2010 年 3 月 28 日

・説教 「柔和な者の幸い」 マタイの福音書5章5節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 23:16

鴨下直樹

 今週から教会の暦で受難週を迎えます。特にこの日曜日は棕櫚の主日と呼ばれる主の日です。なぜ、棕櫚の主日というかと言いますと、この日に主イエスがエルサレムの街に入場なさいました。このところを少し長いところなのですが、聖書をお読みしたいと思います。 マタイの福音書第21章1節から11節ですけれども、7節からをお読みします。

 

 そして、ろばと、ろばの子とを連れて来て、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。すると、群衆のうち大ぜいの者が、自分たちの上着を道に敷き、また、ほかの人々は、木の枝を切って来て、道に敷いた。そして、群衆は、イエスの前を行く者も、あとに従う者も、こう言って叫んでいた。「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。」こうして、イエスがエルサレムにはいられると、都中がこぞって騒ぎ立ち、「この方は、どういう方なのか。」と言った。群衆は「この方は、ガリラヤのナザレの、預言者イエスだ。」と言った。(マタイ21:7-11)

 

 この時、主イエスはロバの子に乗られてエルサレムに入場なさいました。この時の主イエスの御姿は人々に非常に強い印象を与えたことでしょう。

「ダビデの子にホサナ」という言葉がここで紹介されていますけれども、この「ホサナ」という言葉は、今で言えば「万歳」という言葉が一番近いなどと言われています。「主よ救い給え」という意味の言葉です。主イエスに向かって、人々は「あなたこそが真の王です。どうぞ、私たちをお救いください」という意味の言葉で、主イエスをエルサレムの街にお迎えしたのです。 (続きを読む…)

2010 年 3 月 14 日

・説教 「悲しむ者の幸い」 マタイの福音書5章4節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 21:50

鴨下直樹

 主イエスは「心の貧しい者は幸いです」という言葉に引き続いて「悲しむ者は幸いです」と語られました。「悲しい者は幸せである」などということはありそうもないことです。幸せなら悲しまないからです。幸せでいたいと思いながらも、幸せでいることができないために人は悲しむのです。どうして、「悲しむ者が幸い」などということが起こり得るのでしょうか。多くの人々が、主イエスがここで語っておられる「悲しみ」とはどのような悲しみだろうかと論議してきました。よく語られるのは、ここで語られている悲しみというのは、キリスト者特有の悲しみなのではないかと考えられます。つまり、主イエスが言われている悲しみというのは、日常の生活においてさまざまな場面で出てくる悲しみがあるけれども、ここで語られている悲しみは、そのような日常の生活とは異なる次元の悲しみなのではないかと。そこで言われるのは、キリスト者であることを前提として「罪に対して悲しんでいる人」という意味ではないかと考えられることがあるのです。

 けれども、この山上の説教は主イエスにつき従った弟子たちだけではなく、病を抱えながら、悩みを抱えながらついて来た人々にも語られているのですから、意味を何かに限定してしまうことはできないのではないかと私は思います。むしろ、ここで主イエスが語っておられる悲しみというのは、あらゆる生活の中で起こる悲しみのことを意味するのではないかと思うのです。そもそも悲しみには、キリスト者の悲しみと、そうでないものの悲しみというような違いがあるとは思えません。高尚な悲しみと、低俗な悲しみというように分けることはできないと思うのです。悲しみは誰にとっても悲しみでしかありません。

 

 今私は、悲しみは誰にとっても悲しみでしかない。高尚な悲しみと低俗な悲しみとに分けることはできないと言いました。本質的に悲しみを分けることはできません。けれども、そうすると同時に考えなければならないことがあります。 (続きを読む…)

2010 年 3 月 7 日

・説教 「心の貧しい者の幸い」 マタイの福音書5章3節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 18:57

鴨下直樹

 今日の聖書は大変短い箇所です。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」。という所です。先週より「山上の説教」と呼ばれる箇所から、御言葉を聞いていますけれども、その最初に九つの幸いの言葉が語られています。神の祝福の言葉が連ねられているのです。ところが、この幸いの言葉、祝福の言葉は、聞く私たちを驚かせます。

いきなり「心の貧しい者は幸いです」というからです。私たちが幸せだと思う人というのは、暖かい家族に囲まれている人、経済的に恵まれている人、健康にふるまっている人、沢山の良い友人に恵まれている人のことを見ると、「ああ、この人は幸せそうだ」と考えます。ところが、ここでは、「心の貧しい者は幸い」という。一体どういうことなのだろうかと、考えさせられてしまいます。

 「心の貧しい者」というのは、私たちが一般的に使う場合、例えば「思いやりがない」、とか「心の荒んでいる」、「人に親切にすることができない」というような人を見ると使う場合があります。根っから人に対する心のない人のことを、心の貧しい人と考えるのです。そういう人を私たちは、毎日、様々なテレビのニュースや新聞で見聞きします。しかし、そのような事件を引き起こしてしまうような心の貧しい人を、主イエスは幸せだと言われているとすると、それはどういうことだろうかと考えざるを得なくなります。

 そうすると、わたしたちはここで言われている「心の貧しい者」というのは、特別な意味なのではないかと考えるのです。 (続きを読む…)

2010 年 2 月 28 日

・説教 「主イエスの語る幸いな生き方」 マタイの福音書 5章1節-12節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 12:44

鴨下直樹 

  今週からマタイの福音書の第五章に入ります。この第五章から七章の終りまでを一般的に「山上の説教」と言います。聖書の中の最も有名な箇所と言うことができます。私の書斎にも様々な書物がありますが、ここの箇所の書物は群を抜いて多いのです。それだけ、多くの牧師たちも語ることに心を傾けてきたということもできるでしょうし、多くの人々がこの「山上の説教」と呼ばれる聖書の言葉に関心を払っていると言ってもいいかもしれません。

 この第五章から七章の終りに至るまでの長い箇所が「山上の説教」と呼ばれているのには、この1節に「この群衆を見て、イエスは山に登り」と記されているからです。少し、前回の所に戻る必要がありかもしれません。主イエスは、漁師をしていたペテロ、アンデレ、ヤコブとヨハネたちを弟子に加えられ、ガリラヤ地方で宣教を始められます。

すると、様々な困難や状況に置かれている人々が主イエスの前に連れられて来たのです。主イエスはこれらの人々を癒された。そうすると、そこで何が起こるかと言いいますと、人々は自分の問題を解決してくださる方にようやく出会うことができたから、このお方について行こうとしたのです。そして、その人々が主イエスと弟子たちに従ってついてくるようになった。この間の説教でもお話しましたけれども、主イエスはこのような従い方を拒んではおりません。むしろそのような人々も招くように、ここで主イエスに従って山の上までついて来た人々にお語りになられたのです。 (続きを読む…)

2010 年 2 月 14 日

・説教 「わたしについて来なさい」 マタイの福音書4章18節-25節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:12

鴨下直樹

 今、総会のために準備を進めております。その総会資料が出来上がりまして、今日みなさんのメールボックスに入れられております。特に今年の総会ではこれまで私たちの教会ではまだ長老が選ばれておりませんでしたけれども、長老補が選ばれることになっております。また、さまざまな伝道計画案などが資料に出ております。特に今年の特別伝道礼拝に加藤常昭先生を講師にお招きすることになりました。加藤常昭先生は、私が神学生の頃から説教の手ほどきを受けている先生です。多くの著書や、翻訳された本などもありますので、御存知の方も少なくないと思います。教会で、毎年様々な伝道の計画を立てます。そのために祈り、備えるのは、ひとえに主イエスと一人でも多くの方が出会ってほしいと願うからです。主イエスとお会いする時に、そこに信仰が生まれます。新しい自分の生き方が示されます。そのような出会いを多くの方々に持っていただきたいと願っているのです。

 今日、私たちに与えられております聖書は、多くの人々が主イエスと出会ったこの出会いの経験が記されたところです。初めに記されているのが、主イエスの弟子となった人々との出会いです。ペテロと呼ばれるシモンと、その兄弟アンデレ、また、ゼベダイの子ヤコブと兄弟ヨハネという漁師たちです。マタイの福音書で、主イエスの最初の弟子とされたのが漁師であったのは、とても興味深いことです。 (続きを読む…)

2010 年 2 月 7 日

・説教 「暗闇の地から」 マタイの福音書4章12節-17節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:02

鴨下直樹

 私は、先週の月曜から水曜日まで名古屋で行われました説教塾に参加してまいりました。毎年この季節になりますと、全国から説教を学ぶ仲間が集まって共に説教の学びをいたします。いつもは、この三日間の間に、共に一つの聖書箇所から説教を作る作業を一緒にするのですけれども、今年は少し違う試みをいたしました。イーヴァントというドイツがヒトラーの支配下に会った時に活躍した牧師の説教学講義が、昨年、説教塾を指導して下さっております加藤常昭先生によって翻訳されまして、その本を共に三日かけて学んだのです。このイーヴァントが生きた時代は、まさに闇の時代であったと言うことができます。当時の教会は、ヒトラーを支持するドイツ・キリスト者というグループに支配されてしまっていました。その中で、それに抵抗する牧師たちが出てまいります。ディートリッヒ・ボッヘンファー、カール・バルト、そしてイーヴァントなどもその一人です。彼らは、ドイツ・キリスト者と呼ばれる人々に抵抗して、自らの教会を告白教会と呼びました。そのような中で、当時のこの告白教会の牧師たちは大きな問題にぶつかります。誠実に御言葉を語れば語るほど、人々は教会へ来なくなるのです。あるいは、人々はドイツ・キリスト者の方に行ってしまうのです。耳触りの良い言葉ばかりを語ることができないからです。また、同時に、告白教会の指導者たちはナチに捕えられて投獄されてしまう者たちも出てまいります。まさに闇の時代です。この三日間の学びの中で、私たちの現代の闇、あるいは現代の敵と言ってもいいかもしれませんけれども、それをどのように見ているかということが何度も語られました。今日の日本において、ドイツ・キリスト者と似たような日本・キリスト者などと呼ばれるような敵はおりません。けれども、教会は常にあらゆる敵に相対しています。私たちの敵とは何かということです。それは、私たちの持つ闇とは何かということでもあります。 (続きを読む…)

2010 年 1 月 31 日

・説教 「試みの中で」 マタイの福音書4章1節-11節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 19:59

鴨下直樹

 最初に一枚の絵をお見せしたいと思います。この絵は、スタンレー・スペンサーというイギリスの画家の描いたもので、「荒れ野のキリスト-さそり-」という題がつけられています。私がこの絵をみるのは、「誘惑」という題がつけられたドイツの神学者ボンへッファーの小さな書物に白黒で印刷された絵を見たのが最初でした。主イエスは四十日四十夜断食をなさった。その試みにあっておられた時の絵です。おそらく、私だけでなく、多くの方が思うのは、「四十日も断食をしていたのに、このでっぷりと太りきった主イエスの姿はどういうことか」ということではないかと思います。人々が想像する主イエスのイメージはまったくありません。この絵を見ていると、「主イエスの受けられた誘惑というのは、どうも、私が思い描いているようなものとはひょっとするとまるで別の事柄なのではないか」と、そんな気持ちでこの書物を開いたことを忘れることができないのです。
Christ in the Wilderness - The Scorpion -  この絵が表紙に載せられたこの書物の冒頭で、ボンヘッファーはこんなことを言っているのです。言葉通りではありませんけれども、こういう内容です。「聖書全体が語る誘惑というのは、自分の力をためすということではなくて、自分の持つ力がすっかり敵の手に落ちてしまい、荒野へと追いやられること、つまり、わたしは見捨てられてしまっている。全ての人からも見捨てられ、神からも見捨てられてしまっているということだ」と。自分は見捨てられている、誰も理解してくれない、神さえも自分を見捨ててしまっているのではないかと思う。誘惑というのはまさに、そのような荒れ野を経験することだと言うのです。

 この「荒野の誘惑」として知られるこの物語はこのように語り始めています。「さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた」。主イエスは、「悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれた」と言うのです。ちょっと考えにくいことです。「御霊が導いた」のです。神が、そのような試練の場、自分は見捨てられていると感じるような場所に、主イエスを導いたという。それは果たして何のためなのでしょう。考えると、答えは一つしかないのです。 (続きを読む…)

2010 年 1 月 24 日

・説教 「わたしたちのために」 マタイの福音書3章13節-17節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 14:12

鴨下直樹

 昨日のことです。毎月行われております俳句の会、「ぶどうの木」の句会がありました。私は、今まで一度も投句したことはないような俳句の書けないものですけれども、昨日は、この句会で食事も兼ねてということもあって食事をするところで行われました。そのために、皆さんが出された句の中から良い者を選ぶという選句という作業をさせていただきました。教会で行われる句会ですから、中には信仰を歌った句も多いのですが、その中に一つ心に残った句がありました。

 

 「白鳥や泥水に顔突つ込んで」という句です。

 

 白鳥がその美しさを気取ることなく、生きるために泥水に顔を突っ込んで食べ物を探しているというのです。句会「ぶどうの木」で指導してくださっている辻恵美子さんの句です。ちょうどこの句会で、角川書店から恵美子さんが昨年出版された句集「萌葱」(もえぎ)が、「俳句」という雑誌に特集が組まれまして、その紹介された記事のコピーを頂きました。そこに恵美子さん自身の言葉で「俳句の基本は即物具象と写生」であると書かれていまして、自分の進む道はこれを深めることだと書いておられます。俳句というのは、見たままを詠んで、そのまま書き写すわけです。私は自分で俳句が作れませんので、それについて何か俳句はこういうものだ、などと言うことはできません。けれども、この俳句の会に出ていながら、色々な話を聴いていますと、聖書の正しい読み方というのも、案外同じかなという気がしてくるのです。 (続きを読む…)

2010 年 1 月 10 日

・説教 「神が来られる」 マタイの福音書3章1節-12節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 09:26

鴨下直樹

 今、私たちは礼拝で、マタイの福音書から順に御言葉を聞き続けています。それは言ってみれば、主イエスの歩みを順に追っていくということです。そうすると、どの福音書も、主イエスの生涯、これを<公生涯>と言いますけれども、公の主イエスの歩みを記す前に、バプテスマのヨハネ、あるいは洗礼者ヨハネと言われた人物から書き始めます。主イエスの生涯が始まる前にその道備えをした人があったとどの福音書にも書き記しているのです。それは、他の福音書を読み比べて頂いてもすぐに分かります。この洗礼者ヨハネは、少し変わった人物であると言わなければなりません。彼がいるのは、街の中ではなくて荒野です。そして、5節にヨハネの姿の事が記されていますけれども、「らくだの毛の着物を着、腰には川の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった」。最近のはやりの言葉でいえば、「エコ」な生活ということになるのでしょうけれども、もちろん、そんなものではありません。彼の心に占めているのは、一つの思いです。それは、神が来られた時に、相応しいこのお方に相応しい生活をしたいということでした。富とか権力とかそういう人々の求めるものを求めるのではない、ただ、神だけに信頼するという姿がここにあらわされています。

 間もなく、神が来られる。神がおいでになる。これが、ヨハネの心を支配していた思いでした。ですから、このヨハネの語る言葉は一つです。 (続きを読む…)

2010 年 1 月 3 日

・説教 「苦しみの現実の中で」 マタイの福音書2章13節-23節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 21:51

鴨下直樹

 今年の御言葉として私たちは元旦の朝に、ヨハネの福音書14章1節の御言葉を聞きました。

あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。

 

 私たちはこういう御言葉を聞く時に、時折思うことがあります。聖書は簡単にこういうことを言うけれども、現実の生活にはそれほど単純ではない、そんなに簡単にいくはずがない。心を騒がせてしまう時に、神を信じるなんてことはお題目としては分かるけれども、実際の生活というのは聖書通りにそう簡単にはいかないのだと思うのです。

 FEBCというキリスト教ラジオ番組があります。御存知ない方も多いと思いますので、少しこのラジオのことを紹介する必要があるかもしれません。このラジオ番組はキリスト教のラジオ放送で、毎晩夜の9時45分から10時45分までの1時間15分の放送で、AM1566kHzで聴くことができます。大変よいラジオ番組です。日曜日には、各地の礼拝のもようを聴くことができます。あるいは、各地の教会や、牧師の働きが紹介されることもあります。その中で各地の牧師たちが紹介されている番組があり、昨年の事ですけれども、東海地区の牧師たちというシリーズでお話いただけないかという依頼が私の所にもありました。電話でお話を聞いたところ、よくリスナーからラジオ局に問い合わせが来る。それは、牧師たちは講壇ではいつも聖書から話しているけれども、牧師の本音はどうなのかというところを聞いてみたいということのようです。 (続きを読む…)

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