2019 年 1 月 27 日

・説教 マルコの福音書11章12-25節「戦う主イエス」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 22:33

2019.01.27

鴨下 直樹

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 今日の説教題を「戦う主イエス」としました。戦っている主イエスのイメージというのは、私たちが心惹かれる主イエスのお姿とは少し違っているかもしれません。私たちは、主イエスのお姿を見る時に、人を慈しみのまなざしで見てくださるお方、人を癒し、人を受け入れ、赦してくださるお姿に安心します。慰めをそこに見出すことができます。けれども、ここで出てくるような、いちじくの木を叱りつけ、呪われるお姿や、神殿の境内で商売をしている人々の台をひっくり返して怒るお姿というのは、あまり心惹かれるということはないわけです。だいたい、人が怒っている姿を見て、それが好きという人はそれほど多くはないと思います。

 けれども、この戦う主イエスというお姿は、私たちが信仰の歩みをしていくなかで深く心に刻む必要のあるお姿です。そして、ここに深い慰めがあるということを私たちは今日、心に刻みたいと思うのです。

 主イエスは何と戦っておられるのでしょう。今日の聖書を見ると、特に、いちじくの木に向かって叱りつけておられるお姿には理不尽ささえ感じます。12節で「イエスは空腹を覚えられた」と書かれています。よく、「男の人はお腹が空くと機嫌が悪くなる」などと言います。主イエスも例外ではなかった。そう考えれば、男性陣は少しそういう気持ちを正当化できる気がするのかもしれません。けれども、もちろん、聖書はそんなことを語りたいわけではありません。

 葉っぱは青々として見せかけは立派だけれども、実の無いいちじくと、祈りの場である神殿で神への思いはそっちのけで商売にいそしむ人々の姿。この両者のあり方に対して主は戦っておられるのです。それは、つまり見せかけだけの信仰との戦い、あるいは神に期待しない信仰に対して、主イエスは戦っておられるということなのです。

 たしかに、実のなる季節ではないのに、実を実らせていないいちじくに腹を立てることは非常識なことです。私たちはこの常識というものに支配されて生きています。もちろん、それは大事なことです。非常識なことを期待して生きている人は、夢見がちな人などと考えられてしまいます。けれども、神は、私たちの常識を打ち破ってことを行われるお方です。すべて自分の手のうちにあることを期待するのであれば、それは神の御業としては何も起こらないことと同じです。葉は青々としていて見かけはよくても、それだけではいちじくの実を楽しむことはできないのです。神は、私たちの思いを超えて働くのです。 (続きを読む…)

2019 年 1 月 13 日

・説教 マルコの福音書11章1-11節「主がお入用なのです」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 17:14

2019.01.13

鴨下 直樹

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 マルコの福音書も今日から第11章に入ります。主イエスの一行が、いよいよエルサレムに入ってくるのです。そして、今日の箇所はそのことが記されているところです。

 特に、読み始めるとびっくりすることが書かれています。エルサレムに入る前に、ベテパゲとベタニヤという町に着いた時に、主イエスは二人の弟子を遣わして、子ろばを借りてくるようにと言われました。2節です。

「向こうの村へ行きなさい。村に入るすぐ、まだ誰も乗ったとこのない子ろばが、つながれているのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。」

 こうやって読むと、気になることがいくつか書かれています。まず、「まだ誰も乗ったことのない子ロバ」っていうのは、どうやったら分かるんだろうかと思うわけです。けれども少し考えてみると、どういうことか分かってきます。まだ誰も乗せられないと思えるほどに小さいロバということなんだと思うのです。そうすると、そんなロバをどうするつもりなんだろうかという疑問が浮かびます。しかも、つながれているのをうまい具合に見つけることができるのか、もし見つけることができたとしても、勝手に連れて来てしまっていいのかということも気になるわけです。どういうことなのでしょうか。

 結論から言うと、これは主がすでに備えておられたということです。3節にこうあります。

「もしだれかが、『なぜそんなことをするのか』と言ったら、『主がお入用なのです。すぐに、またここにお返しします』と言いなさい。」

 ここに「主がお入用なのです」と言いなさいと書かれています。これは、主イエスご自身が、ご自分のことを「主が」と言われたとても珍しい箇所です。主ご自身はここで、「主」として、この世界の造り主であり、支配者であるお方ということを自覚しておられるわけです。主として、これから子ろばを用いて、エルサレムに入場しようとしておられるわけです。そして、まさに主がこの子ろばを必要としておられる。それは、旧約聖書のゼカリヤ書の9章9節にこう書かれています。

娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って。雌ろばの子である、ろばに乗って。

このゼカリヤ書に書かれているように、神はすでにこのことを預言しておられ、この出来事を神は前から備えておられたのです。そのことが、ここで実現しているのです。ここで「主が」と書かれている言葉が示しているのは、この出来事を主が、神がすでに備えておられたということなのです。これからエルサレムで起こることは、すべて神の御計画であり、主ご自身がそのために働いておられるのです。

 けれども、そのようにして主自らが備えておられるのですが、それは人が願っていることとはかなりかけ離れていたということが、ここから明らかになってくるわけです。

 主イエスがエルサレムに入られるとき、そのお姿は、弱々しそうな子ろばにまたがっての入場であったことがここに記されています。この時代の人々は主イエスに大きな期待を抱いていました。確かに人々は大歓声とともに主イエスをエルサレムに迎え入れます。けれども、その姿は人々の期待と大きくかけ離れていました。颯爽と軍馬にまたがって、ローマをエルサレムから追い出すような、ダビデの再来のような救い主を期待していたのです。しかし、主イエスは子ろばにまたがっての入場だったのです。

 クリスマスにお生まれになられた救い主は、ベツレヘムの馬小屋でひっそりと生まれられたのと同じように、「平和の君」と呼ばれると言われた主イエスはここで、まさに戦いには似つかわしくない子ろばにまたがってエルサレムに入られたのです。私はこの場面を想像するときに、ドン・キホーテとサンチョパンサの姿を思い起こすのです。かたや、さっそうと馬にのったドン・キホーテに対して、従者のサンチョパンサはろばに乗っている。そんな滑稽さが、ここにあるわけです。 (続きを読む…)

2018 年 12 月 16 日

・説教 マルコの福音書10章46-52節「何一つ持たないで」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 09:36

2018.12.16

鴨下 直樹

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 教会で長く祈られてきた祈りに、「キリエ・エレイソン」という祈りがあります。今日出てくる、「主よ、憐れんでください」というラテン語の祈りです。残念ながら、私たちはあまりこの祈りを祈る習慣がありません。讃美歌21にも、いくつかこのキリエの賛美がありますが、私たちはあまり礼拝でこの曲を歌うこともありません。ただ、礼拝の中で交読する「栄光の賛美」「グローリア」という祈りを、長い間私たちはしてきました。ここに、「主よ、私たちをあわれんでください」という、祈りの言葉が三度、繰り返されています。これが、「キリエ」と言われる祈りです。

 普段、私たちは自分を憐れな存在であると感じることがあまりないと思います。あまり、自分の恥をさらすべきではないと思いますが、11月25日の午後、天白の教会で教団の11月総会が行われました。今は、代表役員ということになっていますので、この総会のために、さまざまなことを整えて総会に臨みます。ところが、11月は本当にいろいろなことがありまして、総会の始まる直前に、総会資料のプログラムに目を通しておりましたら、最初の説教のところに、私の名前が書いてあるのです。自分でそのプログラムを準備したのですから、当然分かっているわけですが、その時まで、すっかり忘れておりました。今更バタバタにしても仕方ありませんから、腹を決めて詩篇27篇から説教しました。それは、ここでも先月説教しましたし、総会の二日前にあった葬儀もここから説教しましたので、だいぶ自由に話せます。

 ところが、私はその時の説教で、感極まってかなり感情的な説教をしてしまいました。この詩篇は、前半部分では非常に信仰的な祈りがなされていますが、後半になると、祈り手は、神を見失ってしまって「主よ、憐れんでください」という祈りになります。その説教の中で、私たちの中にもそういうことがあるという一つの例として、自分のことを話しました。朝の礼拝の前に灯油をこぼしてしまって背広が灯油まみれになってしまったこと、いろいろ思うようにならないで愚痴が出てしまうことなどを話しました。そして、後になって、反省しました。自分が憐れだなどということを、人前で説教するというのは、聞いていて気持ちがいいものではありません。人前で自分の弱さを語るということは恥ずかしいことだと思うのです。

 そんなこともあって、総会でした自分の説教を恥じていたのです。そんな中で先週、その説教を聞いたある教会の役員が、ぜひ鴨下牧師を来年の修養会で教会に招きたいという声が上がったという知らせを受けました。私としては何とも言えない複雑な気持ちになりましたが、好意的に聞いてくださった方もあることが分かって少しの慰めになりました。
私たちは、人に自分がみじめな人間だ、自分はかわいそうだなどということをあまり話したがりません。私たちにはプライドがありますし、そもそも泣き言というのは、聞いていてあまり気持ちのいいものではありません。だから、そういう感情を隠しながら、あるいは歯を食いしばりながらなんとか耐えているということがあると思います。でも、本当は大変なのに、誰にも分ってもらえないということもまた、とてもつらいものです。

 ここに、一人の人が出てきます。名をバルティマイと言います。これまでの聖書ではバルテマイとなっていました。今度の翻訳で「バルティマイ」としたのです。バルというのは、「だれだれの子」という意味です。ですから、「ティマイの子」という意味ですが、聖書の中に、十二弟子以外で、個人の名前が出てくることは珍しいことです。名前があるということは、あとで、この人は知られる人になったということでもあります。なぜ知られるようになったのか。それが、この物語を通して分かるわけです。

 バルティマイは目の見えない、物乞いをしていた人です。エリコの街の出入口で物乞いをしていたのでしょう。通りかかる人の気配を感じると手をあげたり、声をあげて、誰かが恵んでくれるのを待つのです。人の憐れみにすがって生きて来た人です。けれども、そのことが、このバルティマイにとっては最大の強みであったということができると思うのです。 (続きを読む…)

2018 年 12 月 9 日

・説教 マルコの福音書10章35-45節「土台のある人生」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 08:53

2018.12.09

鴨下 直樹


 先週、教団役員会で武豊教会を尋ねました。教会の前に、もみの木のクリスマスツリーが置かれていました。今年から武豊で牧会されているベルンス先生に聞くと、根の上の部分から切り落とした生のもみの木でした。プラスチックのものと比べるとやはり生のもみの木は雰囲気があって一段と綺麗に見えます。ただ、根がありませんので、しばらくすると枯れてしまいます。このクリスマスの季節だけ使うことを考えればそれで充分です。それで、この時期になると、切り倒してきたもみの木が売られているわけです。けれど、ひと月ほどは持つようですが、何か月かすれば枯れてきてしまうので、少し残念というか、もったいない気がします。今日は、「土台のある人生」という説教題にしました。土台がない、根がない人生ということについて考えてみたいと思います。

 今日の聖書の箇所は主イエスの弟子であるヤコブとヨハネの言葉からはじまります。

「先生。私たちが願うことをかなえていただきたいのです。」

 主イエスの2度目の受難予告の後の出来事です。主イエスがここで、自分が殺されるという話をしているのに、その後で出てくる質問としてはちょっとどうかと思う質問がここで出されています。33節で、主イエスは受難の予告をされたときに、エルサレムに上って行くという話をしています。昨年、冬のオリンピックで良い成績を収めた選手のパレードの様子を何度かテレビで見たことがありました。何万人という人が集まって、金メダルをとった選手を一目見よう、またお祝いの声をかけようと集まってくるのです。その時の歓声の大きさ、人の集まり、それはもうまさに大群衆というような人の群れが生まれます。主イエスがエルサレムを訪れる。今ほど人口の多い時代ではありませんから、何十万人というような人がエルサレムに集まることはないと思いますが、それでもかなりの人の群れがエルサレムに集まるのです。それほど、主イエスは当時の人々の注目を集めていました。大祭司や律法学者が妬みを引き起こすほどの人気ぶりだったのです。

 弟子たちは、そんなことを想像したのかもしれません。あるいは、これは私の想像が行き過ぎているのかもしれません。ただ、殺されるという話を聞いて、ならば今のうちにお願いできることはしておこうということだったのかもしれません。いずれにしても、ヤコブとヨハネは、自分たちの願い事をかなえていただきたいというものでした。兄弟二人で申し出たわけですから、このタイミングで思いついたということではなくて、前からお願いしたいと考えていたということでしょう。

 主イエスにかなえてほしい願い事がある。それは、よく考えてみれば、特に珍しいことでもないでしょう。私たちには実にさまざまな願いがあります。病気が治るように祈ることもあります。無くしてしまった財布が見つかるように祈ることもあるでしょう。遠くに住んでいる家族のために祈ることもあります。ですから、このヤコブとヨハネの申し出を私たちは簡単に場違いなひどい願いだと決めつけてしまうことはできないと思うのです。

そして、主イエスはこの二人の願い事に対してこう言われました。

「何をしてほしいのですか。」

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2018 年 12 月 2 日

・説教 マルコの福音書10章17-34節「金持ちとペテロと主イエスと」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 10:29

2018.12.02

鴨下 直樹

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 「本音と建て前」という言葉があります。時々、教会では本音で話せないというような発言が出ることもあります。信仰というのは、きれいな世界なので、どうしてもきれいごとを言わないといけないというような気持ちになることがあるのかもしれません。

 カトリックの作家の書かれた「本音と建て前」というタイトルの本があるのですが、ドイツから日本に来る宣教師たちが、日本人をよく理解するためにこの本を読むように勧められるのだそうです。そして、読んでびっくりするのだそうです。人前では建て前でものを言う。けれども、その心の中は全然違うことを考えているのだとしたら、それは「嘘」ではないかと思うのです。人の顔色を見ながら、体裁のいいことを言う。しかし、心の中では何を考えているか分からないのだとすると、もうどうしていいか分からなくなるのです。そういうことから、教会でもきれいごとを言わないで、もっとその心の中のドロドロしたもの、本音を出して話すべきだ、そういう議論が出てくるわけです。

 ここに、素直な一人のお金持ちが出てきます。彼は、小さなときから律法に忠実でした。きっと育ちがいいのでしょう。親がしっかりした人だったのかもしれません。性格も悪くなさそうです。他の福音書には青年と書かれていますから、若さも持っています。若くて、お金を持っていて、性格も良さそうで、両親もちゃんとしている。言ってみれば、大切なものを何でも持っている人です。これ以上、何を求める必要があるのかと思えるような人です。彼は、主イエスにこう尋ねます。

「良い先生。永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたらよいのでしょうか。」

 驚くべきことです。この人は、人が望むものをみな持っていても、それで幸せになるのではないということを知っているのです。永遠のいのちを得なければ、この世で何を持っていても、肝心のものが欠けているということを理解しているのです。

 彼は、目先のことだけを求めてはいません。しっかりとした考えを持ち、何が大事なのかを見極めることができているのです。こんなみどころのある青年が、果たしてどれほどいるというのでしょうか。立派な青年です。好青年です。非の打ちどころのない青年と言っても言い過ぎではないと思います。しかも、主イエスのことを「良い先生」と呼びかけるのです。あなたから学べるものがある。あなたは、普通の人ではない。良い先生です。私はあなたから、この大切なもの、今のいのちを豊かにするために必要なものを学びたいのです。必要な永遠のいちのをどうしたら得られるのでしょうと問いかけるのです。しかし、この人に主イエスはこう語りかけるのです。

「なぜ、わたしを、『良い』と言うのですか。良い方は神おひとりのほか、だれもいません。」

 これは、なぞなぞのような答えです。どういう意味なのでしょうか。主イエスのことを「良い先生」と呼びかけました。あなたから学ぶべきものがあると。しかし、主は「良い」方は神おひとり、つまり、わたしを見るのではなくて、神を見上げなければ見えてこないと言われたのです。そして、これが、この長いテキストの語っている答えのすべてなのです。
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2018 年 10 月 28 日

・説教 マルコの福音書9章42-50節「小さい者として」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 10:55

2018.10.28

鴨下 直樹

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 今日のテーマは、「天国」と「地獄」の話しということができると思います。私は、父が牧師であったこともありますし、父が伝道者として色々な伝道集会で奉仕をしていたので、子どもの頃からたくさんの説教者の説教を聞いてきたと思います。その当時、教会の伝道集会であるとか、なんとかクルセードという名前の付けられた大衆伝道集会というものが比較的たくさん行われていました。クルセードというのは、もともとは「十字軍」のことを意味する言葉ですが、福音派の教会では「大衆伝道」という意味で使われていました。このクルセードという伝道集会で、福音派の著名な牧師たちは、天国と地獄の説教を何度となくしてきました。きっと今から30年ほど前に信仰を持たれた方は、そういう説教をよく聞く機会があったと思います。

 その説教というのは、神さまを信じないと地獄に落ちてしまうので、信じて天国に行きましょうというようなお勧めを語ってきたわけです。そして、そのころに、よく語られた聖書箇所が、今日の箇所だと言っていいと思います。

 ここに「ゲヘナ」という言葉が出て来ます。新共同訳聖書では「地獄」と訳しています。このゲヘナという言葉は、イスラエルに実際にあったベン・ヒノムの谷という、エルサレムの城外にあったゴミ捨て場のことです。そこでは、常にゴミが燃やされていたので、火が燃え続けている場所でした。そういう場所を語りながら、神の裁きを語ったのです。そして、神の裁きを受けるか、神の国に入るか、どちらが大切なのかということを、ここでは問いかけているわけです。

 「神の国」のことを、マタイの福音書では「天の御国」と訳しています。私たちがよく耳にする「天国」というのは、この神の国、主イエスが共にいてくださること、神が支配してくださるこという意味があります。ですから、この「天国」という言葉は、死後の世界、それこそ頭に輪っかがついていたり、天使の羽がはえていたりというようなイメージの天国というよりも、今ここで神が私たちと共にいて働いてくださるという意味があるわけです。もちろん、この神の国は将来のこと、死後のことも含んでいますけれども、今すでにということが大事なのです。そうであるとすると、この「ゲヘナ」とか、「地獄」とされている言葉も、死後の世界に、永遠に燃えている火で苦しむ場所というよりも、神の裁きという意味であると理解してくださるとよいと思います。

 さて、今日の箇所ですが、この直前の箇所までは、主イエスの寛容さが語られていましたから、ここから急に厳しいテーマに変わったという印象を持つ方があると思います。今日の前半の部分には何度も、「つまずき」という言葉が繰り返されています。このテーマはつまずきなのですが、最初の42節では「わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者」が神のさばきの対象、つまり、首に石臼をつけて、海に投げ込まれた方がよいと書かれているわけです。 (続きを読む…)

2018 年 10 月 14 日

・説教 マルコの福音書9章38-41節「弟子の視点と主イエスの視点」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 07:45

2018.10.14

鴨下 直樹

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 聖書を読む時に、大切なことがあります。コンテキストといいます。文脈と訳されることが多いのですが、その前後に何が書かれているかということをちゃんと理解をして聖書を読むことが大事なのです。

 今日の箇所は比較的短い箇所です。説教をするときに、どこで区切るのかということもありますが、今日の箇所は、この前の部分である30節から37節までのところと非常に深く結びついている箇所です。この前のところでは、誰が一番偉いのかということが主題になっていました。そして、主イエスは子どもを真ん中に立たせてから、37節のところで、

「だれでも、このような子どもたちの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。」

と言われたのです。
 今日の個所はそれを受けてのことです。そういう流れの中で、主イエスの弟子のヨハネが、主イエスに一つの報告をしたのです。

「先生。あなたの名によって悪霊を追い出している人を見たので、やめさせようとしました。その人が私たちについて来なかったからです。」

 主イエスは「わたしの名のゆえに受け入れる」という話しをなさったことを受けて、ヨハネなりに考えたわけです。主イエスの名によって小さな子どもを受け入れるのは、主イエスを受け入れることになる。それは、分かる。けれども、受け入れてはいけない場合もあるのではないか。そんなことをヨハネが考えたのでしょう。そこで、こういう場合はどうですかと、問いかけたわけです。 (続きを読む…)

2018 年 10 月 7 日

・説教 マルコの福音書9章30-37節「上に立つ者と下に立つ者」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 18:41

2018.10.07

鴨下 直樹

 最近、よく耳にするようになった言葉で「炎上する」という言葉があります。テレビに出てくるような人、例えば政治家であるとか芸能人が、個人的な見解を公にする。その発言が偏った、差別的な発言をすると、それを聞いて嫌な気持ちになった人たちがネットを通して、そのような考え方をみんなで非難することを指して「炎上する」というのです。どんどん人々の批判が燃え上がってしまうと、火消しをするのが大変な状態になるわけです。最近は、多くの人がSNS、ソーシャル・ネットワーキング・サービスと言いますけれども、自分の情報を発信して他の人と交流する場所をインターネット上に載せている人が沢山います。そこで何か失言をしたり、ある偏った考え方を公に発言すると、すぐに本人に直接、非難の言葉を投げかけることができるわけです。最近、この手の事件がニュースなどでもよく報道されるようになりました。

 政治家にしても、芸能人にしても、テレビに出てくるような人はうかつに何か偏った意見を発言することは気をつけなければならなくなっています。この「炎上」というような現象は、一昔であればみなが心の中で感じていたことですんでいましたが、今は誰もがそのことについて意見を発信できるようになっていますので、みんなと違う少数派の意見というのは発言しにくい環境というのが、こうしてどんどんできあがっているようにも思います。そこで考えさせられるのは、自分が大勢の側の場合は比較的問題にはなりにくいのですが、少数の側に立つと、みんなから寄ってたかって非難されるということになるということを理解していなければならないと思うのです。

 さて、今日の個所は、主イエスがなさったご自分の受難の予告のことがこの31節に再び記されています。前回、主イエスが予告をなさったときには、弟子のペテロが主イエスを諫めようとしたのですが、反対に「下がれサタン」と怒られてしまいました。ここで、もう一度、主イエスが何を言われたのかを見てみたいと思います。

イエスは弟子たちに教えて「人の子は人々の手に引き渡され、殺される。しかし、殺されて三日後によみがえる」と言っておられたからである。

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2018 年 9 月 23 日

・説教 マルコの福音書9章14ー29節「不信仰者の信仰」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 14:29

2018.09.23

鴨下 直樹

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 二週間間が空いてしまいましたが、今日は変貌の山での出来事の時に、残された9人の弟子たちが何をしていたのかということが記されているところです。前回、ウクライナの人形劇の話しをしました。ベルテックというのですが、上と下二段に分かれていて、下の舞台ではこの世界の現実の出来事が演じられ、上の舞台ではその時、天では神様がどのように働いておられるかということを同時に見せるのだそうです。それは、まさにこの聖書の箇所がそのような構成になっているということができると思います。

 有名なラファエロの描いた「キリストの変容」というタイトルの絵があります。それをみてくださると、よく分かると思いますが、上半分は主イエスが光り輝いていて、その両脇にモーセとエリヤが描かれています。そして、その下半分には残された弟子たちが、霊に支配された少年を癒そうとしながら、癒すことができなくて言い争う姿が描かれています。そして、今日の箇所はその、主イエスと三人の弟子たちが変貌の山で素晴らしい経験をしていた時に、残された弟子たちはどうであったのかというところから一緒に考えてみたいと思います。

 今日の聖書を見て、まず驚くことは、弟子たちは主イエスがいなくても、群衆を集め、律法学者たちと議論し、そして、霊に疲れた人を解放しようとしていたということです。主イエスがいない間、少し休んでいようと考えたのではなくて、いない間も、主イエスがいた時と同じように働こうとしていたということは、すごいことだと私は思います。「その心意気やよし」ということだと思うのです。ところが、弟子たちにとってそれは、簡単なことではありませんでした。うまく行かなかったわけです。そんなときに、山から主イエスと三人の弟子たちが戻ってきます。14節にこう書かれています。

群集はみな、すぐにイエスを見つけると非常に驚き、駆け寄って来てあいさつをした。

 理由は書かれていませんが、人々は山から下りて来た主イエスを見て、「非常に驚いた」
とあります。何に驚いたのでしょうか。

 旧訳聖書でモーセがシナイ山に上って神から十戒を頂いたとき、山から下りて来たモーセの顔はどうなっていたのかというと、そこではこう書かれています。「モーセは、主と話したために自分の顔の肌が輝きを放っているのを知らなかった」と出エジプト記34章の29節に書かれています。

 この時モーセは80歳をゆうに超えていましたけれども、お肌が輝いていたというのです。ヒアルロン酸を使ったわけでも、アンチエイジングとして何かをしたわけでもありません。神と出会うと、お肌が光り輝くというのです。 (続きを読む…)

2018 年 9 月 2 日

・説教 マルコの福音書9章2-13節「聞け、そして、見よ」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 15:00

2018.09.02

鴨下 直樹

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 二週間の夏休みをいただいておりまして、この間御代田にあります望みの村で少しゆっくりとした時間を過ごすことができました。望みの村では同盟福音の牧師や宣教師だけではなくて、他の教団の牧師や宣教師たちにも夏の間の宿を提供しています。そこで、一人の方とお会いしました。深井智朗先生です。深井先生は、今年、中公新書で出された「プロテスタンティズム」という本で吉野作造賞を受賞された方です。昨年宗教改革500年を迎えて、宗教改革が現代に何をもたらしたのかということを書かれました。今は東洋英和女学院の院長をしておられるのですが、その前は名古屋の金城大学で教授として教えておられた方です。

 実は、御代田でお会いしたのは私ではなくて、小学1年の娘です。御代田では、特にやることもないので、娘はマレーネ先生がみえる間はしょっちゅうマレーネ先生の泊まっておられる家に入りびたりになります。そこに来られた深井先生とマレーネ先生が話していたところ、翌日の礼拝は軽井沢の教会で説教をするということを聞いたのです。それを聞いた娘が、私たちも明日、その教会に行く予定にしていると、どうも、話したようです。実は私たちは、他の教会に行こうと思っていたのですが、娘が言ってしまったのなら仕方がないということで、その礼拝に出席することにしました。そして、深井先生の説教をはじめて聞いたのですが、本当に素晴らしい説教で、娘に改めて感謝しました。

 前置きが長くなったのですが、その説教でウクライナの人形劇でベルテックと呼ばれている人形劇があることを知りました。人形劇の大きさは縦2メートル、横3メートルの舞台が、上下二段に分かれているのだそうです。その劇では、この下の世界と上の世界の2場面を同時に演じるのを見るのだそうです。上の世界は天の世界。下の世界は地上の世界です。こういう人形劇はウクライナのユダヤ人が、子どもに信仰を教えるために考えたということでした。

 どんな人形劇か知りたいと思ったのですが、残念ながら見つけることができませんでした。ただ、そこで行われる物語は、信仰の話で、下では現実の私たちの世界が描かれているのですが、上の舞台、天では、その時同時に神様が働いていてくださって、私たちの生活を、私たちの見えないところで支えて下さっているのを、その劇では見ることができるということなのです。

 この地上で起こっている私たちの世界と、天上で起こっている神の御業。私たちにはこの神の世界は見えません。今日の聖書箇所は、このウクライナの人形劇の世界と重なり合います。ちょうど、ここに二つの出来事が記されています。一つは山の上で起こった不思議な出来事です。「変貌山」(へんぼうざん)などと昔から言われて来たこの出来事は、主イエスの姿が、まさに変わったのです。それまでの主イエスの姿ではなく、完全に聖いお姿、「その衣は非常に白く輝き、この世の職人には、とてもなし得ないほどの白さであった」と3節に書かれています。しかも、その両脇には伝説の人物と言っていいと思いますが、モーセとエリヤがあらわれたのです。旧約聖書の中には3人、死を経験しないで神のみもとに行った人物が描かれています。その一人は創世記に出て来るエノクです。この人たちは神の御許で生きていると考えられていました。そして、今ここに、その旧約聖書を代表する二人、モーセとエリヤが、光り輝く白さを身に帯びた主イエスと共にいるのを目のあたりにしたのです。 (続きを読む…)

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