサレムの神殿に来ていた時にこの事件が起こったのです。あろうことか、ローマ総督のピラトは、過越しの祭りのためにエルサレムに来ていたガリラヤの人々を殺害して、その血をほかのいけにえと一緒に神殿に注いだというのです。現代であったとしてでも、ニュースの一面を飾るようなできごとであったに違いありません。

 また、4節には、もう一つの事件のことが書かれています。エルサレムにあるシロアムの塔が何の理由かわかりませんけれども、倒れてしまいその下敷きになって18人が死んでしまったという事件があったようです。これも、新聞の一面を飾るような出来事であったに違いありません。今日の箇所はこのように、被害者となった方々は思いもよらない出来事に遭遇してしまって、その被害者になってしまったということがテーマとなっているわけです。

 先週の月曜日、隣の関市で先々週から続く大雨のために津保川が決壊したために、上之保地区の340戸の家が床上浸水しました。それで、隣の関市の改革派教会が中心になって、先週から被災された家を一軒一軒訪問しつつ、必要な物資を聞いてお届けするというボランティアをはじめました。岐阜の被害は全国からみれば小さなものですが、行ってみて分かるのは、思っていたよりも、大きな被害でした。亡くなった方は少ないのですが、上之保地区に行ってみると一階のものはすべて流されてしまって何もなくなっているという家が何軒かありました。全国で200人以上の方が亡くなるという大きな被害が各地に及んでいます。そういう出来事と、今日の聖書の箇所は深く重なり合う箇所です。

 日頃の行いの悪い人には、何かしらのアクシデントが起こる。それは、まるで天罰であるかのように考える。そういう考え方は日本独特というわけではなくて、聖書の時代にもそういう考え方があったわけです。
そんな大きな事件が起きなくても、なにげない場面でこういう考えは顔をのぞかせます。先週、私たちの教会は礼拝後にコンサートを行いました。本当に素晴らしいコンサートで選曲も良かったし、永島さんの歌声も大変すばらしいものでした。先々週は一週間長雨が続いていて、日曜日にようやく雨が止んだのですが、礼拝の前の時間に、どこからともなく、「やっぱり伝道部長の日ごろの行いがいいから、天気が守られたねぇ」という声が聞こえてきました。もちろん、冗談で言っていることは、聞いている人は誰もが分かりますけれども、自然にそういう言葉が出てくるわけです。日頃の行いがよければ、良い結果がついて来る。悪ければ、悪い結果になる。こういう考え方は不思議と私たちのなかに染み付いた考えとしてあると思います。確かに、良いことについて言えば、一所懸命努力すれば、その努力は報われるということはある程度言えると思いますけれども、まさに予想外のアクシデントに見舞われた時に、それは日ごろの行いの結果であるとか、神からの刑罰であるかのように考えることは、よく考えてみる必要があると思うわけです。そして、ここで主イエスはそのことを問いかけておられるわけです。 (続きを読む…)

2018 年 4 月 1 日

・説教 ルカの福音書24章1-12節「イースターの朝」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 22:22

2018.04.01

鴨下 直樹

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 イースターおめでとうございます。復活の主の祝福が皆さんの上にありますよう祈ります。

 例年のように、イースターの朝、私たちはともに集まって賛美と祈りをささげ、一緒に朝食をいただきました。ようやく暖かくなってきて、外で過ごすことも楽しくなってきました。ここ数年でしょうか。スーパーのお菓子売り場に行きますと、イースターのパッケージのものを簡単に見つけることができるようになりました。少しでもイースターが多くの人の目に留まるようになることはいいことだと思います。

 イースターってなに?と少し興味をもって検索しますと、すぐに、イエス・キリストの復活をお祝いする日ということを見つけることができます。けれども、ここでちょっと考える人は、死んだ人がよみがえったの?という疑問が出てくるわけです。死んだ人が生き返るなどということは古今東西例がありません。そして、人がよみがえったという歴史的な記述もないのです。ただ、聖書の中には書かれているわけです。そして、それが、今日みなさんと読んでいる箇所です。

 特に、以前からお話していたように、今日から新改訳2017を使うことにしましたので、まだこれまでの聖書をお持ちの方は、ぜひ注意深く読み比べてくださればと思います。

 人がよみがえるというのは、どういうことなのでしょうか。このルカの福音書はこの復活の出来事の第一発見者となったのは女の弟子たちであったということを書いています。しかも、内容を読んでみるとこう書かれています。2017年訳で1節から4節まで読んでみたいと思います。

週の初めの日の明け方早く、彼女たちは準備しておいた香料を持って墓に来た。見ると、石が墓からわきに転がされていた。そこで中に入ると、主イエスのからだは見当たらなかった。そのため途方に暮れていると・・・。

 まず、そう書かれています。この短い言葉で色々なことが分かります。主イエスが亡くなったのが金曜日です。土曜日は安息日ですから、当時のユダヤ人たちは安息日に働くことができませんでしたので、埋葬の備えをすることができなかったようです。それで、週が明ける日曜の朝早くに女の弟子たちは遺体に香油を塗って埋葬の準備をするために墓を訪ねたのです。ところが、墓の石、これは日本のような墓石ではなくて、洞窟のお墓ですから、大きな丸い石で蓋をされていたのです。その石が転がされていて、行って見ると遺体がなくて、途方に暮れていたと書かれているわけです。

 そして、この何でもないような記述、主イエスの復活を告げる聖書の記述が、歴史家たちに、これは本当のことだろうと思わせるに十分な証拠となったのでした。 (続きを読む…)

2018 年 3 月 30 日

・受難日礼拝説教 ルカの福音書23章44-49節「いのちを委ねる」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 22:09

2018.03.30

鴨下 直樹

 今日は、受難日。主イエスが十字架につけられたことを覚える日です。そして、主イエスの生涯の頂点とも言えるものなのです。主イエスの人生の頂点、それは主イエスが十字架につけられて殺されるという出来事なのだということは、とても不思議です。

 主イエスが死ぬ時、全地が暗くなったということがここに記されています。日蝕がおこったのではないかとか、砂嵐のせいで暗くなったのではないかとか、色々な説明がありますが、どれも確かなものではありません。ただ、旧約聖書の中には、神のさばきの時に暗闇がおとずれることが色々な箇所で書かれています。ただ、私たちは「神のさばき」という言葉を聞くと、罰される立場で考えてしまいますから、恐怖感しか感じられません。けれども、神のさばきというのは、神の愛がみえるようになるということです。

 たとえば、親が子どもを叱るときのことを考えてくださるとよく分かると思います。怒られる子どもの立場からすれば、親が怒り出すと震え上がるほど怖いのかもしれません。けれども、それは同時に子どものことを愛している親の思いが、そこには込められているわけです。もちろん、人間の親は完全ではありませんから、嫌なことがあってつい子どもに当たってしまうというようなこともあると思います。けれども、この世を愛しておられる神は、八つ当たりのような怒りを人に示しめされることはありません。「神のさばき」というのは、ただ、ひたすらに人を愛してくださっていることがここで示されることになるのです。

 それで、45節で

太陽は光を失っていた。また、神殿の幕は真二つに裂けた。

とあります。普通に聖書を読んでいるとあまり意味が分からないのでつい読み飛ばしてしまうところですが、この言葉はとても大切な意味が秘められています。神殿というのは、一番奥に至聖所という部屋があります。その部屋を隔てているのが幕です。そして、この幕の内側には大祭司しか入ることが出来ません。 (続きを読む…)

2018 年 3 月 18 日

・説教 ルカの福音書23章33-43節「十字架の意味」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 16:34

2018.03.18

鴨下 直樹

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 今日は、ファミリー礼拝ということで多くのご家族の方々が子どもと一緒に礼拝に集ってきておられて嬉しく思っています。今、教会の暦ではレントという主イエスの十字架の来住を偲ぶ季節を迎えています。そして、4月1日にはイースター、主の復活をお祝いする日を迎えるわけです。

 今日は、「十字架の意味」という題で少しの間お話をしたいと思っています。教会には十字架がかけられています。私たちの教会も、三角錐のかたちをしている建物ですが、その頂点のところに十字架が掲げられています。今でこそ、十字架はアクセサリーになっていたりすることもあって、あまりネガティブな印象がなくなっていますが。もともとは死刑の方法です。

 先日のニュースで、何年も前に大きな社会問題になったある宗教団体のリーダーたちが、刑の執行のために場所を移されたということが報道されていました。人が処刑にされるという話は、あまり嬉しい知らせではありません。けれども、教会では主イエスの処刑の出来事をこうして教会で語り、主イエスの十字架の死とは、一体何だったのかということについて語りつづけているわけです。それは、私たちにとって、この世界の人々にとって、とても大きな意味をもつ出来事であったことを語りつづけているのです。

 特に今日、先ほど司式者の方が読んでくださったルカの福音書の出来事は、三本の十字架の出来事です。主イエスの他に、二人の犯罪人が十字架にはりつけにされていたことが記されています。

 特に、この34節に十字架の上で主イエスが祈った祈りが記されています。

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

主イエスがそのように祈ったということがここで記されています。

 新しい聖書翻訳の2017年訳をお持ちの方は注のところに少し詳しい説明が書いてあります。そこには「多くの有力な写本にはこの部分を欠いている」と書かれています。今日は、ここでこのことを詳しく説明する時間はありませんが、おそらくこの祈りの言葉はもともとはなかったのではないかと、今は考えられているわけです。けれども、これまでの聖書にはこの言葉は記されてきました。確かな伝承としてこの祈りは記録されているので、この祈りを鉤かっこで括ったり、削除しないで、このまま残されているのです。それは、それだけ、この主イエスの祈りが大きな意味をもつことを認めているからです。 (続きを読む…)

2017 年 12 月 24 日

・説教 ルカの福音書2章1-20節「クリスマスの主役は誰?」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 13:58

2017.12.24

鴨下 直樹

 昨日、子どもの通っている幼稚園のクリスマス祝会が行われました。年長組は、毎年クリスマスのページェントを行うことになっています。劇と歌でクリスマスの物語を演じるのです。十数人の子どもたちですが、小さな学年の時から上の子どもが演じるのを見ながら、私はマリアをやりたい。天使をやりたい。東の国の博士をやりたいと、いろいろ子どもなりに夢をふくらませているのです。でも、自分のやりたい役に、何人も希望者がでると残念ながら、自分が希望していない役であっても受け入れなければなりません。

 そんな時に、娘がこんなことを言いました。「クリスマスの主役はマリアさんでしょ」と言うのです。確かに子どものページェントでは特に女の子には人気のある役ですから、そう考えても不思議ではないのですが、でも、主役となるとどうでしょうか。単純に言えば、この日誕生されたイエスさまが主役ということになるかもしれません。けれども、イエスさまはここではセリフもありませんし、主役というには少し寂しい気もします。

 クリスマスには様々な人が登場します。マリアにヨセフ、東方の博士たち、羊飼い、天使ガブリエル、荒野で賛美をする天使たち、ヘロデ王に、ヘロデに仕える学者、宿屋の主人。クリスマスの劇をするならそのくらいでしょうか。誰が主役なのか。そんなことを問うまでもないほどに、それぞれにドラマがあります。

 先ほど、短いスキットをしていただきました。マリアとヨセフが住民登録のために故郷であるベツレヘムを訪れました。マリアは身重になっていて、そこにいる間に月が満ちたとありますから、お腹ももう大きかったことでしょう。妊婦でありながらナザレからベツレヘムまで旅をしているのです。距離にして約120キロ。その長い距離をロバに乗ったでしょうか。身重のマリアが夫に支えられて旅をする。それだけでもかなりのドラマです。そうやってようやく着いたベツレヘムでは、どこも部屋がいっぱいで、断らなければならない宿屋の主人にも現実的な問題があったと思います。泊めることができませんと断ったのも、決して意地悪ではなかったでしょう。けれども断った相手は妊婦です。実際問題として部屋は他の人で埋まってしまっているのです。どうしようもなかったのです。

 「飼い葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」と7節にあります。ですから、昔から多くの人は、きっと宿屋の主人が可哀想に思って、家畜小屋に泊まらせたのではないかと想像しました。飼い葉おけ。つまり、家畜のえさ入れです。そこに生まれたばかりの新生児を寝かせるということは、想像しにくいのですが、せめてもの宿屋の主人の気持ちがあったのではないか。そう読み取ることができます。この聖書の時代も今とまったく変わることなく、それぞれが自分の人生を必死で生きているのです。

 クリスマスの物語というのは、そういう現実的な生活の中に、神が赤ちゃんの姿となって入ってこられたこと。そこにメッセージがあるということができます。 (続きを読む…)

2017 年 8 月 20 日

・説教 ルカの福音書4章1-13節「荒野の試み」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 13:55

2017.08.20

川村江弥師

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2015 年 12 月 20 日

・説教 ルカの福音書2章8-20節「主の栄光の輝きに照らされて」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 14:02

 

2015.12.20

鴨下 直樹

 

 暗い夜道を歩いていると、突然、すぐ前の家の戸が開きました。すると、真暗であったところに、急に、家の中の明るい光が輝いて来るのです。その光の中で、はじけるような、家の中の楽しい笑い声が聞こえます。誰かを送り出そうというのでありましょう。やがて、ひとりの人が出て来ます。家の中からは、この人を見送るにぎやかな挨拶が聞こえてくるのです。すると、戸が閉じられます。道は、またもとのままの暗さになってしまいます。出てきた人も、闇の中に呑まれてしまって、あたりは、前と同じようになってしまうのです。
 こういう経験をなさったことのある方は、少なくないと思います。ところが、クリスマスの夜の有様は、それによく似ているのです。

 これは、竹森満佐一牧師のクリスマスの説教の冒頭部分です。私の書斎にはいくつもの説教集がありますけれども、おそらく一番沢山あるのはクリスマスの説教集です。クリスマスの聖書の箇所というのはそれほど多くありません。けれども、毎年、クリスマスの説教をする必要があるのでどうしても常に新しい発見をしたいと思うので、クリスマスの説教ばかりが集まってしまいます。ですから、この時期に私はいつもよりも沢山のクリスマスの説教を読むことになります。その中でも、毎年同じ説教を何度も何度も読み返すものがあります。いつか礼拝で紹介したいと思いながら、今日まで出し惜しみして来たのですが、今日、少し紹介させていただきました。もう、この説教を読んでいますと、それをそのまま初めから最後まで読みたくなるほど、私はこの人の説教に引き込まれてしまいます。今日の聖書を説教するのに、これ以上ないというほどに、見事な描写です。

 暗闇の中で夜番をしていた羊飼いたちがほんの一時、天が開けて天のありさまを垣間見た心情を、今の私たちの生活のある場面になぞらえてみながら、この出来事がどういうことであったのか、そこに思いをいたらせるのです。ここで、羊飼いたちが見た、天の輝きが天からこぼれ出て来たありさまは、夜に、家のにぎやかな声が闇夜にこぼれ出てきたのとは、実際には比較できないほどのものであったに違いありません。けれども、この説教の描写は、この時の出来事がどういうものであったか私たちに知らせるには十分の役割を果たしています。
 クリスマスの夜、それは沈黙の夜でした。クリスマスに賑やかだったのは、この地上ではなくて、天上の出来事です。天の御国のあるじを送り出すために、天使たちがグローリアを歌い、まだ、状況もよく呑み込めない羊飼いたちがその歌声を聞く光栄を与えられたのです。このクリスマスの季節にはいたるところで演奏会が行われます。バッハのクリスマスオラトリオやアベ・マリア、ヘンデルのメサイア、ベートーベンの第九とかがこの時期に各地で演奏が行われます。そういう素晴らしいコンサートにも比べられないような賛美がきっとこの時、天から捧げられたのでしょう。

 クリスマスの賑やかさ、華やかさは本来、地上でつくりだすものではなくて、天にすでにあったものです。私たちがそのことを忘れて、自分たちでクリスマスの楽しさを作り出そうとするのはやはり無理があるのだということに目を止める必要があるのだと思います。
 羊飼いたちが野原で夜番をしていた時、地上では眠りについていました。天では、神のところではあわただしくクリスマスの夜を備えておられたのでしょう。しかし、地上では誰も気づいていなかったのです。ここにクリスマスの大切な意味があります。

 クリスマスは何の備えも、用意もない、夜の闇が支配しているこの地上の世界に突如としてもたらされたのです。つまり、それは誰でも、このクリスマスに招かれているということです。自分で、クリスマスを作り出すのではなくて、思いがけず、天から与えられるもの。それがクリスマスなのです。 (続きを読む…)

2015 年 12 月 13 日

・説教 ルカの福音書2章1-7節「クリスマスのしるし」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 15:54

 

2015.12.13

鴨下 直樹

 
 昨日、私たちの教会では二つのクリスマス会が行われました。午前には子どもたちのクリスマス会です。近隣の小学校に案内を配布したこともありまして大勢の子どもたちが集まってくれましたし、教会でやっているハレルヤちびっこクラブという未就園児の子どもたちとそのご両親にも案内をいたしましたので、小さな子どもたちも、親と一緒に教会に集いまして、一緒に楽しい祝いの時を持つことができました。また、午後からは私は行くことができませんでしたけれども、マレーネ先生のお宅でもクリスマスの祝いの時を持ちました。たくさんの讃美歌を歌い、一緒に楽しい時間を持ったのだと思います。そのように、クリスマスには色々な方々をお招きして、一緒にクリスマスの喜びをお祝いいたします。それは、まさに、クリスマスが、神が私たちのところに降りてきてくださって、一緒に生きてくださる、共に歩んでくださることになった記念だからです。ですから、私たちも多くの方々を教会にお招きしまして、できるだけ多くの人たちと一緒に、このクリスマスの本当の意味を味わいながら、一緒に喜ぼうとしているのです。

 けれども、今日の聖書の箇所はルカの福音書の2章1節から7節までのところですけれども、ここに書かれている出来事はクリスマスの物語の一部ですが、ここからあまり嬉しい記事を見つけることはできません。書かれているのは当時のローマ皇帝の命令によって住民登録をするようにという勅令が出たこと、そして、その命令に従って人々はそれぞれ自分の生まれた町に戻るため、住民登録をする旅をしなければならなかったこと、そして、その中で、マリヤとヨセフという夫婦も命令に従いベツレヘムという町まで来たけれども、その旅先で子供が生まれたという出来事が記されています。けれども、その生まれたとき、宿屋には場所がなかったために、飼い葉桶にその子どもを寝かせたと記されています。 物語としてはとてもドラマチックですけれども、現実的に考えてみますととても厳しい出来事が記されています。
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