2025 年 9 月 21 日

・説教 マルコの福音書7章14-23節「人から出てくるもの」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 16:18

2025.09.21

内山光生

イエスはまた言われた。「人から出て来るもの、それが人を汚すのです。…」  

マルコの福音書7章20節

序論

 猛暑が続いた長い夏でしたが、ようやく涼しくなってきました。朝起きて、家の外に出ると半袖では寒いと感じるようになり、秋だなと実感しております。だいぶ先の行事だと思っていた芥見教会のチャペルコンサートも、数週間後に迫ってきました。先週の木曜日と金曜日に新聞折り込みでチラシが配られているそうなので、チラシを見て教会に足を運ぶ人が起こされることを祈っていきたいと思います。

 さて、前回の箇所では律法学者やパリサイ人たちがイエス様の元にやってきて、イエス様の弟子たちがユダヤ人のしきたりを破って、きよめの儀式を行なっていないことを指摘しました。一方、イエス様は、彼らの問題点を指摘していくのです。その流れの中で、今度は、イエス様が群衆に対して大切な事を教えられました。

 今日の箇所の内容は、読めば理解できるかと思います。けれども、イエス様が言われたことを真剣に思い巡らしていくならば、自分自身の問題と向き合うこととなります。いや、そうなるようにと聖書は私たちを導こうとしています。

 ですから、ある意味、今日の箇所は「厳しい内容」と言えるかもしれません。私たちがイエス・キリストが示した福音を受け入れるためには、自分自身の問題と向き合うことを避けて通ることができないのです。けれども、自分こそが罪人なんだと自覚出来た人は、イエス様の十字架の愛がどれ程大きいかに気づかされるのです。その結果、イエス様がなぜ十字架にかかられたのか、その意味が分かるようになるのです。その結果、「イエス様こそまことの救い主だ」と告白する事ができるようになるのです。また、すでにイエス様を信じている人々は、自分の罪がイエス様に赦されていることに感謝を覚えつつ、十字架には私たちの罪をきよめる力があることに目を向けていきましょう。 (続きを読む…)

2025 年 9 月 14 日

・説教 コリント人への手紙第二 12章9節「弱さの中にあっても」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 08:08

2025.09.14

内山光生

しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。  

コリント人への手紙第二 12章9節

序論

 今朝、多くの方々と共に「敬老の日礼拝」を奉げることができる恵みを感謝いたします。

 日本においては、元々は毎年9月15日が「敬老の日」で祝日となっていましたが、皆さんご存じのように今から20年程前からは9月の第三月曜日が敬老の日となっています。

 そこで、改めて、敬老の日について調べてみました。どうやら、敬老の日の起源は、1947年に兵庫県のある村で「敬老会」を開催したのがきっかけでした。当時の村長が「高齢者を敬い、知恵を借りて地域を良くしようとした」のが始まりだそうです。

 その運動が全国に広がって行き、ついには1966年に国の祝日として制定され「敬老の日」と呼ばれるようになった、というのです。

 敬老の日というのは、年長者に対する尊敬や感謝な思いを伝えるのに最も適した時と言えます。また、長生きをしている方々にお祝いをする時でもあります。

 一つ曖昧になっている事があります。それは「敬老の日」に祝っていただけるのは、何歳からなのかという問題です。ある人々は、法律上は65歳以上だと考えます。ところが、今の時代においては、多くの場合、65才前後の方々が自分が敬老の日に祝ってもらう対象とは思っていないのが現状です。60代、いや70代前半までは、なんらかの仕事をしている人が増えていて、まだまだ自分は年寄りではない、と考える人が増えているのでしょう。

 5年くらい前に聞いた話ですと、ある自治体では75歳以上に敬老の日の集いの案内が届けられる、との事でした。ところが、最近では、75歳以上だと人数が多すぎるので80歳以上に案内が届くようになった、との情報がありました。お祝いをする施設の収容人数の関係なのでしょうか。その辺りはよく分からないのですが・・・。このように、時代によって敬老に該当する人々の年齢に変化が起こっているのです。 (続きを読む…)

2025 年 9 月 7 日

・説教 ルカの福音書19章1-10節「見つけ出される喜び」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 07:39

2025.09.07

鴨下直樹

⇒ 説教音声の再生はこちら

 今日の聖書の箇所は取税人ザアカイの話です。ザアカイの話というのはとても有名な話ですけれども、ルカの福音書にしか書かれていません。ところが、このザアカイを取り上げた説教は沢山あります。その中でも、いくつかの説教を読んだのですが、私が心惹かれたのは旧約聖書学者の左近淑先生の説教で、とても心に残りました。どんな話かというと、牧師の家で飼っていた犬が迷子になってしまったという話なのです。

 その家にはスキピーという大きな犬がいたそうです。毎朝家の前を通るジョギングの人たちに向かって、家の囲いに足をかけてワンワン吠える。その牧師曰く、「がんばれ! がんばれ!」と吠えているのだそうです。ところが、ある日、この犬がいなくなってしまいます。1日がかりで探しても見つかりません。都内近隣の保健所やペットショップに連絡し、いつ電話がかかってくるかと、待っても電話がないのです。娘さんは学校の友達にも見つけて欲しいと頼んだそうです。

 その日の夕方、先生のお父さんの80歳の誕生祝いの夕食会があって、家を空けることに後ろ髪を引かれる思いで、お父さんの家を訪ねて行ったのだそうです。その日の夕食で、お父さんの80歳の歩みを感謝するお祈りをすることになりました。いつもこの時に家族のことを祈るのだそうです。この時に、いなくなったまま戻ってこない犬のことを祈ることにためらいがあったそうです。けれども、一息ついて、続けて祈りました。「どうか、スキピーも無事でいられますよう守ってください。アーメン」

 夕食が終わって家に帰る途中、車の運転をしていた次男が見つけました。「あっ、スキピー!」娘も大きな声をあげて駆けよって行きました。犬の方はというと、「帰って来たんだから叱らないで欲しい」という顔をしていたんだそうです。その牧師が思わず言いました。「いやぁ祈りがきかれると思っていなかったけれど、やっぱり神様はきいてくださったねぇ」。すると、それを聞いた息子たちが「何だよ、神学校の教授が疑いながら祈ったのかよ!」すると、その牧師は、「神様というお方は人間が疑いながら祈ったとしても聞いてくださるお方なのだ」と少し苦しい言い訳をしたのだそうです。

 そこで、左近先生はこんなことを言っています。「私にとっては小さな経験だったけれど、神様がこんな風に、いやこれの何百倍も、何千倍も心をくだいて私たちに接していてくださる」と。

 私たちはこのように大切なものを失うという経験をすることがあります。家族であったり、犬や猫であったり、あるいは大切にしていた物がある時壊れてしまうというような経験もあると思います。大切なものを失うと、そこに大きな穴があいてしまいます。そして、その穴はなかなか埋まりません。そして心にぽっかりできてしまった大きな穴を、何か他のもので埋めることで、その悲しみを乗り越えようとすることがあります。

 今日登場する「ザアカイ」という人は、この人自身が失われた人だったと言ってよいと思います。ザアカイというのは、「正しい人」という意味の名前です。元から悪い人だったということではなさそうです。この人は背が低い人でした。そのために、小さな頃から人に軽んじられてきたのかもしれません。そして、そのために何とか人を見返してやろうと人一倍努力したのかもしれません。実際、この人はエリコの町の取税人のかしらという立場につくことになりました。取税人というのは、ローマの役人になったということです。ユダヤ人でありながら、ローマに取り立ててもらうわけですから、他の人と同じようにやっていてはそういう待遇は得られませんし、中でもその取税人たちのかしらにまでのぼりつめたわけですから、並々ならぬ努力があったと思うのです。 (続きを読む…)

2025 年 8 月 31 日

・説教 ルカの福音書18章35-43節「見えるようになれ!」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 19:36

2025.08.31

鴨下直樹

⇒ 説教音声の再生はこちら

 今回、3週間ドイツに行かせていただきまして、本当に素晴らしい時間を過ごすことができ感謝でした。ドイツ留学から18年が経ちます。これまでも、教団の研修で2回ドイツに行かせていただいていますが、今回はスケジュールを自分たちで組むことができましたし、半分休暇も兼ねていたので、色々な懐かしい方々のところを訪問することができました。特に、マレーネ先生をはじめ、日本で長い間働いてこられた宣教師たちを訪ねることができたことは、本当に嬉しいことです。

 退職された宣教師の皆さんとお会いして驚いたのは、退職されてすでに20年以上たっているのに、皆さんまだ完璧に日本語を話すことができます。メツガー先生ご夫妻、クリステル・ホッテンバッハ先生、ヘルガー・タイス先生、エルケ・シュミッツ先生、クノッペル先生ご夫妻、そして、マレーネ・ストラスブルガー先生と本当に多くの宣教師たちと再会することができました。この間に亡くなられた先生もたくさんおられますが、改めて多くの方々の祈りと、具体的な支えによって、私たち同盟福音の教会は支えられてきたのだということに気づかされました。これらの先生方は、退職されてドイツにおられるので、なかなかお目にかかることはできません。けれども、来年で私たち同盟福音の教会は宣教70周年を迎えるとお伝えすると、皆さん日本に向けてのメッセージを届けてくださいました。

 今日の説教題を「見えるようになれ!」としました。、この宣教師の先生方の思いもそうですけれども、私たちは普段は目にすることができないもの、そういうものを無いものとして生活しています。けれども、実際には存在していて、そのことがとても大切であるというものがたくさんあります。

 今日の聖書の中に出てくるのは一人の目の見えない人の話です。以前は「盲人」という言葉を使いましたけれども、差別用語、不快用語にあたるということで、今の聖書ではそういう言葉は使わないようになりました。

 私が神学生の時のことです。奉仕をしていた教会に目の見えないKさんという方がおられました。役員もしておられ、とても熱心な方でした。当時私が祈祷会で聖書の話をする当番だったことがあります。その頃、教会では「聖歌」を使っておりましたので、その時の集会に聖歌の451番「神なく望みなく」という曲を選んで歌い始めました。教会生活の長いかたは皆さんよく歌ったことのある聖歌だと思います。こんな歌詞です。

神なく 望みなく さまよいし我も
救われて 主をほむる 身とはせられたり
我知る かつては 盲(めしい)なりしが
目明きとなり 神をほむ 今はかくも

 私はこの最後の繰り返しの歌詞である「我知る かつては盲(めしい)なりしが」というところまで歌って、しまったと思いました。

 この聖歌はKさんのいる時には選んではいけないと思いまして、すぐに聖歌の番号の横に大きなバツ印をつけました。それからは、私はこの451番を選ぶことはなくなったわけです。

 この「盲(めしい)」と言う言葉は、「盲人」よりも、もっと強い言葉のように思います。まさに差別用語です。「わたしはかつては目が見えない者であったが、今は目が開かれて見えるようになった」そう歌っています。けれども、Kさんは今も目が見えないままです。この歌を教会で皆が歌うことで、どれだけKさんを苦しませることになるのだろうかと思ったのです。 (続きを読む…)

2025 年 8 月 24 日

・説教 詩篇100篇「感謝の賛美」加藤愛神学生

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 00:38

2025.08.24

加藤 愛

2025 年 8 月 17 日

・説教 マルコの福音書7章1-13節「神のことばを無にしないために」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 00:54

2025.08.17

内山光生

柔和な者は【主】によってますます喜び、貧しい者はイスラエルの聖なる方によって楽しむ。  

イザヤ29章19節

序論

 ここ数年、ずっと猛暑が続いていて「今年は暑いね」という言葉をよく聞くことがあります。10年以上前までは、これ程の暑さが続くことはなかったように思うのですが、いつの間にか、気温が35度を超えるのは当たり前の事で、場合によっては38度や39度になることもある、そういう時代に入ってしまったようです。

 そういう中にあっても、今、私たち家族が住んでいる高天ヶ原団地では、朝夕は多少、気温が下がるようで、特に早朝に聖書を読んだり祈ったりするには、快適な環境です。暗い時間から、せみの声や鳥の声が鳴り響いていて、音楽をかけなくても、天然のBGMとなって心地よい気持ちで過ごしています。ただ太陽が出てくると、やはりエアコンのある部屋でないと厳しいと感じています。

 さて、聖書の話に進みたいと思います。前回の6章までは、イエス様の宣教活動が多くの町や村に伝えられて行き、特にゲネサレの地では、快く受け入れてもらった事が記されていました。一方、イエス様の教えを受け入れようとしない人々も存在しました。この7章からは、イエス様を受け入れない人たちとイエス様とのやり取りが記されています。

 これらの人々は、一言で言うと「神のことばを無にしていた」のです。イエス様は、彼らの本質を見事に見抜いた上で、強烈なパンチを浴びせたのです。しかしイエス様は、彼らが本当の意味で神様の教えがどういう事なのかを知ってもらいたいがゆえに、彼らの問題点をはっきりと指摘しているのです。

 人というのは、誰かから自分の問題点あるいは自分の所属しているグループの問題点を指摘されると嫌な感情が出てきます。そして、拒絶反応が起こる、そういう場合もあるのです。けれども、神の教えを無にした人生を送り続けているならば、それは、良くないことなのです。ですから、私たちクリスチャンは、自分の考え方や自分の行動が神のみこころにかなったものなのかどうかを思い巡らすことは、意味のあることなのです。 (続きを読む…)

2025 年 8 月 10 日

・説教 マルコの福音書6章53-56節「ゲネサレでのいやし」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 07:14

2025.08.10

内山光生

村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、人々は病人たちを広場に寝かせ、せめて、衣の房にでもさわらせてやってくださいと懇願した。そして、さわった人たちはみな癒やされた。  

マルコ6章56節

序論

 イエス・キリストが人々の前で宣教活動を開始した時、主イエスは二つの事をしました。一つは、福音を伝えることです。もう一つが、病人を癒したり、悪霊で苦しんでいる人々を悪霊から解放する事でした。つまり、主イエスは単なる知識を教えるのではなく、苦しんでいる人々の身体の問題や心の問題に対しても光を与えようとしたのです。

 また、イエス様はお一人で宣教活動をするのではなく、早い段階で弟子たちを選んで、弟子たちを引き連れて宣教活動をする方法をとりました。自分一人だけで福音を伝えるのではなく、福音を信じたその人を用いて、更に多くの人々に福音が伝えられていくことを願ったのです。

 もちろん、最初の頃はイエス様が中心となってみことばを語り、そして、癒しのみわざをなしてきました。けれども、ある段階になると、弟子たちを二人一組にして、多くの町や村に遣わしたのです。

 宣教活動を任せられた弟子たちは、あらかじめイエス様から権威を授けられました。それで、彼らもまた、力強くみことばを語ったり、癒しのみわざを行なうことができたのでした。すでにイエス様の力を体験していた弟子たちです。ところが、彼らはイエス様がどういうお方なのかを本当の意味では悟っていなかったのでした。弟子たちは色々な失敗を通してイエス様のことを深く知るようになっていくのです。

 このことから、人というのはイエス様が本当にどういうお方なのかを悟るためには、様々な経験が必要だということが分かってきます。単なる知識だけでは、イエス様がどれほど偉大なお方なのかについて知ることができないのです。また、弟子たちのように、たとえイエス様から権威が与えられたとしても、必ずしもイエス様の事を十分に知っているとは限らないのです。

 イエス様の弟子たちの信仰は、まだまだ未熟な状態でした。しかし、もっと不信仰な人々が存在しました。それは今日の箇所より少し前の箇所に記されています。たとえば、イエス様とその一行がゲラサ人の地に到着した時、悪霊で苦しんでいる人がいました。そこで、イエス様はその人から悪霊を追い出したのです。それで、その人は正気に戻り、イエス様によって苦しみから解放されたと受け止めたのです。本人は、イエス様に感謝をささげていました。ところが、ゲラサ人の地に住んでいた人々は、イエス様のことを警戒したのです。そして、イエス様に対して「出ていってください」と言ったのでした。その結果、ゲラサ人の地の人々は、イエス様の福音に触れる機会を失ったのでした。

 また、イエス様の故郷ナザレの町においても、その町の人々は「イエス様がすばらしいお方だ」といううわさを聞いていたにもかかわらず、イエス様を受け入れようとしませんでした。人々の心がかたくなになっていて、イエス様に心を開かなかったのでした。それで、不本意ながらも、イエス様はナザレの町では、大きなみわざを行なうことができなかったのでした。

 このように、イエス様が福音を伝えたとしても、すべての町や村がイエス様を歓迎した訳ではなかったのでした。一方、今日の箇所において、ゲネサレの地に住んでいる人々は、イエス様を歓迎し、また、イエス様の良い噂を広めていったことが記されています。この地の人々は、素直な心でイエス様の語る福音を受け入れ、更には、イエス様には癒す力があるという事を喜んで受け入れたのです。 (続きを読む…)

2025 年 8 月 3 日

・説教 ルカの福音書18章31-34節「隠された平和への道」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 10:02

2025.08.03

鴨下直樹

⇒ 説教音声の再生はこちら

 先週の日曜日の午後、教団役員研修会が岩倉教会で行われました。講師として、お茶の水クリスチャンセンターの責任を持っておられる山崎龍一先生をお招きしました。山崎先生は、お茶の水クリスチャンセンターという東京にある、大きなクリスチャンセンタービルの建て直しに尽力された方です。この山崎先生が『教会の実務を神学する』という書物を出されました。この本の中で山崎先生は「教会の実際の運営は、この世の常識で判断されていて、神様の思いから離れたところで判断しているのではないか?」という問題提起をしておられます。

 今回の役員研修会でもこの「教会の実務を神学する」というテーマでお話しくださいました。山崎先生が役員研修会でお話しになられたのは、主に役員として教会をどのようにして導いていくかという内容でした。この研修会でとても大切なこととしてお話しになられたのは、教会が何かを決めていく時に、どういう考え方で物事の判断をするかということです。そこでもお話しになられたのはやはり、聖書の考え方ではなくて、この社会の通念上、あるいは教会の役員たちがそれぞれ社会で経験して来たことに基づいて判断していないかという問題提起です。

 会社ならこうする。世の中ならこういう考え方のはずだ、あるいはお役所はこう判断するはずだということが、判断する時の基準になっているのではないかという指摘をされました。この指摘はとても意味のある問いかけです。今、社会が目まぐるしく変わっていく中で、パワハラ防止法だとか、働き方改革だとか、最低賃金の見直しなどで、行政から要請されて、教団のあり方を見直すような話し合いが続いています。ただ、こういうことをやり始めると、次第に行政の指導に従うのが当然であるという流れになってしまって、気づくと教会はいつの間にか、主が求めておられることとは違うことをさせられているということになりかねないわけです。

 世の中の声が大きくなると、聖書が言っていることが分からなくなっていきます。聖書が語るのは、前回の聖書箇所にもあったように、「それは人にはできないが、神にはできる」というようなこともあります。私たちが自分の力でできないことまで、主はお語りになられるお方です。この世の価値基準と、聖書の価値基準は同じところにはないのです。だから、簡単に聖書の言っていることが「分かる」とはならないことがあるのです。

 今日の聖書の話は、そういう意味では、主イエスが3度目の受難の予告をなさったことが記されています。そして、その結論は、弟子たちは34節で「話されたことが理解できなかった」という言葉で結ばれているのです。

 今日の聖書箇所は少し唐突に思えるかもしれません。ただ、前の箇所の続きとして読んでいくと話の流れが見えてきます。前回の聖書箇所では神の国に入るのは、自分の力ではなしえないというところでした。神の働きかけによって、もっとはっきり言えば神の恵みの御業によって人は救いに至ることができるのだと、この前の部分で主イエスは話されました。これは、言ってみれば主イエスご自身が神から遣わされて人々を神の国に入れるために来られたのだということを明確になさったことになります。

 そこまでお話しになられた後で、今度は弟子たちだけを「そばに呼んで」こっそりとお話しになられたのが、今日の箇所である受難の予告の知らせです。 (続きを読む…)

2025 年 7 月 27 日

・説教 ルカの福音書18章18-30節「他者のために生きる人生」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 08:22

2025.07.27

鴨下直樹

⇒ 説教音声の再生はこちら

 20世紀の終わりに活躍したドイツの神学者で、ディートリッヒ・ボンヘッファーというルター派の牧師がいました。この人は、ナチスドイツのあり方を批判して闘った牧師です。この牧師の言葉にこういう言葉があります。

「教会は他者のために存在する時に、はじめて教会である」

 このボンヘッファーの言葉は、教会がいつの時代にも聴き続けていなければならない大切な言葉です。

 ここで言う教会というのは、会堂のことや、組織のことではなくて、一人一人主イエスに呼び集められた人々のことを指しています。つまり、私たちの毎日の生活そのものが、そのまま教会の姿ということができます。この教会のあり方というのは、いつも社会のあり方とは正反対だと言えます。政治の世界も、経済の世界も、教育も、基本的にはすべて自己のためにあるものです。国の政治はその国のためになされますし、会社の経済は会社のためですし、教育も基本的には自己目的です。もちろん、どの分野も人のために、世のために貢献しようという部分はありますけれども、基本的には自分の方向に向いているのが、社会のあり方です。けれども、教会はそうではなく、他者のためにあるとボンヘッファーは言うのです。

 さて、今日の聖書の中には、一人の指導者が登場します。この人は主イエスにこんな質問をしました。18節です。「良い先生。何をしたら、私は永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。

 「どうしたら、この素晴らしいものを手に入れられるでしょうか?」とこの人は永遠のいのちを得るための方法を主イエスに尋ねています。この問いは、いつも姿を変えて私たちの願いとなっています。
「どうしたら健康が手に入れられるでしょうか?」
「どうしたらお金を儲けられるでしょうか?」
「どうしたら素敵な人と出会えるでしょうか?」
私たちの日常的な願い求めは、いつもここにあります。
「どうしたら経済的に楽に生活できますか?」
「どうしたら病気を気にしないでいられますか?」
私たちはこのような問いを持ちながら、その問いの答えを与えてくれる人を探しています。

 すると、ある人は答えます。
「あなたの家の方角が悪い、運気が悪いから向きを変えなさい」
「名前の画数が悪いから、名前を変えてしまいなさい」
「あなたの子育ての仕方が悪い、あなたのお金の運用の仕方が間違っている、あなたの食べている食品が悪いから、もっとこういうものを食べた方が良い・・・」

 そうして私たちは便利になったインターネットやSNSを見ながら、いつもどこかに新しい情報がないかと、ショート動画を探しているのかもしれません。

 けれども、それらの中に込められている答えは、すべてこういうことです。「それは、今あなたの中にありません!」「あなたは答えを持っていないのです!」だから、もっと新しい情報が必要です。もっとこうするべきです。もっと、もっとと、次々に新しい情報に飲み込まれて疲れてしまっているのに、それを止めることができないでいる。私たちは、必要なことを求めているのに、いつの間にかそれらに支配されてしまって、平安を失い、疑心暗鬼になってしまうのです。

 主イエスは、このような問いに対して何とお答えになられたでしょうか。見てみたいと思います。主イエスはこの指導者に対して、先ずこう答えられました。あなたは今、良い先生と言いましたが、「良い」と呼べるお方は「神以外には誰もいませんよ」と。 (続きを読む…)

2025 年 7 月 20 日

・説教 マルコの福音書6章45-52節「主イエスに気づけなかった弟子たち」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 07:05

2025.07.20

内山光生

みなイエスを見ておびえてしまったのである。そこで、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。  

マルコの福音書6章50節

序論

 一般的に言うと、職場における上司や経営側に立っている人の視点から見れば、物事をすぐに吸収する人、仕事を覚えるのが早い人の方が好まれる傾向があるでしょう。また、学校においても、勉強ができると先生や親から褒めてもらえる、そういう現実があるかもしれません。

 少し前までは、古本屋に行くと「効率のいい仕事の仕方」とか「勉強ができるようになるための秘訣」といった種類の本がたくさん並べられていて、私自身もそのような本を手に取って、参考にしていました。けれども、今の時代では、インターネットのユーチューブを見ると、分かりやすく、また、すぐに効果がでるような仕事の仕方や勉強方法が無数にあふれています。ただ、あまりにも情報量が多いので、どれが自分にあっているのかが分からなくなり、無駄な時間を過ごすことになる事もあるようです。また、事実と異なっていたり、いいかげんな情報も含まれていますので、それらを判別するためには、ある程度の経験が必要となります。

 多くの人々は、なるべく早く物事を吸収したいと願っていて、そして、そういう事がうまくできるのが良いことなんだ、そういう価値観の影響を受けているのです。それゆえ、そのような基準で考えると、確かに、職場などにおいても、言われたことを素直にすばやく吸収していく人が良い評価を受けやすい、そういう現実があるのです。

 ところが、私たちの信仰について考えるとき、必ずしも、この世の基準が当てはまるとは限らないのです。誤解を恐れずに言うと、聖書を効率よく読んでいき、そこに書かれていることを吸収するのが早ければ、それがいいことなんだ、とは言えないのです。というのも、ゆっくりかもしれないですが、聖書の教えを着実に実生活につなげていく、そういうタイプの人もおられますし、年齢によってはみことばを吸収する速度が早い時期とそうでない時期があるからです。

 また、人間というのは、そう簡単に自分の中にある罪深い言動が変わっていく訳ではないのです。自分では良くないことだと分かっていても、ついつい、家族に対して、冷たい言葉が出てきてしまったり、相手が不快に感じる言動をしてしまう、誰もがそういう弱さを持っているのです。いや、家族だからこそ、自分の弱さが出てしまうのでしょう。

 実は旧約時代の信仰の父と呼ばれているアブラハムでさえも、神様に出会った最初の頃は決して、立派な信仰者とは言えなかったのです。アブラハムが何度も何度も同じ過ちを犯した事が聖書に記録されているのです。例えば、外国の地において、自分たちの命の危険が迫ってくると、自分の妻のことを「あれは妹です。」とごまかしたのでした。しかも、同じような事を2回繰り返したのでした。ところが、神様は、そのようなアブラハムが年老いた頃には、立派な信仰者へと成長させてくださったのです。

 同じように、イエス様の弟子たちも、何度も何度も、失敗を繰り返したのです。更には、イエス様が捕らえられた時に、皆、一斉にイエス様の元から逃げ出したのです。けれども、イエス様はそんな弟子たちに怒りをぶつけたり文句を言ったりしませんでした。むしろ、彼らが立ち直る事ができるよう祈ってくださったのです。それらの事実を通して、私たちは、神様のふところの大きさに気づかされるのです。

 この世の基準では優等生タイプの人が評価されやすい傾向があります。けれども、神は、霊的な成長が遅い人であっても、決して見捨てないお方なのです。また、たとえ失敗を繰り返す人であっても、何度も何度も赦して下さるお方なのです。 (続きを読む…)

« 前ページへ次ページへ »

HTML convert time: 0.242 sec. Powered by WordPress ME