2024 年 9 月 1 日

・説教 ルカの福音書13章22-30節「主イエスという門をくぐって」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 06:52

2024.9.1

鴨下直樹

⇒ 説教音声の再生はこちら

 9月に入りました。私たちの教会では夏休みの期間、「信徒交流会」という名前で、毎週行っている水曜と木曜の祈祷会の時間に、信徒の方々に証しや、聖書研究や、さまざまな発題をしていただいております。今年は、7月の後半から始まり、10回10名の方が発題してくださいました。毎週、とても多くの方が参加してくださって、水曜と木曜の参加者を合わせると毎週20人以上の方の参加がありました。

 今、笠松教会と兼牧をしていることもあって、合同で祈祷会をしますと笠松教会の方がびっくりします。どうしてこんなに大勢の参加があるのかと質問が出るのです。一番の理由は楽しいからだと思うのです。発題してくださる方の内容に興味があるということもありますし、また、参加者の皆さんが思いのままに発題されるその発言を聞くのが面白い、あるいは、その発言に対して自分たちの思いを好きなように話せるから楽しいということでもあると思います。みなさん、かなりリラックスして参加してくださっていますから、時折びっくりするような発言を耳にすることもあります。それも含めて楽しいのだと思うのです。

 そう考えながら、今日の聖書を読みますと主イエスの周りにいる人々も同じようであったことが分かります。今日の、聖書箇所であるルカの13章23節にこんなことが書かれています。

すると、ある人が言った。「主よ、救われる人は少ないのですか。」

 この質問をした「ある人」というのが弟子なのか群衆だったのかも分かりませんが、かなり直球な質問です。「救われる人は少ないのですか?」こういう質問を主イエスにできるというのも、やはり何でも言える環境であったのだろうということが分かります。

 この12章から主イエスは群衆や、弟子たちといろんな話をされています。この前のところでは安息日に癒しの出来事をなさって、そこで「神の国」の話をされたばかりです。神の国というのは、小さいもの、弱いものであっても、その人から神は大きなみ業をなさるのだという話をされたばかりでした。そんな中で、「主よ、救われる人は少ないのですか?」という問いかけがあったのです。

 私は、祈祷会の時でもそうなのですが、いろいろな質問が出て来る時にどうしてその質問がでてくるのかという、その背後にある思いに目をとめることが大切だと考えています。そうでないと、質問の意図が読めなくて、質問をした人の願っていることと違うことを答えてしまうことになってしまうからです。

 この場合、質問をした人は何を思ってこういう質問をしたのでしょうか。考えられる一つの可能性は、「自分は神の国に入れてもらえないのではないか?」と考えたのではないかということです。こういう考え方は、私たちでもよく理解できることだと思います。自分の信仰と他の人の信仰を比較する時に、こういう思いというのはどうしても出てきてしまうのです。

 この出来事の前に主イエスは、「神の国はからし種に似ている」と言われました。あるいは「パン種に似ている」とも言われました。小さなものであっても、そこから大きな実りをもたらすと言われた主イエスの話を聞いて、ひょっとして自分の中には「からし種」ほどの信仰もないのではないかという不安を抱いた可能性があるのではないかと思うのです。 (続きを読む…)

2024 年 8 月 25 日

・説教 ピリピ人への手紙4章4-7節「三つの証し」田中啓介師

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 09:24

2024.8.25

田中啓介


2024 年 8 月 18 日

・説教 マルコの福音書2章23-28節「人の子は安息日にも主です」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 09:24

2024.8.18

内山光生


序論

 我が家では、毎年、夏になると私の実家の三重県桑名にあります「多度滝」に泳ぎに行くのが恒例となっています。そして先週、実家に行く次いでに泳いできました。

 そこは川がせき止められて泳げるようになっていて、「天然プール」と呼ばれています。、プールと言っても深さがせいぜい80センチ程度で、どちらかというと小学生、あるいは幼稚園児・保育園児にちょうど良い深さとなっています。

 その天然プールの特徴は、水温が低いという事です。だいたい20度くらいの水温でしょうか。最初、水につかる時、とても冷たいと感じるのですが、しばらくすると心地よい感じとなっていくのです。だから、猛暑と呼ばれるここ数年、ますます、利用客が増えているようです。ちなみに、入場料は無料ですが、駐車場代が1000円かかります。

 芥見からは2時間近くかかるので遠いと思いますが、もしも三重県方面に行くことがあれば、ぜひ、お出かけください。

I 主イエスの弟子たちの行動を非難するパリサイ人(23~24節)

 では23~24節から見ていきます。

 23節で、イエス様の弟子たちが麦畑で麦の穂を摘んでいました。しかしながら、その日は安息日だったのです。当時のイスラエルでは、他人の畑であっても、道具を使わなければ、たとえば鎌などを用いなければ、多少の麦ならば摘んでも良いとされていました。それは、貧しい人を助けるという教えがイスラエル全体に広まっていたからです。

 ですから、弟子たちは他人の麦畑で麦の穂を摘んでいましたが、それ自体は悪いことをしている訳ではありませんでした。問題なのは、「安息日に仕事をしてはならない」という教えをどのように理解しているかでした。

 パリサイ人たちは、イエスという人物が律法の解き明かしをしていて、人々から良い評判を得ていることにいらだっていました。おそらく、同じ宗教家としての嫉妬心がでてきたのでしょう。そして、イエス様の行動に何か問題を見つけ出して、文句を言ってやろうと思っていたのです。ところが、イエス様の行動には、なかなか落ち度を見出すことができません。それで、イエス様の弟子たちの行動に目をつけたのです。

 推測ですが、イエス様の弟子たちが安息日に麦の穂を摘んでいたのは、今回が初めてではなく、何度も何度も繰り返していたと思うのです。そして、すでにパリサイ人たちは、そのことを知っていたのでしょう。それで、彼らは安息日に主イエスの弟子たちが麦の穂を摘んでいるのを見つけるや否や、イエス様に対して文句を言ったのです。

 「なぜ彼らは安息日にしてはならないことをするのですか。」と。

 当時のパリサイ人たちは、旧約聖書の教えだけでなく、彼ら独自のルールを作っていました。そして、安息日に具体的に何をしてはならないかを決めていました。ですから、彼らにとっては、安息日に麦の収穫をすることは禁止事項であり、大いに問題があると理解していたのです。一方、イエス様の弟子たちは、安息日であっても、お腹がすきます。だから、手で麦の穂を摘む程度ならば、ルール違反ではないと考えていたのでしょう。もしも、その行動がルール違反と分かっていたならば、弟子たちは安息日に麦の穂を摘まなかったと思うのです。つまり、弟子たちは悪いことをしているという意識がなかった一方、パリサイ人たちにとっては、明らかにルール違反であり、両者の考えが対立していたのです。

 そこでイエス様はパリサイ人たちの文句に対して反論していきます。  (続きを読む…)

2024 年 8 月 11 日

・説教 マルコの福音書2章18-22節「新しい皮袋に」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 00:56

2024.8.11

内山光生


序論

 7月末から8月1日(木)にかけて、私たち家族は大阪に行きました。一番の目的はUSJに行くことでした。当初から、夏は暑いので覚悟が必要だと思っていましたが、やはり暑かったです。例えば、アトラクションで順番待ちをしている時は、まさに我慢大会のような苦しさがありました。一緒に並んでいる人の顔色を見ると、たいていの人が疲れ果てた雰囲気を醸し出していて、それを見ると更に疲れが出てくるのでした。しかしそれでも、順番がまわってくると、その暑さがいっきにふきとび、思う存分、楽しむことができました。

 いわゆるインバウンドで、大阪の道頓堀周辺は外国人観光客でにぎわっていました。昔、20代の頃、道頓堀を散策した事がありましたが、これほどまでに多くの人が集まっているのは初めての体験でした。

 普段、芥見周辺で過ごしている私にとっては、かなり刺激のある夏季休暇となりました。

I 断食についての質問(18節)

 18節から順番に見ていきます。

 旧約聖書の時代では、しばしばイスラエルの民は断食をしていました。なんのために断食をしたのかというと、「贖罪の日」とよばれている日に、罪を悔い改める行為として、民全体で断食を行ったのです。

 また、イエス様の生きている時代においては、それ以外に、パリサイ人たちや宗教熱心な人々は、週に二度、月曜日と木曜日に断食を行っていました。

 さらにまた、バプテスマのヨハネやその弟子たちは、神のさばきを免れるために断食をして神に祈っていたのです。

 断食をすることは、決して悪いことではありません。しかし、何の目的で断食をするのか、そこはよく考えた方が良いと思うのです。

 バプテスマのヨハネやその弟子たちは、決して、イエス様に敵対している立場ではありませんでした。けれども、イエス様とその弟子たちが取税人たちと一緒に飲み食いしているのを知って、疑問に感じたのです。

 バプテスマのヨハネやその弟子たちは、自分たちが、一生懸命断食をしながら罪のさばきから逃れるために神に祈りをささげていました。一方、イエス様とその弟子たちは、自分たちの行いとは正反対の事をしていました。果たして、イエスというお方は、本当に救い主なのだろうか。そのような疑問が出てきたのです。

 また、イスラエルの人々は、パリサイ人と呼ばれる律法の指導者たちから、週に二度、断食するようにと言われていました。そして、実際にパリサイ人たちは忠実に断食をしていたのです。

 見た目だけで判断すれば、バプテスマのヨハネやその弟子たちやパリサイ人たちの方が、明らかに宗教熱心だと言えるでしょう。

 イエス様の良い評判は、かなり広い地域まで広まっていました。しかし、イエス様とその弟子たちの行動を見て、疑問に思う人たちが現れ、イエス様に直接質問したのです。

 「なぜあなたの弟子たちは断食をしないのですか。」 (続きを読む…)

2024 年 8 月 4 日

・説教 ルカの福音書13章10-21節「解放の主」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 00:26

2024.8.4

鴨下直樹

⇒ 説教音声の再生はこちら

 私たちは、毎週、毎週こうして礼拝に集っています。私たちは何を期待して、礼拝に集うのでしょうか。私は名古屋の東海聖書神学塾で毎週礼拝学を教えているのですが、いつもこの問いが頭に浮かんできます。何を期待して礼拝に集うのか? 私たちは神に何を期待しながら毎週こうしてみ前に集っているのでしょうか。

 今日の聖書の箇所で、18年もの間、腰が曲がってしまったまま、安息日に会堂に集い礼拝をささげていたであろう一人の女性の姿を見ることができます。果たして彼女は何を期待して礼拝に集っていたのでしょうか。

 これは、私の想像ですけれども、ひょっとすると彼女は、18年間、自分の体のことではなく、ただ神のみ言葉を聴くことを期待して、来る日も来る日も、会堂で神のみ前に集っていたのではないかと思うのです。この人は、主のみ前に出る喜びを知っていた人ではなかったか。きっとそうであったのではないかと、私には思えるのです。そして、この女の人のことを、見てきた周りの人は、彼女のことをどう思っていたのでしょうか。

 ここで彼女のことを「十八年も病の霊につかれ」と10節に書かれています。この病は、悪霊による働きだというのです。この「病」という言葉はギリシャ語で「アステネイア」という言葉なのですが、この言葉は「病」のほかに「弱さ」という意味もある言葉です。ということは、「病の霊」、というのは「弱さの霊」とも言うことができるわけです。

 そうなると、これはもう立ち所に他人事ではなくなります。自分の「弱さ」に対して悪霊がそこに付け込んでくるというのです。そうなると、私たち自身、実感があるのではないでしょうか。私たちは自分の弱い部分に気づきながらも、同じことで何度も、何度も同じ過ちを犯してしまうことがあるのです。たとえになっているかどうか分かりませんが、私の場合、車でトンネルを走っていると、気がつくといつも速度オーバーをしてしまっています。そのように、ごく日常的に、正しくないと分かっていても同じことを繰り返してしまうのです。そこに、私たちの弱さがあります。今週も愛することができなかった。振り返ってみると今週もまた、この自分の弱さが克服されていない。そんなことを繰り返しながら、礼拝に集うのです。悪に立ち向かう強さがないのです。弱さの霊に支配されているとしかいえない状況は、誰にだってあるのです。そのようにして、もう18年の間、いやそれ以上に礼拝に通い続けている。そうであるとすれば、これはもはや私たち自身の物語です。

 私ごとで恐縮ですが、私自身も腰の骨が曲がってしまっていて、来月手術することになりました。見た目は真っ直ぐに見えても、隠れたところで曲がっているわけです。見えている部分だけではないのです。体はまっすぐかもしれません。けれども、見えないところがまがっている、心が曲がっていく、ずれていってしまう。そうするとまっすぐに伸ばせなくなるのです。まっすぐがどういう状態だったかさえ分からなくなるのかもしれません。そうなると、自分の曲がってしまった弱さ、脆さに悪魔につけ込まれて、何度も同じような過ちを繰り返してしまうという経験を、私たちは繰り返してしまうのです。この、弱さのために、罪のゆえに、曲がってしまったところを持つ私たち。そのような思いを持っている私たちが、毎週礼拝に集ってくるのです。そして、そこで、主イエスは突然私たちに声をかけられる。「あなたの弱さは癒された」「あなたの病は癒された」と宣言してくださるのです。ここにこそ、礼拝に集う私たちの喜びがあるのです。 (続きを読む…)

2024 年 7 月 28 日

・説教 ルカの福音書13章1-9節「神の裁きは因果応報なのか?」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 07:11

2024.7.28

鴨下直樹

⇒ 説教音声の再生はこちら


 今日からルカの福音書の第13章に入ります。今日の説教題を「神の裁きは因果応報なのか?」としました。今日は、このところから「因果応報」という考え方について、少し考えてみたいと思います。

 私が神学生の時のことです。名古屋の金山にある神学塾の建物は、当時は今の場所とは少し違うところにありましたが、神学塾の周りには駐車場があまりありませんでした。また、当時は神学生で経済的に苦しかったこともあって、神学塾へ車で行くと、駐車場に停めないで、塾の建物のすぐ隣の道路に停めるということがありました。そんなある日、とうとう駐車違反で車をレッカー移動されてしまったことがあります。

 駐車違反だけなら反則金だけですみますが、レッカー移動されますと罰金が跳ね上がります。だいたい当時で4万円弱。お金が無いから路駐するわけですから、4万円も払えるわけがありません。私が神学塾でそのことを嘆いていると、友達の塾生が私にこう言いました。

「やっぱりねぇ、日頃の行いが悪いからだよ」と。

 そこで、私がこう言い返しました。

「クリスチャンでもやっぱり日頃の行いは大事なのかなぁ」と。

 その友人は、私の一言でようやく、自分が変なことを言ったと気付いたようです。いくら神学生でも、自然に、「日頃の行いが悪いから」というセリフが出てしまうわけです。そのくらい、私たちには「因果応報」という考え方が体に染み込んでいるようです。

 今日の聖書は、まさにこのことを問いかけているところです。まず、1節に「ちょうどそのとき」とあります。12章の話を主イエスが弟子たちにしていた「ちょうどそのとき」です。

 「そのとき」というのは、主イエスが弟子たちに神の裁きの厳しさを語っていた、まさにその時に、何人かの人々が主イエスの近くにやってきて、一つの報告をしたのです。聞くところによると、エルサレムの神殿で捧げ物をしていたガリラヤ人が、ユダヤの総督ピラトに殺害されて、神殿で捧げ物にしていた血と、殺害された人々の血が一緒にされたという事件が起こったようなのです。

 これは、ガリラヤの人々のみならず、ユダヤ人たちには衝撃的なニュースだったはずです。今で言えばトップニュースが飛び込んできたわけです。

 そこでそのニュースをもたらした人々は主イエスにこんな質問を投げかけたようです。2節で主イエスはこう言われました。

「そのガリラヤ人たちは、そのような災難にあったのだから、ほかのすべてのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったと思いますか。」

 主イエスはここで人々の顔を見ながら、その思いを代弁したわけです。この神殿で捧げ物をしていたガリラヤ人たちは、信仰的には熱心な人々だったはずです。熱心にガリラヤから、わざわざ神殿のあるエルサレムまで訪ねて捧げ物をしたのに、その時に、ピラトの事件に巻き込まれるなんて、災難もいいところだ。けれども、きっとこの人たちは何か悪いことをしていた人であったに違いない。多くの人々はそう考えていたと思われるのです。

 私自身も、レッカー移動された車を取りに行く時に、心の中で同じようなことを考えました。「あれ?俺、何か悪いことをしたかなぁ」そんな考えが、一瞬私の頭に思い浮かんだのです。

 皆さんはいかがでしょうか。自分の身に何か不慮の出来事が起こると、何か悪いことをしてしまったから、こういう出来事が起こったのではないかと考えてしまうことがあるのではないでしょうか。

 さらに、主イエスはもう一つの出来事を例にあげます。4節ではシロアムの塔が何らかの原因で倒壊して、その下敷きになって18人の人が亡くなったという例をあげたのです。それが嵐や地震というような「自然災害」だったのか、「人為的なミス」なのかは分かりませんが、そういう時の犠牲になってしまう人というのが少なからずあるわけです。

 今でも街中で倒れたクレーン車の下敷きになってしまったとか、古くなった建物の壁が剥がれ落ちて犠牲者が出たとかいうニュースを、私たちは耳にすることがあります「不慮の事故」としか呼べないようなものがあるのです。

 そういう出来事で犠牲になった人は、「因果応報」とか、「神さまの罰(バチ)が当たったのだ」と言われてしまうと、たまったものではありません。けれども、時としてそんな考えが頭に思い浮かぶこともあるわけです。

 そこで、主イエスは何と言われたかというと、3節と5節で主イエスは同じことを2度繰り返してこう言われました。

「そんなことはありません。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」

(続きを読む…)

2024 年 7 月 21 日

・説教 マルコの福音書2章13-17節「医者を必要とするのは病人」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 07:38

2024.7.21

内山光生


序論

 昨日行われた子ども食堂は、97名の参加がありました。毎回、たくさんの方々が芥見教会の子ども食堂に来てくださっていることを神様に感謝いたします。

 子ども食堂では、毎回、メニューが違っていて、よく工夫されているのが分かります。準備をして下さっているボランティアの方々に感謝をいたします。

 小学・中学・高校といよいよ夏休みに入ったと思います。今週は、猛暑日が続くと予報されているので、外で遊ぶよりも室内のクーラーのきいた部屋で過ごすのが良いかもしれません。夏バテにならないよう私も気をつけたいと思います。では今日の箇所を見ていきましょう。

I 召しに応じたレビ(13~14節)

 13~14節を見ていきます。

 この前の箇所は、イエス様がカペナウムの家で中風の人を癒した出来事が記されていました。そして今日の箇所13節では、イエス様はカペナウムの町を出てガリラヤ湖のほとりへ向かった事が記されています。

 イエス様の評判はガリラヤ地方全体に広められていました。それで、群衆がイエス様のもとに集まってきたのです。そして、イエス様は群衆に福音を宣べ伝えたのです。

 14節に移りますと、恐らくカペナウムから割と近い場所と思いますが、イエス様は、レビという取税人が座っているのを見つけました。レビとは、あの12弟子の一人、マタイの事を指しています。恐らく元々の名前がレビであって、弟子になった時、マタイという名前が与えられたのでしょう。

 レビすなわちマタイは、取税人という仕事をしている人です。ですから、最初の弟子に選ばれたペテロたちとは違って、人々から嫌われていた職業の人だったのです。

 取税人は、ローマ帝国の手下となって同じユダヤ人であるにもかかわらず、同胞のユダヤ人から法外な税金を取りたてていました。ですから、今で言う税務署とは、やっている事が異なっていたのです。当時の取税人は、例えば、本来1万円の税金を集めればよかったところを、その何倍も、つまり、2万円とか3万円を集めていたと言われています。そして、1万円だけをローマに収め、残りを自分のふところに入れていたのです。

 こんなおかしな事が、どうして許されるの? と疑問に思うかもしれません。しかし、当時のローマ帝国は、自分たちにきちんと税金を収めてくれれば、余分に税金を集めていようが見て見ぬふりをしていたのです。

 当時の多くのユダヤ人たちは、取税人を嫌っていました。そして、彼らと仲良くすることはありませんでした。

 にもかかわらず、イエス様は取税人レビに声をかけたのです。「わたしについて来なさい」と。ここに人間の感覚と神様の決断とに大きな違いがあるのです。

 ある人々は、イエス様の弟子となって福音を伝える働きをするのならば、人々から信頼されている仕事についている人がいいに違いないと思うかもしれません。確かに、そういう場合もあると思うのです。しかし、神様が誰を招くかに関しては、私たちの常識や感覚とは異なっているのです。

 レビは、すでにイエス様の評判を聞いていたと思うのです。もしかしたら、直接、イエス様の話を遠くから聞いていたかもしれません。あるいは、間接的だけれども、誰かから良いうわさを聞いていたかもしれません。しかし、そんなお方が自分に声をかけて下さるなんて、驚くべき事であったに違いありません。 (続きを読む…)

2024 年 7 月 14 日

・説教 マルコの福音書2章1-12節「罪を赦す権威」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 06:37

2024.7.14

内山光生


序論

 最近、蝉の声がよく聞こえてくるようになりました。すでに何度か、真夏日となった日がありますが、もうすぐ梅雨が明けて、いよいよ夏本番を迎えようとしています。

 私は4月から芥見教会で奉仕をさせて頂いていますが、あっという間に4か月目となっていることに驚きを覚えます。この調子だと、すぐに1年が過ぎ去るのではないかと感じるのです。

 では順番に聖書を見ていきましょう。

I 中風の人が運ばれてくる(1~3)

 1~3節を見ていきます。

 前回の箇所は、ツァラアトに冒されていた人がイエス様によって癒された出来事が記されていました。それから数日経ってイエス様はカペナウムに戻ってきました。

 カペナウムの町の人々は、イエス様の評判を聞いていたものの、まだ、直接イエス様に会っていない人々が大勢いたと思われます。あるいは、もう一度、イエス様に会いたいと思っていた人もいたと思うのです。それで、イエス様が滞在している家に、多くの人々が押し寄せたのです。

 イエス様が滞在している家の中には、大勢の人が集まりました。更には、戸口のところまでびっしりと人で隙間がないほどになりました。そして、イエス様は、人々に向かって福音を宣べ伝えたのです。

 イエス様が地上世界に遣わされた目的は、あくまでも人々に福音を伝えることです。とはいえ、病で苦しんでいる人を癒したり、悪霊によって苦しんでいる人を解放したりして、助けが必要な人々に対して愛の御手を差し伸べました。

 この時も、イエス様は福音を伝えていたのですが、中風の人が連れてこられたと記されています。中風とは、現代の医学において、恐らく、脳卒中のような病だと考えられます。今の時代においても、脳卒中になると、後遺症が残って、身体の一部分が不自由になることがあります。そうなると、一人で生きていくことが難しくて、誰かの助けによって生活が成り立つのです。

 ここで登場してくる「中風の人」も、自力ではイエス様の元に歩いていくことができない人でした。それで、この人の家族あるいは仲間など四人の人の助けによって、イエス様に治してもらおうとやってきたのです。この姿を通して、この中風の人が周りの人々からどれ程大切にされていたかを垣間見ることができるのではないでしょうか。身体の不自由な人をなんとかして助けたい、その一心で、イエス様が戻ったとの情報が入るや否や、イエス様の元にやってきたのでしょう。 (続きを読む…)

2024 年 7 月 7 日

・説教 ルカの福音書12章54-59節「主はどこを見ておられるのか?」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 06:04

2024.7.7

鴨下直樹

⇒ 説教音声の再生はこちら

 今日の聖書の箇所はルカの福音書の第12章の最後のところです。この12章は主イエスが群衆や弟子たち、パリサイ人たちに向けてお語りになられた警告の言葉が次々に語られているところでした。そして、その結びの箇所が今日の54節から59節です。

 前回の聖書箇所では、主イエスを受け入れると、分裂が起こるという話をなさったところまでお話ししました。この12章は、主イエスの厳しい言葉が続きます。警告の言葉ばかりですから、厳しい言葉と感じるのは当たり前と言えばそうなのかもしれません。「警告の言葉」というのはどうしても強い言葉になります。けれども、その背後にあるのは、主イエスの深い愛情です。こういう厳しい言葉を聞くときには、私たちはその背後にある主イエスの深い愛情を受け止めることが大切です。

 しかし、実際に警告の言葉を耳にする時というのは、なかなかその背後にある愛情を受け止めるまでの余裕がありません。私も、子どもの頃は度々父や母から厳しい警告の言葉を投げかけられ続けていました。「ちゃんと勉強しないと、ろくな大人になれないぞ」とか、「宿題をちゃんと出すように」、「忘れ物をしないように」という言葉などは、本当に耳にタコができるほど聞き続けてきました。親になってみると、そういう言葉を親は本当に子どものことを思って言っているのだということが分かります。けれども、子どもの頃は「うるさいなー、毎日毎日飽きもせず同じことばっかりでうんざりする」と内心思っていました。

 「親の心、子知らず」と言いますが、まさにそういうものだと思います。この芥見教会でも、子どもたちが何人も礼拝に出ていますが、厳しい言葉の背後にある親の愛情を受け取って欲しいなと願っています。もちろん、それは、子どもたちだけではありません。主イエスの言葉を向けられている私たちも同様です。

 厳しい言葉を毎週次々と説教しなくてはならないと、私自身もため息が出そうになることがあります。けれども、こういった厳しい箇所こそ、私たちは、心を開いてよく聞き、その背後にある主イエスの愛情を受け止める必要があるのだと思うのです。

 さて、今日の箇所も、主イエスはここで二つのことを話しておられます。前半は、54節から57節です。ここでは、あなたがたは天候の見分け方の知恵をもっているのに、自分のための大事は判断をしないで、時代を見極めることができないのは何故かと主イエスは問いかけておられます。後半の58節と59節では、自分が隣人から何か訴えられるようなことがあるときには、裁判が始まる前に、和解しておくようにという勧めがなされています。そこまでは比較的簡単に理解できます。けれども、ここで主イエスが何を意図されているかを掴もうと思うと、少しわかりにくく感じるかもしれません。

 今日の部分の話の聞き手は「群衆」です。54節で「主イエスは群衆にもこう言われた。」と書かれています。その前にされていたのは、ペテロをはじめとする弟子たちへの教えでした。ここで主イエスはペテロの質問に答えて弟子たちに心構えを教えられた後で、群衆にも同じように終わりの時の心構えをお話ししておられるわけです。

 そこで、人々に向かって主イエスが言われるのは「これはあなたがたにとって大切な問題なのだから人任せにしないで、自分で判断しなさい」というメッセージです。 (続きを読む…)

2024 年 6 月 30 日

・説教 ルカの福音書12章49-53節「主がもたらすもの」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 00:47

2024.6.30

鴨下直樹

⇒ 説教音声の再生はこちら


 間が3週間空きましたが、今日は久しぶりに、こうしてまた芥見教会の皆さんと共に、み言葉を聞くことができることを嬉しく思います。今、私たちはルカの福音書の第12章から、み言葉を聞いています。

 ルカの福音書の第12章というのは、主イエスが群衆たちや弟子たちに語り掛けられた教えのみ言葉が次々と語られているところです。そのほとんどは「警告の言葉」と言っても良いような内容ばかりです。

 今日の聖書は、少し、というよりは、かなり衝撃的な言葉が記されています。49節には「わたしは、地上に火を投げ込むために来ました。」とあります。また、51節には「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思っていますか。そうではありません・・・むしろ分裂です。」とも書かれています。

 こういう聖書箇所を聞くだけでも、少し気持ちが重たくなる思いになります。主イエスは、私たちに「平和をもたらすために」あるいは「愛や幸いをもたらすために、おいでになられた」というイメージがあります。また、いつもそういうメッセージを聖書から受け取っていますから、今日の箇所のような言葉を目にすると、少なくとも私たちは、あまり良い気持ちにはなりません。私たちを不安にするような言葉がいくつも続いているからです。

 たとえば、初めに出てくる「地上に火を投げ込む」という言葉を聞くと、そこからどうしてもイメージするのは「神の裁き」です。皆さんの中でも家族の中で、自分が最初にクリスチャンになったという方は、51節以降にある「分裂」の話も、ある程度同じような経験をされている方があると思います。教会に行くようになると、家族から教会に行くことを反対される。あるいは、教会の話をするだけでも、家の中の雰囲気が悪くなってしまうというような経験をされたことのある方も少なからずおられるのだと思うのです。ですから、聖書がここで言おうとしている事は何となく理解できるのですが、それではあまりにも慰めがない、福音の言葉が響いてこないという思いになるのかもしれません。

 主イエスはここで私たちに、いったい何をお語りになろうとしておられるのでしょうか。

 49節を見てみます。「わたしは、地上に火を投げ込むために来ました。火がすでに燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。」とあります。主イエスはここで、火が地上に燃えていてほしいと願っておられます。けれども、地上では主イエスが願っておられるような火が燃えていないというのです。だから、この地上に火をもたらしたいと仰っています。ということは、主イエスがここで仰っている「火」というのは、「裁きの火」のことではなさそうです。そうすると、この「火」は何のことを指しているのかを考える必要があります。 (続きを読む…)

« 前ページへ次ページへ »

HTML convert time: 0.214 sec. Powered by WordPress ME