2025.08.24
加藤 愛
2025.08.24
加藤 愛
2025.08.17
内山光生
柔和な者は【主】によってますます喜び、貧しい者はイスラエルの聖なる方によって楽しむ。
イザヤ29章19節
ここ数年、ずっと猛暑が続いていて「今年は暑いね」という言葉をよく聞くことがあります。10年以上前までは、これ程の暑さが続くことはなかったように思うのですが、いつの間にか、気温が35度を超えるのは当たり前の事で、場合によっては38度や39度になることもある、そういう時代に入ってしまったようです。
そういう中にあっても、今、私たち家族が住んでいる高天ヶ原団地では、朝夕は多少、気温が下がるようで、特に早朝に聖書を読んだり祈ったりするには、快適な環境です。暗い時間から、せみの声や鳥の声が鳴り響いていて、音楽をかけなくても、天然のBGMとなって心地よい気持ちで過ごしています。ただ太陽が出てくると、やはりエアコンのある部屋でないと厳しいと感じています。
さて、聖書の話に進みたいと思います。前回の6章までは、イエス様の宣教活動が多くの町や村に伝えられて行き、特にゲネサレの地では、快く受け入れてもらった事が記されていました。一方、イエス様の教えを受け入れようとしない人々も存在しました。この7章からは、イエス様を受け入れない人たちとイエス様とのやり取りが記されています。
これらの人々は、一言で言うと「神のことばを無にしていた」のです。イエス様は、彼らの本質を見事に見抜いた上で、強烈なパンチを浴びせたのです。しかしイエス様は、彼らが本当の意味で神様の教えがどういう事なのかを知ってもらいたいがゆえに、彼らの問題点をはっきりと指摘しているのです。
人というのは、誰かから自分の問題点あるいは自分の所属しているグループの問題点を指摘されると嫌な感情が出てきます。そして、拒絶反応が起こる、そういう場合もあるのです。けれども、神の教えを無にした人生を送り続けているならば、それは、良くないことなのです。ですから、私たちクリスチャンは、自分の考え方や自分の行動が神のみこころにかなったものなのかどうかを思い巡らすことは、意味のあることなのです。 続きを読む ・説教 マルコの福音書7章1-13節「神のことばを無にしないために」
2025.08.10
内山光生
村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、人々は病人たちを広場に寝かせ、せめて、衣の房にでもさわらせてやってくださいと懇願した。そして、さわった人たちはみな癒やされた。
マルコ6章56節
イエス・キリストが人々の前で宣教活動を開始した時、主イエスは二つの事をしました。一つは、福音を伝えることです。もう一つが、病人を癒したり、悪霊で苦しんでいる人々を悪霊から解放する事でした。つまり、主イエスは単なる知識を教えるのではなく、苦しんでいる人々の身体の問題や心の問題に対しても光を与えようとしたのです。
また、イエス様はお一人で宣教活動をするのではなく、早い段階で弟子たちを選んで、弟子たちを引き連れて宣教活動をする方法をとりました。自分一人だけで福音を伝えるのではなく、福音を信じたその人を用いて、更に多くの人々に福音が伝えられていくことを願ったのです。
もちろん、最初の頃はイエス様が中心となってみことばを語り、そして、癒しのみわざをなしてきました。けれども、ある段階になると、弟子たちを二人一組にして、多くの町や村に遣わしたのです。
宣教活動を任せられた弟子たちは、あらかじめイエス様から権威を授けられました。それで、彼らもまた、力強くみことばを語ったり、癒しのみわざを行なうことができたのでした。すでにイエス様の力を体験していた弟子たちです。ところが、彼らはイエス様がどういうお方なのかを本当の意味では悟っていなかったのでした。弟子たちは色々な失敗を通してイエス様のことを深く知るようになっていくのです。
このことから、人というのはイエス様が本当にどういうお方なのかを悟るためには、様々な経験が必要だということが分かってきます。単なる知識だけでは、イエス様がどれほど偉大なお方なのかについて知ることができないのです。また、弟子たちのように、たとえイエス様から権威が与えられたとしても、必ずしもイエス様の事を十分に知っているとは限らないのです。
イエス様の弟子たちの信仰は、まだまだ未熟な状態でした。しかし、もっと不信仰な人々が存在しました。それは今日の箇所より少し前の箇所に記されています。たとえば、イエス様とその一行がゲラサ人の地に到着した時、悪霊で苦しんでいる人がいました。そこで、イエス様はその人から悪霊を追い出したのです。それで、その人は正気に戻り、イエス様によって苦しみから解放されたと受け止めたのです。本人は、イエス様に感謝をささげていました。ところが、ゲラサ人の地に住んでいた人々は、イエス様のことを警戒したのです。そして、イエス様に対して「出ていってください」と言ったのでした。その結果、ゲラサ人の地の人々は、イエス様の福音に触れる機会を失ったのでした。
また、イエス様の故郷ナザレの町においても、その町の人々は「イエス様がすばらしいお方だ」といううわさを聞いていたにもかかわらず、イエス様を受け入れようとしませんでした。人々の心がかたくなになっていて、イエス様に心を開かなかったのでした。それで、不本意ながらも、イエス様はナザレの町では、大きなみわざを行なうことができなかったのでした。
このように、イエス様が福音を伝えたとしても、すべての町や村がイエス様を歓迎した訳ではなかったのでした。一方、今日の箇所において、ゲネサレの地に住んでいる人々は、イエス様を歓迎し、また、イエス様の良い噂を広めていったことが記されています。この地の人々は、素直な心でイエス様の語る福音を受け入れ、更には、イエス様には癒す力があるという事を喜んで受け入れたのです。 続きを読む ・説教 マルコの福音書6章53-56節「ゲネサレでのいやし」
2025.08.03
鴨下直樹
先週の日曜日の午後、教団役員研修会が岩倉教会で行われました。講師として、お茶の水クリスチャンセンターの責任を持っておられる山崎龍一先生をお招きしました。山崎先生は、お茶の水クリスチャンセンターという東京にある、大きなクリスチャンセンタービルの建て直しに尽力された方です。この山崎先生が『教会の実務を神学する』という書物を出されました。この本の中で山崎先生は「教会の実際の運営は、この世の常識で判断されていて、神様の思いから離れたところで判断しているのではないか?」という問題提起をしておられます。
今回の役員研修会でもこの「教会の実務を神学する」というテーマでお話しくださいました。山崎先生が役員研修会でお話しになられたのは、主に役員として教会をどのようにして導いていくかという内容でした。この研修会でとても大切なこととしてお話しになられたのは、教会が何かを決めていく時に、どういう考え方で物事の判断をするかということです。そこでもお話しになられたのはやはり、聖書の考え方ではなくて、この社会の通念上、あるいは教会の役員たちがそれぞれ社会で経験して来たことに基づいて判断していないかという問題提起です。
会社ならこうする。世の中ならこういう考え方のはずだ、あるいはお役所はこう判断するはずだということが、判断する時の基準になっているのではないかという指摘をされました。この指摘はとても意味のある問いかけです。今、社会が目まぐるしく変わっていく中で、パワハラ防止法だとか、働き方改革だとか、最低賃金の見直しなどで、行政から要請されて、教団のあり方を見直すような話し合いが続いています。ただ、こういうことをやり始めると、次第に行政の指導に従うのが当然であるという流れになってしまって、気づくと教会はいつの間にか、主が求めておられることとは違うことをさせられているということになりかねないわけです。
世の中の声が大きくなると、聖書が言っていることが分からなくなっていきます。聖書が語るのは、前回の聖書箇所にもあったように、「それは人にはできないが、神にはできる」というようなこともあります。私たちが自分の力でできないことまで、主はお語りになられるお方です。この世の価値基準と、聖書の価値基準は同じところにはないのです。だから、簡単に聖書の言っていることが「分かる」とはならないことがあるのです。
今日の聖書の話は、そういう意味では、主イエスが3度目の受難の予告をなさったことが記されています。そして、その結論は、弟子たちは34節で「話されたことが理解できなかった」という言葉で結ばれているのです。
今日の聖書箇所は少し唐突に思えるかもしれません。ただ、前の箇所の続きとして読んでいくと話の流れが見えてきます。前回の聖書箇所では神の国に入るのは、自分の力ではなしえないというところでした。神の働きかけによって、もっとはっきり言えば神の恵みの御業によって人は救いに至ることができるのだと、この前の部分で主イエスは話されました。これは、言ってみれば主イエスご自身が神から遣わされて人々を神の国に入れるために来られたのだということを明確になさったことになります。
そこまでお話しになられた後で、今度は弟子たちだけを「そばに呼んで」こっそりとお話しになられたのが、今日の箇所である受難の予告の知らせです。 続きを読む ・説教 ルカの福音書18章31-34節「隠された平和への道」
2025.07.27
鴨下直樹
20世紀の終わりに活躍したドイツの神学者で、ディートリッヒ・ボンヘッファーというルター派の牧師がいました。この人は、ナチスドイツのあり方を批判して闘った牧師です。この牧師の言葉にこういう言葉があります。
「教会は他者のために存在する時に、はじめて教会である」
このボンヘッファーの言葉は、教会がいつの時代にも聴き続けていなければならない大切な言葉です。
ここで言う教会というのは、会堂のことや、組織のことではなくて、一人一人主イエスに呼び集められた人々のことを指しています。つまり、私たちの毎日の生活そのものが、そのまま教会の姿ということができます。この教会のあり方というのは、いつも社会のあり方とは正反対だと言えます。政治の世界も、経済の世界も、教育も、基本的にはすべて自己のためにあるものです。国の政治はその国のためになされますし、会社の経済は会社のためですし、教育も基本的には自己目的です。もちろん、どの分野も人のために、世のために貢献しようという部分はありますけれども、基本的には自分の方向に向いているのが、社会のあり方です。けれども、教会はそうではなく、他者のためにあるとボンヘッファーは言うのです。
さて、今日の聖書の中には、一人の指導者が登場します。この人は主イエスにこんな質問をしました。18節です。「良い先生。何をしたら、私は永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」
「どうしたら、この素晴らしいものを手に入れられるでしょうか?」とこの人は永遠のいのちを得るための方法を主イエスに尋ねています。この問いは、いつも姿を変えて私たちの願いとなっています。
「どうしたら健康が手に入れられるでしょうか?」
「どうしたらお金を儲けられるでしょうか?」
「どうしたら素敵な人と出会えるでしょうか?」
私たちの日常的な願い求めは、いつもここにあります。
「どうしたら経済的に楽に生活できますか?」
「どうしたら病気を気にしないでいられますか?」
私たちはこのような問いを持ちながら、その問いの答えを与えてくれる人を探しています。
すると、ある人は答えます。
「あなたの家の方角が悪い、運気が悪いから向きを変えなさい」
「名前の画数が悪いから、名前を変えてしまいなさい」
「あなたの子育ての仕方が悪い、あなたのお金の運用の仕方が間違っている、あなたの食べている食品が悪いから、もっとこういうものを食べた方が良い・・・」
そうして私たちは便利になったインターネットやSNSを見ながら、いつもどこかに新しい情報がないかと、ショート動画を探しているのかもしれません。
けれども、それらの中に込められている答えは、すべてこういうことです。「それは、今あなたの中にありません!」「あなたは答えを持っていないのです!」だから、もっと新しい情報が必要です。もっとこうするべきです。もっと、もっとと、次々に新しい情報に飲み込まれて疲れてしまっているのに、それを止めることができないでいる。私たちは、必要なことを求めているのに、いつの間にかそれらに支配されてしまって、平安を失い、疑心暗鬼になってしまうのです。
主イエスは、このような問いに対して何とお答えになられたでしょうか。見てみたいと思います。主イエスはこの指導者に対して、先ずこう答えられました。あなたは今、良い先生と言いましたが、「良い」と呼べるお方は「神以外には誰もいませんよ」と。 続きを読む ・説教 ルカの福音書18章18-30節「他者のために生きる人生」
2025.07.20
内山光生
みなイエスを見ておびえてしまったのである。そこで、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。
マルコの福音書6章50節
一般的に言うと、職場における上司や経営側に立っている人の視点から見れば、物事をすぐに吸収する人、仕事を覚えるのが早い人の方が好まれる傾向があるでしょう。また、学校においても、勉強ができると先生や親から褒めてもらえる、そういう現実があるかもしれません。
少し前までは、古本屋に行くと「効率のいい仕事の仕方」とか「勉強ができるようになるための秘訣」といった種類の本がたくさん並べられていて、私自身もそのような本を手に取って、参考にしていました。けれども、今の時代では、インターネットのユーチューブを見ると、分かりやすく、また、すぐに効果がでるような仕事の仕方や勉強方法が無数にあふれています。ただ、あまりにも情報量が多いので、どれが自分にあっているのかが分からなくなり、無駄な時間を過ごすことになる事もあるようです。また、事実と異なっていたり、いいかげんな情報も含まれていますので、それらを判別するためには、ある程度の経験が必要となります。
多くの人々は、なるべく早く物事を吸収したいと願っていて、そして、そういう事がうまくできるのが良いことなんだ、そういう価値観の影響を受けているのです。それゆえ、そのような基準で考えると、確かに、職場などにおいても、言われたことを素直にすばやく吸収していく人が良い評価を受けやすい、そういう現実があるのです。
ところが、私たちの信仰について考えるとき、必ずしも、この世の基準が当てはまるとは限らないのです。誤解を恐れずに言うと、聖書を効率よく読んでいき、そこに書かれていることを吸収するのが早ければ、それがいいことなんだ、とは言えないのです。というのも、ゆっくりかもしれないですが、聖書の教えを着実に実生活につなげていく、そういうタイプの人もおられますし、年齢によってはみことばを吸収する速度が早い時期とそうでない時期があるからです。
また、人間というのは、そう簡単に自分の中にある罪深い言動が変わっていく訳ではないのです。自分では良くないことだと分かっていても、ついつい、家族に対して、冷たい言葉が出てきてしまったり、相手が不快に感じる言動をしてしまう、誰もがそういう弱さを持っているのです。いや、家族だからこそ、自分の弱さが出てしまうのでしょう。
実は旧約時代の信仰の父と呼ばれているアブラハムでさえも、神様に出会った最初の頃は決して、立派な信仰者とは言えなかったのです。アブラハムが何度も何度も同じ過ちを犯した事が聖書に記録されているのです。例えば、外国の地において、自分たちの命の危険が迫ってくると、自分の妻のことを「あれは妹です。」とごまかしたのでした。しかも、同じような事を2回繰り返したのでした。ところが、神様は、そのようなアブラハムが年老いた頃には、立派な信仰者へと成長させてくださったのです。
同じように、イエス様の弟子たちも、何度も何度も、失敗を繰り返したのです。更には、イエス様が捕らえられた時に、皆、一斉にイエス様の元から逃げ出したのです。けれども、イエス様はそんな弟子たちに怒りをぶつけたり文句を言ったりしませんでした。むしろ、彼らが立ち直る事ができるよう祈ってくださったのです。それらの事実を通して、私たちは、神様のふところの大きさに気づかされるのです。
この世の基準では優等生タイプの人が評価されやすい傾向があります。けれども、神は、霊的な成長が遅い人であっても、決して見捨てないお方なのです。また、たとえ失敗を繰り返す人であっても、何度も何度も赦して下さるお方なのです。 続きを読む ・説教 マルコの福音書6章45-52節「主イエスに気づけなかった弟子たち」
2025.07.13
内山光生
イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて神をほめたたえ、パンを裂き、そして人々に配るように弟子たちにお与えになった。また、二匹の魚も皆に分けられた。
マルコ6章41節
今日の箇所は、イエス様の行なった奇跡の中でも割と有名なものです。しばしば「五つのパンと二匹の魚」と呼ばれています。そして、この出来事は、マルコの福音書を含め4つの福音書すなわちマタイとルカとヨハネにも同じ内容が記されています。しかしながら、それぞれの福音書記者が強調している部分が少しずつ異なっているのです。
ですから、私たちは「あ、この話は聞いたことがある。」と早急に判断するのではなく、今読んでいるマルコでは、この出来事から何を伝えようとしているのかを読み取っていくことが大切なのです。
最初に結論をお伝えします。マルコによると、5千人の男たちに食事を与えるという奇跡が行なわれる前に、弟子たちを休ませようとしています。つまり、イエス様は人間の肉体の弱さを知っておられ、必要に応じて休息を取ることの大切さを示そうとしています。その流れの中で、大いなる奇跡が行なわれているのです。
イエス様がこの奇跡を行なった目的は、イエス様は人々にみことばを語るだけでなく、人々の肉的欲求、この場合は、お腹が空いている状態をよく理解して下さるお方だということが示されています。そして、イエス様は人間の肉的欲求の一つである腹ペコになっているお腹を十分に満たして下さるお方なんだということが示されているのです。一言で言うとイエス様は私たちの身体に対して配慮してくださるお方なんだという事が示されているのです。
順番に見ていきましょう。
30節と31節を見ていきます。
イエス様の使徒たち、すなわち、弟子たちは、二人一組となって伝道旅行に遣わされていました。この旅行は、彼らにとっては自分たちだけで行なった初めての伝道活動であって、かなりの緊張感や不安な気持ちがあったと思われます。また、色々な町や村を渡り歩いたために、肉体的な疲れを覚えていたと推測することができます。
伝道活動を終え、彼らは、イエス様にどのような事が起こったのかを詳しく伝えたのでした。イエス様は使徒たちから一通りの報告を聞くと、すぐに「寂しいところへ行って、しばらく休みなさい。」と命じられたのです。自分たちの周りに多くの人々が出入りしていたので、あまりにも忙しくて食事をとる時間さえなかったからでした。
私たちが伝道活動をする際に、これ程にまで忙しかったならば、かえってうれしい気持ちとなるかもしれません。そして、多少の無理をしてでも人々の要求に応えていきたいという思いが出てくるかもしれません。人々が救いを求めて集まってくることは、神様にとっても私たちにとってもうれしい事だからです。
しかしながら、それでも休息を取る時間を削っていくならば、長い期間、活動を続けることができなくなります。それゆえ、イエス様は使徒たちに対して「しばらく休みなさい」と命じられたのです。使徒たちによる伝道活動は1回限りの事ではありません。この後、何度も何度も繰り返されていくのです。また、イエス様が天に昇られた後も、生涯、続けられていくのです。ですから、イエス様は、奉仕をする時と休む時の区別をしっかりするようにと促しているのです。
教会において、伝道活動をする時も同じような事が言えるでしょう。つまり、自分たちの肉体的な疲れをきちんと回復させることも大切であって、その部分を軽く扱うと、結局は、長続きしない可能性が高くなるのです。
イエス様は、私たちの肉的な弱さをよくご存知のお方なのです。ですから、私たちに対して「肉体の限界まで奉仕しなさい」とは言われないのです。むしろ、「休みなさい」と言って下さるお方なのです。その事を教会全体で共有していくことが、結局は、私たちが喜んで神様に仕えていくための秘訣となっていくのです。 続きを読む ・説教 マルコの福音書6章30-44節「五つのパンと二匹の魚」
2025.07.06
鴨下直樹
私が子どものころ、教会でしきりに聞いた話は、「私たちは死んだ後、天国に行ける」という話でした。まだ小さかった子どもの頃なので、正直この話がよく分かりませんでした。「死んだ後」というのがイメージできなかったのです。昔は、「四つの法則」なるトラクトがあって、「神、罪、救い、天国」の順で神様の救いの説明がなされていました。みなさんの中にも、そのころこういう話を聞いたことのある人がたくさんおられると思います。あるいは、5つの色のフエルトで作った本がありました。黒、赤、白、黄色、そして表紙が緑の5色で、一つずつの色の説明をしながら福音を説明していくのです。
黒は、私たちの「罪」。私たちは神様の思いを離れているので、心が真っ黒です。けれども、今度は赤色を示して、イエス様の「十字架の血」の説明をします。イエス様が私たちの罪を十字架の上で流された血潮によってきよめてくださいました。それで、私たちの真っ黒な心は雪のように白くなるというのです。そして続いて黄色を示して、私たちは光り輝く「天国」に入れていただけるのですという説明がなされるのです。最後の緑はそれまで私たちの信仰が「成長」していくことを「緑」の色で表して説明をするのです。
キリスト教の福音を単純化して分かりやすく説明するためには、とても良い方法だと思います。ただ、このような分かりやすい話で、福音を説明していくのですが、子どもの頃の私には、「死んだら天国に行ける」というのは、イメージしにくいどこか遠い話でした。話としてはよく分かるのですが、死ぬということを考えたことがない子どもの私には、あまりピンときていなかったのです。
その頃、私にとって衝撃的だったことがあります。当時、「日曜学校」と言っていましたが、礼拝の前の時間に、子どものための礼拝として「日曜学校」が行われていました。そこで、讃美歌を歌って、聖書の話を聞いて、お祈りをするわけです。その頃、聖書の話を聞くと、最後に「暗唱聖句カード」という小さな豆カードが一人一人に渡されていました。
その時もらったカードにはこういうみことばが書かれていました。マタイの福音書7章13節と14節のみことばです。
狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。
この聖句のカードに絵が書いてありました。広い道の先に大きな門が描かれていて、パレードのように多くの人たちがその道を進んでいくのですが、「ウェルカム」と書かれた物の先には火が燃えていて、悪魔が描かれています。そこにたくさんの人たちが落ちていくのです。ところが、その広い道の途中で細い怪しげな道があって、そこに小さな門があります。そして、その門の先には天国が待っているという絵です。
その時の私が何年生だったのか覚えていないのですが、その時私は心に誓ったのです。もし、こういう小さな門を見つけたら、その時はその門をくぐっていけば失敗しないんだと。こういう小さな門があることをちゃんと覚えておこうと思ったのです。 続きを読む ・説教 ルカの福音書18章15-17節「神の国を受け入れる者」
文学と芸術をテーマにした礼拝
2025.06.29
鴨下直樹
今日は、少し変わったテーマで礼拝をしています。「文学と芸術」をテーマにしています。先程は、長い間岐阜県美術館の館長をしておられた古川さんが、いくつかの俳句を取り上げてくださり、「美」というテーマでお話しくださいました。
実は、古川さんにお話をお願いしたのは、一つの出来事があったからです。以前、子ども食堂の時に古川さんが、ボランティアをしてくれている中学生たちと会話をされていました。その会話の中で、人とは違う外れたところ、そこに「美」があるという話をなさったのです。中学生たちは興味深そうに、その話を聞いていました。自分に自信が無いと言っていた彼らが、とたんに元気になって、みるみる自信に満ちた顔つきに変わっていきました。人とは違っていてもいい。自分なりの違いが自分の武器だと気がついたのです。
考えてみれば、芸術でも文学でも確かにそうです。誰かが、何かを描こうとする時にも、その人なりの視点というのが、その人の強さ、魅力になっていくのです。

最初に、二人の人の絵を紹介したいと思います。テーマは同じ、今日の聖書箇所である「イサクの犠牲」です。1枚目の絵はカラヴァッジョの絵です。16世紀のイタリアの画家です。光と闇を使い分けながら、光を巧みに使うことでカラヴァッジョの表現したいものに、光が投げかけられていきます。またカラヴァッジョは、聖書の人物を描く時にも、実際にその人が目の前にいるかのような表現をします。ここでもイサクの苦しみや恐れの表情をとても生々しく描いています。イサクを犠牲として殺そうとしている父アブラハムの顔も、とても特徴的です。アブラハムは止めようとする天使に対して、いぶかしむような顔をしています。ナイフを持つ手には力が入っていることが見て取れます。このようにして現実的な一人の父親の葛藤の様を描き出しています。

もう一枚、このテーマを描いたもので有名なのは、レンブラントの描いた「イサクの犠牲」の絵です。レンブラントはカラヴァッジョの次の世代、17世紀のオランダの画家です。カラヴァッジョと同じように、光がどのように差し込んでくるのかという、光の明暗の使い分けをする画家です。ただ、レンブラントの特徴は、光が演出のためではなくて、神の恵みを表現していることです。このレンブラントの絵では、光がイサクの体全体にあたっています。神の眼差しが、暖かくイサクを包み込んでいることが分かります。
面白いもので、同じテーマでありながら少しずつ視点が違うというのがよく分っていただけると思います。
この「イサクの犠牲」という聖書のテーマは、実に多くの人に、さまざまな疑問を投げかけた聖書箇所です。というのも、そもそもの大前提として「人を殺してはならない」という命題があります。これは、絶対的に正しい真理です。ところが、神はアブラハムに自分の最愛の息子イサクを「全焼のささげ物として献げなさい」と言われたのです。ここから、「倫理」と「信仰」はどちらが優先されるかという問いをもたらしたのです。 続きを読む ・説教 創世記22章1-14節「イサクの犠牲に見る信仰」
2025.06.22
鴨下直樹
今日の箇所には二人の祈る人の姿が描き出されています。パリサイ人の祈りと、取税人の祈りです。これは、主イエスの譬え話ですから、実際にあったかどうかは分かりません。けれども、ここに描き出されている二人の姿は、私たちにとって非常に現実味のある譬え話となっています。
人前でお祈りする時というのは、良くも悪くも緊張するものです。自分一人でお祈りするのとは違って、みんなが聞いているわけで、恥ずかしさが有ったり、自信が無かったり、変なお祈りをしていないかなと、気になったりするかもしれません。何か、お祈りの正解が分かれば準備もできそうなものですけれども、何が正解かもよくわからない。そんな思いを抱きながら、礼拝の献身のお祈りがあたるときには一週間心が重いという方もあるかもしれません。
そんな中で主イエスがお祈りの話をなさる。一方のお祈りは褒められているような感じですし、もう片方のお祈りはどちらかというと褒められていない。そうすると、ここでは何か参考になるようなことが言われているのか。そんな気持ちでこの話を聞くこともできるのかもしれません。
今日の冒頭の9節にはこう書かれています。
自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちに、イエスはこのようなたとえを話された。
この部分には、主イエスがこの譬え話をなさった理由が書かれているわけですから、とても重要な部分と言うことができるでしょう。そこで、考えるわけです。「ほかの人を見下している人たち」という部分に関しては、誰でも分かることですけれども、これは良くないと判断できます。ところが、前半部分、「自分は正しいと確信していて、」という部分は、それほど問題は無い気がするわけです。
お祈りをする時には、確信を持ってお祈りしたいと思うのではないでしょうか。礼拝の司式をする方は、教会祈祷の時にみなさん確信を持ってお祈りされます。その時に他の人を見下して祈るなんてことはないと思いますが、確信を持って祈るということは、大事なことではないかと思えるわけです。
確信を持っていることが良くないのだとすると、反対に謙虚であれば良いのかと考えてしまいがちです。ところが、この謙虚さというのも、一概に良いとも言えません。その最たる例として、「私は上手にお祈りできないので、お祈りの当番から外して欲しい」という思いを持つ方は少なくありません。しかし、これが謙虚な姿勢かというと、そういうわけでもないわけです。
謙虚さは美徳という部分はあると思うのですが、これも度が過ぎると良くない場面というのもあるわけです。では、主イエスはここで何をお語りになろうとされているのでしょうか。
まずパリサイ人の祈りから見てみたいと思います。11節と12節です。
パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。「神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。
私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。」
このお祈りは、一部を除けばとても立派なお祈りのようにも思えます。「この取税人のようでないことを感謝します。」の部分は余計な言葉な気がしますが、その他の部分はある意味では立派なところでもあります。きっと、こういうことに気をつけて生活しているから出てくる祈りだとも思うのです。人から奪い取ることはしない、不正は働かない、姦淫しない。週に二度断食をしながら祈りを捧げ、自分の収入の十分の一を聖書の戒めに従って献金している。立派なことだと言えると思うのです。それができない人がたくさんいる中で、自分が頑張っていること、ちゃんと出来ていることを神様の前で感謝するというのは、悪くない気もするのです。 続きを読む ・説教 ルカの福音書18章9-14節「二人の祈り人」