2010 年 11 月 28 日

・「わたしはあなたを知っている」 マタイの福音書7章15-23

Filed under: 礼拝説教 — naoki @ 09:00

鴨下直樹

2010.11.28

いよいよ今週からアドヴェントに入りました。主イエスの誕生を待ち望む四週間の季節を私たちはさまざまな気持ちで迎えます。お気づきのように、教会の中も、マレーネ先生をはじめ、何人かの方々が綺麗に飾り付けをしてくださいました。アドヴェントクランツの蝋燭にも火が灯りました。四つの蝋燭すべてに火を灯すと、クリスマスが来るのです。

主イエスがお生まれになるということは、私たちにとって大きな喜びなのです。しかし、すでに二千年も前にお生まれになったお方を、毎年、毎年、主がお生まれになると言って楽しみにしながら心待ちにするのは、一体なぜなのでしょうか。 (続きを読む…)

2010 年 11 月 21 日

・説教 「狭い門から入る道」 マタイの福音書7章13-14節

Filed under: 礼拝説教 — naoki @ 15:20

鴨下直樹

2010.11.21

この朝、私は久しぶりにこの芥見教会の講壇に立つことになりました。実に一か月ぶりのことです。その間、舛田執事をはじめ、メッツガー先生、マレーネ先生が説教をしてくださいました。そういうこともあって、私はいつもよりも長い間、今朝、私たちに与えられている言葉と向かい合い続けてきたといえます。そして、今朝は召天者記念礼拝の時でもあります。また、教会の暦で数えますと終末主日と言いまして、一年の最後の週となります。

私は、先ほど「私たちに与えられている言葉」という言い方をしましたけれども、まさに、この言葉はこの日のために、神から与えられた言葉だと思いながら、この御言葉に耳を傾け続けてきました。

「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」

これが、今朝、私たちに与えられている言葉です。 (続きを読む…)

2010 年 11 月 7 日

・説教「信頼の力」 詩篇84篇

Filed under: 特別説教,礼拝説教 — susumu @ 15:34
H.メッツガー師

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2010 年 10 月 31 日

・奨励 「テモテの信仰」 テモテ第Ⅱ 1章5節、3章15〜17節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 23:31

本日は、芥見教会員の舛田忠興執事が奨励をして下さいました。

2010 年 10 月 24 日

・説教 「神のゴールデンルール」 マタイの福音書7章7-12節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 18:22

鴨下直樹

「求めなさい。そうすれば与えられます。」とあります。大変有名な言葉です。文語訳聖書の「求めよ、さらば与えられん。」という言葉の方が良く知られていますが、この言葉は、もはや聖書の言葉であるということを知らない人までいるほどに、様々なところで使われるようになりました。普通の会話でも使われるでしょうし、テレビのコマーシャルなどでも使われます。
一般にこの言葉が使われるのは、考えてみれば、「努力すれば何でも手に入れられる」というような意味で理解されることが多いのではないかと思います。そう聞くと、この主イエスの言葉がそのような意味の言葉ではないということは簡単に想像できると思います。けれども、それとそれほど違わない意味で教会でもしばしば用いられます。何事も神に熱心に祈れば、神はかならずその祈りに応えてくださるという意味に理解するということがあるからです。
たとえば、信仰の雑誌の中に、さまざまな信仰の証しが出てきます。そういうものを読んでいてもそうですし、あるいは、キリスト者の救いの証しというのを聞くときにもそのように語られることが多いのではないかと思うのです。聖書に、「求めなさい、そうすれば与えられる」と記されているので、信じて病気が治るように祈ったとか、自分の悩みの解決を求めて祈った。すると、神がその祈りに応えてくださったと本当に喜びながら、主の御業を喜んで証しするということがあります。それは、本当に幸いな経験だと思います。
けれども、同時に、同じ病におかれている人が、同じように信じて祈っても病が治らないということだって起こります。すると、どうしても考えざるを得ないのは、ある祈りは聞かれて、ある祈りは聞かれないという事実です。祈りが聞かれる場合は、主は御言葉のとおりにしてくださったと感謝することができるかもしれませんけれども、そうでない場合は、その原因がどこにあるのかということが気になります。そして、自分の祈りが不信仰だったからではないかとか、祈り方が十分ではなかったという結論になるとすれば、それは本当に残念なことです。まして、自分は神から愛されていないから自分の祈りは聞かれなかったのだと考えなければならない悲しみはどれほどのことだろうかと思うのです。

果たして、ここで主イエスは何でも祈ればそれは手に入れられるというような意味でこのことを語っておられるのでしょうか。 (続きを読む…)

2010 年 10 月 17 日

・説教 「恐れる心と向き合って」 マタイの福音書7章1-6節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 08:59

鴨下直樹

今日、私たちに与えられている聖書の言葉が「さばいてはいけません」という言葉からはじまっています。唐突にこの言葉が出てきたかのような印象さえ持ちます。この前に何が語られていたかというと、そこでは「明日のための心配は無用」だと言われているのです。先ほどまでは、実に憐れみ深い方として優しく語りかけていてくださったかと思えば、今度は、その顔がすぐに鬼のように変わったかのように「裁くな!」と言われるのです。裁くというのはどういうことでしょうか。 (続きを読む…)

2010 年 10 月 10 日

・説教 「空の鳥、野の花を見よ」 マタイの福音書6章25-34節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 08:29

鴨下直樹

今、ずっと「山上の説教」から御言葉を聴き続けておりますけれども、この山上の説教にはとても有名な言葉がいくつも語られています。最初の「悲しむ者は幸いです。」という幸いを告げる言葉や、主の祈りもそうですけれども、そのほかにも実に様々な言葉が知られています。今日、私たちに与えられている「空の鳥を見なさい、野のゆりを見なさい」という言葉もよく知られた御言葉ですし、あるいは、そのあとに記されている「神の国と、その義をまず第一に求めなさい」という言葉もよく知られている言葉です。どうして、こういう言葉が良く知られるようになるのだろうかと考えてみますと、やはりそれは、多くの人の心をひきつける言葉が、そこに語られているからなのだろうと思います。そして、特に、今日私たちに与えられている言葉が良く知られるようになったのは、やはり、ここで語られている主イエスの言葉に多くの人が慰めを得たからだろうと思います。

今日の私たちに与えられている聖書の中には「心配」という言葉が六回も出てきます。新共同訳聖書では「思いわずらう」と訳されている言葉です。私たちの生活を振り返ってみますと、私たちの生活にはさまざまな「心配事」や「思いわずらい」があると言っていいと思います。そういう私たちの「心配」の中で起こる様々な心配や、思いわずらいを、聖書はどう語っているのかというのは、やはりキリスト者だけでなくても知りたいと思うところなのだろうと思います。 (続きを読む…)

2010 年 10 月 3 日

・説教 「あなたの宝のあるところ」 マタイの福音書6章19-24節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 17:46

鴨下直樹

今日の説教の題は「あなたの宝のあるところ」という題をつけました。私はいつも、自分のつけた説教の題が、下手な題のつけ方だなと少し心苦しい思いを持っています。ひと月前に、説教の箇所と題をすでに記いて、みなさんに今月の予定と共にお渡しするために、いつも説教代は暫定的につけます。まだ説教ができているわけではないのでやむを得ないということもありますし、後で変えればいいと思うのですけれど、それでもうまい言葉が見つかりません。けれども、今日のところについて言いますと、言いたいことはだいたい伝わるかなとも思っています。
今日のタイトルにあるように、ここの聖書の箇所の主題は明らかに宝です。後半のところでは富と言い換えられていますけれども、私たちの宝とは何か、私たちの心はどこに向かっているかということを、主イエスは問うておられるのです。しかし、宝などという言い方をしますと、すぐに連想されるものは「宝箱」です。古めかしい箱に入って、人目に触れないようにして隠してあるもののことをまず考えます。

私の子供のころの話で恐縮ですけれども、母親に「うちには宝箱はないのか」と尋ねたことがあります。そうすると母は少し考えてから、「ある」と言って、押入れの中から小さな箱を取り出してきました。 (続きを読む…)

2010 年 9 月 26 日

・説教 「断食の心」 マタイの福音書6章16-18節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 17:10

鴨下直樹

この山上の説教の第6章というのは、主の祈りを中心にして記されています。けれども、この祈りの前後に人前で見せる善行について、善い行いについて、主イエスはいくつかの注意を呼びかけています。もうずっと主の祈りを長い間かけて学び続けていましたので、この祈りの前後に何が書かれているかということを忘れてしまいそうですけれども、施しと、祈り、そして断食という当時の信仰者が大切にしていた信仰の姿を取り上げながら、主イエスはここで真の信仰の姿とは何かということを丁寧に語っておられるのです。

それで、今日語られているのが、この「断食」というところになります。「断食」というのは、今日の教会でそれほど熱心に勧められるということはあまりないように思います。信仰者の姿というよりは、むしろ健康に気をつけている人が食べ過ぎた時は断食がいいとか、体をリセットするために三日ほどの断食をするといいなどという言葉を耳にするほどです。しかし、そうだからといって、キリスト者が断食を全くしないということでもないようです。私の友人も、自分の進路をもう一度考えたいという時に、断食をして祈ったなどと言っておりましたし、牧師をしております私の父も、大事な決断をしようとする時には、断食の祈りをしておりました。私たちはこういう話を聞きますと、「そうか、断食というのは何やら大事なことを決断する時にするものなのか」という思いを描く方もあるかもしれません。断食というのはそもそもどういうものなのかということについて考えてみる必要があります。 (続きを読む…)

2010 年 9 月 19 日

・説教 「赦すことと赦されること」 マタイの福音書6章14-15節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 18:54

鴨下直樹

今、私たちは礼拝でこのマタイの福音書の御言葉を聞き続けています。特に、今は山上の説教と言われる、5章から7章までの主イエスが神の国に生きるという生活とはどういうものなのかを教えられた言葉を聞いております。そして、その中心に記されているのがこの主の祈りです。私たちは、この主の祈りの言葉を先週まで一つ一つ丁寧に聞き続けてきました。
ある方は、その中でお気づきになられた方があったかもしれません。新改訳聖書では13節の最後の鉤括弧(かぎかっこ)の中にこう書かれています。〔国と力と栄は、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕けれども一体、牧師は何故、この大事な言葉を省いてしまったのかと考えられた方があるのではないでしょうか。今日ははじめに、そのところからふれたいと思います。
新改訳聖書にはそのところに注がついておりまして、このように記されております。「最古の写本ではこの句は欠けている」とあります。最古の写本にこの文言はないということは、後の時代に書き足されたということが分かっているということです。そういうことで、ここは括弧書きになっているのです。つまり、主イエスが教えられた祈りの部分ではないことは明らかだということです。そういう理由から、ほとんど聖書にはこの部分は記されておりません。口語訳の聖書にも、新共同訳にもないのです。けれども、私たちは礼拝の中で主の祈りを祈るときにはこの部分も祈ります。やはり、こういう大事な言葉はいくら主イエスの言葉ではないからと言って、無くす必要はないのではいかと考えることもできます。それで、ドイツのルター訳や、英語のキングジェームス訳などという代表的な聖書はやはり括弧書きではありますが、この言葉が入れられているのです。
そうすると、私たちはこれをどう考えればいいのかということはやはり気になります。聖書の中にこの言葉が入れられているということは、一体、いつ、この文言が入れられるようになったのでしょうか。 (続きを読む…)

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