2011 年 12 月 25 日

・説教 ルカの福音書2章1-20節 「ふたりの王」

Filed under: 礼拝説教 — 鴨下 愛 @ 14:53

  

2011.12.25

クリスマス礼拝説教

 鴨下直樹

 

 「そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。」

毎年、毎年、クリスマスになると読まれる聖書の個所です。皇帝アウグスト。このローマの皇帝の名前ほど今日の世界で名前の知られた皇帝はいないと言えるかもしれません。今日にいたるまで、すべての教会でクリスマスを祝うごとに、この名前が覚えられているからです。

 けれども、このアウグストというのは、この王のもともとの名前ではありませんでした。もとの名前はオクタビアヌスと言います。「アウグスト」というのは、「尊敬されるべき者」という意味です。しかし、このアウグストという名前は後にはさらに別の意味を持つようになります。「現に生ける神」。これが、この「アウグスト」という名前の持つ意味だといわれるようになったのです。 (続きを読む…)

2011 年 12 月 24 日

・説教 ルカの福音書1章5-38節  「おめでとう。恵まれた方!」

Filed under: 礼拝説教 — 鴨下 愛 @ 14:42

 

2011.12.24 

聖夜 燭火礼拝説教

鴨下直樹

 

 

 今から十年前のことになります。ドイツの北の方にハンブルグという美しい港町があります。この町を訪れました。少し時間があったので、礼拝堂を見るのが好きな私は、このハンブルグにあるいくつかの礼拝堂を訪ねました。町の中に、オレンジ色のレンガ色をしたロマネスク様式の古い教会がありました。さっそく中に入って見ますと、外側の古い建物の雰囲気とは対照的な非常に近代的な雰囲気がするのです。といいますのは、礼拝のありとあらゆるところに、3メートル四方もするような大きな写真のパネルが掲げられていたのです。まるで、モダンアートのギャラリーに来たかのようです。写真を一枚一枚よく注意してみますと、すべてが女性の写真です。 (続きを読む…)

2011 年 12 月 18 日

・説教 マタイの福音書18章15-20節 「主イエスの御名に結ばれて」

Filed under: 礼拝説教 — 鴨下 愛 @ 16:34

 

 2011.12.18

待降節第四主日礼拝説教

 鴨下直樹

 

 

 先週の水曜日と木曜日で今年最後の祈祷会が行なわれました。そこで一年を振り返って、それぞれの方々がお話ししてくださいました。大変、豊かな時間であったと思います。その中で、どうしても語られるのは、自分の一年を振り返っての反省の言葉です。自分のこういう部分を改めたいと考えるのです。それは、おそらく誰にでもある思いではないかと思います。 (続きを読む…)

2011 年 12 月 11 日

・説教 マタイの福音書18章1-14節 「小さい者に与えられし天の御国」

Filed under: 礼拝説教 — 鴨下 愛 @ 16:42

 

2011.12.11

待降節第三主日

鴨下直樹

 

 

 この聖書の個所はよく子ども祝福式で読まれる聖書個所です。「あなたがたも悔い改めて子どものようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。」と語られています。祝福式の時、この聖書の言葉をお聞きになりなりながら、私がいつも思うのは、この御言葉をどのような思いで聞いておられるのだろうかということです。「子どものようにならない限り」という言葉の意味するものが、子どもの純粋さとか、素直さという意味で理解される場合もあります。けれども、子どものことを良くご存じの方々は、それは本当だろうかと考えざるを得ないのではないでしょうか。 (続きを読む…)

2011 年 12 月 4 日

・説教 マタイの福音書17章22-27節 「主イエスのなさった献金」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 10:30

2011.12.4

鴨下 直樹

 今朝の説教の題を「主イエスのなさった献金」としました。月報で礼拝の説教題を先にお知らせしておりますから、それだけで、今朝はあまり説教を聞く気がしないなぁとお思いの方もあるかもしれません。献金の話をすると聞くと、何だか少し身構えた気持ちになるからです。反対に、教会の会計の執事などは、どこかで期待しているのかもしれません。いずれにしても、今日の聖書の個所は、主イエスが献金をなさったという出来事が記されているところです。ですから、それはいったいどういうことかと興味を覚えることのできるテーマであることに違いはないと思います。

 今日の聖書の個所は二つのテーマの出来事が記されています。一つ目は二十二節から二十三節までの二度目の受難の予告が弟子たちに告げられているところです。そして、二つ目は、その後の二十四節からの税金にまつわるペテロとの出来事です。なぜ、こんな取りとめもない二つの出来事が続いて記されているのか不思議にすら感じるところです。

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2011 年 11 月 27 日

・説教 マタイの福音書17章1-20節「本当の主イエスと出会う時」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 10:30

2011.11.27

鴨下 直樹

 アドヴェントを迎えました。アドヴェントというのは、クリスマスを待ち望む季節のことです。先週の日曜日に大掃除をして、礼拝堂も奇麗にクリスマスの飾りがされて、このアドヴェントの季節に、主を待ち望む喜びを共に覚えたいと思っています。このアドヴェントの期間に私たちはきっといくつものクリスマスの音楽を聞き、また家族や友達とどのようにクリスマスを過ごすかを考え、またテレビやラジオでもいくつものクリスマスにまつわる物語に耳を傾けることでしょう。クリスマスは、主イエス・キリストのご降誕を祝う日です。

 「ご降誕」と今、言いましたけれども、この言葉はまさに主イエスがお生まれになったことを言い表している言葉です。天から降りて来て、お生まれになられたということを、「降誕」と言い表しているのです。まさに、クリスマスは、天におられた神が人となられたことを覚えてお祝いする日です。

 そして、このアドヴェントに私たちが今聞いた御言葉がこの主イエスの変貌の出来事の個所です。お聞きになって分かるように、少し不思議な出来事が記されています。 (続きを読む…)

2011 年 11 月 6 日

・説教 マタイの福音書16章21-28節 「わたしについて来なさい」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 22:05

召天者記念礼拝

2012.3.18

鴨下直樹

 今日は召天者を覚える主の日です。そういうこともあって特別に今朝はこの礼拝に共に出ておられるという方もあります。そういう特別な礼拝ですから、特別にそのために聖書の個所を選んで説教をするということもできると思いますけれども、この朝は、いつもに引き続いてマタイの福音書から御言葉を聞きたいと思います。
 マタイの福音書はこの十六章で大きな山場を迎えます。内容的に、もっとも大事だと言われることがここに書かれているのです。それが、先週お話ししました、この前の聖書の個所から続く、この朝私たちに与えられている聖書の個所です。そして、この個所はまさに召天者記念の礼拝に聞くにもっとも相応しい聖書の個所だと言っていいと私は思っています。 (続きを読む…)

2011 年 10 月 30 日

・説教 マタイの福音書16章13-20 「この岩の上に」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 10:30

2011.10.30

鴨下 直樹

 先週の金曜日のことですけれども、二週間半の間、教会からおゆるしをいただいて、ドイツの研修旅行に行かせていただいて、無事に帰ってくることができました。この研修旅行に私たちの同盟福音教会から九人の牧師たちが参加いたしました。

 ドイツにある自由福音教会の中に、アライアンス・ミッションと言う海外宣教のための宣教団体があります。ことのきっかけは、このアライアンス・ミッションの宣教局長にエアハルト・ミヒェル先生が就任したことにあります。エアハルト先生は、昨年私たちの教会の礼拝で説教してくださった先生ですから覚えておられると思います。この方は、もともと海外宣教の働きをしておられたわけではありません。その前はドイツの国内宣教の局長をしておられたのです。そして、東西ドイツ分裂の時代から統一されて、もう一度ドイツ中に教会を建て上げようという願いを持って、特に東ドイツを中心に多くの教会を建て上げて来ました。そのプロジェクトの中心的な人です。

 そして、今海外宣教の責任者になっても、教会を建て上げることは基本的に同じではないかということで、日本の牧師たちにもドイツでどのような教会を建て上げているのか是非とも見て、学んでもらいたいということで、日本の牧師たちを招待してくださったのです。

 ですから、今回は特に旧東ドイツの教会をいくつも訪ねました。そのほとんどが開拓途中の教会です。もちろん、歴史的に古い教会もありますけれども、自由福音教会の歴史というのはそれほど古くはありません。古くても百五十年位でしょうか。しかし、それでも日本のプロテスタント教会の歴史よりも長いのです。東ドイツの教会を見て回りながら、宗教改革者ルターの訪れた地にもいくつか訪問しました。明日の31日は宗教改革記念日です。いたるところに、2017年は宗教改革記念五百年の祝いが行なわれるというポスターがすでにルターゆかりの地の教会には張り出されておりました。ドイツのそのような古い伝統的な教会も、また新しくうみだされたばかりの自由福音教会も、こうして日本の岐阜の地で今年で三十年を迎えたこの芥見キリスト教会も、同じ信仰を告白している教会なのだということを改めて考えさせられてきました。

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2011 年 10 月 2 日

・説教 マタイの福音書16章1-12節 「天からのしるし」

Filed under: 礼拝説教 — 鴨下 愛 @ 17:27

 

2011.10.2

 鴨下直樹

 

 今朝、説教のタイトルを「天からのしるし」としました。いつも散歩をする時に、教会堂の前に張り出されている掲示板を見るのですが、この説教題を見ながら色々なことを考えます。この教会の前を通った人はこの題を見て、何を考えるのだろうかと想像してみるのです。「何だろう?」とただ疑問に思うだけかもしれません。そこから色々な想像が始まるかもしれません。色々と考えているうちに、なぜ、こんな題をつけたんだろうかと、題をつけた人は一体何を考えているんだろう、何を考えさせたいんだろうというところまで考えがめぐると、我ながらおかしな気分になるのです。自分でもなぜ、こんな題にしたんだろうかと、自問自答がはじまってしまいます。 (続きを読む…)

2011 年 9 月 26 日

説教:マタイの福音書15章29-39節 「神の言葉の世界へ」

Filed under: 礼拝説教 — 鴨下 愛 @ 20:30

2011.9.25

鴨下直樹

先週と日曜日から月曜日にかけてこの芥見教会のキャンプが行なわれました。今年の年間聖句であるローマ人への手紙十二章二十一節の「悪に負けてはいけません。かえって善を持って悪に打ち勝ちなさい」という御言葉をもう一度思い出しながら、この御言葉について一緒に考えてみたいと言う試みでした。

教会の教育部の方々が大変良く準備をしてくださって、予想外に豊かなキャンプとなりました。予想外になどと言われると、準備をした方々は何事かと思われるかもしれませんけれども、本当にいくつもの興味深いテーマでこの御言葉をみんなで味わうことができたと思っています。と言いますのは、こういうテーマを掲げて誰かが発題を頼まれてしますと、多くの場合当たり障りの話をして終わってしまうことが多いと思います。ところが、誰もが例外なしに、そこで話された発言はこの御言葉に深く根差した意見ばかりでした。

この御言葉をめぐって実にさまざまな発題がなされました。“悪に負けないためのそれぞれの信仰の戦いの姿について”お話し下さった方もおります。“私たちの行いではなくて、主は心の中の動機を問われるのではないか”“復讐の心のまま祈ると言うことはどういうことか”“怒りの感情、裁きの感情というものは聖書ではどのように考えられているのか”“そもそも悪と言うのは自分にとって悪いことなのか”本当に実にさまざまなことをこの御言葉から促されてそれぞれ語り合いました。退屈するなどという暇はないほどです。目の前に出されていたお茶菓子に誰も手をつけないほど、真剣な語り合いが行なわれました。本当に皆が毎日どれほど真剣に御言葉と共に歩んでいるか良く分かりました。 (続きを読む…)

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