2010 年 10 月 17 日

・説教 「恐れる心と向き合って」 マタイの福音書7章1-6節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 08:59

鴨下直樹

今日、私たちに与えられている聖書の言葉が「さばいてはいけません」という言葉からはじまっています。唐突にこの言葉が出てきたかのような印象さえ持ちます。この前に何が語られていたかというと、そこでは「明日のための心配は無用」だと言われているのです。先ほどまでは、実に憐れみ深い方として優しく語りかけていてくださったかと思えば、今度は、その顔がすぐに鬼のように変わったかのように「裁くな!」と言われるのです。裁くというのはどういうことでしょうか。 (続きを読む…)

2010 年 10 月 10 日

・説教 「空の鳥、野の花を見よ」 マタイの福音書6章25-34節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 08:29

鴨下直樹

今、ずっと「山上の説教」から御言葉を聴き続けておりますけれども、この山上の説教にはとても有名な言葉がいくつも語られています。最初の「悲しむ者は幸いです。」という幸いを告げる言葉や、主の祈りもそうですけれども、そのほかにも実に様々な言葉が知られています。今日、私たちに与えられている「空の鳥を見なさい、野のゆりを見なさい」という言葉もよく知られた御言葉ですし、あるいは、そのあとに記されている「神の国と、その義をまず第一に求めなさい」という言葉もよく知られている言葉です。どうして、こういう言葉が良く知られるようになるのだろうかと考えてみますと、やはりそれは、多くの人の心をひきつける言葉が、そこに語られているからなのだろうと思います。そして、特に、今日私たちに与えられている言葉が良く知られるようになったのは、やはり、ここで語られている主イエスの言葉に多くの人が慰めを得たからだろうと思います。

今日の私たちに与えられている聖書の中には「心配」という言葉が六回も出てきます。新共同訳聖書では「思いわずらう」と訳されている言葉です。私たちの生活を振り返ってみますと、私たちの生活にはさまざまな「心配事」や「思いわずらい」があると言っていいと思います。そういう私たちの「心配」の中で起こる様々な心配や、思いわずらいを、聖書はどう語っているのかというのは、やはりキリスト者だけでなくても知りたいと思うところなのだろうと思います。 (続きを読む…)

2010 年 10 月 3 日

・説教 「あなたの宝のあるところ」 マタイの福音書6章19-24節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 17:46

鴨下直樹

今日の説教の題は「あなたの宝のあるところ」という題をつけました。私はいつも、自分のつけた説教の題が、下手な題のつけ方だなと少し心苦しい思いを持っています。ひと月前に、説教の箇所と題をすでに記いて、みなさんに今月の予定と共にお渡しするために、いつも説教代は暫定的につけます。まだ説教ができているわけではないのでやむを得ないということもありますし、後で変えればいいと思うのですけれど、それでもうまい言葉が見つかりません。けれども、今日のところについて言いますと、言いたいことはだいたい伝わるかなとも思っています。
今日のタイトルにあるように、ここの聖書の箇所の主題は明らかに宝です。後半のところでは富と言い換えられていますけれども、私たちの宝とは何か、私たちの心はどこに向かっているかということを、主イエスは問うておられるのです。しかし、宝などという言い方をしますと、すぐに連想されるものは「宝箱」です。古めかしい箱に入って、人目に触れないようにして隠してあるもののことをまず考えます。

私の子供のころの話で恐縮ですけれども、母親に「うちには宝箱はないのか」と尋ねたことがあります。そうすると母は少し考えてから、「ある」と言って、押入れの中から小さな箱を取り出してきました。 (続きを読む…)

2010 年 9 月 26 日

・説教 「断食の心」 マタイの福音書6章16-18節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 17:10

鴨下直樹

この山上の説教の第6章というのは、主の祈りを中心にして記されています。けれども、この祈りの前後に人前で見せる善行について、善い行いについて、主イエスはいくつかの注意を呼びかけています。もうずっと主の祈りを長い間かけて学び続けていましたので、この祈りの前後に何が書かれているかということを忘れてしまいそうですけれども、施しと、祈り、そして断食という当時の信仰者が大切にしていた信仰の姿を取り上げながら、主イエスはここで真の信仰の姿とは何かということを丁寧に語っておられるのです。

それで、今日語られているのが、この「断食」というところになります。「断食」というのは、今日の教会でそれほど熱心に勧められるということはあまりないように思います。信仰者の姿というよりは、むしろ健康に気をつけている人が食べ過ぎた時は断食がいいとか、体をリセットするために三日ほどの断食をするといいなどという言葉を耳にするほどです。しかし、そうだからといって、キリスト者が断食を全くしないということでもないようです。私の友人も、自分の進路をもう一度考えたいという時に、断食をして祈ったなどと言っておりましたし、牧師をしております私の父も、大事な決断をしようとする時には、断食の祈りをしておりました。私たちはこういう話を聞きますと、「そうか、断食というのは何やら大事なことを決断する時にするものなのか」という思いを描く方もあるかもしれません。断食というのはそもそもどういうものなのかということについて考えてみる必要があります。 (続きを読む…)

2010 年 9 月 19 日

・説教 「赦すことと赦されること」 マタイの福音書6章14-15節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 18:54

鴨下直樹

今、私たちは礼拝でこのマタイの福音書の御言葉を聞き続けています。特に、今は山上の説教と言われる、5章から7章までの主イエスが神の国に生きるという生活とはどういうものなのかを教えられた言葉を聞いております。そして、その中心に記されているのがこの主の祈りです。私たちは、この主の祈りの言葉を先週まで一つ一つ丁寧に聞き続けてきました。
ある方は、その中でお気づきになられた方があったかもしれません。新改訳聖書では13節の最後の鉤括弧(かぎかっこ)の中にこう書かれています。〔国と力と栄は、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕けれども一体、牧師は何故、この大事な言葉を省いてしまったのかと考えられた方があるのではないでしょうか。今日ははじめに、そのところからふれたいと思います。
新改訳聖書にはそのところに注がついておりまして、このように記されております。「最古の写本ではこの句は欠けている」とあります。最古の写本にこの文言はないということは、後の時代に書き足されたということが分かっているということです。そういうことで、ここは括弧書きになっているのです。つまり、主イエスが教えられた祈りの部分ではないことは明らかだということです。そういう理由から、ほとんど聖書にはこの部分は記されておりません。口語訳の聖書にも、新共同訳にもないのです。けれども、私たちは礼拝の中で主の祈りを祈るときにはこの部分も祈ります。やはり、こういう大事な言葉はいくら主イエスの言葉ではないからと言って、無くす必要はないのではいかと考えることもできます。それで、ドイツのルター訳や、英語のキングジェームス訳などという代表的な聖書はやはり括弧書きではありますが、この言葉が入れられているのです。
そうすると、私たちはこれをどう考えればいいのかということはやはり気になります。聖書の中にこの言葉が入れられているということは、一体、いつ、この文言が入れられるようになったのでしょうか。 (続きを読む…)

2010 年 9 月 12 日

・説教 主の祈り「試みにあわせないで、悪からお救いください。」 マタイの福音書6章13節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 18:23

鴨下直樹

先週までの五週間の間、この芥見教会ではいつも水曜日と木曜日に行われている聖書研究祈祷会の時間に「信徒による聖書学び会」が行われました。十人の信徒の方々がそこで証しをしてくださったり、それぞれの日頃の生活の中からどのような主からの恵みを受けておられるかを証ししてくださいました。私もそのすべてに参加することはできませんでしたけれども、参加された方の口から本当にさまざまな感想を耳にすることができ、うれしく思いました。その中でも多くの方が言っておられたのは、自分たちの知らないところで、証しされた方々が悩んでいたり、困難を抱えたりしていながらも、主に祈りながら歩んでおられることを伺い知ることができて本当に良かったということでした。
普段親しくしている方のことは耳にすることがあるかもしれませんけれども、私たちはそれぞれがお互いの生活をよく知っているわけではありません。また、今回は教育部の長老が、なるべく役員に当たらないようにしたということもあって、普段なかなか耳にすることの少ない方々の証しを聞くことができたようです。

おそらくそこで多くの方が祈りの大切さ、あるいは祈りの力ということを改めて考えさせられたのではないかと思います。今、こうして主の祈りの言葉を一つずつ丁寧に学んでおりますけれども、そこで私がみなさんに本当に知ってほしいと願うのは、日ごとに祈るということの大切さを知ってほしいということです。祈りの働く力を、身をもって知っていただきたいのです。私たちは誰もが、人には一つ一つ報告することがなかったとしても、様々な日常の信仰の戦いがあります。そのような中で、私たちを支えるもっとも確かなものが祈りなのです。 (続きを読む…)

2010 年 8 月 22 日

・説教 主の祈り「罪を赦したまえ」 マタイの福音書6章12節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 00:17

鴨下直樹

私たちは礼拝で主の祈りを祈ります。みなさんの中には、毎日この主の祈りを祈っておられるという方も少なくないと思います。宗教改革者ルターは、ここで教えられている祈りの一つ一つは、生涯にわたって祈らずにはおられないほどの重大なものばかりである、と言っています。それで、長い教会の歴史の中でも度々この祈りを私たちの日毎の祈りとするようにと勧められてきました。
しかし、日毎にこの祈りを真剣に祈ろうとする時に、どうしても立ち止まらざるを得なくなるのが、今朝私たちに与えられている御言葉であるということができると思います。
「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」という祈りです。
長く慣れ親しまれて来た文語訳聖書の主の祈りの言葉ではこうなっています。
「我らに罪を犯す者を我らが赦す如く、我らの罪をも赦したまえ。
「私たちに罪を犯した者を私たちが赦したように、私たちの罪も赦して下さい。」と祈るのです。そうすると、そこでどうしても考えなければならないのは、「私たちが罪を赦したように」、文語訳の言葉では「我らが赦す如く」という言葉の持つ意味です。ここでは、もう私は人のことを赦していますから、どうか私の罪も赦してくださいと言うのです。

私が以前奉仕しておりました教会で、耳が聞こえなくなってしまった方が来ておられました。それまでは普通に聞こえていたのです。ところが、務めている会社でひどいいじめを受けて耳が聞こえなくなってしまったのです。やがて教会を訪ねるようになり、信仰を持つようになりました。そして次第に耳も聞こえるようになっていきました。ところが、その方がある時、私にこんな話をしてくださいました。私はこの主の祈りのこの部分になると声を出して祈ることができないのですと。いつも、ここだけは祈ることができずに黙っているというのです。このように心からは祈れないというのです。
このような厳しい経験はないかもしれませんけれども、みなさんの中にも主の祈りのこの部分が祈れなくなるというようなことがあるのではないでしょうか。 (続きを読む…)

2010 年 8 月 8 日

・説教 主の祈り「日毎の糧を」 マタイの福音書6章11節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 10:11

鴨下直樹

この「日毎の糧を与えたまえ」という祈りは、私たちにとっておそらく最も身近に感じる祈りだと思います。この祈りはこの時代に生きる私たちにとってますます身に迫る祈りとなっているといえるかもしれません。この主の祈りについては、さまざまな時代に語られてきました。特に、私たちの国においても、いわゆるバブルと言われた時代、経済的な心配をそれほどしなくてもよい頃の説教というのは、多くが、私たちはこの祈りをしなくても食べるものには困らないけれど、それでもこの祈りを祈るのは何故か、という問いを持って語られることが多かったのです。ところが、このところの先行きの見えない経済、増え続ける税金などによって、もう一度この祈りが切実な響きを持つようになってきたと言えます。
このように、この日毎の糧を求める祈りというのは、必要が満たされるようにという祈りとして単純に理解すれば、私たちの生活の中心に置かれた祈りであると言えます。そして、この祈りが主の祈りの中の中心に位置しているのも偶然ではないだろうと思います。
礼拝の中で主の祈りを祈りながら、ここでようやくほっとすることができるということもあるのではないでしょうか。ここからが、私たちの日常の祈りであると感じるのです。確かに、この主の祈りは二つに分けることができると言われています。前半は神を讃える祈り、神についての祈りです。そして、ここから始まる後半部分が、私たちの祈り、私たちの生活に関する祈りであると理解することができるのです。 (続きを読む…)

2010 年 8 月 1 日

・説教 主の祈り「御心が行われますように」 マタイの福音書6章10節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:32

鴨下直樹

今、私たちは「主の祈り」を学んでいます。主の祈りを通して祈る心を学んでいます。ここに、私たちが日毎に口ずさむべき祈りがあるのです。
祈りを学びたいという人に私はよく紹介する一冊の本があります。P・T・フォーサイスの書いた「祈りの精神」というものです。もう何度も版を重ねておりまして、これを出していた出版社が倒産してしまったために、もう手に取ることができないかと思いましたけれども、先日、また異なった出版社から出されることになったと聞きました。教会の図書にも入っておりますので、是非お読みいただきたいと思う書籍です。
先週から信徒による聖書の学びが始まり、非常に豊かな時間を過ごすことができました。それに先立ちまして、先々週の祈祷会で、この「祈りの精神」という書物の最初の部分を共に読みました。出席された方々は、すでに最初のところを一緒に読んだのですけれども、「最悪の罪は祈らない事です」と言う言葉から始まるのです。神と共に生きる者は、祈りながら、他者のため、他の人のために祈ることになると、最初に語りながら、祈りがどれほど私たちの生活に必要であるかを語ります。この本の第一章は「祈りの本性」というタイトルがつけられています。この前半の中心的な言葉はこういう言葉です。「あらゆる祈りのうち、真の祈りは、『神よ、あなたの御心がなりますように』という祈りである」と言っているのです。祈りというのは、私たちの生活に不可欠なものだけれども、その祈りの中心は、結局のところ「御心がなりますように」という祈りだというわけです。
この祈祷会である方が質問をしました。「自分の祈りは自分の事ばかりを祈っていたのだけれども、そういう祈りは間違っているのか」という質問です。みなさんもそのような問いを持たれるのではないかと思います。 (続きを読む…)

2010 年 7 月 25 日

・説教 主の祈り「御国がきますように」 マタイの福音書6章10節 

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:21

鴨下直樹

私たちの芥見キリスト教会ではいつもですと、水曜日と木曜日の祈祷会の時に牧師か宣教師が聖書の学びをしております。私はアブラハムの生涯をしておりますし、マレーネ先生はペテロの生涯の学びをしていてくださいます。ところが、この夏休みの季節になりますと、信徒がこの祈祷会で御言葉を語ります。そこでは、人によって御言葉からの証しをしたり、普段それぞれが御言葉と向かい合っている生活の中で、自分はこのように理解しているのだけれども、他の人はどのように御言葉を受け止めているのかなどというような問題提起をしながら語り合ったりしているようです。さっそく今週から「信徒による楽しい聖書の学びと祈祷会」などという名前が付けられまして、担当者のリストがみなさんの手元に配られていると思います。私はキャンプなどで留守をすることが多く、全てに参加することはできませんけれども、できるだけ多くの集いに参加し、共にみなさんがどんなことを語られるのか今から大変楽しみにしています。いつもの祈祷会の時よりも多くの方々が参加されるようです。それは、私たちにとって大変意味のある時だと思います。誰がどのように御言葉に生きているのかということを直接に聞くことができるからです。そして、その時に、おそらくさまざまな感想が生まれるのだろうと思います。自分の御言葉に対する姿勢と違うというような経験をするからです。もちろん、それはどちらが正しいとか、ということではありません。それぞれの生活の中で聴き取る主の御言葉は、さまざまな聞かれ方をするのです。同じ御言葉を聴いていても、そこで起こる反応や応答は誰もが異なるのです。もっと言えば同じ御言葉を説き明かしていても、牧師の説教がすべて異なっているのと同じです。それは、また牧師の説教が異なるということだけではありません。それぞれの教会の伝統が異なるので、そこでまた強調して説かれることも変わってくるということもあるのです。 (続きを読む…)

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