2013 年 7 月 14 日

・説教 ピリピ人への手紙2章1-11節 「橋をかける」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 09:18

2013.7.14

鴨下 直樹

「香木は斧に香る」という言葉を最近耳にしました。香り高い香木は、自らを打倒した斧にさえもその香りを移すのだそうです。美しい言葉です。自分を切り倒してしまうこの斧の刃でさえ、香木の香りにつつみこまれてしまうというのです。この言葉を聞いた時に、ちょうど今日の聖書の箇所を現わしている言葉と思いながら、この一週間、御言葉を聞き続けてきました。
今日の聖書箇所は、ピリピ人への手紙第二章一節から十一節までです。特に、ここには「キリスト讃歌」と呼ばれる、当時の教会の讃美歌の言葉がそのまま紹介されていると言われています。それが、六節から十一節です。パウロの活躍した時代というのは紀元六十年前後ですから、そのころの教会にはもう讃美歌が生まれていたと考えられているのです。讃美歌を通して信仰が励ましを受けるというのは、今も昔も変わりません。歌うことによって信仰が支えられてきたのです。
宗教改革者のルターは讃美歌の持つ力を良く知っていた人でした。この讃美歌集の中にもいくつもルターのつくった讃美歌がいれられていますけれども、どれもキリスト教の信仰を説明するような教理的な内容の讃美歌ばかりです。この時代の人々は聖書を読むことができなかった人々が多かったために、讃美歌を覚えることを通して、信仰を支えようとしたのです。
この今日の箇所もそうです。どのようなリズムで歌ったのかはっきりしたことは分かりませんけれども、ここではキリストが何をしてくださったのかが記されています。この箇所の内容を一言で言い表すとすると、「キリストの謙遜」ということになります。昔は「謙卑(けんぴ)」という言い方をすることもありました。

この話をする時に、どうしてもお話しをしなくてはならない一つの事があります。 (続きを読む…)

2013 年 7 月 7 日

・説教 ピリピ人への手紙1章27-31節 「福音にふさわしい生活」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 21:40

2013.7.7

鴨下 直樹

ピリピの教会にパウロの手紙が届いてこれが読まれた時、ちょうど前回の二十六節までの部分を聞いたピリピの教会の中では、どよめきや歓声がわき起こったと思います。というのは、伝道のために捕らえられたパウロが死の危機に瀕していると思っていたところで、「私はもう一度、あなたがたのところに行けるので・・・」という言葉を聞いたのです。パウロ先生がもう一度ピリピの教会を尋ねてくれる。それは、ピリピの教会にとってまさに喜びの知らせであったはずです。パウロのピリピでの伝道の期間はそれほど長くはありませんでした。長くても数週間です。二、三週間であったのではないかと考えられています。ですから、その後でピリピの教会の会員に加わった人は、一度は見てみたい、直接話を聞いてみたいと思っていたと思うのです。そして、そのパウロから手紙が届き、パウロがピリピに来ると聞いたのです。それは大喜びであったに違いありません。

そのような歓声がわき起こった教会に、パウロの言葉はこう続いたのです。

ただ一つ。キリストの福音にふさわしく生活しなさい。そうすれば、私が行ってあなたがたに会うにしても、また離れているにしても、私はあなたがたについて、こう聞くことができるでしょう。

と続きます。
ピリピに行けると宣言したパウロはすぐその後で、「行けたとしても、行けなかったとしても」という言葉を続けたのです。一度喜ばせておいて、でも、ダメな場合もあるのだからと感じさせている。この手紙を聞いていた人々の心は、少し期待が薄れたことでしょう。ところが、パウロは、パウロとの再会を語った直後にこう述べました。 (続きを読む…)

2013 年 6 月 30 日

・説教 ピリピ人への手紙1章19-26節 「生きるにしても死ぬにしても」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:31

2013.6.30

鴨下 直樹

先日、F家の家庭集会であるたとえ話をしました。普通の人のする算数と、キリスト者のする算数は答えが違うかという話をしました。みなさんはどうだと思われるでしょうか。1+1=2。これはキリスト者であっても、そうでなくても答えは同じです。けれども、私は、その答えの意味はまるで違うものなのです。
主イエスと出会ってキリスト者になる。ところが、キリスト者になっても、以前とまったく変わらないことが起こります。悲しいと感じたり、腹を立てたり、憤ったり、そういう感情が心の中に浮かんでくる度に、これでもキリスト者になったと言えるのかと、自分自身の信仰に疑問を持ちたくなることがあるのではないかと思うのです。実は、何も変わっていないのでないかとさえ思えてくることもあると思います。キリスト者であろうと、そうでなかろうと、まったく変わらない同じ結論にたどりつくのです。1+1の答えが同じであるように、キリスト者と、そうでない人とが感じる感じ方もそれほど変わりません。悲しい。腹が立つ。けれども、そのような同じ結論に行き着いたとしても、キリスト者であるということは、そういう自分を主が支えていてくださるということが、決定的に大きな違いを持つのです。
それまでの自分はその時に、ただ憤る、ただ悲しい、どこかで仕返しをしてやりたいと思う。そういう答えにたどりついていたのが、キリスト者になるということは、同じ答えにたどりついたとしても、そのことを、主が知っていてくださる、主が支えてくださるということ。それは、絶望に終わることのない私たちの土台をすえる確かさがあるということを意味するのです。

今日はなぜ、この話から説教を始めたかと言いますと、パウロがここで語っていること、特にここでは死ぬことについて語っているのですが、ここで語っていることもまた、同じだと思うからです。
人は誰もが死にます。死にたくないと思っていても、死は日に日に私たちに近づいて来ます。けれども、誰もがどう生きたって、どれほど立派な生き方をしても最後に待っているのは死です。そうすると、結局死んでしまえば何の意味もないではないかと、多くの人々が考えますが、このことに対して、私たちは、それは違うのだと明確に答えることができるようになるということです。私たちの人生の終わりに待ちかまえている死でさえも、主がそこで支えてくださるがゆえに、死の意味も、また、生きる意味もまるっきり違ったものとなるのです。 (続きを読む…)

2013 年 6 月 23 日

・説教 ルカの福音書19章28−35節 「主がお入用なのです。」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:29

本日は古川秀明長老が説教をして下さいました。

2013 年 6 月 16 日

・説教 ピリピ人への手紙1章12-18節 「敵意の中の信仰」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 08:36

2013.6.16

鴨下 直樹

パウロは捕らえられて、今牢に繋がれています。それは、それ以上福音を宣べ伝えさせないため、パウロがこのまま働き続けることは良くないことだという判断をしたということでしょう。それは、誰もが思うことです。牢に捕らえられてしまうということは、「もう一貫の終わりだ、これで、パウロも終った」と考えるようになるということでしょう。そういう中で、牢にいるパウロから手紙が届きます。そして、読み終えてから、パウロが無事に牢から出られるようになるように祈ろう、ということが起こったかもしれません。しかし、パウロはこう記しました。

さて、兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音を前進させることになったのを知ってもらいたいと思います。

そんなことがあるとでもいうのでしょうか。考え難い事です。異邦人伝道を精力的に行なっていたパウロが捕らえられるということは、福音が停滞してしまうことを意味すると、私たちは誰もが考えるのではないでしょうか。それ以上、どうして福音が前進することがあるでしょうか。しかし、パウロは福音を宣べ伝え、そのために捕らえられてしまってもなお、福音が前進すると言うのです。それは、一体どういうことなのでしょうか。 (続きを読む…)

2013 年 6 月 9 日

・説教 ピリピ人への手紙1章3-11節 「すぐれたものを見分ける愛」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 07:47

2013.6.9

鴨下 直樹

先週の月曜日から水曜日にかけJEA、日本福音同盟、一般には福音派と言われる教会の総会が神戸で行なわれ、これに私は始めて出席いたしました。大変豊かな時間でした。と言いますのは、総会の間に礼拝の時間やシンポジウム、講演が入れられていまして、そのために朝から夜まで一日中会場にいるのですけれども、苦痛に感じないほど豊かな発題がそこでなされました。
総会のシンポジウムで東日本大震災の取り組みの中から見えきたことがシンポジウムで取り上げられました。四人の発題者の中で最後に発題された福音伝道教団の鈴木真先生が、震災のボランティアの活動としてイザヤ58ネットというネットワークを作って支援活動しておられるのだそうですけれども、その活動の中から見えてきたことをお話し下さいました。これは、非常に興味深い内容の発題でした。少し簡単に説明してみたいと思いますが、色々な先生の話が頭の中にごちゃごちゃになっていますので、私が全体として聴き取ったことということになると思いますが、それはお許し頂きたいと思います。 (続きを読む…)

2013 年 6 月 2 日

・説教 ピリピ人への手紙1章1-6節 「愛と喜びの手紙」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 13:41

2013.6.1

鴨下 直樹

先週の月曜日に岐阜県基督教連合会の総会が行なわれました。岐阜県のプロテスタント教会、カトリック教会の殆どすべての教会がこの連合会に名を連ねております。ここで何をしているのかと言いますと、岐阜県には岐阜刑務所と笠松刑務所という二つの刑務所があります。そこで、定期的に受刑者の方に福音を語る機会を与えられている教誨師と言う方々がいます。それで、岐阜県基督教連合会では二名の教誨師を送り出しているのです。私はこの総会に昨年初めて参加させて頂いたのですが、初めての参加であったのにも関わらず、会計と書記という役割を担わされてしまいました。それで、今は深く関わることになったのですが、特に今年の総会は、来年から新しい教誨師になる方を選ぶための話し合いがもたれました。今年一年かけて次の教誨師を選ぶ必要があるのです。出席してくださった教職者の方々も、すぐに自分がするとはなかなか言えません。教会の理解も必要ですし、そうとうの覚悟も必要になります。けれども、これまで岐阜県の教会が互いに協力し合いながら、今日まで三十年以上にわたって、刑務所で福音を届ける働きを続けてこれたことは大変素晴らしいことだと思っています。
スイスの説教者であったカール・バルトは、かつて、刑務所で福音を語ることを自分の使命としました。この刑務所で行なわれた礼拝の説教がやがて本にまとめられまして『捕らわれた者たちに解放を』というタイトルがつけられました。このタイトルを聞けば、受刑者に向けられた者に解放の福音を語ろうとしたということが直ぐに分かります。もちろん、バルトがここで言っている解放というのは、刑務所から解放されるということではなくて、罪から解放されるということです。たとえ刑務所にいたとしても、その罪から解放されて生きることができると語ろうとしたのです。しかしそれは、受刑者に限ったことではないのです。全ての人が何かに支配されてしまっている。何かに捕らわれてしまっているということができるのです。 (続きを読む…)

2013 年 5 月 26 日

・説教 「過ぎ越しの成就ーキリスト」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 13:27

本日はギデオン協会岐阜支部に所属している草野勝男兄(改革派那加教会教会員)が説教をして下さいました。

そして、ギデオン協会の働きがどのようにされているかの証しも一緒にして下さいました。

2013 年 5 月 19 日

・説教 使徒の働き2章1-13節 「主の教会の誕生」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:20

2013.5.19

鴨下 直樹

今日はペンテコステです。教会に聖霊が与えられたことを祝う日ですが、この日は教会の誕生日などと言われる日でもあります。私たちの教会の歩みはここから始まったということができるのです。
今日特にこの礼拝で考えてみたいと思っていることは、教会はどのように歩んでいくのかということです。このペンテコステの日が教会のスタートでした。これまでは、主の弟子たちの集まりというのはユダヤ教の中の一部という見方でしか見られていませんでした。けれども、このペンテコステ以降、教会ははっきりとユダヤ教の分派ではなくて、まさに、主はこの教会を建て上げるために、これまでの歩みを備えてきてくださったのだということが、この世界に示されたのです。そのために、不可欠なのは何かというとこの日、私たちに与えられた聖霊です。

この日、何が起こったのか。そのことはこの使徒の働き2章の1-4節に記されています。

五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

この日、集まっていた人々の上に分かれた舌のような炎がひとりひとりにとどまって、どうなったかといいますと、他国のことばで話し出したのでした。私ごとですけれども、私たちがドイツに行った時に、最初の一年の間、特に心に覚えたのはこの聖書の言葉でした。私たちにも聖霊が与えられているのだから、どうして、ドイツ語をたちどころに全てを理解して話せるようにならないのかと。言葉の壁にぶちあたるたびに、この聖書の言葉に羨ましさを覚えました。もちろん、これは、単に外国語が話せるようになったということなのではなくて、すべての国の人々に福音を語ることができるようにされたという、ひとつの大きなしるしの出来事です。 (続きを読む…)

2013 年 5 月 12 日

・説教 詩篇27篇7節 「聞いてください、主よ」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 19:44

2013.5.12

鴨下 直樹

今日は復活節の第六番目の主の日です。この日は、「エクサウディ」、「聞いてください」という名前のつけられた主の日で、この詩篇二十七篇七節が読まれます。この御言葉が今朝与えられているというのはやはりとても意味深いことです。
教会の暦ではこの次の日曜にはいよいよペンテコステを迎えます。ペンテコステというのは、教会に主イエスが約束された聖霊が与えられたことを祝う日です。イースターから五十日目がこのペンテコステです。四十日目、ちょうど先週の金曜日ですが、この日は昇天日です。弟子たちと共に過ごされたよみがえりの主が天に帰って行かれた日でした。主イエスはもう一度来てくださるとの約束をして、天に帰っていかれたのです。今朝は、主イエスが弟子たちから去られた後の主の日で、また、ペンテコステを前にした主の日です。ここで、この「聞いてください、主よ」という御言葉が与えられているのです。

聞いてください。主よ。私の呼ぶこの声を。私をあわれみ、私に答えてください。

と七節にあります。この言葉が今朝の中心的な御言葉です。
この詩篇の詩人は表題にダビデと記されています。ですからダビデの祈りと考えられるのですが、この詩篇全体の内容を見てみますと、ちょうどこの七節から突然内容が大きく変わります。
一節から六節までは光と喜びに満ち溢れた深い神さまへの信頼の祈りです。
「主は、私の光、私の救い。」という大変美しい祈りの呼びかけからはじまります。そして、主の確かな救いの中にいる喜びを心から賛美しています。それで、この詩篇は詩篇の中でも最も美しい詩篇の一つに数えられることもあるほどです。ところが、七節から事態は一気に変わります。 (続きを読む…)

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