2010 年 9 月 19 日

・説教 「赦すことと赦されること」 マタイの福音書6章14-15節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 18:54

鴨下直樹

今、私たちは礼拝でこのマタイの福音書の御言葉を聞き続けています。特に、今は山上の説教と言われる、5章から7章までの主イエスが神の国に生きるという生活とはどういうものなのかを教えられた言葉を聞いております。そして、その中心に記されているのがこの主の祈りです。私たちは、この主の祈りの言葉を先週まで一つ一つ丁寧に聞き続けてきました。
ある方は、その中でお気づきになられた方があったかもしれません。新改訳聖書では13節の最後の鉤括弧(かぎかっこ)の中にこう書かれています。〔国と力と栄は、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕けれども一体、牧師は何故、この大事な言葉を省いてしまったのかと考えられた方があるのではないでしょうか。今日ははじめに、そのところからふれたいと思います。
新改訳聖書にはそのところに注がついておりまして、このように記されております。「最古の写本ではこの句は欠けている」とあります。最古の写本にこの文言はないということは、後の時代に書き足されたということが分かっているということです。そういうことで、ここは括弧書きになっているのです。つまり、主イエスが教えられた祈りの部分ではないことは明らかだということです。そういう理由から、ほとんど聖書にはこの部分は記されておりません。口語訳の聖書にも、新共同訳にもないのです。けれども、私たちは礼拝の中で主の祈りを祈るときにはこの部分も祈ります。やはり、こういう大事な言葉はいくら主イエスの言葉ではないからと言って、無くす必要はないのではいかと考えることもできます。それで、ドイツのルター訳や、英語のキングジェームス訳などという代表的な聖書はやはり括弧書きではありますが、この言葉が入れられているのです。
そうすると、私たちはこれをどう考えればいいのかということはやはり気になります。聖書の中にこの言葉が入れられているということは、一体、いつ、この文言が入れられるようになったのでしょうか。 (続きを読む…)

2010 年 9 月 12 日

・説教 主の祈り「試みにあわせないで、悪からお救いください。」 マタイの福音書6章13節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 18:23

鴨下直樹

先週までの五週間の間、この芥見教会ではいつも水曜日と木曜日に行われている聖書研究祈祷会の時間に「信徒による聖書学び会」が行われました。十人の信徒の方々がそこで証しをしてくださったり、それぞれの日頃の生活の中からどのような主からの恵みを受けておられるかを証ししてくださいました。私もそのすべてに参加することはできませんでしたけれども、参加された方の口から本当にさまざまな感想を耳にすることができ、うれしく思いました。その中でも多くの方が言っておられたのは、自分たちの知らないところで、証しされた方々が悩んでいたり、困難を抱えたりしていながらも、主に祈りながら歩んでおられることを伺い知ることができて本当に良かったということでした。
普段親しくしている方のことは耳にすることがあるかもしれませんけれども、私たちはそれぞれがお互いの生活をよく知っているわけではありません。また、今回は教育部の長老が、なるべく役員に当たらないようにしたということもあって、普段なかなか耳にすることの少ない方々の証しを聞くことができたようです。

おそらくそこで多くの方が祈りの大切さ、あるいは祈りの力ということを改めて考えさせられたのではないかと思います。今、こうして主の祈りの言葉を一つずつ丁寧に学んでおりますけれども、そこで私がみなさんに本当に知ってほしいと願うのは、日ごとに祈るということの大切さを知ってほしいということです。祈りの働く力を、身をもって知っていただきたいのです。私たちは誰もが、人には一つ一つ報告することがなかったとしても、様々な日常の信仰の戦いがあります。そのような中で、私たちを支えるもっとも確かなものが祈りなのです。 (続きを読む…)

2010 年 8 月 22 日

・説教 主の祈り「罪を赦したまえ」 マタイの福音書6章12節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 00:17

鴨下直樹

私たちは礼拝で主の祈りを祈ります。みなさんの中には、毎日この主の祈りを祈っておられるという方も少なくないと思います。宗教改革者ルターは、ここで教えられている祈りの一つ一つは、生涯にわたって祈らずにはおられないほどの重大なものばかりである、と言っています。それで、長い教会の歴史の中でも度々この祈りを私たちの日毎の祈りとするようにと勧められてきました。
しかし、日毎にこの祈りを真剣に祈ろうとする時に、どうしても立ち止まらざるを得なくなるのが、今朝私たちに与えられている御言葉であるということができると思います。
「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」という祈りです。
長く慣れ親しまれて来た文語訳聖書の主の祈りの言葉ではこうなっています。
「我らに罪を犯す者を我らが赦す如く、我らの罪をも赦したまえ。
「私たちに罪を犯した者を私たちが赦したように、私たちの罪も赦して下さい。」と祈るのです。そうすると、そこでどうしても考えなければならないのは、「私たちが罪を赦したように」、文語訳の言葉では「我らが赦す如く」という言葉の持つ意味です。ここでは、もう私は人のことを赦していますから、どうか私の罪も赦してくださいと言うのです。

私が以前奉仕しておりました教会で、耳が聞こえなくなってしまった方が来ておられました。それまでは普通に聞こえていたのです。ところが、務めている会社でひどいいじめを受けて耳が聞こえなくなってしまったのです。やがて教会を訪ねるようになり、信仰を持つようになりました。そして次第に耳も聞こえるようになっていきました。ところが、その方がある時、私にこんな話をしてくださいました。私はこの主の祈りのこの部分になると声を出して祈ることができないのですと。いつも、ここだけは祈ることができずに黙っているというのです。このように心からは祈れないというのです。
このような厳しい経験はないかもしれませんけれども、みなさんの中にも主の祈りのこの部分が祈れなくなるというようなことがあるのではないでしょうか。 (続きを読む…)

2010 年 8 月 8 日

・説教 主の祈り「日毎の糧を」 マタイの福音書6章11節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 10:11

鴨下直樹

この「日毎の糧を与えたまえ」という祈りは、私たちにとっておそらく最も身近に感じる祈りだと思います。この祈りはこの時代に生きる私たちにとってますます身に迫る祈りとなっているといえるかもしれません。この主の祈りについては、さまざまな時代に語られてきました。特に、私たちの国においても、いわゆるバブルと言われた時代、経済的な心配をそれほどしなくてもよい頃の説教というのは、多くが、私たちはこの祈りをしなくても食べるものには困らないけれど、それでもこの祈りを祈るのは何故か、という問いを持って語られることが多かったのです。ところが、このところの先行きの見えない経済、増え続ける税金などによって、もう一度この祈りが切実な響きを持つようになってきたと言えます。
このように、この日毎の糧を求める祈りというのは、必要が満たされるようにという祈りとして単純に理解すれば、私たちの生活の中心に置かれた祈りであると言えます。そして、この祈りが主の祈りの中の中心に位置しているのも偶然ではないだろうと思います。
礼拝の中で主の祈りを祈りながら、ここでようやくほっとすることができるということもあるのではないでしょうか。ここからが、私たちの日常の祈りであると感じるのです。確かに、この主の祈りは二つに分けることができると言われています。前半は神を讃える祈り、神についての祈りです。そして、ここから始まる後半部分が、私たちの祈り、私たちの生活に関する祈りであると理解することができるのです。 (続きを読む…)

2010 年 8 月 1 日

・説教 主の祈り「御心が行われますように」 マタイの福音書6章10節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:32

鴨下直樹

今、私たちは「主の祈り」を学んでいます。主の祈りを通して祈る心を学んでいます。ここに、私たちが日毎に口ずさむべき祈りがあるのです。
祈りを学びたいという人に私はよく紹介する一冊の本があります。P・T・フォーサイスの書いた「祈りの精神」というものです。もう何度も版を重ねておりまして、これを出していた出版社が倒産してしまったために、もう手に取ることができないかと思いましたけれども、先日、また異なった出版社から出されることになったと聞きました。教会の図書にも入っておりますので、是非お読みいただきたいと思う書籍です。
先週から信徒による聖書の学びが始まり、非常に豊かな時間を過ごすことができました。それに先立ちまして、先々週の祈祷会で、この「祈りの精神」という書物の最初の部分を共に読みました。出席された方々は、すでに最初のところを一緒に読んだのですけれども、「最悪の罪は祈らない事です」と言う言葉から始まるのです。神と共に生きる者は、祈りながら、他者のため、他の人のために祈ることになると、最初に語りながら、祈りがどれほど私たちの生活に必要であるかを語ります。この本の第一章は「祈りの本性」というタイトルがつけられています。この前半の中心的な言葉はこういう言葉です。「あらゆる祈りのうち、真の祈りは、『神よ、あなたの御心がなりますように』という祈りである」と言っているのです。祈りというのは、私たちの生活に不可欠なものだけれども、その祈りの中心は、結局のところ「御心がなりますように」という祈りだというわけです。
この祈祷会である方が質問をしました。「自分の祈りは自分の事ばかりを祈っていたのだけれども、そういう祈りは間違っているのか」という質問です。みなさんもそのような問いを持たれるのではないかと思います。 (続きを読む…)

2010 年 7 月 25 日

・説教 主の祈り「御国がきますように」 マタイの福音書6章10節 

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:21

鴨下直樹

私たちの芥見キリスト教会ではいつもですと、水曜日と木曜日の祈祷会の時に牧師か宣教師が聖書の学びをしております。私はアブラハムの生涯をしておりますし、マレーネ先生はペテロの生涯の学びをしていてくださいます。ところが、この夏休みの季節になりますと、信徒がこの祈祷会で御言葉を語ります。そこでは、人によって御言葉からの証しをしたり、普段それぞれが御言葉と向かい合っている生活の中で、自分はこのように理解しているのだけれども、他の人はどのように御言葉を受け止めているのかなどというような問題提起をしながら語り合ったりしているようです。さっそく今週から「信徒による楽しい聖書の学びと祈祷会」などという名前が付けられまして、担当者のリストがみなさんの手元に配られていると思います。私はキャンプなどで留守をすることが多く、全てに参加することはできませんけれども、できるだけ多くの集いに参加し、共にみなさんがどんなことを語られるのか今から大変楽しみにしています。いつもの祈祷会の時よりも多くの方々が参加されるようです。それは、私たちにとって大変意味のある時だと思います。誰がどのように御言葉に生きているのかということを直接に聞くことができるからです。そして、その時に、おそらくさまざまな感想が生まれるのだろうと思います。自分の御言葉に対する姿勢と違うというような経験をするからです。もちろん、それはどちらが正しいとか、ということではありません。それぞれの生活の中で聴き取る主の御言葉は、さまざまな聞かれ方をするのです。同じ御言葉を聴いていても、そこで起こる反応や応答は誰もが異なるのです。もっと言えば同じ御言葉を説き明かしていても、牧師の説教がすべて異なっているのと同じです。それは、また牧師の説教が異なるということだけではありません。それぞれの教会の伝統が異なるので、そこでまた強調して説かれることも変わってくるということもあるのです。 (続きを読む…)

2010 年 7 月 18 日

・説教 主の祈り 「父よ、御名があがめられますように」 マタイの福音書6章9節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:35

鴨下直樹

 この朝から私たちは主の祈りを学び始めます。出来るだけ丁寧に主の御言葉を聴きとろうと願っています。私の前任の牧師であった後藤喜良先生は、その二年半の間に祈祷会で二年半かけて主の祈りを学び続けたと聞きました。おそらくそこに参加された方々は驚いたのではないかと思います。私自身もそれを聞いて大変驚いたのですが、主の祈りというのは丁寧に学ぼうとすればそれほどになるということであるかもしれません。

 かつて古代の神学者であった教会教父のテルトゥリアヌスは、主の祈りのことを「福音の要約」と言いました。この祈りの中に、福音が、神からの喜びの知らせがぎっしりとまとめられていると言ったのです。ですから、それを丁寧にひも解いていくとすれば、二年半という月日がかかるのかもしれません。

 そういう意味ではこの9節だけでも、何回かに分けて語るのが良いと思いますけれども、二週間前に説教の予定を変えたこともありまして、今朝はこの9節を一度で学びたいと思います。

 

 「主の祈り」というのは、主イエスが弟子たちに祈りを教えられたものです。この主の祈りはルカの福音書の11章でも主イエスが教えられた祈りとして紹介されています。けれども、ルカのほうはマタイと少し違っているところがあります。 (続きを読む…)

2010 年 7 月 11 日

・説教 「祈りの姿」 マタイの福音書6章5-8節、14-15節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 19:29

鴨下直樹

 いつも説教の後に、自由祈祷と言いまして、それぞれが自由に御言葉への応答の祈りを捧げます。先日、加藤常昭先生が特別伝道礼拝に来られたときにも、礼拝で自由祈祷をしている教会はちょっと珍しいと言われました。どこの教会でもなされているのではないようです。この自由祈祷というのは、礼拝で主から御言葉を聴きますけれども、それにそれぞれが応えて自由に祈ろうというわけです。説教の後に、みんなの前で大きな声を出して祈るというのは勇気のいることです。また、自分の祈りが説教の応答にならないのではないかと考えて、祈りを躊躇なさる方もあると思います。あるいは、祈りというのは人前で立派な祈りを聴かせることではないはずだから自分は祈らない、と心の中で決めておられる方も中にはあるかもしれません。いずれにしても、人前で祈るというのは難しいことです。おそらく誰もが自由祈祷をする時にいつもいろんな事を考えながら、この祈りと向かい合っておられるのだと思います。

 

 今日、私たちに与えられている聖書は祈りを教える箇所です。そして、特にここでは、人前で祈るということについて主イエス御自身が注意を投げかけておられます。ここで何が語られているかと言いますと、人は祈りの姿において偽善者になると言うのです。そのように主イエスから言われてしまうと余計に人前で祈れないということにもなりかねません。もちろん、主イエスは人前で祈ることを禁じておられるわけではありません。ただ、そのような祈りの中で起こる誘惑に対して注意を投げかけておられるのです。

 

 主イエスはここでこのように語っておられます。 (続きを読む…)

2010 年 6 月 20 日

・説教 「施しの心」 マタイの福音書6章1-4節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 17:19

鴨下直樹

 今週の月曜日から、長野県の御代田で私たちの教団の牧師の修養会が行われます。今年のテーマは「休息」です。牧師たちが集まり、四日間にわたって「休息」について考えるというのもどうなのかという気がいたしますけれども、その修養会の中で「働きと休息」というテーマで一度聖書からの考察をしてほしいという依頼を受けました。それで、先週はこの説教の準備をするとともに、「休息」ということを考えながら御言葉から聞き続けておりました。そうすると、どうしても考えざるを得ないのは、なぜ「休息」というテーマを選んだのかということです。その一つの大きな意味の一つは間違いなく、牧師たちがゆっくり休むことができないという考えがあるのではないかと思わざるを得ません。

 けれども、ゆっくる休むことができないというのは、牧師たちだけのことではありません。むしろ、様々な仕事をしておられる方々の方が、本当に忙しく働いておられるのではないかと思います。私たちは誰もがそうですけれども、この「忙しい」という言葉を好んで使います。「忙しいから出来ない、無理」というようなことを言うことが、現代の口癖になっていると言っても言い過ぎではありません。そうすると、そこでどうしても「休息」ということともに考えざるを得ないのは、今日の聖書の御言葉です。 (続きを読む…)

2010 年 6 月 13 日

・説教 「神の愛に生きる」 マタイの福音書5章38-48節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:21

鴨下直樹

 先ほど、司式者が読まれた聖書の言葉を皆さんはどのようにお聴きになられたでしょうか。「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」、「あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」と、私たちはここでいくつものよく知られた主の言葉を聴きました。しかし、私たちはこのような御言葉を聞くと、自分にはここで語られているようなことはできない、できるはずがない、と読むのが普通であろうと思います。私たちはこの聖書の御言葉を耳にする時、耳をおおいたくなるのです。それほどに、現実離れしているように思える言葉が、ここに続けざまに記されていると思うのです。

 山上の説教はどこの箇所も、このように一見、実行不可能と思えるような言葉が続いて語られています。そして、ここにきて、それが頂点に達したような厳しさで語られていることに私たちは戸惑うのです。そこで今朝は、一度で聞くには内容の多いところではありますけれども、少しづつ順に今日語られている主の言葉に耳を傾けていきたいと思います。 (続きを読む…)

« 前ページへ次ページへ »

HTML convert time: 1.997 sec. Powered by WordPress ME