・説教 ローマ書12章 「憐れみの中で愛に生きる」
本日は、後藤 喜良 牧師が説教をして下さいました。
2012.2.5
鴨下 直樹
昨日、教会で毎月第一の土曜日に行なわれております、ぶどうの木という俳句の会がありました。私はこれに出席することをとても楽しみにしています。特に、昨日の句会はとても心動かされれる句がいくつもありました。特に目立ったのは赤ちゃんのことを詠んだ句が多かったことです。そして、同時に家族を亡くした悲しみを読んだ句がその隣にならんでいます。いつも句会の時は一枚の清記用紙に七句ほど記された紙が回ってきます。その中から自分が良いと思った句を手控えに書き写しながら句を選んでいくのです。二月ということもあって、節分のことを読むもの、あるいは大雪のこと、家族のこと、実に色々な日常の生活の中から見たものを切り取っていきます。ですから、当然色々な句が並ぶのです。
けれども、赤ちゃんの誕生を詠んだ句の隣に、家族を亡くした悲しみの句があることを見て、あらためて、ここに来ている人たちの様々な生活のことを考えさせられます。みなさんそれぞれに様々な生活があります。そういう生活の中の言葉を聴きながら、私は牧師として祈らざるを得ないことを覚えさせられると当時に、この人たちの心に、今日、もっとも相応しい神の言葉が響くだろうか、神の言葉がその心に届くだろうか、そう考えさせられずにはいられないのです。
マタイの福音書の御言葉を聴き続けて三年目になりました。そして、今朝から第二十章に入ります。様々な主の言葉に耳を傾けてきました。その一つ一つの言葉が、みなさん一人一人の生活を築き上げる土台になっていると、そう信じます。そして、今日の御言葉もまた、私たちにとって、本当に聞き届けるべき大事な言葉であると思っています。
これは、ぶどう園の労務者のたとえ話と呼ばれているたとえです。話自体はそれほど複雑ではありません。一度聞けばその内容は良く分かります。ぶどう園の主人が収穫の季節になったために、労務者を雇ってぶどうの収穫をさせるという話です。
けれども読んでいきますと、首をかしげたくなってくることが書かれています。 (続きを読む…)
2012.1.29
鴨下 直樹
今私たちは共に御言葉を聞きました。聞きながら、「あれ?」と思った方もあるのではないかと思います。先週と同じ聖書の個所なのです。もちろん、まったく同じということではありませんけれども、先週聞いた、金持ちの青年の物語です。
本来であればこの金持ちの青年の物語は先週は話しませんでしたけれども二十三節以下の部分も一緒に聞かないと主イエスがお語りになった意味ははっきりして来ないと思います。ですから、実は、私は先週の説教の時に大きな冒険を致したのです。私はどこかで、この日曜日に誰も来なくなってしまうのではないかと心配致しました。自分の財産を捨てるなどと言うことは自分にはできないから、やはり私もこの青年と同じように、主イエスの元を去らなければならないと考えるのではないかと思ったからです。
けれども、このように、今朝みんなそろって主の御前で御言葉をつづけて聞くことができることは本当に幸いなことです。
先週、私はあのボンヘッファーの言葉を紹介しました。「教会は他者のために存在する時、はじめて教会となる」と。そして、私たちは自分のために生きるのではなくて、他の人のために生きるようにと主イエスから招かれているのだと話しました。それは、どういうことかと言うと、私たちも、自分の持っているもの、与えられているものを捨てて、主イエスについて行くのだということです。
けれども、どうしてもそこで立ち止まって考えなければならないのは、私たちにはそのようにすることが良いと分かっていても、それを行なうことができるかということです。そのように聞くことはできたとしても、その言い分を理解したとしても、それを行なうことができるかどうかは別の問題です。
そして、実際に主イエスの話を聞いた金持ちの青年は主イエスの弟子になることができず去っていかなければならなかったのです。
さて、けれども、主イエスはそのでこの問題を放り出したりはなさいませんでした。それが、その後の物語です。 (続きを読む…)
2012.1.22
鴨下 直樹
司式者の朗読する聖書をお聞きになって、もうすでにお気づきになられた方もあると思いますけれども、今朝私たちに与えられている聖書は子ども祝福式の時に必ずと言っていいほど良く読まれる聖書の個所です。
私ごとで始めて恐縮ですけれども、先週の月曜日に私たちに無事に女の子が生まれました。妻はまだしばらく入院しておりまして、その後は実家に少し戻ります。けれども、戻ってまいりますと、教会で早速、幼児祝福式というのを致します。その時にもおそらく読まれる個所です。
この出来事は、主イエスのもとに、祈ってもらうために子どもたちが連れて来られた時に起こったことです。ここで主イエスの周りにいた子どもたちというのは、もちろん、子どもが自らやってきたということではなくて、その両親が御前に連れて来たのです。そして、主イエスに祈ってもらいたいと思う。ところが、ここで思わぬ出来事が起こります。弟子たちが彼らをしかったのです。「しかった」というのは、主イエスの前に出るのに子ども相応しくないと弟子たちはどうも考えたようです。
これは先週の個所に引き続いての個所です。今朝与えられている聖書の最初の十三節に「そのとき」とあります。この「そのとき」というのは、パリサイ人が主イエスに「何か理由があれば離別することは律法にかなっているでしょうか」との問いに対して答えられた後ということです。
この時代、「女、子どもは男の財産」というように考えられていた時代です。ところが、主イエスはこの前のところで、女は自分の財産などと考えるのではないのだと教えられました。そして、その直後に、今度は子どものことが問題になったのです。 (続きを読む…)
2012.1.15
鴨下 直樹
いつも週報にその日の礼拝の主題が記されています。今日の主題は「結婚」とあります。ある方はそれをご覧になって驚いた方が中にはありかもしれません。しかし、今日の聖書の個所の主題は結婚とするのがまさに相応しい内容です。
はじめに私事ではじめて恐縮ですけれども、明日、私たち夫婦に子どもが生まれます。なぜ、明日生まれるともう決まっているのかといいますと、帝王切開でうまれるということが決まっているからです。結婚して十五年の間、私たち夫婦の間には子どもがありませんでした。その時間というのは、私たち夫婦にとってはとても大切な時間であったと思います。いよいよ、明日、子どもが生まれます。ですから、何だか少し落ち着かない気持ちでいますけれども、そういう中でもう一度この主の言葉を聞くことはとても幸いなことだと、準備をしながら考えさせられました。
今日、私たちに与えられている聖書の個所は離婚についての問いかけからはじまります。しかし、ここは離婚の話というよりも、むしろ結婚生活のことが記されているところと言うこともできると思います。ことの起こりはパリサイ派の誰かが主イエスに尋ねたところから始まります。
「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているでしょうか」と問いかけたのです。
「何か理由があれば」とはどういうことでしょうか。 (続きを読む…)
2012.1.8
鴨下 直樹
今朝、私たちに与えられている聖書の言葉は「ゆるし」についてのペテロの質問からはじまります。 そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか」。二十一節の言葉です。
ゆるすという言葉は漢字で書くと二種類あります。許可の「許す」という字で書く場合と、恩赦の赦という文字を使う「赦す」という言葉です。特に、教会ではこの二つの言葉を注意して使い分けて使う場合が多いと思います。
私は昔、この言葉の説明でこんなことを聞いたことがあります。この恩赦の「赦す」という文字は、神にしか使うことができない言葉で、私たち人間は人の犯した過ちを許可する、認める、という「許す」ということしかできないのだと。その時、なるほどと思いながらその説明を聞きました。ですから、ゆるすという言葉を使う時に、聞いている方が分かるかどうかは分かりませんけれども、説教の原稿などにはひらがなで「ゆるす」と書いていました。
けれども、この聖書の個所をよく読んでみると、こういう考え方、許可するという許すは私たちにはできるけれども、本当に、その罪を赦す、というここで使われている赦す行為は私たちにはできないと言ってしまっていいのだろうかと考える必要があるのではないかと思えてならないのです。 (続きを読む…)
2012.1.1
元旦礼拝説教
鴨下直樹
ローズンゲンによる2012年の年間聖句
イエス・キリストは言われる「わたしの力は、弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」
Ⅱコリント 12章9節
新改訳
主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
2012年、今年の年間聖句はコリント人への手紙第二 十二章九節の言葉です。
イエス・キリストは言われる「わたしの力は、弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」。
新しい年にあたって、私たちが聴く最初の御言葉が弱さについて語られていることに、私たちは心を止めましょう。
この朝、礼拝に集われる時に、「よし、今年こそは!」と、一念発起して何がしらの決意を秘めて来られた人にとってすれば、出鼻をくじかれたような思いのする御言葉であると言うこともできるかもしれません。けれども、この言葉は今の私たちに最もふさわしい御言葉であると言うことができると思います。
私たちが生活している社会は今、力を失った社会であるということができます。ありとあらゆる分野で、力が失われています。政治も経済も、その力を発揮することができないまま、新しい年を迎え私たちは今大きな不安の中に立たされています。また、昨年の三月十一日、東北地方を起こった大地震を通して誰もが人間の無力さを思い知らされています。
2011.12.25
クリスマス礼拝説教
鴨下直樹
「そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。」
毎年、毎年、クリスマスになると読まれる聖書の個所です。皇帝アウグスト。このローマの皇帝の名前ほど今日の世界で名前の知られた皇帝はいないと言えるかもしれません。今日にいたるまで、すべての教会でクリスマスを祝うごとに、この名前が覚えられているからです。
けれども、このアウグストというのは、この王のもともとの名前ではありませんでした。もとの名前はオクタビアヌスと言います。「アウグスト」というのは、「尊敬されるべき者」という意味です。しかし、このアウグストという名前は後にはさらに別の意味を持つようになります。「現に生ける神」。これが、この「アウグスト」という名前の持つ意味だといわれるようになったのです。 (続きを読む…)
2011.12.24
聖夜 燭火礼拝説教
鴨下直樹
今から十年前のことになります。ドイツの北の方にハンブルグという美しい港町があります。この町を訪れました。少し時間があったので、礼拝堂を見るのが好きな私は、このハンブルグにあるいくつかの礼拝堂を訪ねました。町の中に、オレンジ色のレンガ色をしたロマネスク様式の古い教会がありました。さっそく中に入って見ますと、外側の古い建物の雰囲気とは対照的な非常に近代的な雰囲気がするのです。といいますのは、礼拝のありとあらゆるところに、3メートル四方もするような大きな写真のパネルが掲げられていたのです。まるで、モダンアートのギャラリーに来たかのようです。写真を一枚一枚よく注意してみますと、すべてが女性の写真です。 (続きを読む…)
2011.12.18
待降節第四主日礼拝説教
鴨下直樹
先週の水曜日と木曜日で今年最後の祈祷会が行なわれました。そこで一年を振り返って、それぞれの方々がお話ししてくださいました。大変、豊かな時間であったと思います。その中で、どうしても語られるのは、自分の一年を振り返っての反省の言葉です。自分のこういう部分を改めたいと考えるのです。それは、おそらく誰にでもある思いではないかと思います。 (続きを読む…)
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