2010 年 2 月 21 日

・奨励 「私たち、そしてあなた方」 コロサイ3章16節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 12:04

本日は、芥見キリスト教会員の森岡泰子姉が奨励をして下さいました。

 

まずは、前回お聞かせできなかった、へブル語による詩篇の朗誦を聞いていただきましょう。

これは、詩篇42篇です。聞いていますと、歌い方に抑揚があります。私たちには、言葉の意味は分かりませんが、語り手が強調したいところ、聞き手に注意を呼び覚ましたいところなどは、音が高められたり、ある種の節回しなどをつけています。これはことばの意味に基づいた感情を表出するのにより表現豊かな手段として歌われています。これは、詩篇が歌われている例の一つです。

 

さて、前回はダビデの詩篇32篇をとおして、ダビデの口から賛美が生まれるまでを皆さんと共に読み、考えました。ダビデは、自らが犯した罪をナタンによって示された後、その罪を認め、神の前に深い悔い改めに導かれていました。内側にひそむ闇。これに対して、自分の力ではどうすることもできない、また神の罰を受けながら、その苦悩を味わいつつも、それでもなお、神のみ手によらなければ自分には救いがない、救われないと、ただただ神の前に伏していました。そして、主なる神は、約束の通り、ダビデをこの穴から救い、ダビデの思いは砕かれて神の思いに合わされていく。つまり、ダビデが、神の祝福受ける者として生き直す事が出来るように整えていかれました。そして、ついには、このダビデの口にあった苦悩のことばは、神を褒めたたえ、感謝を表す「賛美のことば」に変えられたのでした。 (続きを読む…)

2010 年 2 月 14 日

・説教 「わたしについて来なさい」 マタイの福音書4章18節-25節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:12

鴨下直樹

 今、総会のために準備を進めております。その総会資料が出来上がりまして、今日みなさんのメールボックスに入れられております。特に今年の総会ではこれまで私たちの教会ではまだ長老が選ばれておりませんでしたけれども、長老補が選ばれることになっております。また、さまざまな伝道計画案などが資料に出ております。特に今年の特別伝道礼拝に加藤常昭先生を講師にお招きすることになりました。加藤常昭先生は、私が神学生の頃から説教の手ほどきを受けている先生です。多くの著書や、翻訳された本などもありますので、御存知の方も少なくないと思います。教会で、毎年様々な伝道の計画を立てます。そのために祈り、備えるのは、ひとえに主イエスと一人でも多くの方が出会ってほしいと願うからです。主イエスとお会いする時に、そこに信仰が生まれます。新しい自分の生き方が示されます。そのような出会いを多くの方々に持っていただきたいと願っているのです。

 今日、私たちに与えられております聖書は、多くの人々が主イエスと出会ったこの出会いの経験が記されたところです。初めに記されているのが、主イエスの弟子となった人々との出会いです。ペテロと呼ばれるシモンと、その兄弟アンデレ、また、ゼベダイの子ヤコブと兄弟ヨハネという漁師たちです。マタイの福音書で、主イエスの最初の弟子とされたのが漁師であったのは、とても興味深いことです。 (続きを読む…)

2010 年 2 月 7 日

・説教 「暗闇の地から」 マタイの福音書4章12節-17節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:02

鴨下直樹

 私は、先週の月曜から水曜日まで名古屋で行われました説教塾に参加してまいりました。毎年この季節になりますと、全国から説教を学ぶ仲間が集まって共に説教の学びをいたします。いつもは、この三日間の間に、共に一つの聖書箇所から説教を作る作業を一緒にするのですけれども、今年は少し違う試みをいたしました。イーヴァントというドイツがヒトラーの支配下に会った時に活躍した牧師の説教学講義が、昨年、説教塾を指導して下さっております加藤常昭先生によって翻訳されまして、その本を共に三日かけて学んだのです。このイーヴァントが生きた時代は、まさに闇の時代であったと言うことができます。当時の教会は、ヒトラーを支持するドイツ・キリスト者というグループに支配されてしまっていました。その中で、それに抵抗する牧師たちが出てまいります。ディートリッヒ・ボッヘンファー、カール・バルト、そしてイーヴァントなどもその一人です。彼らは、ドイツ・キリスト者と呼ばれる人々に抵抗して、自らの教会を告白教会と呼びました。そのような中で、当時のこの告白教会の牧師たちは大きな問題にぶつかります。誠実に御言葉を語れば語るほど、人々は教会へ来なくなるのです。あるいは、人々はドイツ・キリスト者の方に行ってしまうのです。耳触りの良い言葉ばかりを語ることができないからです。また、同時に、告白教会の指導者たちはナチに捕えられて投獄されてしまう者たちも出てまいります。まさに闇の時代です。この三日間の学びの中で、私たちの現代の闇、あるいは現代の敵と言ってもいいかもしれませんけれども、それをどのように見ているかということが何度も語られました。今日の日本において、ドイツ・キリスト者と似たような日本・キリスト者などと呼ばれるような敵はおりません。けれども、教会は常にあらゆる敵に相対しています。私たちの敵とは何かということです。それは、私たちの持つ闇とは何かということでもあります。 (続きを読む…)

2010 年 1 月 31 日

・説教 「試みの中で」 マタイの福音書4章1節-11節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 19:59

鴨下直樹

 最初に一枚の絵をお見せしたいと思います。この絵は、スタンレー・スペンサーというイギリスの画家の描いたもので、「荒れ野のキリスト-さそり-」という題がつけられています。私がこの絵をみるのは、「誘惑」という題がつけられたドイツの神学者ボンへッファーの小さな書物に白黒で印刷された絵を見たのが最初でした。主イエスは四十日四十夜断食をなさった。その試みにあっておられた時の絵です。おそらく、私だけでなく、多くの方が思うのは、「四十日も断食をしていたのに、このでっぷりと太りきった主イエスの姿はどういうことか」ということではないかと思います。人々が想像する主イエスのイメージはまったくありません。この絵を見ていると、「主イエスの受けられた誘惑というのは、どうも、私が思い描いているようなものとはひょっとするとまるで別の事柄なのではないか」と、そんな気持ちでこの書物を開いたことを忘れることができないのです。
Christ in the Wilderness - The Scorpion -  この絵が表紙に載せられたこの書物の冒頭で、ボンヘッファーはこんなことを言っているのです。言葉通りではありませんけれども、こういう内容です。「聖書全体が語る誘惑というのは、自分の力をためすということではなくて、自分の持つ力がすっかり敵の手に落ちてしまい、荒野へと追いやられること、つまり、わたしは見捨てられてしまっている。全ての人からも見捨てられ、神からも見捨てられてしまっているということだ」と。自分は見捨てられている、誰も理解してくれない、神さえも自分を見捨ててしまっているのではないかと思う。誘惑というのはまさに、そのような荒れ野を経験することだと言うのです。

 この「荒野の誘惑」として知られるこの物語はこのように語り始めています。「さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた」。主イエスは、「悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれた」と言うのです。ちょっと考えにくいことです。「御霊が導いた」のです。神が、そのような試練の場、自分は見捨てられていると感じるような場所に、主イエスを導いたという。それは果たして何のためなのでしょう。考えると、答えは一つしかないのです。 (続きを読む…)

2010 年 1 月 24 日

・説教 「わたしたちのために」 マタイの福音書3章13節-17節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 14:12

鴨下直樹

 昨日のことです。毎月行われております俳句の会、「ぶどうの木」の句会がありました。私は、今まで一度も投句したことはないような俳句の書けないものですけれども、昨日は、この句会で食事も兼ねてということもあって食事をするところで行われました。そのために、皆さんが出された句の中から良い者を選ぶという選句という作業をさせていただきました。教会で行われる句会ですから、中には信仰を歌った句も多いのですが、その中に一つ心に残った句がありました。

 

 「白鳥や泥水に顔突つ込んで」という句です。

 

 白鳥がその美しさを気取ることなく、生きるために泥水に顔を突っ込んで食べ物を探しているというのです。句会「ぶどうの木」で指導してくださっている辻恵美子さんの句です。ちょうどこの句会で、角川書店から恵美子さんが昨年出版された句集「萌葱」(もえぎ)が、「俳句」という雑誌に特集が組まれまして、その紹介された記事のコピーを頂きました。そこに恵美子さん自身の言葉で「俳句の基本は即物具象と写生」であると書かれていまして、自分の進む道はこれを深めることだと書いておられます。俳句というのは、見たままを詠んで、そのまま書き写すわけです。私は自分で俳句が作れませんので、それについて何か俳句はこういうものだ、などと言うことはできません。けれども、この俳句の会に出ていながら、色々な話を聴いていますと、聖書の正しい読み方というのも、案外同じかなという気がしてくるのです。 (続きを読む…)

2010 年 1 月 17 日

・奨励 賛美1「私・あなた」 詩篇32篇

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 13:44

本日は、芥見キリスト教会員の森岡泰子姉が奨励をして下さいました。

 

「讃美しましょう」ということばを聞くと、皆さんは、何を連想されるでしょうか? おそらく、クリスチャンの多くの方は、「歌う」ということを考えられるのではないでようか? 讃美歌を用意したり、歌集を用意します。つまり、「賛美しましょう」=「歌を歌いましょう」という意味で捉えています。皆さんはいかがでしょうか?

しかし、「賛美」は歌なのでしょうか? 歌わない「賛美」はありませんか?

「太鼓」では、讃美できませんか? 「踊り」ではどうでしょうか。私が神学生の時、一度、聾唖の方々の賛美を目で見た事があります。からだ全体を使って、まるで舞っているかのような、そんな賛美を見ました。そのとき、私の耳には、音声としての言葉は何も聞こえてきませんでした。また、手話も分かりません。けれども、手、足、体全体を使って確かに主を讃美している、これは賛美だ、と解りました。賛美を目で「見た」のです。そしてそれが、見る者全てに賛美であることが不思議にも通じていました。

このように、考えていくと、「賛美」には歌うことも含まれますが、「賛美=歌」ではないということが解ります。では、「賛美」とは何か? 今朝は、この事をご一緒に考えていきたいと思います。 (続きを読む…)

2010 年 1 月 10 日

・説教 「神が来られる」 マタイの福音書3章1節-12節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 09:26

鴨下直樹

 今、私たちは礼拝で、マタイの福音書から順に御言葉を聞き続けています。それは言ってみれば、主イエスの歩みを順に追っていくということです。そうすると、どの福音書も、主イエスの生涯、これを<公生涯>と言いますけれども、公の主イエスの歩みを記す前に、バプテスマのヨハネ、あるいは洗礼者ヨハネと言われた人物から書き始めます。主イエスの生涯が始まる前にその道備えをした人があったとどの福音書にも書き記しているのです。それは、他の福音書を読み比べて頂いてもすぐに分かります。この洗礼者ヨハネは、少し変わった人物であると言わなければなりません。彼がいるのは、街の中ではなくて荒野です。そして、5節にヨハネの姿の事が記されていますけれども、「らくだの毛の着物を着、腰には川の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった」。最近のはやりの言葉でいえば、「エコ」な生活ということになるのでしょうけれども、もちろん、そんなものではありません。彼の心に占めているのは、一つの思いです。それは、神が来られた時に、相応しいこのお方に相応しい生活をしたいということでした。富とか権力とかそういう人々の求めるものを求めるのではない、ただ、神だけに信頼するという姿がここにあらわされています。

 間もなく、神が来られる。神がおいでになる。これが、ヨハネの心を支配していた思いでした。ですから、このヨハネの語る言葉は一つです。 (続きを読む…)

2010 年 1 月 3 日

・説教 「苦しみの現実の中で」 マタイの福音書2章13節-23節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 21:51

鴨下直樹

 今年の御言葉として私たちは元旦の朝に、ヨハネの福音書14章1節の御言葉を聞きました。

あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。

 

 私たちはこういう御言葉を聞く時に、時折思うことがあります。聖書は簡単にこういうことを言うけれども、現実の生活にはそれほど単純ではない、そんなに簡単にいくはずがない。心を騒がせてしまう時に、神を信じるなんてことはお題目としては分かるけれども、実際の生活というのは聖書通りにそう簡単にはいかないのだと思うのです。

 FEBCというキリスト教ラジオ番組があります。御存知ない方も多いと思いますので、少しこのラジオのことを紹介する必要があるかもしれません。このラジオ番組はキリスト教のラジオ放送で、毎晩夜の9時45分から10時45分までの1時間15分の放送で、AM1566kHzで聴くことができます。大変よいラジオ番組です。日曜日には、各地の礼拝のもようを聴くことができます。あるいは、各地の教会や、牧師の働きが紹介されることもあります。その中で各地の牧師たちが紹介されている番組があり、昨年の事ですけれども、東海地区の牧師たちというシリーズでお話いただけないかという依頼が私の所にもありました。電話でお話を聞いたところ、よくリスナーからラジオ局に問い合わせが来る。それは、牧師たちは講壇ではいつも聖書から話しているけれども、牧師の本音はどうなのかというところを聞いてみたいということのようです。 (続きを読む…)

2010 年 1 月 1 日

・説教 「神を信じ続ける一年」 ヨハネの福音書14章1節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 21:05

 元旦礼拝説教

 

2010年 年間聖句 (ヨハネの福音書14章1節)

あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。

 

 

鴨下直樹

 新しい年を迎えました。今年私たちに与えられてる言葉はヨハネの福音書14章1節のこの御言葉です。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」

 先日、私たちがドイツで教会実習をしていた教会から「教会だより」が送られてきました。これは、毎月出されているもので、初めに小さな説教が載っております。その最初のページに、もう一昨年になりますけれども、それまで私たちの教団に宣教師を送り出しているドイツ・アライアンスミッションの代表からドイツ自由福音教会の代表に変わりました、アンツガー・ヘルスティングが小説教を書いておりました。ドイツの全ての自由福音教会にあてられた説教です。もちろん、ここで全てを紹介することはできませんけれども、この説教は、「あなたがたは真っ暗闇の中にいるという経験をしたことがありますか」という問いで始まります。 (続きを読む…)

2009 年 12 月 27 日

・説教 「二人の王との出会い」 マタイの福音書2章1節-12節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 10:13

鴨下直樹

 今、私たちはクリスマスを祝っています。礼拝でマタイの福音書から順に御言葉を聞き続けています。先日、クリスマス・イヴに行われた燭火礼拝でもこの御言葉から聞きましたけれども、この朝もこの御言葉に耳を傾けたいと思います。

 この時期になりますと時々、クリスマスというのはいつまで続くのか、いつまで祝うのか、という質問を受けることがあります。もちろん、いつまででも祝い続けていいのですけれども、一月一日の元旦は、先日もお話しましたように、イエスと名付けられた「命名日」と呼ばれる日です。そして、一月六日は公現日とか、顕現日、あるいはエピファニーと言いまして、キリストが人々の前に明らかにされた日として祝います。教会の暦では、このエピファニーまでを降誕節と言って、クリスマスの祝いをする期間と考えています。そして、このエピファニーという日は、東の国の博士たちが礼拝にみどりごイエスを礼拝した時でもあるのです。

 この東の国の博士というのは、伝説によると、カスパル、メルキオール、バルタザールという名前であったと伝えられ、三人の博士ということになっていますけれども、もちろんはっきりしたことは分かりません。ドイツのケルンという大きな街に、ケルンの大聖堂、ドームと呼ばれる大きな礼拝堂があります。この大聖堂はこの三人の博士たちの棺があるということで知られていますし、そのためにこの町が栄えたのだとも言われています。このケルンの大聖堂・ドームに訪れますと、非常に大勢の観光者で賑わっていまして、大聖堂の中にある東方の博士たちの遺骨がおさめられている棺は、大きなもので、実にきらびやかな黄金の装飾が施され、訪れる人々を圧倒します。けれども、私はそこに行く度に、何とも言えない哀しさを覚えます。この博士たちはこんな黄金の棺におさめられ、人々から礼拝される対象となるようなことを望んだだろうかと考えさせられるのです。 (続きを読む…)

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