・説教 マルコの福音書9章14ー29節「不信仰者の信仰」
2018.09.23
鴨下 直樹
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二週間間が空いてしまいましたが、今日は変貌の山での出来事の時に、残された9人の弟子たちが何をしていたのかということが記されているところです。前回、ウクライナの人形劇の話しをしました。ベルテックというのですが、上と下二段に分かれていて、下の舞台ではこの世界の現実の出来事が演じられ、上の舞台ではその時、天では神様がどのように働いておられるかということを同時に見せるのだそうです。それは、まさにこの聖書の箇所がそのような構成になっているということができると思います。
有名なラファエロの描いた「キリストの変容」というタイトルの絵があります。それをみてくださると、よく分かると思いますが、上半分は主イエスが光り輝いていて、その両脇にモーセとエリヤが描かれています。そして、その下半分には残された弟子たちが、霊に支配された少年を癒そうとしながら、癒すことができなくて言い争う姿が描かれています。そして、今日の箇所はその、主イエスと三人の弟子たちが変貌の山で素晴らしい経験をしていた時に、残された弟子たちはどうであったのかというところから一緒に考えてみたいと思います。
今日の聖書を見て、まず驚くことは、弟子たちは主イエスがいなくても、群衆を集め、律法学者たちと議論し、そして、霊に疲れた人を解放しようとしていたということです。主イエスがいない間、少し休んでいようと考えたのではなくて、いない間も、主イエスがいた時と同じように働こうとしていたということは、すごいことだと私は思います。「その心意気やよし」ということだと思うのです。ところが、弟子たちにとってそれは、簡単なことではありませんでした。うまく行かなかったわけです。そんなときに、山から主イエスと三人の弟子たちが戻ってきます。14節にこう書かれています。
群集はみな、すぐにイエスを見つけると非常に驚き、駆け寄って来てあいさつをした。
理由は書かれていませんが、人々は山から下りて来た主イエスを見て、「非常に驚いた」
とあります。何に驚いたのでしょうか。
旧訳聖書でモーセがシナイ山に上って神から十戒を頂いたとき、山から下りて来たモーセの顔はどうなっていたのかというと、そこではこう書かれています。「モーセは、主と話したために自分の顔の肌が輝きを放っているのを知らなかった」と出エジプト記34章の29節に書かれています。
この時モーセは80歳をゆうに超えていましたけれども、お肌が輝いていたというのです。ヒアルロン酸を使ったわけでも、アンチエイジングとして何かをしたわけでもありません。神と出会うと、お肌が光り輝くというのです。
前回の説教から二週間、私はまた芥見から離れておりまして、本当に申し訳ないと思っております。私が以前牧会をしていた教会の50周年の記念礼拝に招かれまして説教をしてきました。また先週は、教団主催の次世代の牧師と信徒の代表の方々と、ドイツのアライアンスミッションの代表であるトーマス・シェヒ先生を講師にして4日間のキャンプを根尾山荘で行いました。教団の半数近い牧師たちを根尾に招いてのことでしたから、多くの教会では先週の日曜日は他の説教者を立てるのが大変なことであったと思います。教団としても非常に大きな決断をすることになったと思います。根尾山荘がシナイの山や変貌の山のような聖なるところかどうかは、何とも言えませんが、参加した牧師たちの顔は輝いて山を下りていったと思います。そして、この朝の主の日の礼拝で、それぞれ説教をしていることと思います。午後から教団の日の集会がありますから、ぜひ、牧師たちの顔を見てみてください。きっと光り輝いていると思います。
さて、山を下りた時、主イエスはある現実を突きつけられます。残されていた弟子たちは、主イエスのように、悪霊に支配されてしまっている子どもを解放することができなかったのです。これが、弟子たちの現実でした。山の上でどれほど主イエスが光り輝いて神の栄光を身にまとっていたとしても、それは自分の実際の生活にはあまり意味をもっていない。これが現実なのだと、自分のことを改めて知らされることになるわけです。
弟子たちは律法学者たちと何やら論じ合っています。何を論じ合っているのかと尋ねると、こういう答えが戻ってきます。
「口をきけなくする霊に憑かれた私の息子を連れて来たけれども、あなたの弟子たちには追い出せませんでした。」
父親はそのように主イエスに訴えます。すると、主イエスはこう答えられました。19節。
「ああ、不信仰な時代だ。いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいなければならないのか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」
二週間前に古知野教会の創立50周年の礼拝に行ってきました。久しぶりにお会いした方々と、私たちが古知野教会に赴任した一年目のことを思い起こして話しておりました。この一年目は、本当にいろんなことがあった一年でした。後にも先にも、あんなに大変だった一年はありませんでした。その中の一人に、当時教会に来ていたアフリカの青年のことが話に出ました。当時、彼はいつも夜も12時を過ぎた頃に車で教会にやってきます。とても困った顔をして、私に助けを求めに来るのです。けれども、言葉が通じません。
彼は、毎回こう言うのです。「パスターは神様と繋がっているから私の考えていることが分かるはずだ」と。けれども、一向に言葉が通じず、そうすると腹が立ってきて、叫んだり、暴れたりしはじめるのです。もう手がつけられなくなると、警察を呼んだこともありました。救急車を呼んだこともあります。隣の英語が話せる先生を呼んだこともあります。週に二、三度そういうことは起こります。それこそ、悪霊に憑かれているのではないかと思って、お祈りしたこともありますが、何も起こりませんでした。
そんなことが二カ月も三カ月も続いたのです。私の妻もノイローゼのようになっていましたし、彼が来るともううんざりして、こころからの対応ができなくなったことがあります。何度も、病院に連れて行って、そこからある名古屋の病院が彼を受け入れてくれて、そこで治療を受けて、結局飛行機に載せて国に帰らせました。今考えると、この弟子たちと何も変わりません。結局、何もできなかったのです。
主イエスはここで弟子たちに向かって、不信仰だと嘆かれたのです。いつまで我慢しなければならないのかと嘆いておられるのです。言われた方からすればショックです。けれども、少し考えてみました。私たちも時折、同じような言葉を口にすることがあると思います。「いつまで我慢しなければならないのか。」このようにいう時、もちろん腹を立てていることもあると思います。がっかりもしていると思います。けれども、そう口に出して相手に言うのは、相手に気づいて欲しい、分かって欲しいと期待しているからです。主イエスはここで弟子たちに不信仰だと言いながら、弟子たちの信仰を引き出したいと考えておられるわけです。
すると、人々は主イエスのところにこの少年を連れて来ます。主イエスが「わたしのところに連れて来なさい」と言われたからです。この少年は聞いてみると子どものころから何度も同じような発作を起こしていると親は答えます。もう慣れている、分かっている。けれども、親の思いとしては癒してほしい、子どもがこの病から、霊から解放されたらどんなに素晴らしいことかと願っているのです。ですから、こう言います。22節の後半です。
「しかし、おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください。」
癒してほしいと願っているのです。ずっと親はそう願い続けて来ました。けれども、ずっとそう願って来たということは、ずっとその願いはかなえられてはこなかったということでもあるわけです。そういう思いが、ここで言葉になって表れます。助けて欲しいという気持ちはあるけれども、できなくても当然。もう何度も経験しているから分かっている。「でも、もしできるなら」と主イエスに言ったのです。この父親の言葉は、考えて見ると癒されなくても自分が傷つかないように守っているということなのかもしれません。一応お願いだけはしてみるけれど。そんな消極的な姿勢が、この言葉にはよく表れています。
しかし、主イエスはここでこう語りかけます。
「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」
主イエスはここで、この不信仰な親に問いかけておられるのです。「信じる者には、どんなことでもできる」。何という魅力的な言葉でしょう。もう、こう言われるとスーパーマンにでもなれるような気持ちなのでしょうか。信仰さえあれば、何でも可能になる。そういうことを主イエスは言おうとされているのでしょうか。
以前の教会にいた時に、それこそ毎年、ある季節がくると相談に来られる方がありました。その方は、毎年病院で健診を受けていたのです。ところが、毎年、「また来年も来てください」と言われるだけで、もう直りましたと医者は言ってくれない。私はいつも物凄く真剣に祈って検査に行くのに。私の病気が治らないのは、私が信じ切れていないからでしょうかと質問してくるのです。完全に癒していただけるには100%信じ切ることが大事で、99%信じても、1%でも疑う心があったら神様は癒してはくださらないんでしょうかと質問してくるのです。そして、毎年、そういうことではないということを丁寧に説明しますが、どうしても分かってもらえないのです。
「信じる」というイニシアティブが自分にあると思っている時、この言葉は完全に信じ切ることができれば何でも可能になるという意味になって響いてしまうのです。そうすると、そういう思いで宝くじを買えば必ず当選するし、何をやっても成功以外にないということになります。それは、全部、自分の願いが中心で、神がどう考えておられるのかということは、少しも頭の中にはないのです。
今回のところを、ある聖書の解説でこう書かれているのを見つけました。「信じる者には、どんなことでもできる」この「信じる者」とは誰を指すのだろうか。この「信じる者」というのは主イエスに他ならない。主イエスにはどんなことでもできるということだというのです。なかなか、ここまで書く解説者はいません。けれどもイニシアティブは主イエスにあるという意味で言えばまさに、そういうことになると思います。主イエスがしてくださることがすべてです。癒すのも、癒されないもの、すべては主イエスの御手の中にあるのです。
すると、この主イエスの語り掛けに対して父親は答えます。
「信じます。不信仰な私をお助け下さい。」
主イエスは不信仰な者の心に、信じる心を起こさせてくださるのです。主イエスを信じる心を与えてくださるのです。そして、主イエスはこのようになさいます。25節です。
「口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊、わたしはおまえに命じる。この子から出て行け。二度とこの子に入るな。」
そのように、語り掛けられるのです。
するとどうなったのかというと、霊は叫びながら出て行きます。そして、その息子は死んだようになってしまいます。多くの人たちは「この子は死んでしまった」と言ったとあります。この瞬間、回りにいた人たちは、「死んでしまった」と思ったのです。ダメだったと思ったのです。このしばらくの沈黙の間、人々は何を考えたことでしょう。ああ、そんなことを言ったって駄目だったではないか。主イエスでも癒せないで、かえって殺してしまったではないか。そう考えたのです。
ところが、27節
しかし、イエスが手を取って起こされると、その子は立ち上がった。
まるで、死者が復活したような書き方です。絶望し、あるいは主イエスの無力さを感じたであろう人々は、次の瞬間、生ける神のみわざを見る証人とされるのです。
そして、ここで一つの大きな事実が明らかになるのです。それは、主イエスにはできるが、弟子たちにはできないという事実です。この二つの間の溝はそれほど簡単には埋められないのです。弟子たちは主イエスに尋ねます。何故なのかと。私たちにできないのは何故なのかと。29節。
すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことができません。」
主イエスと弟子たちとの決定的な違いは、祈りだという、予想もしていなかったような答えがここで返ってくるのです。信仰とは祈りだと言うのです。祈り願う相手のこと、神のことを知ることです。自分にどんな願いがあるか。自分がどうなりたいか、どうして欲しいか。私たちの心はどうしても、そこに傾いてしまうのです。なぜ、わたしにはできないのか。なぜ、私の病気が治らないのか。祈りが不十分だからなのか。1%足りなかったからなのか。何が悪いのか、どこが違うのか。いつまでたっても見ているのは自分のことばかりなのです。
私は祈っているのだ。と主イエスは言われるのです。私は主なる神を見上げているのだと、主は言われるのです。信仰とは祈ること。信仰とは、神と向かい合うこと。大切なことはそこにある。そう主イエスは言われるのです。
弟子も不信仰です。父親も不信仰です。牧師も不信仰、私たちはみな不信仰です。だから、祈るのです。神に心を注ぎだすのです。神にすべてを委ねるのです。そうしたら、すべての答えは主のところにあることが分かるのです。それが分かったら、もう十分です。病気が癒されても、癒されなくても、神が私を見ていてくださる。そのことが分かったら、信仰者である主イエスを見上げることができたら、それで良いのです。そして、私たちの主は、不信仰な私たちを、信仰へと招いてくださるのです。
お祈りをいたします。