「礼拝説教」カテゴリーアーカイブ

・説教 マルコの福音書6章14-29節「悲しみを通して教えられる事」

2025.06.15

内山光生

主の聖徒たちの死はの目に尊い。  詩篇119篇15節

序論

 今日は父の日です。普段、ご家庭において父親の存在がどれ程、感謝に値することなのかを考えることが少ないかもしれませんが、年に一度の父の日は、しっかりとお父さん方に感謝の言葉をかけて頂けると良いかと思います。

 さて、今日の箇所には「バプテスマのヨハネが殺害された事」について記されています。バプテスマのヨハネは、旧約時代の最後の預言者と呼ばれています。そして、イエス・キリストが人々の前で福音宣教の働きをする少し前に、イエス様の道備えをした預言者です。人々からも尊敬されていて、力強く神様の教えを人々に伝えた立派な預言者だったのです。ところが、ヨハネは悲しい最期を遂げたのでした。

 人は誰かが死んだという知らせを聞くと、悲しい気持ちとなります。私たちは、人の死に対して悲しみや辛い気持ちになってしまうのです。それが、たとえ昔の時代の人の話であったとしても、やはり、悲しい気持ちが出てくるのです。

 聖書を読む多くの人々は、バプテスマのヨハネが殺されたという箇所を読む時、悲しい気持ちや複雑な感情を抱きます。そして、「神様、なぜこんな酷い殺され方をしたのですか。その理由を教えてください。」との気持ちが出てくるのです。ヨハネだけではありません。旧約時代の預言者たちも、同じように、神様に仕えていたにも関わらず迫害に遭い、殉教の死を遂げた人々が存在します。また、新約時代においても、十二使徒の中で一人を除いて、他の11人すべてが殉教の死を遂げたと言われています。直接、聖書の中には書かれていませんが、他の文献によって、そのように伝えられているのです。その事実を知る時、多くのクリスチャンは心が痛む、そういう思いにさせられるのです。

 神様に仕える者が殉教の死を遂げる、この事実に対して、ある人々は「それをどのように受け止めていいか分からない」と考え、キリスト教に失望したと発言する人々がおられます。そんな神様なら信じない方がましだ、と言い張るのです。私は、彼らの気持ちは半分は理解できるのですが、しかし、もっと聖書をきちんと読んでから、そして、イエス様の伝えた福音をしっかり学んだ上で判断してほしいと思うのです。

 今日の説教題は「悲しみを通して教えられる事」です。私たちは悲しい出来事が起こると、一時的に苦しい状況に立たされ、そのただ中にある時は、すぐには神様に対して希望を見出すことができないことがあるかもしれません。しかし、時間がかかったとしても最終的に「すべてのことを益として下さる神」に賛美をささげる者となるよう神様が導いて下さるのです。そのことに目を向けていきたいと思います。 続きを読む ・説教 マルコの福音書6章14-29節「悲しみを通して教えられる事」

・説教 マルコの福音書6章6-13節「十二弟子の派遣」

2025.06.06
聖霊降臨祭・ペンテコステ

内山光生

また、十二人を呼び、二人ずつ遣わし始めて、彼らに汚れた霊を制する権威をお授けになった。  マルコ6章7節

序論

 今日はペンテコステの日です。イエス・キリストは弟子たちに対して、ご自身が天に昇った後で「助け主」が来られると予告していました。そして、その予告通り、弟子たちが一つの場所で祈っている時に、助け主、すなわち聖霊が下ったのでした。この聖霊が下ったことを記念してキリスト教の世界ではペンテコステの日が定められているのです。

 聖霊が弟子たちに下った後、弟子たちは聖霊の力を受け、大胆に福音を伝えるようになりました。少し前までの弟子たちは、イエス様が逮捕された時に、イエス様の元から逃げ去るような弱々しい姿が描かれていました。しかし、聖霊が下った後では、まるで別人のようになって、人々からの非難や悪口があったとしても、また、逮捕され牢屋に入れられたとしても、それでもイエス様の福音を語ることをやめないほどに変わっていったのでした。

 この聖霊の力は、今も、私たちに注がれ続けていて、まだイエス様を信じていない人々が救われるよう世界中で福音が宣べ伝えられているのです。

 さて、今日の箇所は、弟子たちによる福音伝道の旅についてです。この時点では、イエス様の弟子たちは、まだ聖霊の力を受けていませんでしたが、しかし、イエス様から特別な権威を授けてもらうことによって、力強く福音宣教を繰り広げていく、そういう場面です。

I 十二弟子の派遣(6~7節)

 まず6~7節を見ていきたいと思います。

 前回の場面では、イエス様が故郷ナザレの人々に受け入れてもらえなかったという事、そのため大胆に福音を伝えたり、奇跡を行うことができなかったことが記されていました。故郷の人々がイエス様に心を開かなかった事は、イエス様にとって驚きとなりました。しかし、イエス様は頭を切り替えて別の村々に行き、福音を伝えたのです。

 そして、いよいよ新しい段階へと移っていくのでした。今までは、イエス様が中心となって福音を伝えつつ、癒しのみわざをなしてきました。しかし、イエス様一人だけではわずかな町や村にしか伝道活動をすることができません。それで、もっと多くの町や村で福音を伝えるために、ご自身の弟子たちを遣わすことにしたのです。

 イエス様の弟子たちは、すでにイエス様がどのような福音を伝えていたかを学び取っていました。イエス様が言われた内容をすらすら言えるほどに、何度も聞いてきた事でしょう。更には、イエス様が汚れた霊を制している場面を何度も何度も見てきた事でしょう。イエス様は、これらの権威を十二弟子たちにお授けになったのです。

II 持ち物の制限(8~9節)

 続いて8~9節に進みます。

 これから始まる伝道旅行は、特別な意味が込められていました。それは一言で言うと「イエス様に信頼しているかどうかが問われる旅」と言えるでしょう。

 イエス様は弟子たちを遣わす際に、持ち物を制限するよう命じられました。杖1本は持っていっても良いとされましたが、それ以外の旅に必要と思われる「パンや袋や小銭」さえも持って行かないようと、命じられたのです。ただし、履き物や下着1枚は許可されたのでした。 続きを読む ・説教 マルコの福音書6章6-13節「十二弟子の派遣」

・説教 ルカの福音書18章1-8節「諦めない祈り」

2025.06.01

鴨下直樹

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 今日の聖書の冒頭にこうあります。

いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるために…

 これまでの信仰の歩みの中で祈ることをやめたという経験があるでしょうか? 「祈ることを諦めた」という経験です。信仰の歩みの中で私たちはさまざまな祈りをします。そういう中で、祈りがきかれないということを経験していくと、信じるのをやめる、疲れる、飽きる、だれてくる、そういう経験をすることが時折起こり得ます。この「諦め」というのは、お祈りというようなことでなくても、ごく身近な経験として、たとえば応援している野球チームや、サッカーのチームが負け続けて、今年は、優勝はないなと諦めるということもあるかもしれません。そういう日常的なものから、自分の大切な進路や、目標や、夢を諦めるというとても厳しい決断ということもあると思います。

 諦めるというのは、それまで張り詰めていたものが突如失われる経験です。目の前に迫る現実に飲み込まれていく。何回も挑戦してみたけれどもダメだった。お祈りしていたけれどもダメだった。信じていたけれどもダメだった。そういうことが起こります。

 もちろん、諦めなくてはならない場合もあると思います。それは悪いことばかりではありません。それまでこだわってきたことを諦めて、新しい可能性に挑戦するチャンスでもあるはずです。そうすると、諦めても仕方がない場合と、諦めてはならない場合とがあるということかもしれません。

 あるいは、自分の忍耐力がなくて、待つことができなくて、耐えることができなくて、戦ったり、努力したりすることが苦手で、諦めるという場合もあるでしょう。戦えない、抵抗するということが性格的に難しいということもあるかもしれません。そこにはいろんな理由があります。抗うことはみっともないことだという考えがあるかもしれません。あるいは、自分は他の人とは違うから、そんなに戦い続けられないのだということもあるかもしれません。あるいは、自分が求めるものが、時代にあっていないものだからスパッと諦めた方が良いのだと感じたというようなこともあるかもしれません。

 諦めてもよいことであれば、それはそんなに問題ありません。ものには大小というものがあります。大きな志もあれば、小さな志もあります。だいたい、子どもの頃からわがままがひどくて、諦めることばかりを言われてきたなんてことだってありうるわけですから、諦めることが常に悪いというわけでもないはずです。

 主イエスはここで諦めない祈りについて教えておられます。ここで主は私たちに何を語りかけておられるのでしょうか。 続きを読む ・説教 ルカの福音書18章1-8節「諦めない祈り」

・説教 ルカの福音書17章20-37節「終わりの時への備え」

2025.05.25

鴨下直樹

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 教会員の恵美子さんが、少し前に俳句についての本を出されました。俳句の世界では辻恵美子という名前で活動されております。本のタイトルは『樹下随感 ―作句の心と形―』という俳句についてのエッセー集です。とても面白い本で、少しずつ楽しみに読み進めています。

 ちょうど、昨日のことですが、この辻恵美子さんが主宰をなさっておられる俳句の結社「栴檀」の24周年記念大会が開かれまして、私も出席させて頂きました。最初に、この一年の間に活躍された方々の表彰が行われまして、私たちの仲間であるOさんも栴檀賞を受賞されました。また、その授賞式の後で、能登の輪島で住職をしておられ、栴檀の仲間でもある市堀玉宗さんの「俳句と共に能登に生きる」という講演がありました。ここで少しそのお話の内容に触れようかとも思ったのですが、今日の聖書箇所と全然違う内容になってしまいますので、また別の機会にお話しできればと思います。

 ただ、今日の説教題を「終わりの時への備え」としましたが、市堀玉宗さんの講演は能登で2回の震災を経験して、まさに「もう輪島は終わりや」という声が聞こえてくるような、まさに心が折れる経験を通して、そこからどう生きていくのかというお話でした。能登の未来、輪島の未来は20年後どうなるか分からないと思っていたけれども、それが、突然やってきたということなのだという話は、まさに涙無くしては語れない話で、とても心に訴えるものがあったと思います。

 未来が絶たれる、希望が絶たれる、そういった中で、何を支えに生きるのか。この玉宗さんの講演を私流に切り取るとそういう話であったと思います。

 私も、5分ほどのスピーチの時間を頂きました。あの、玉宗さんの話を聞いた後だけに、何を語ることがあるかとも思ったのですが、私は恵美子さんの出された『樹下随感』の中からの話をさせて頂きました。というのは、恵美子さんはこの本の中で「新しさは俳句のいのち」と言っておられるのですが、この言葉は、私にとってとても考えさせられる言葉でした。毎週説教していますから、新鮮さといいますか、新しさが無くなってしまって、ついマンネリ化した話になってしまうからです。

 たとえば、この芥見教会では礼拝説教の箇所を前もって水曜と木曜の聖書の学びと祈り会で、丁寧に解き明かしをしています。これは、私としても皆さんに聖書を読む力をつけて欲しいという願いでやっているという部分もありますし、共に聖書を読んでいくことで、何が分からないのか、どこが難しいのかということを、私自身が理解することができるという意味でも、大いに助かっています。

 ただ、問題もあります。というのは、祈祷会に参加された皆さんは一度説明を聞いた聖書の箇所を、次の日曜に説教で聴くことになります。だいたい、礼拝に集われる方の半数が、聖書の学び会に参加してくださっております。これは、とても珍しいことで、皆さんが聖書を学ぶことに大きな関心を持っていてくださることの表れでもあります。それでは、何が問題かというと、牧師は半数の方がすでに聞いた説明を日曜にもう一度するのかという葛藤が私の中に生まれるわけです。福音の新しさが感じられなくなってしまうのではないか、そういう葛藤がいつも私の心の中に生まれるのです。 続きを読む ・説教 ルカの福音書17章20-37節「終わりの時への備え」

・説教 マルコの福音書6章1-6節「郷里の人々のつまずき」

2025.05.18

内山光生

イエスは彼らに言われた。「預言者が敬われないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」  マルコの福音書6章4節

序論

 今日の説教題は「郷里の人々のつまずき」です。聖書の中には「つまずき」という言葉が出てきますが、聖書を初めて読む人にとっては、どういう意味なのかが分かりづらいとの意見があるという事を知り、私はそのことについて何年がかりかで思い巡らしていました。けれども、辞書などを調べたりする訳でもなく、ただ時が過ぎ去っていきました。

 それで、今回、説教の準備をする際に、つまずきについて辞書で調べてみました。分かった事を整理すると、一般的な意味でのつまずきは二つに分類できると。一つは「文字通りのつまずき」で、歩いている時に石につまずいたといった感じで用いられます。もう一つは「比喩的な表現としてのつまずき」です。この場合、「人生につまずいた」といった感じで用いられます。そしてその意味は「人生に行き詰った」ということを指しています。ですから、比喩的な意味としてのつまずきの場合、別の言い方を付け加えることによって自分の言わんとしていることがきちんと伝わりやすいと解説されていました。

 しばしばクリスチャンの間で「誰かにつまずいた」と言った用いられ方をすることがあります。しかし、厳密に言うと、このような用い方は一般的な日本語としてはあまり使われていない表現です。クリスチャン独特の表現だと言えるかもしれません。ただ、言葉というのは時代によって変化するものなので、一概に「それは本来の用いられ方と違う」と指摘するのもナンセンスなのかもしれません。けれども、私自身、聖書で用いられている「つまずき」がどういう意味なのかをきちんと整理しておきたいという思いが出てきましたので、早速、聖書の色々な箇所を調べたり、ギリシア語や英語の聖書を調べてみました。

 分かった事は、日本語の聖書は一緒くたに「つまずき」と訳されているけれども、英語の場合は、文脈によって表現が変えられているということでした。具体的な事については、後で説明しますが、一つ言えることは、日本語の聖書で「つまずき」と訳されている聖書箇所については、英語の聖書で読んだ方が理解しやすいのではないか、ということです。

 聖書の中での「つまずき」という言葉は、大きく二つに分けることができます。一つは、今回の箇所のように「イエス様に対して人々がつまずいた場合」です。もう一つが、「誰かが誰かをつまずかせる場合」です。この二つは日本語では同じ「つまずき」と訳されていますが、しかし、先ほどお伝えしたように英語の聖書では、その文脈を踏まえた適切な訳となっています。

 今回の箇所について、どう訳せば分かりやすいかと言うと、「イエスにつまずいた」ではなく、「イエスを拒絶した」あるいは「イエスを疑った」とすればいいのです。それを踏まえると、今回の説教題は、「郷里の人々のつまずき」ではなく「イエスを拒絶した郷里の人々」と置き換えることができるのです。 続きを読む ・説教 マルコの福音書6章1-6節「郷里の人々のつまずき」

・説教 マルコの福音書5章21-24,35-43節「タリタ・クム」

2025.05.11
(母の日)

内山光生

そして、子どもの手を取って言われた。「タリタ、クム。」訳すと、「少女よ、あなたに言う。起きなさい」という意味である。すると、少女はすぐに起き上がり、歩き始めた。彼女は十二歳であった。それを見るや、人々は口もきけないほどに驚いた。  マルコ5章41~42節

序論

 今日は母の日です。母の日について改めて調べた所、どうやら母の日というのは国によって日にちや祝う方法が様々だということが分かりました。日本における母の日というのは、アメリカの習慣を取り入れたことによって一般の人々に広まっていったと記録されています。日本に母の日が取り入れられた当時は、アメリカではカーネーションを贈る習慣がありましたので、それが日本でもそのまま受け入れられていったのです。ですから、今の時代においても母の日となるとホームセンターや花屋さん、そして、スーパーなどにおいてカーネーションが並べられているのを見ることができるのです。

 ところで最近、私はインターネットの情報というのは、必ずしも正しくないということを色々な経験から学んでいましたので、念のため、アメリカにおいてカーネーションを贈るということが今でも普通の事なのかどうかを確認したくなりましたそれで今年の3月頃でしょうか。私はアメリカ人で元宣教師をされていた方に「アメリカでも母の日はカーネーションをプレゼントするのですか。」と聞いてみました。すると、その方からは、少なくともその方が住んでいる地域では、「その人が好きな花をプレゼントする」と返ってきました。どうやら、あちらの方では、色々な考え方を受け入れるという土壌があるようで、皆が同じものをプレゼントされるというのは肌に合わないと考える人が多いというのです。

 これはアメリカに住んでいる人の考え方によるもので、日本全体の考え方とは異なっています。しかし、どちらが正解ということではありません。ただ言えることは、日本においても母の日のプレゼントの内容について様々な方法が出てきている、ということは確かなことだと言えるでしょう。

 さて、今日の聖書箇所は二つの箇所を選びました。その理由は、いきなり35節以降の話から始めても、前回聞いてなかった人や、忘れてしまっている人にとっては唐突に感じてしまうかもしれない。だから、もう一度21~24節に書かれている会堂司ヤイロがイエス様にお願いをした場面を確認した方が良いと考えたからです。

I ヤイロの信仰(21~24節)

 ではさっそく21~24節から見ていきたいと思います。

 会堂司というと、以前の訳では会堂管理人と訳されていましたが、会堂管理人と表現すると、まるで会堂の修繕や掃除をする人のようなイメージが出てきて、権威ある立場だということが分かりづらいと指摘されていました。そこで、新しい訳では会堂司となったのです。会堂司は、ユダヤ人の会堂において、安息日ごとの礼拝に関する責任者です。ですから、会堂司が礼拝で聖書朗読をしたり、聖書の解き明かしをすることがありましたし、会堂司の一存で、誰に聖書の解き明かしをしてもらうかを決めることができたのです。

 それゆえ、会堂司ヤイロは、町に住んでいるユダヤ人の間では、尊敬される立場だったのです。そんなヤイロが、自分の立場に関係なく、イエス様にひれ伏してお願いするのです。「娘が死にかけています。どうかおいでになって、娘の上に手を置いてやってください。」と。

 ヤイロはイエス様が病気を癒すことがおできになるといううわさを聞いていて、それで、今まさに娘には癒しが必要だと考え、必死になってイエス様にすがりついたのです。ここにヤイロの信仰が現されているのです。そして、イエス様は彼の願いを聞き入れ、娘のところに向かおうとされたのです。 続きを読む ・説教 マルコの福音書5章21-24,35-43節「タリタ・クム」

・説教 ルカの福音書17章11-19節「キリエ・エレイソン」

2025.05.04

鴨下直樹

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 今日は復活節の第三主日、「ミゼリコルディアス・ドミニ〈主の慈しみ〉」と呼ばれる主の日です。教会歴で今日読むことになっている聖書は詩篇33篇5節の「主の恵みで地は満ちている。」というみ言葉です。ところが、新改訳聖書では肝心の「慈しみ」という言葉が出てきません。新共同訳聖書ではこのようになっています。「地は主の慈しみで満ちている。」。この後半の「地は主の慈しみで満ちている」という言葉がラテン語で「ミゼリコルディアス・ドミニ」と言うのです。「慈しみ」という言葉はヘブル語で「ヘセド」という言葉です。これを、新改訳は「恵み」と訳し、新共同訳は「慈しみ」と訳しています。「愛」と訳されることもありますし、「慈愛」と訳す場合もあります。新改訳と新共同訳の日本語の翻訳はそれぞれ異なりますが、この「ヘセド」という言葉で言い表そうとしているのは神の大きな愛の眼差しが、「恵み」や「慈しみ」という神の思いがこの地に、この世界に注がれているということです。

 雨宮慧(さとし)というカトリックの言語学者がおられます。この方は、『旧約聖書の心』という本の中で、このヘセドという言葉を、「神と人を結びつける絆である」と言っています。この絆には二つの側面があって、一つは両者を結ぶ愛、もう一つはその愛に対する誠実さであると説明しています。ここに、神の愛、恵み、慈しみと訳される神の本質的な心が表されています。

 今日は、復活節の第三主日で、イースターによって示されたこの神のヘセドに表されている思いを心に刻む日です。そんな中で、今日は、ルカの福音書の17章の11節から19節のみ言葉が与えられています。ここに記されているのは、まさにこの神の慈しみ深さであると言って良いと思います。

 今日の聖書の箇所は読む私たちに強烈な印象を与えます。というのは、主イエスはサマリヤとガリラヤの境にある村に入られたと書かれています。この村に住んでいるのは、「ツァラアト」に冒された人々でした。サマリヤというのはイスラエルが二つに分裂し、北イスラエルと南ユダに分かれた後、ユダの人々は主への信仰を受け継いでいたのですが、北イスラエルの人々は神の思いから完全に離れてしまった人々で、外国の人々といわゆる雑婚をしていきます。そうするとどうなるかというと、それぞれの民族の信じる神々を取り入れていくわけで、主なる神への信仰を捨ててしまった人々です。それで、北イスラエルとはもはや呼ばないで、「サマリヤ人」と呼ぶようになって、ユダヤ人たちはこのサマリヤの人々を蔑んできたわけです。

 ところが、この聖書の箇所を読んでいくと分かってくるのですが、「ツァラアト」という病に冒された人々というのは、重い皮膚病を患った人々で、この時代では人々から隔離されていまして、もはや家族とも一緒に生活することが許されません。当然、この人々のところには医者も訪ねてはきません。いわば、捨てられた人々の集落となっていたわけです。しかも、この捨てられた人々同士が、民族の争い関係も忘れて一緒にこの村で生活していたようです。捨てられた者たちの間にはもはや民族的な差別意識は無くなっていたわけです。

 ただ、そう聞くととても麗しい愛の共同体が生まれているかのようにも思いますが、実際には見捨てられた人々が肩を寄せ合って生きていたというのが、本当の姿のように思うのです。もはや、ここには希望がない、死を待つだけの世界、それがこの村の姿であったのです。

 ところが、この村を主イエスは訪ねられたのです。 続きを読む ・説教 ルカの福音書17章11-19節「キリエ・エレイソン」

・説教 ルカの福音書17章1-10節「神のくださる安心」

2025.04.27

鴨下直樹

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 今日の聖書の箇所は「つまずきが起こるのは避けられませんが、つまずきをもたらす者はわざわいです。」という言葉から始まっています。

 「つまずき」というのは教会の中で、何度も取り上げられるテーマです。「教会殺すにゃ刃物は要らぬ、ただこの教会でつまずいたと言えばいい」と言った人がいます。なかなか核心をついた言葉ですが、私たちは苦笑いするしかありません。私を含め、皆さんもそうかもしれませんが、自分の言動が誰かにつまずきを与えたのではないかと感じる場面は、これまでに何度もあったのではないでしょうか? こういう言葉もあります。「牧師殺すにゃ刃物は要らぬ、この牧師には愛がないと言えばいい」。

 私たちは信仰の歩みをしていく中で、何度も何度もつまずきを経験します。そして、それと同じように、何度も自分は誰かにつまずきを与えてしまったのではないかと苦しむことにもなり得ます。ここに、クリスチャンの悩みがある、そう言っても言い過ぎではないのが、この「つまずき」というテーマです。

 しかもです。主イエスは2節で「その者にとっては、これらの小さい者たちの一人をつまずかせるより、ひき臼を首に結び付けられて、海に投げ込まれるほうがましです。」と言われたのです。

 今はひき臼にお目にかかる機会も少なくなりました。和食レストランのサガミに行きますと、玄関先でこのひき臼が自動で蕎麦を粉にしているのを見ることが出来ます。大きな平らな丸い石を二つ重ねて、上臼を回すことで蕎麦を擦り潰して蕎麦粉にするわけです。おそらく、ひき臼一つで何十キロ、下手したら100キロ以上あるかもしれません。そんな石を首にくくりつけられて海に投げ込まれた方がましだと、主イエスが言われるのです。まるでヤクザ映画のようなセリフを、こともあろうに主イエスが言われたのです。この言葉を読んで、心中穏やかで無くなる人はたくさんあると思います。

 誰かをつまずかせる人は殺された方がまし、こんなひどい言葉は無いと思うのです。もし、自分が誰かをつまずかせたとしたら、私は死んだ方がいいのか? そういうことにもなりかねません。そこで、一度落ち着いて考えるわけです。この「つまずき」という言葉は、そもそもどういう意味の言葉なのかと。先日の聖書の学び会でもそういう質問が出ました。 続きを読む ・説教 ルカの福音書17章1-10節「神のくださる安心」

・説教 マタイの福音書28章1-10節「よみがえられた主イエス」

イースター(復活祭)
2025.04.13

内山光生

イエスは言われた。「恐れることはありません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えます。」  マタイ28章10節

序論

 個人的な事ですが、先週の金曜日、すなわち受難日に突然、私自身の背中と腰のあたりに激痛が走りその苦しみによってベッドに横たわっていました。原因は、結石によるもので、石が動くときに、しばしば、寝込むほどの痛みが生じるのです。そのような結石による痛みは、たいてい2~3時間で治まるのですが、今回の場合、半日以上激痛が続いたので、その日に予定されていた受難日賛美礼拝に出席できなかった事を残念に思います。しかしながら、翌日の土曜日の朝になるとすっかりと痛みが取り除かれていて、日曜日の説教の奉仕ができそうだとの思いが与えられ、神様に感謝をささげました。

 そして、今朝は8時半からイースター朝食会が行われ、いつもと違った楽しい食事の交わりを持つことができました。また、9時45分から通常の礼拝の前に聖餐式に与ることができた事に感謝いたします。

 さてイースターというのは、「イエス・キリストがよみがえられた」という喜びの知らせを伝えるのに最も適した時です。

 とは言うものの、例えばイエス様を信じていない人々の間であっても、クリスマスを楽しく過ごすという習慣はありますが、残念ながら、イースターは、まだまだ一般の人々に浸透している行事とは言い難いと思われます。注意深く情報を集めると、確かに、どこかのテーマパークでイースターを意識したイベントが企画されていたり、ある食品業界のチェーン店が、イースターの特別メニューや期間限定商品を販売することがあるのですが、果たして、イースターがイエス様の復活の喜びをお祝いする時だと認識している人はどれ程なのかと思います。

 そういう中にあっても、私たちクリスチャンがイースターのこの時に「イエス様がよみがえれた事によって、私たちに救いがもたらされた」というその喜びを再確認する時となればと願うのです。

 というのも、先に救われた私たちが、神様に対する感謝な思いで心が満たされていく時に、間接的かもしれないけれども、まだ救われていない周りの人々に、その雰囲気や態度を通して、神様の事について考えるきっかけとなることを期待できるからです。

 この日本においては、多くの場合、まだキリスト教に関心を持っていない人に対して、強引に聖書の話をしても、かえって警戒される可能性が高いと思われます。しかしながら、ある人が聖書に興味を持ったり、イエス・キリストがどういうお方なのかを知りたいと願う、そういう思いが出てきた時に、ようやく、イエス・キリストの福音を伝えるチャンスが出てくるのです。

 人々の心が耕され整えられるためには、私たちクリスチャンの心が、「イエス様によって救われているという喜びで満たされていく事」、ここに目を向けていきたいのです。

I 主イエスの墓へ向かったマリアたち(1節)

 では1節から順番に見ていきます。

 安息日とあります。これは土曜日の事を指しています。それゆえ、「安息日が終わって週の初めの日」とは、日曜日のことになります。この日の明け方、つまり、まだ薄暗い時間帯にマリアたちが墓を見に行ったのです。

 すべての福音書において、このイースターの日の明け方にマグダラのマリアがイエス様の葬られた墓に向かったことが記録されています。他にも女性がいたのですが、しかし、マグダラのマリアが先頭に立って墓に向かった、そういう雰囲気が伝わってくるのです。マタイの福音書では、彼女たちがイエス様が葬られた墓に向かった理由が記されていませんが、他の福音書によると、イエス様をもう一度葬るために、香油を持って向かったと記されています。 続きを読む ・説教 マタイの福音書28章1-10節「よみがえられた主イエス」

・説教 マタイの福音書27章32-44節「ののしられた主イエス」

2025.04.13

内山光生

わが神 昼に私はあなたを呼びます。/しかし あなたは答えてくださいません。/夜にも私は黙っていられません。/けれども あなたは聖なる方/御座に着いておられる方 イスラエルの賛美です。(詩篇22篇2~3節)

序論

 今日から受難週となります。個人的な事ですが、毎年、この時期になると花粉症による苦しみで身体が重くなったり、集中力が低下し、祈ろうとしても賛美をしようとしても、声がかすんでしまう状態となってしまいます。「苦しいな。しかし、もうしばらく忍耐すればこの苦しみから解放される」と自分にいい聞かせながら、説教の準備をしておりました。

 もちろんイエス様の十字架の上での苦しみと自分自身の花粉症の苦しみは、比較にならない程だと言うことは分かるのですが、しかし、自分自身も多少、辛い状況になっていた方が、イエス様の受けた苦しみについて思い巡らすのに、ちょうど良いと感じています。

I 十字架を背負わされたシモン(32節)

 では32節から順番に見ていきます。

 イエス様が裁判にかけられ、十字架刑という判決を受けた後、いよいよ処刑される場所へ移動することとなりました。通常、十字架刑となった人は、十字架の横木を自分で担いで移動することとなっていました。ところが、この時点でイエス様はすでに肉体的な限界がきていたようです。横木を担いで前に進もうとしても、歩けない程、弱っていたのです。それで兵士たちが見るに見かねて、たまたま近くにいたクレネ人シモンに、イエス様が担ぐはずだった十字架の横木を背負わせたのです。マタイの福音書だけでなく他の福音書すべては、イエス様の十字架での苦しみについては直接的には表現していません。しかし、文章の背後をよく思い巡らすことによって、イエス様がどのような苦しみを味わったかについてイメージすることができるのです。

II 苦味を混ぜたぶどう酒を飲まなかった主イエス(33~34節)

 33~34節に進みます。

 イエス様は、ついに、ゴルゴタの丘に到着しました。ゴルゴタが「どくろの場所」という意味からすると、いかにも処刑する場所にぴったりの名前だと言えるでしょう。この名前を聞いただけで不気味な雰囲気がある場所だと感じてしまうのです。

 さて、イエス様が十字架につけられる前に、兵士たちは「苦みを混ぜたぶどう酒」を飲ませようとしました。これは、十字架につけられた時の痛みを和らげるもので、鎮痛剤の役割を果たすものでした。ところが、イエス様は、「苦味を混ぜたぶどう酒」をお飲みにならなかったのです。どうしてなのでしょうか。それは、十字架で受ける苦しみを味わい尽くすために、敢えて、鎮痛剤のようなものに頼ろうとしなかったと考えられます。

 もしもイエス様が「苦みを混ぜたぶどう酒」を飲んでいたのならば、悪意のある人々は「どうせ痛みをあまり感じてなかったでしょう。」と言って、イエス様がまるで苦しまなかったかのように言い張るかもしれません。しかしながら、イエス様は十字架の苦しみをすべて背負うために、敢えて、兵士たちから差し出された「ぶどう酒」を飲まなかったのでした。 続きを読む ・説教 マタイの福音書27章32-44節「ののしられた主イエス」