2011 年 4 月 10 日

・説教 マタイの福音書11章1-6節 「待つべきお方は誰か」

Filed under: 礼拝説教 — admin @ 14:36

 

鴨下直樹

2011.4.10

 

 

 受難節もすでに第五主日を迎えました。来週は教会の暦で受難週を迎えます。それにともない前々から伝道部が準備をしておりましたマタイの受難曲のコンサートを行います。もちろん全曲を行うことはできませんから、聖書朗読とコラールの部分を教会の執事である赤塚さんが指揮をしているnCA(ノアーコールアー)という合唱団をお招きして合唱をしてもらうことにしています。

 私たちの教会でもこのように、この受難節の期間にコンサートをし、受難日には受難日礼拝を行いますけれども、こうして主イエスの十字架までの苦しみの歩みをさまざまな形で思い起こそうとしているのです。毎年毎年、このレントを迎える度に、主イエスの苦難の意味を私たちはその度に思い起こすのです。主の苦しみは、そのようにして私たちの心の中に刻みつけておかなければならないほど大切なことだからです。

 

 私たちも日常の生活の中で苦しみの意味について考えることがあるでしょう。私たちが苦しみにあう時にそこで考える苦しみの意味というのは、多くの場合、これは何かの刑罰ではないかとか、何かの代償で、今自分はこのような苦しみを受けているのではないかと考えることが多いのではないかと思います。しかし、自分が味わっている苦しみの経験がに意味が見いだせなかったり、不当な苦しみであると考えると、私たちはそのような苦しみに耐え抜く力が出てこなくなってしまうのです。やっていられないという気持ちになってしまうのです。そのようにしてやっていられないという考えに一度支配されますと、あとはそこから逃げ出すことばかりを考えるようになります。苦しみの意味を問うということは、ただいたずらに自分を苦しめるということになりかねません。ですから、私たちはこの受難節の間、もう一度、どのようにキリストの苦しみを私たちは心に刻みつけることができるのかを、しっかりと考える必要があると思います。 (続きを読む…)

2011 年 4 月 2 日

・説教 マタイの福音書10章34章-42節 「自分の十字架を負って」

Filed under: 礼拝説教 — admin @ 14:39

 鴨下直樹

2011.4.2

 

 

今、私たちはキリストの苦しみを覚える受難節を迎えています。今年の受難節は特にさまざまな苦しみの意味を考えさせられます。未だに私たちは放射能の恐怖のもとで生活しています。そういう中で、四月を迎えました。新年度が始まります。それに伴って、新しい不安を抱えている人々もいます。仕事の部署が変わるとか、新しい生活が始まるということもあるでしょう。新しい年度を迎える期待と不安の中で、私たちは受難節を過ごしているのです。キリストの苦しみを思いながら歩んでいるのです。

そして、今朝、私たちはここで「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです」という御言葉を聞き、つづいて語られている「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません」とのみ言葉を聞くのです。

思わずため息をつきたくなるような御言葉です。ゆったりとした気持ちで、落ち着いた気持ちになりたいと思いながら聞ける御言葉ではありません。私たちの生き方そのものを問いかけざるを得ない、厳しい言葉です。そして、この言葉の前に私たちは今、立たされているのです。

 

 このみ言葉を前にして、私たちの心の中に浮かんでくる思いは、「なぜ」という思いであるかもしれません。キリストは平和の君と呼ばれるお方ではなかったのか。キリストが十字架を負ってくださるお方なのではなかったか。それなのに、なぜ、平和ではなく、剣をもたらすと言われるのか。なぜ、自分の十字架を負えと言われるのか。ここで語られている主イエスの言葉は、主を信じる信仰に生きようと願って来た者にとっては、どうしても考えざるを得ない言葉です。問わざるを得ません。なぜ、ここで主イエスはこのように語っておられるのか。

 そうです。今、私たちはこの言葉の前に、もう一度、平和の意味を考えてみなければなりません。そして、十字架の意味をも考えてみなければなりません。 (続きを読む…)

2011 年 3 月 13 日

・説教 マタイ10章16-23節 「言葉を与えてくださる神」

Filed under: 礼拝説教 — naoki @ 14:40

 

 

2011.3.13

鴨下直樹

 

 

 先日の金曜日、午後三時、大きな地震が日本を襲いました。非常に長い揺れが続きました。いつも、大きな地震が起こる時というのは、被害の大きさが後になればなるほど大きくなります。はじめのうちの報道を見ながら、この程度の被害で済んだのかと安心していると、次々に続報が報じられ、被害の甚大さが次第に明らかになってきます。東日本巨大地震という名前が付けられたこの地震は、日を重ねるごとに被害の大きさが明らかになってきます。おそらく、みなさんもテレビに釘づけになりながら、家族や知人のことを心配しておられるのではないかと思うのです。

 今、私たちは主からどのような御言葉を聴き取るべきなのでしょうか。私は何度も、何度も、今朝の説教の聖書箇所を変更するべきではないかと悩みました。私たちが今、直面している問題と、今朝私たちに与えられている御言葉との間に、大きな隔たりを感じたのです。

 ところが、説教題を見ますと、「言葉を与えてくださる神」という題がつけられています。ひと月も前につけた説教題です。けれども、この言葉を与えてくださる神という説教題をつけながら、今朝、私には言葉が与えられていないので、ここから説教するのは止めにして、他の箇所から説教するということは、この主に対して説教者のとるべき立場ではないと考えさせられました。この説教題に、私自身大きな励ましを受けながら、今朝は、私たちに与えられているこの御言葉に耳を傾けていきたいと思います。 (続きを読む…)

2011 年 3 月 6 日

・説教 マタイの福音書10章1-15節 「平和を告げる者」

Filed under: 礼拝説教 — naoki @ 14:29

 

2011.3.6

 鴨下直樹

 

今週の金曜の事です。私が関わっております名古屋の神学塾で入塾試験が行われました。今年から教務のお仕事を手伝うことになりまして、試験官をいたしました。待合室で、試験の前に何やらメモを取り出しまして、勉強をしています。ちゃんと聖書の書簡を順番に覚えているか、十二弟子の名前が言えるかというようなことを前もって勉強して来ているようです。

さて、十二弟子の名前と言われて、みなさんはすぐに名前がでてくるでしょうか。そんなの簡単と初めて見てながら、ペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネと威勢よく名前が飛び出してくるかもしれません。そこまでは大丈夫です。マタイ、トマス、ユダとあとはこれまで聞いたことのある名前を何とか思い出しながら言い終えた後で、えーと、マルコとルカなどというように出てくることが意外に多いのです。もちろんマルコもルカも十二弟子の名前ではありません。ヤコブは二人いるのかとか、シモンは何人いるかなどと考え始めるともう分けが分からなくなる。

十二弟子の中には有名な名前もあれば、それほど知られていない名前もあるかもしれません。いつか、この十二弟子を一人ずつ取り上げながら説教しても面白いかななどと思うことがあります。それほど、この十二弟子というのは個性豊かな人々の集まりでした。 (続きを読む…)

2011 年 2 月 27 日

・説教 マタイの福音書9章35-38節 「収穫の主」

Filed under: 礼拝説教 — naoki @ 16:46

 

鴨下直樹 

2011.2.27

 

 

 今年の秋に教会の伝道集会を計画しています。今年は芥見教会の宣教開始三十周年の年ですから、できるかぎり多くの人々に教会を知っていただきたいと願いながら、松居直さんをお招きしたいと考えています。この方は福音館という絵本の会社を造られた方で、子どもに言葉を届けるために絵本を通して、子どもたちが生きた言葉に触れることを願っておられる方です。もう八十を超えておられ、絵本の世界では知らない人はいないという方ですから、私のようなものが松居さんなどと言うのは本当は相応しくないだろうと思います。ちゃんと先生と呼んだ方がいいのかもしれません。

 この月曜日の朝のことですけれども、電話が鳴りました。月曜日の電話というのは、あまり進んで出る気にならないのです。本来は牧師の休みの日ですから、それでもかかってくるということは、何かあったか、急な要件が入るかということが多いので、私も何となく低い声で電話口に出ました。すると、「松居です」と言うのです。私には松居という名前の知り合いはおりませんので、すぐにどの松居さんか分かったのですが、あわてて声を整えまして、できるかぎりしゃんとした声で応対しなければと思いつつ緊張しながら電話にでました。自然に自分の姿勢がよくなっているのが分かるほどでした。何を話したかと言いますと、今年の9月末に私たちの教会に来てくださると言うことでした。本当に嬉しく思っています。まだ、半年先のことですけれども、良く準備をしながらこの地域のよい伝道の機会にしたいと願っています。 (続きを読む…)

2011 年 2 月 20 日

・説教 マタイの福音書9章27-34節 「頑なな心と向き合われる主」

Filed under: 礼拝説教 — naoki @ 15:55

鴨下直樹

2011.2.20

このマタイの福音書の八章と九章というのは、主イエスが生き生きと人々の中に入って行かれて伝道をなさった姿がしるされているところです。前回もお話ししましたけれども、ここには全部で十の奇跡が記されています。そのように、数多くの奇跡を行いますと、私たちがそこで想像するのはさまざまな称賛の言葉で終わるのが普通だと考えます。ところが、このマタイの福音書は、数々の奇跡を見たパリサイ人たちの言葉を結びの言葉として、こう言わせています。

「彼は悪霊どものかしらを使って、悪霊どもを追い出しているのだ」と言った。

そのように三十四節に記されています。一般的な感覚から言えばおかしいのではないかと感じるところですけれども、マタイはそのように描いたのです。主イエスが素晴らしい言葉を語り、素晴らしい奇跡を起こし、人々が驚くにつれ、どんどんと人々が集まってきて、救われるようになった。こうして最初の教会と言うのは大盛況だったのだと、聖書は記しておりません。むしろその逆です。人々の心はますます頑なになり、ついには、このお方を十字架につけて殺してしまったのだと言うのです。そして、事実そのようになったのです。 (続きを読む…)

2011 年 2 月 13 日

・説教 マタイの福音書9章18-26節 「絶望に立ち向かわれる主イエス」

Filed under: 礼拝説教 — naoki @ 15:53

鴨下直樹 

2011.2.13

 

先週のことです。いつも教会の掲示板に説教のタイトルを綺麗に習字で書いてくださる方がありますけれども、それを見て、妻が駆け込んできました。あのタイトルは何だというのです。ご存知のように、先週の週報でもそうでしたけれども、「長血の女」と書かれていました。妻が私に言うには、綺麗に墨で「長血の女」と書いてあるのを、街の人が見たらなんと思うかと言うのです。ひとこと、「ホラー映画でもあるまいし」という言葉付け加えてです。 (続きを読む…)

2011 年 2 月 6 日

・説教 マタイの福音書9章14-17節 「新しい革袋」

Filed under: 礼拝説教 — naoki @ 11:59

 

2011.2.6

 

鴨下直樹

 

 今日の聖書の箇所は先週のパリサイ人との論争に引き続いての出来事です。ですから、本来であれば、先週に引き続いてひとまとめに語ることができればよかったのですけれども、残念ながらその時間はありませんでしたので、こうして二度に分けて御言葉を聴こうとしているわけです。そこで、みなさんに心にとどめておいていただきたいのは、先週お話ししました、この前に記されているパリサイ人の問いである「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか」と深く関わりあっているということです。

 それで、ここでパリサイ人に続いて主イエスに問いかけているのが、ヨハネの弟子たちです。このヨハネの弟子たちというのは、主イエスに洗礼をさずけたバプテスマのヨハネの弟子たちのことです。主イエスはこのバプテスマのヨハネから洗礼を受けておられるわけですから、ヨハネの弟子たちとしてみれば、主イエスは当然、自分たちの仲間であると考えていたでしょうし、ひょっとするとイエスというお方は、ヨハネ先生の弟弟子であると考えていたかもしれません。そのように、自分たちと近い関係であるならば、当然自分たちと行動を共にするだろうと考えたのは、私たちにもよく分かることです。 (続きを読む…)

2011 年 1 月 30 日

・説教 マタイの福音書9章9-13節 「罪人を招かれる主イエス」

Filed under: 礼拝説教 — naoki @ 11:56

2011.1.30

 

鴨下直樹

 

「わたしについて来なさい」という主イエスの招きの言葉がここに記されています。主イエスについていくということは、主イエスの姿を見上げ続けるということです。そして、ここに、私たちキリスト者のあり方が語られているということができます。キリスト者とは何か、どのような者であるかと問われたら、私たちは、キリストの後に従う者ということができるのです。

さて、興味深いのはここで主イエスに招かれているのは「収税所に座っているマタイという人」と記されています。もちろん、この福音書を記したマタイのことです。自分で記した主イエスの物語の中に、自分自身のことを書くというのは考えてみると興味深いことです。 (続きを読む…)

2011 年 1 月 23 日

・説教 「罪を癒される主イエス」 マタイの福音書9章1-8節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 18:34

鴨下直樹

今日、私たちに与えられている聖書のテーマは罪の赦しです。もう、キリスト教会では手垢のついた教理だと言ってもいいほどに、教会に通うようになりますと語られるテーマです。今、手垢のついた、と少し極端な言い方をしましたけれども、大げさだとは言い切れないほどキリスト教会の看板となっていると言っていい言葉だと思うのです。
先週私たちの教会は、宣教を開始してから三十周年を迎える祝いの礼拝を行いました。その間、私で八人目の牧師になるということでしたから、これまで、さまざまな宣教師や牧師から罪の赦しの語りかけを聞いてきたということになります。けれども、同時に今朝、ここで私がみなさんに問いたいことは、罪の赦しが本当に分かっていると言えるかという問いです。私たちは、なかなか罪が赦されるということについても、あるいは人の罪を赦すということについても、いつもさまざまな葛藤があります。悔い改めるということにしても簡単なことではありません。それは、別の言い方からすれば、やはり罪の赦しということがよく分かっていないからなのではないかと思うのです。けれども、私たちにとって罪の赦しがよく分かる時に、私たちは本当にこの地で自由に生きることができるし、また、私たちの伝道も、この罪の赦しがよく分かるところからしか進んでいかないのです。

今日、私たちに与えられている聖書の物語は、「中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んできた」と記されています。この出来事はマルコの福音書にもルカの福音書にも同じように記されていますけれども、他の福音書と読み比べてみますと、マタイの福音書とはかなり異なった印象を持つと思います。他の福音書ではこの病の人を四人の友達が主イエスのみもとまで運んで来るのですが、場所がないために屋根をはがし、つり下ろしたと記されています。私たちはこのように、人の家の屋根をはがして病人をつり下ろすというような出来事は、印象的な出来事ですから良く覚えていると思います。けれども、マタイはそのような出来事は書かないで、むしろ、他のことを良く覚えていたようです。 (続きを読む…)

« 前ページへ次ページへ »

HTML convert time: 0.227 sec. Powered by WordPress ME