2024 年 6 月 23 日

・説教 マルコの福音書1章40-45節「病のいやし」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 06:59

2024.6.23

内山光生

序論

 今日の箇所には「病」、つまり「ツァラアトに冒された人」が癒された出来事が記されています。ツァラアトは、以前の翻訳では「らい病」となっていました。しかしながら、聖書の研究が進むにつれて「旧約聖書に記されているらい病は現代医学のらい病と同じではない」ことが分かってきました。

 旧約聖書では、「らい病」は様々な種類の皮膚病のことを指す時に用いられています。そこには幅広い病が含まれています。一方、現代医学のらい病は極めて限定された特定の感染症なのです。

 特に日本においては、以前は、らい病患者に対する差別や偏見があった事から、(現在は法律が改正されたので良い方向に進んでいますが、、、)誤解を与えないためにも「らい病」という言葉を使うのをやめた方が良いとの考えで、新改訳2017版では「ツァラアト」あるいは「ツァラアトに冒された人」と訳されています。別の翻訳では「重い皮膚病」と訳されている事もあります。

 何れにせよ、聖書に出てくる「ツァラアトに冒された人」が、大変みじめな人生を送っていたことは確かなことです。それは、単に病による肉体的苦しみだけでなく、社会的に隔離生活を強いられなければいけないという、精神的苦しみが伴ったからです。

 当時は、ツァラアトに冒されたならば、その人は、一般の人々の前に出て来ることが禁止されていました。恐らく、伴侶や親兄弟とも距離を置かざるを得なかった事でしょう。そのような悲惨な状況が変えられた人の話が今日の箇所に記されています。
 

I ツァラアトの人を癒された主イエス(40~42 )

 では今日の聖書箇所の40~42節から見ていきます。

 先ほど説明したように、当時のユダヤ社会では、ツァラアトに冒された人は隔離された生活をしなければなりませんでした。それゆえ、一般の人が大勢いるような場所に行ってはならなかったのです。

 そのことを考えると、このツァラアトに冒された人は、恐らく、イエス様に近づくためのタイミングを見計らっていたのではないかと思うのです。もしも誰かに「あの人はツァラアトに冒された人だ」と指をさされたら、その場にいることができなくなります。そうならないために、この人はイエス様の周りに人が少なくなった時を見極めて、そのチャンスを生かしてイエス様にお願いしたのではないかと思うのです。

 ツァラアトに冒された人は言います。「お心一つで、私をきよくすることがおできになります。」と。この人は、自分が重い皮膚病だという事、そして、他人が自分に触ると病がうつることを自覚していたのでしょう。だからイエス様に病気をうつさないために「お心一つで」と言ったのでしょう。この人は、それなりに気を遣っていたのです。

 さて、40節のこの人の姿を通して、教えられることがあります。それは「イエス様ならば、自分の病を癒すことができる。」と心から信じ、イエス様に近づいていった、という点です。というのも、この時代には、この人以外にも、多くのツァラアトに冒された人がいたと思われます。しかし、常識的に考えると、「人々が大勢いる場所には行くことができない。禁止されているのだから、、、。」と考えるものです。でも、この人は、そのような常識を乗り越え、なんとかして、自分の病が癒されたいと強く願ったのです。 (続きを読む…)

2024 年 6 月 16 日

・説教 マルコの福音書1章35-39節「ガリラヤ全域に福音が伝えられる」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 00:20

2024.6.16

内山光生

序論

 今日は、父の日です。日常生活においてお父さん方が家族のために労しておられることを覚え、各家庭においてもお父さんに感謝を表す時となることを願います。

 また昨日の子ども食堂も、第三回目となりました。参加者とボランティアをあわせて99名が与えられた事を神様に感謝をいたします。

 さて今日の箇所のタイトルは「ガリラヤ全域に福音が伝えられる」とさせて頂きました。しかし、後でメッセージの準備を進めていく中で別のタイトルの方が良いかもしれない、と思うようになりました。ですから週報には記していませんが、サブタイトルとして「福音を伝えるために」とさせて頂きます。

I 主イエスの祈り(35節)

 では35節を見ていきましょう。

 前回の箇所によると、前の日の夜に、イエス様の元にカペナウムの人々が訪れました。病人や悪霊につかれた人々がイエス様に癒してもらおうと、やって来たのです。そして、イエス様は人々の期待に応え、皆、癒されたのです。

 この時、きっと夜遅くまで癒しの御わざがなされていたと思うのです。それで、イエス様は肉体的に疲れ果てておられたのではないかと推測できるのです。いや、肉体的だけでなく、霊的な疲れを覚えておられた事でしょう。にもかかわらず、イエス様は次の日の朝早いうちに起きて、祈りに専念されたのです。

 ある人は、前の日の疲れが残っているのならば、ゆっくりと寝ていればいいのにと思うかもしれません。私自身も、どちらかと言えば、ゆっくりと寝ているのが好きな方です。ところが、イエス様は自分の疲れを回復させるために、父なる神と祈りによる交わりを持つという方法をとっておられたのです。

 しばしばマルコ1章35節は、ディボーションをする時なら朝早くの時間が良いという聖書的な根拠とされています。確かに、その通りかもしれません。実際、多くの人は朝に聖書を読むと集中しやすいと思っているのです。もちろん、朝が苦手な人もいるかと思いますので、その場合は朝にディボーションしなければと思い込む必要はなく、むしろ、自分にとって一番聖書を読みやすい時間帯を選べばよいのです。

 というのも、他の箇所では、イエス様は昼間に祈っておられる場面がありますし、また夜中に祈っておられる場面もあります。だから、時間にこだわりすぎる必要はないのです。

 イエス様は祈る必要がある時、なんとかして、祈る場所を確保して父なる神との祈りによる交わりに専念されたのです。 (続きを読む…)

2024 年 6 月 9 日

・説教 マルコの福音書1章29-34節「多くの人を癒された主イエス」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 06:22

2024.6.9

内山光生

序論

 はじめにお伝えしたいことがあります。それは、私が芥見教会において、なぜ”マルコの福音書”から説教をすることにしたかについてです。

私が神学校を卒業してから、最初にとりくんだのが”マタイの福音書”でした。単純に新約聖書の順番に従ってマタイを選んだのでした。順番からすると次はマルコといきたいのですが、私は個人的にルカが好きだったので、次にルカからメッセージをしました。

 そうすると、福音書の中で残っているのが、ヨハネとマルコになります。どちらを選ぼうかなと考えたとき、マルコの方が執筆年代が早いということに気づかされました。それなら、先にマルコをやろうという考えになりました。そういう訳でマルコを選んだのは執筆年代が早いということからです。

 さて、マルコの福音書の特徴は、イエス様の行いや出来事を簡潔に記している、そういう文体となっています。また恐らく、マルコはペテロを通して、イエス様の色々な話を聞いていたと推測できます。それゆえ、マルコの福音書にはペテロの視点が反映されていると言えるでしょう。マルコの福音書の特徴の細かい所については必要に応じてその都度、説明していくことにします。では、今日の箇所を順番に見てきましょう。

I シモンの姑をいやす(29~31節)

 29~31節を見ていきます。

 29節にある”一行”とは、”イエス様とシモンとアンデレ、ヤコブとヨハネ”のことを指しています。この一行はシナゴーグでの礼拝が終わるとすぐに、シモンとアンデレの家に向かったのでした。

 30節では、シモンの姑が熱を出して横になっていたとあります。何が原因で熱が出ていたのかは分かりません。普通の風邪だったのか、それともどこか病気があって熱が出ていたのか、その辺りは何も記されていないのです。だから、私たちがそれぞれ自分の頭の中で推測するしかないのです。いずれにせよ安息日でありながらも礼拝に行くことができない程に辛い状態だったのは確かな事です。

 ある人が考えるには、病人が寝ていたならば、その家を訪ねることは控えようとするかもしれません。なぜかというと、病気がうつったり、感染が人々に広がる危険があるし、何よりも、病人である当事者にとっては静かに寝ているほうが良いと思うからです。

 また、別の人は次のように思うかもしれません。「あの人は今、病気で大変そうだから、何か食べるものでも持っていってあげよう。直接、会うことができなかったとしても、それでもかまわない…」と。

 そういう風に、誰かが病気になった時に取る行動はそれぞれであって、どれが正しいかと判定することはできないのです。

 ところで、シモンたちは、家の中に病人がいるのを分かっていて、どのような行動を取ったでしょうか。それは、自分たちの姑が寝ていたけれども、イエス様を家に招き入れ、姑が熱で寝ていることをイエス様に伝えるということでした。 (続きを読む…)

2024 年 6 月 2 日

・説教 ルカの福音書12章41-48節「必ず帰ってくる主人」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 08:06

2024.6.2

鴨下直樹

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先日、インターネットを見ていましたらガス会社のCMが流れて来ました。「子育てのプレイボール」篇というCMです。

 このCMは若い夫婦のもとに赤ちゃんが生まれるところから始まります。この子育てを野球に例えているのですが、はじめにご主人が先発ピッチャーとして登場します。ところが、ご主人の育休はすぐに終わってしまって、そのあとは奥さんがリリーフピッチャーとして交代します。もう疲れ果てたところに、おばあちゃんが助っ人として登場したり、保育園に入った子どもが熱を出してしまってピンチになると、ご主人が子どもをお迎えにいくために、ご主人の会社の新入社員が仕事を代わってくれたりと続いていきます。そして、子育てをするためには街のみんなの協力が不可欠というメッセージで結ばれています。

 私はインスタでこのCMを見たのですが、そこにコメントがいっぱい載っていて、このCMを見て涙が出てくるというコメントで溢れていました。その中で、いくつか気になったコメントがありました。「ワンオペ育児」なる言葉がありますが、そこには自分一人で子育てに苦しんでいる人たちの訴えが書かれていました。夫にも頼れない、両親も遠くに住んでいるとか、いろんな事情で頼れない、そんな苦しみの言葉が目に留まりました。そこには人が孤独であることの辛さが溢れていました。自分の苦しみを誰にも分かってもらえない。共有することのできない悲しみが綴られていました。それを読みながら、私自身も反省する部分がたくさんあることに気付かされました。このCMを見ながら、今日の聖書箇所に通じる部分があるなと思わされました。

 今日の聖書の箇所は前回の続きの部分で、主人のしもべが主人が留守の間に自分の務めを果たしているかどうか、自分のやるべき仕事をこなしているかどうかが問われる話です。

 前回は35節から40節までの部分で結婚式に出かけた主人の留守をあずかるしもべの譬え話と、泥棒が来ても大切なものを奪われないように備えておく譬え話が記されていました。この前の部分を読みますと、主人の帰りを待つしもべも一人で孤独に待つよりは、他の仲間や協力者があるのとではだいぶ違うかなと思わされます。

 今日は、その続きからなのですが、弟子のペテロの質問から始まっています。41節。

そこでペテロが言った。「主よ。このたとえを話されたのは私たちのためですか、皆のためですか。」

 ペテロは主イエスの譬え話が、何を意味するのか主イエスの意図がつかめなかったようです。そこで、主イエスはさらに譬え話をして、ペテロの問いかけにお答えになられました。

 それが今日の42節から記されている「忠実な管理人の譬え話」です。

 この管理人は「主人によって、その家の召使いたちの上に任命され、食事時には彼らに決められた分を与える」仕事を任されていました。そして、主人が帰って来た時にちゃんと管理人の務めを果たしている僕は幸いであると43節に書かれています。

 そして、さらには忠実な管理人に「自分の全財産を任せるようになります」と44節に書かれています。これが、忠実な管理人に対する主人の態度です。ここには、主人の管理人に対する絶大な信頼が表わされています。 (続きを読む…)

2024 年 5 月 26 日

・説教 ルカの福音書12章35-40節「待つことを喜びとして」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 00:06

2024.5.26

鴨下直樹

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 主イエスの譬え話がここに記されています。主イエスの話はとてもイメージしやすく、聞く人たちの気持ちに寄り添った話し方をなさいました。

 今日の箇所は本来35節から48節までを一括りの話として理解することもできます。けれども、今日はこの40節までとしました。ここは短い箇所ですが、二つの譬え話が記されています。一つは35節から38節の「結婚式に出かけた主人を待つしもべ」の譬え話です。もう一つは「泥棒への備え」の譬え話です。

 この二つの譬え話、またこれに続く48節までの部分のテーマは「再臨」と呼ばれるテーマです。主はもう一度戻ってこられるという話です。けれども、この当時、主イエスから話を聞いていた人々や弟子たちは、まだ「再臨」というテーマの話は聞いたことがありませんでした。私たちも人によっては、この「再臨」ということが、あまりよく分からないという人があるかもしれません。

 「再臨」とは何でしょうか? それは、主イエスが再び来られるという約束です。先週、私たちはペンテコステをお祝いしました。ペンテコステというのは、神の霊である聖霊が私たちに与えられたことを覚えてお祝いする日です。聖霊が、私たちの心に与えられているので、私たちは主イエスを、私たちの救い主ですと告白することができるようになります。この出来事が起こったのはいつかというと、主イエスの復活の後、弟子たちに姿を現されてから、40日経って主イエスは天に帰っていかれました。私たちを天に迎え入れる準備をする、そう言っておられました。そして、それから10日後のペンテコステの日に、約束通りに弟子たちに聖霊が与えられたのです。この時から教会は、主イエスがもう一度この世に来てくださるとの約束を待ち望んでいます。この主イエスが、もう一度この世に来てくださることを「再臨」と言います。再び主イエスがご臨在くださる。このことを「再臨」と言うのです。「再臨」の時というのは、私たちが天に迎えられる準備が整ったということでもあります。

 まだ、主イエスの十字架も、受難の出来事も起こる前に、主イエスはずっと将来のことを見据えて、譬えを通して、この「再臨」についてお話しになられました。それが、ここに記されている主人を待ち望んでいるしもべの譬え話です。あまりにもこの話がよく分からなかったので、この話を聞いていた弟子のペテロがこの後の41節で、今の話は誰に話されたのですか? と尋ねています。それくらい分からない話だったのです。

 この聖書の箇所が語ろうとしている一つの重要なテーマは「タイムリミットがある」ということです。しもべの主人は結婚式に出かけたようです。当時の結婚式は一週間続いたという話があるくらいですから、主人がいつ戻って来るか分からないのです。けれども必ずいつかお戻りになられるわけです。当分の間、主人が戻ってこないことが分かっている時に、しもべがその間何をするか。そのことがここで問われています。

 皆さんならどうでしょうか? 主人がいない間、自分がしもべだとすると、どうやってその時間を過ごすでしょうか?

 しもべに期待されていることといえば、その間にするべき務めを果たすことです。けれども、いつ戻ってくるかわかりません。今のように監視カメラがある時代ではありませんから、「やったー!ついに自由だ!」と束の間の自由を楽しむこともできます。

 こういう場面というのは、私たちの生活のさまざまな場面でも見られる光景です。「出かけている間に、洗濯物を取り込んでおいてね」とか、子どもであれば「少し買い物に出掛けてくるので、その間に宿題を終わらせておくように」とか、あるいは、職場であれば「納期がいついつまでなので、それまでにこの仕事とこの仕事をやり終えておくように」とか、まあいろんな場面でこういう出来事が起こります。

 いついつまでにやるべきことがある。そんな時、ついつい先延ばしにしたい人もあるでしょうし、まず最初にやるべきことは終わらせておきたいと考える人もあるかもしれません。あるいは、頑張って先にやるべき用事を終わらせておくと、そこから更に仕事を増やされてしまうので、ほどほどに手を抜いて、ちょうど終わるように調整するというような達人もあるかもしれません。

 問題なのは、やらなければならないことがあるのに、その前に自分のやりたいことを優先させてしまうという思いが私たちの中に出てくることです。この問題は、相手よりも自分の気持ちを優先させるというところから出てきます。聖書は面白いもので、こういう、私たちが毎日の生活の中で、何でもないことのようにしていることに踏み込んできます。

 自分が人に仕事を頼む場合と、自分がする側に立つ場合とで態度が変わってくるなんていう人も、あるいはあるかもしれません。

 そんなお話をなさったこの譬え話の冒頭、主イエスはこのように話を始められました。 (続きを読む…)

2024 年 5 月 19 日

・説教 マルコの福音書1章21-28節「主イエスの評判が広まる」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 07:41

聖霊降臨祭(ペンテコステ)
2024.5.19

内山光生

序論

 今日はペンテコステの日、すなわち、聖霊降臨祭です。ペンテコステの日とは、イエス様があらかじめ弟子たちに伝えていたように “助け主” つまり “聖霊” が( くだ )った事を記念する日です。イエス様の弟子たちは、イエス様の教えを聞いていながらも、本当の意味では福音を理解できていませんでした。例えば、イエス様が十字架の上で苦しまれること、その後、よみがえるということを何度も何度も聞かされていながらも、その意味を悟ることができていなかったのです。

 けれども、イエス様が復活した後でようやく心の目が開かれたのです。そして、ペンテコステの日に聖霊が降ることによって、福音がどういう意味なのかがはっきりと分かるようになったのです。そういう訳で、ペンテコステの日は私たちクリスチャンにとって記念すべき時なのです。

I カペナウムでの宣教 ~人々が驚く~(21~22)

 では21~22節を見ていきます。

 カペナウムという町は、ガリラヤ湖の北西に位置し、交通の便が良いことから割と繁栄していたと言われています。この町がイエス様によるガリラヤ伝道の活動拠点となっていくのです。

 イエス様の伝道方法には、あるパターンがありました。それは会堂、つまり、ギリシア語で言うと “シナゴーグ” において、安息日ごとに聖書の説き明かしをする、という方法です。シナゴーグには、会堂司と呼ばれる人がいて、礼拝において誰に説教をしてもらうかを決める権限がありました。それゆえ、イエス様は会堂司の許可を得て、あるいは、依頼されて聖書の説き明かしをしたのでしょう。

 イエス様の教えは、人々に驚きをもたらしました。マルコの福音書では「人々が驚いた」という表現が至る所に記されています。マルコは、イエス様の教えや行動が、どれ程、人々に驚きをもたらしたかを強調しているのです。

 22節では「その教えに驚いた」とあります。では、なぜ人々は驚いたのでしょうか。当時、聖書の説き明かしをする人は、しばしば「あの有名なラビがこう言っている」とか「言い伝えによれば、こうこうこういうことです」といった感じで、有名な人や有力な言い伝えに頼って、自分の言っていることばに権威を持たせようとしました。ところが、イエス様は、他の説教者のように何かを引用する必要がなかったのです。なぜなら、イエス様ご自身が権威あるお方だったからです。

 私たちは自分の言っていることを信じてもらうために、「誰が言っていたのか。」の出所を大切にします。テレビのニュースで放映されていたり、新聞に書かれている事ならば、ある程度の信頼性があります。一方、インターネットの情報は、しばしば、嘘のニュースが流されることがあって、鵜呑みにできないことを私たちは経験しています。しかしながら、本当に権威あるお方ならば、その人が言うことには言葉では表現しがたい独特の雰囲気があって、人々の心に強い印象を与えるのです。

 イエス様の聖書の説き明かしは、当時の律法の教師とは比較にならない程、権威に満ちておられたのです。それで、人々は驚きを隠せなかったのです。 (続きを読む…)

2024 年 5 月 12 日

・説教 マルコの福音書1章14-20節「人間をとる漁師」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 07:58

〈ききたまえ〉
2024.5.12

内山光生


序論

 今日は母の日です。それぞれが家庭において、お母さんに感謝をあらわす日となれば幸いです。

I 宣教を開始した主イエス(14~15節)

 14節を見ていきます。

 イエス様が地上において福音宣教を始めたそのタイミングは、ちょうど、あのバプテスマのヨハネが牢屋に入れられた事がきっかけとなりました。

 なぜヨハネが投獄されたかについては、マルコの6章に詳しく記されていますので、今日は簡単に説明するだけにいたします。

 当時、ガリラヤ地方を政治的に治めていた「ヘロデ・アンテパス」が、自分の異母兄弟の妻を奪うという罪を犯しました。その罪を指摘したのがバプテスマのヨハネです。ヨハネは、正義を大切にする人でした。それで権力のあったヘロデ・アンテパスに対してはっきりと何が罪なのかを指摘したのです。しかしそれが原因で、投獄されたのでした。

 さて、ヨハネが投獄された事はイエス様にとっても、ヨハネを信頼していた人にとっても悲しい出来事でした。けれども、その出来事がきっかけとなって、いよいよイエス様によって「神の福音」が力強く伝えられるようになったのです。

 イエス様による宣教の最初の地がどこかというと、「ガリラヤ地方」でした。ガリラヤ地方は、頑固な国粋主義者が多い地域と言われていました。また、地理的な条件から北からの侵略者の攻撃を一番最初に受ける場所とも言われていました。だから、自分たちの国を守ろうとする気持ちが強かったのです。ある意味、保守的な地域だとも言えるでしょう。そんな場所に、どこよりも早く「神の福音」が伝えられることとなったのです。

 ところで、ガリラヤの地に福音の光が届けられることは旧約の預言書にも記されていることであって、神があらかじめ選んでいた地域だったのです。

 今の時代でも、どうしてあの地が、周辺地域で一番最初に開拓伝道地として選ばれたのだろうか? と思う方があるかもしれません。例えば、私たちの同盟福音では、岐阜県の羽島が最初の開拓地域となりました。その理由は、私ははっきりとは知りませんが、どなたかご存じかもしれないですが、、、言えることは、人々の祈りの中で神様がその地で開拓するようにと導いた、そういうことだと思うのです。

 ここに神様の支配があることを私たちは認めざるを得ないのです。 (続きを読む…)

2024 年 5 月 5 日

・説教 ルカの福音書12章22-34節「心配の糧と天の宝」

Filed under: YouTube動画,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 07:54

〈いのれ〉
2024.5.5

鴨下直樹

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 今から20年ほど前ですが、朝日新聞の「天声人語」で一冊の本が紹介されました。『パパラギ』という本です。この本には副題がついていまして「はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集」と書かれています。

 この本が最初に世に出たのは今から100年前の1920年のことです。見返しのところにはこんな謳い文句が書かれています。

パパラギとは、白人のこと、見知らぬ人のこと。でも、言葉どおりに訳せば、天を破って現れた人。はじめてサモアに来た白人の宣教師が白い帆船にのっていた。遠くに浮かぶ白い帆船を見て、島の人たちはそれを天の穴だと思った。白人がその穴を通って彼らのところへやって来た。――白人は天を破って現れた――

 本の内容はとても面白いものです。それまで文明とはまったく縁遠い生活をしていたサモアの島の人々のところに白人の宣教師がやってきて、キリスト教が宣べ伝えられます。こうして、島の人々はキリスト教を信じるのです。ところが、この演説は、西洋の誇りとしている文化や生活様式、そして人々が願い求めているものがいかに神の願いからかけ離れているのかを明らかにしていく内容となっているのです。痛烈な白人文化批判と言っても良いような内容です。

 中にこんなエピソードが書かれていました。この酋長がヨーロッパを訪ねた時に、ある質問をしたのだそうです。「そんなにたくさんのお金をどうするんです? 着たり、飢えや渇きをしずめるほか、この世で何ができますか?」答えは何もない。そう書かれています。そして、ヨーロッパでお金を払わなくてもいいのは空気だけだ。でもこの話を聞かれると空気にもお金がかけられるかもしれない。そのなかには、こうも書かれています。「ある人がお金をたくさん、普通の人よりはるかにたくさん持っていて、そのお金を使えば、百人、いや一千人がつらい仕事をしなくもすむとする。――だが、彼は一銭もやらない」

 まるで、主イエスが語っているのではないかという話が、延々と記されています。「お金が欲しい、時間が欲しい。彼らは神を信じていると言っているのに、実のところお金を信じている。」そう書かれています。

 この本は、今もよく読まれているようで、読んだ人たちの様々な感想がアマゾンなどでも書かれています。それで少し興味を持って調べてみると、この本は実在したサモアの酋長の話ではなくて、ドイツ人の創作話だったというようなことまで、インターネットの辞典であるウィキペディアに書かれていてびっくりしました。この『パパラギ』という本の話は実話ではないのかもしれませんが、かなり大きな影響力を与えました。ヨーロッパの人々の信仰の本質を突きつけ、実際に人々が求めているのはお金で、そのために大切なものを失っていることに気づいていないという指摘です。

 今日の聖書箇所のテーマは「心配」です。「何を食べようか、何を着ようか」という心配から始まって、主イエスの語る「幸福論」と言っても良い内容がここには記されています。私たちが生きていくために大切なものは、「衣食住」の三つだと言います。これが整っていれば「幸せ」と表面上は定義することができます。けれども、現代人のほとんどの人は誰もがこの「衣食住」が整っていますが、幸せだと感じている人はそれほど多くはありません。『パパラギ』の本で指摘されているように、「もっと、もっと」と人々は際限なくさまざまなものを求めているからなのでしょうか。

 「心配」というのは、その背後に様々な「恐れ」が潜んでいます。「もっと、もっと」と望みが決して小さくならないのは、少しでも恐れを取り除きたいと考えているからです。主イエスはここで、「いのち」と、「からだ」のことを語っています。食べるものは「いのち」のため、着るものは「からだ」のためと言います。これは、私たちにもよく分かることです。私たちはいのちを長らえさせるために、少しでも長生きしようと「サプリ」や「健康食品」を購入します。あるいは、この「からだ」が健やかでいられるためにも、からだに取り込むものは、加工食品や、化学調味料を除いた方が良いと考えます。

 ごくごく当たり前になっているようなこのような習慣そのものにも、主イエスは目を向けさせます。30節では「これらのものはすべて、この世の異邦人が切に求めているものです。」とさえ言っています。この世の人々が、神の民ではない「異邦人」が行っていることと、同じことをしていて「神の民」としてのアイデンティティーは一体どこにあるのかという厳しい問いかけです。

いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものだからです。」と23節で主イエスは言われるのです。

 烏でさえ主イエスは養われておられると言われるのです。続く25節ではさらに面白いことを主イエスは言われます。 (続きを読む…)

2024 年 4 月 28 日

・説教 ルカの福音書12章13-21節「喜びの備え」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 07:18

〈歌え〉
2024.4.28

鴨下直樹

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(本日はYouTube動画はありません)


 約1か月ぶりに芥見教会の皆さんと、こうして顔を合わせて礼拝できることを、本当に嬉しく思います。前回はオンラインでの礼拝説教でしたので、今日はこうして皆さんを身近に感じながら礼拝できることは喜びです。

 4月になりまして、笠松教会との兼牧が始まりました。単純に関わる人の数が倍になりました。やることは増えましたが、私自身とても楽しく過ごさせていただいています。笠松教会にも多くの信仰の友がいて、その一人一人のお話を聞くことは、とても嬉しいことです。

 笠松教会にOさんという今年102歳になられるお婆さんが来ておられます。毎回私と顔を合わせると、顔をくしゃくしゃにして、手を握りながら「昔、オシメを換えていた、あの赤ちゃんがこんなに立派になって嬉しい」と喜んでくださいます。私が笠松教会にいたのは2歳までですので、そのころの記憶は私にはありません。けれども、これまで何度も何度もOさんとお会いしてきました。もう耳が悪くてあまり聞こえていないようなのですが、それでも喜んで礼拝に集っておられます。芥見でもそうですけれども、笠松でも教会の方々が、一人一人を訪問して車で乗せて来てくれるのです。中には何人もの体調のすぐれない方がおられるのですが、皆さん嬉しそうに教会に集っておられます。そういう皆さんのお姿を見ていると、それぞれの存在が、お互いに大きな支えになっているのかと思うのです。

 前回の説教は3週間前でしたので、前回のことを少し思い出してみたいと思います。前回、主イエスはパリサイ人や律法学者の偽善を見抜かれて、1羽の雀や抜け落ちる髪の毛の話をなさりながら「神があなたのことを心配してくださる」と語ってくださいました。見せかけの信仰に生きるのではなくて、神と共に歩むことのできる幸いをお語りになられたのです。

 すると、その様子を見ていた大勢の群衆の1人が、主イエスとは素晴らしいお方だと感じ、この方なら分かっていただけるのではないかと思って、主イエスに相談を持ちかけました。13節です。

「先生。遺産を私と分けるように、私の兄弟に言ってください。」

 この相談をした人は、主イエスが絶対に自分の味方になってくださるに違いないという確信を持っていたのだと思います。ところが、主イエスから返ってきたのは、この人の思ってもみない返答でした。

「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停人に任命したのですか。」

14節です。

 主イエスの返事を聞いて、この人は失敗したと感じたのだと思います。見極めが甘かったのです。この人は主イエスが話をしておられるのを聴きながら、このお方なら、自分に対して遺産を分けてくれない兄弟から、遺産を取り返すことがおできになるに違いないと思いました。どうしてかというと、パリサイ人や律法学者のような立場のある、それこそ自分の正当性を主張する人であっても、その心の中に秘めた貪欲を曝け出すことが、おできになる方だと思ったからです。ところが、自分の味方になってくれると当たりをつけた人物は、自分の味方になってはくれないことが、ここで明らかになったのです。 (続きを読む…)

2024 年 4 月 21 日

・説教 マルコの福音書1章9-13節「私の愛する子」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 09:16

〈全地よ喜べ〉
2024.4.21

内山光生

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(本日はYouTube動画はありません)


序論

 私たちの家族が住んでいる借家において、私は2階の部屋を書斎にしてメッセージの準備をしています。窓の外には木の枝が風に揺さぶられている姿が見えます。また、鳥たちの鳴き声がまるでBGMのように響いています。とても恵まれた環境で聖書と向き合うことができることに感謝をいたします。昨日の子ども食堂も大勢の方が来られたことを感謝いたします。

I バプテスマを受けた主イエス(9節)

 9節から見ていきます。

 イエス・キリストが公に活動を始められる少し前に、バプテスマのヨハネが悔い改めのバプテスマを宣べ伝えていました。悔い改めのバプテスマとは、人々が自分の罪を告白し、神様に心を向けること、それらの「あかし」として水によるバプテスマを授けてもらうこと、そういう意味がありました。

 バプテスマのヨハネの噂は、ユダヤ地方だけでなく多くの地域に広がっていきました。それでガリラヤ地方の田舎町、ナザレという村に住んでいたイエス様もわざわざヨハネの元にやってきたのです。

 マルコの福音書では、この時の詳しい様子が省略されています。一方、マタイによると、ヨハネがイエス様にバプテスマを授けるのをためらった事が記されています。ヨハネは「どうしてこんな私がイエス様にバプテスマを授ける資格があるのだろうか?」と疑問に思ったのです。

 ある人々は、そもそもイエス様は神の子であって何一つ罪のないお方ではないか。罪がないのに「悔い改める必要」はないのではないか。と考えるかもしれません。確かに、その通りです。イエス様は私たちのように悔い改める必要はないのです。

 けれども、マルコの福音書は、単純に、この時起こった出来事を記すにとどまっていて、私たちの心に浮かぶ疑問に対して沈黙をしています。そしてそれがマルコの福音書の特徴なのです。だから、書かれていないことに目を向けるのではなく、はっきりと記されていることに目を向けていけばよいのです。ただマタイによると、イエス様がヨハネからバプテスマを受けられたのは、正しいことなんだと記されています。つまりイエス様は、私たち人間に対して、模範を示してくださったのです。イエス様は罪なきお方でした。しかしながら、ヨハネからバプテスマを受けられたことによって、私たち人間に対して、悔い改めて心を神様に向けることの大切さを示して下さったのです。

 まだ洗礼(バプテスマ)を受けていない方々に伝えたいことがあります。それは、イエス様を救い主として受け入れているならば、そして、洗礼を受けたいという気持ちがはっきりと出てきたならば、ぜひ、早めに洗礼を受ける決心をして頂きたいのです。それが神のみこころであって、神に喜ばれる正しい事だからです。 (続きを読む…)

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