今月の礼拝予定(2025年11月)

11月2日 三位一体後第20主日

主日主題: 神の国
聖餐式礼拝: 午前10時30分(Zoom配信)
聖書:ルカの福音書20章9-19節
説教:「貧しい神と豊かなしもべ」鴨下直樹牧師

礼拝後:誕生月の祈り、役員会

11月09日 三位一体後第21主日

主日主題: 召天
公同礼拝: 午前10時30分(Zoom配信)
聖書:ヨハネの黙示録21章1-5節
説教:「涙を流すことのない天の御国で」鴨下直樹牧師

11月16日 三位一体後第22主日

主日主題: 恵み
公同礼拝: 午前10時30分(Zoom配信)
聖書のお話:「ピリピでの伝道」内山のぞみ
聖書:マルコの福音書8章1-10節
説教:「七つのパン」内山光生牧師

礼拝後:礼拝準備会/月間予定確認会、大掃除/草刈り

11月23日 終末主日

主日主題: 子どもの祝福
公同礼拝: 午前10時30分(Zoom配信)
聖書のお話:「受け取ろう平和」河合和世
聖書:マルコの福音書8章11-21節
説教:「弟子たちが悟ることを期待したイエス」鴨下直樹牧師

礼拝後:愛餐会、クリスマス飾りつけ、教団総会

11月30日 待降節第1主日

主日主題: 神の主権
公同礼拝: 午前10時30分(Zoom配信)
聖書のお話:「エペソでの伝道」鴨下愛
聖書:ルカの福音書20章20-26節
説教:「大切なものはその奥に」鴨下直樹牧師

礼拝後:臨時総会/役員改選、聖歌隊練習

・説教 ルカの福音書20章1-8節「何の権威によって?」

2025.10.26

鴨下直樹

⇒ 説教音声の再生はこちら

 先週の火曜日と水曜日、日本自由福音教会連盟の理事会があって、私は神戸まで行ってきました。私たち同盟福音基督教会と信仰のルーツを同じくする教団は、日本福音自由教会協議会、日本聖約キリスト教団、日本聖契キリスト教団とありまして、これら4つの団体で、「日本自由福音教会連盟」という交わりを作っています。来年で、この交わりが作られて30年が経過するということで、会議の中で、これまでの交わりを振り返るような時間が持たれました。というのも、今年、15年ぶりにこの連盟、4団体の牧師研修会が再開されることとなったからです。これまでも、この4つの教団は実に楽しい交わりをしてきました。

 この自由福音連盟は今、IFFECと呼ばれる世界の自由福音教会の交わりに加盟しようとしています。特に今回、提出する資料の準備をするということもあって、これまでの歴史を振り返ることとなったのです。そこで、今から15年前に『連盟記念誌』というものが発行されていたことが分かりました。その記念誌の中に、「私たちは4年おきに合同牧師会を行う」と書かれていました。ところが、この記念誌が書かれたのを最後に、15年の間、合同牧師会が行われていなかったのです。詳しい理由はよく分からないのですが、15年前の合同牧師会の時に、何かトラブルがあったようで、そのために大きな赤字が出てしまったようなのです。

 トラブルが起こると、どうしても誰が責任を取るのかという話になりますが、その時の代表の先生方も、それぞれに責任を負って、かなりご苦労をされたことが分かりました。そんなこともあって、それから15年の間、合同牧師会をやろうという声が上がらなかったのが実際のようなのです。そんな話を聞いていますと、どうしても考えてしまうのは、代表として選ばれている先生方というのは、さまざまなことを決定する権限が与えられていると同時に、大きな責任を負うことになるのだということでした。

 今日の聖書の箇所は、主イエスがエルサレムの神殿にやって来られたところです。神殿では、商売人たちが商売をしていて、福音が語られる場所とはなっていません。それで、主イエスは、神殿にいた商売人たちをみな追い出してしまわれます。こうしてようやく落ち着きを取り戻した神殿で、主イエスは福音を語り始めることがおできになったのです。主イエスにしてみれば、神を礼拝する神殿に行ってみると、そこには大きなトラブルがあったわけです。それで、そのトラブルを解決して、ようやく本来の姿に戻ったという状態です。ところが、主イエス側から見れば確かにそうなのですが、神殿側の人間から見れば、まさにこの時の主イエスこそがトラブルの張本人です。そこで、神殿側の人間である、祭司長、律法学者、長老たちは主イエスに詰め寄ります。2節です。

「何の権威によって、これらのことをしているのか、あなたにその権威を授けたのはだれなのか、教えてくれませんか。」

 冷静な言葉を装っていますが、彼らの内心は、はらわたが煮えくり返るほどの憤りに満ちていたに違いありません。「どんな資格があって」「誰の権限で」「いったいどういう了見でこれをしているのか!」と主イエスに詰め寄ったのです。 続きを読む ・説教 ルカの福音書20章1-8節「何の権威によって?」

・説教 マルコの福音書7章31-37節「エパタ」

2025.10.19

内山光生

そして天を見上げ、深く息をして、その人に「エパタ」、すなわち「開け」と言われた。すると、すぐに彼の耳が開き、舌のもつれが解け、はっきりと話せるようになった。  

マルコ7章34~35節

序論

 先週、久しぶりに本巣の方にある谷汲温泉に行きました。岐阜県には、評判の良い温泉が幾つもありますが、谷汲温泉は私が好きな温泉の一つです。夏の間は、シャワーで済ませていた事が多かったのですが、久しぶりにゆっくりと温泉に浸かると、身体と心が癒される気持ちとなりました。

 別の話ですが、数か月前から私は毎日、足裏マッサージをしていました。もう20年以上前に買ったマッサージ機ですが、ずいぶんお世話になっていて、愛着を持っていました。ところが、先日、突然、その器械が壊れてしまったのでした。とても残念に思いました。けれども、20年以上も用いることができたので、十分に役割を果たしてくれたと感謝しています。と同時に、新たなマッサージ機が必要なので、良い物が手に入るよう神様に祈っています。

 さて今日の箇所は、イエス様による癒しがなされた出来事が記されています。また、結構、有名な箇所なので内容自体は知っている人が多いかと思います。その中にあって、聖書が私たちに伝えようとしている事が何なのかを考えていきたいと思います。

I 耳が聞こえず口の聞けない人が連れてこられる(31~32節)

 31節から見ていきます。

 前回の場面は、ツロの地方、すなわち、ガリラヤ地方よりも北西に位置する異邦人の町が舞台となっていました。イエス様とその弟子たちは、恐らく、ツロの地方で短い期間ですが休息を取るために滞在していたと思われます。

 そして、休息の時が終わると、イエス様とその弟子たちは、再び、宣教活動の拠点となっているガリラヤ湖の方に戻って来られたのです。その地はイエス様の活動拠点ですから、すぐに「イエス様が戻ってこられた」とのうわさが広げられ、そして、大勢の人がイエス様の元にやってきたのではないかと推測できるのです。そういう状況の中で、32節にあるように「耳が聞こえず、口のきけない人」が連れてこられたのでした。

 この人は、目で見ることはできるのですが、しかし、人々が言っていることを自分の耳で聞くことができませんでした。また、自分で話すこともできませんでした。それで、この人の事を助けてあげたいと思った人々によって、イエス様のところに連れてこられたのです。ここに、人々の愛のある行動を垣間見ることができるのです。自分のためではなく、困っている人、苦しんでいる人を助けてあげたい、そういう心を持っている方がおられたのです。

 この人を連れてきた人々は「イエス様ならば、治すことができる」と確信していたのでしょう。事実、今までにイエス様の元に連れてこられた人々は、皆、癒されたのでした。また、前回の箇所に記されている出来事では、イエス様はその場にいない人であっても、その苦しみを取り除くことができるお方だということが示されています。ところが、今回の癒しのみわざは、前回のパターンとは対照的な方法が取られたのです。すなわち、イエス様は助けが必要な人に直接、手を触れてくださり、祈りをささげつつ、癒しのみわざをなしていくのです。 続きを読む ・説教 マルコの福音書7章31-37節「エパタ」

・説教 マルコの福音書7章24-30節「女性の娘を助けたイエス」

2025.10.12

内山光生

そこでイエスは言われた。「そこまで言うのなら、家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。」  

マルコ7章29節

序論

 昨日は、当教会で韓国の賛美宣教団オンギジャンイのコンサートがもたれ、すばらしいひと時を持つことができました。個人的な思い出となりますが、今から25年以上前に大垣のルーテル教会を会場に行なわれたオンギジャンイのコンサートに参加した事があり、その頃は割と韓国語での賛美が多かったように記憶しているのですが、今回は日本語での賛美がほとんどで、また、特別に日本人に馴染みのある歌も歌っていただき、心に染みるコンサートとなりました。

 さて、今日の箇所は、前回までの箇所から大幅に舞台が変わっていきます。

I ツロの地方に行かれた主イエス(24節)

 24節から順番に見ていきます。

イエス様とその弟子たちは、今までにガリラヤ地方やユダヤ地方を中心に宣教活動を繰り広げてきました。それらの地域では、一部の町を除いて、多くの人々に受け入れてもらえました。けれども、イエス様と弟子たちが、休みを取ることができない程に忙しくなってしまいました。それで、なんとかして弟子たちと共にリフレッシュする時間が必要だと考えたのでしょう。

 イエス様の取った行動は、ツロの地方に行くという事でした。ツロというのは、ユダヤ人以外の民族、すなわち、異邦人が中心の町で、旧約聖書の時代から知られている町の一つです。ガリラヤ湖から見ると、北西の位置にあり、港町であり、かつて木材の輸出で栄えた時代もありました。けれども、良い材木が取れなくなると、漁師として生計を立てる人が増えたと言われています。聖書の中では、ツロに加えてシドンという町が出てきています。ですから、ツロとシドンをセットで覚えておられる方もおられるでしょう。共に地中海沿いの町なので、聖書の後ろにある地図を見るとすぐに見つけることができる場所です。

 さて、先ほどお伝えしたようにイエス様と弟子たちが、ツロの地方に行かれたのは、休息を取るためであって、その地方の人々に積極的に福音を伝えるためではありませんでした。だから、24節では、「だれにも知られたくないと思っておられた」と書かれているのです。

 普段、多くの人々と接する仕事をしている方の中には、休暇の時こそは、あまり人がいない静かな場所で過ごしたい、そう考えておられる方もおられるかと思います。それで、多少遠い場所であっても、自分がお気に入りの場所に行ってリラックスする時間を持とうとするのです。私も、最近減りましたが、休暇となると、どちらかというと人がたくさん集まる場所よりも、人が少ない公園を散歩する方が落ち着くと感じるのです。

 同じように、イエス様はツロの地方に行けば、自分のもとにやってくる人があまりいないのではないかと考えたのです。ところが、その予想に反して、ガリラヤから離れたツロの地方にまで、イエス様のうわさが広められていたのでした。この地方の人々は、どうやらすでにガリラヤやユダヤの地方でうわさになっている人物がいることを知っていたようです。そして、その中には、イエス様の顔を知っている人もいたのでしょうか。あるいは、雰囲気からして、あのうわさの人物に違いないとさとられたのでしょうか。どのような事だったのかは、はっきりした事は分かりませんが、結果的には、「自分たちの町にイエス様がおられる」そんなうわさが広まってしまい、イエス様たちは、もはや、隠れていることができなくなってしまったのでした。 続きを読む ・説教 マルコの福音書7章24-30節「女性の娘を助けたイエス」

・説教 ルカの福音書19章28-48節「エルサレムに入られる主イエス」

2025.10.05

鴨下直樹

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 みなさんは、今日が何の日かご存知でしょうか? 10月5日、この日はなんと我が家の犬、サクラの誕生日です。実は、昨日の午後、妻と話していましたら、SNSでこんな記事を読んだと言うのです。それは、飼っていた犬が死んでしまったという呟きなんです。でも、その記事には、その飼い主が笑いながらこんなことを言っていたというんです。「もう隠れて焼き芋を食べなくていい。これからは家で堂々と焼き芋を焼いたっていい。ひとくちせがまれることもない、キッチンの攻防戦もしなくてもいい」と。そう言った途端に泣き出した時、その不自由や少しの面倒臭さごと愛していたのが伝わってきて切なかった。そんな記事を教えてくれました。本当に大切なものというのは、「不自由や少しの面倒くささがあっても、それごと愛していた」というこの人の言葉の中に、ささやかな愛の真理があるような気がしました。

 犬を飼っていると、いろんな制約があります。朝、今日はゆっくり寝ていたいと思っていても、起きて散歩に行き、餌やりをしなければなりません。それは確かに手間なことなのですが、その手間がかかることがそのまま愛情なのです。めんどくさいんだけど、実は嫌じゃない、そんな愛もあるのだと思うのです。その愛というのは、自分の方を向いている愛ではなくて、外へと向かう愛、そんなふうにも言えるかもしれません。面倒でも、手間がかかっても誰かを愛する愛というのは、その人の心を豊かにするのです。

 さて、今日の聖書の箇所はいよいよ主イエスがエルサレムに入城される出来事が記されています。前にもお話ししましたが、主イエスにとってエルサレムに近づくということは、死に近づくことです。旅のゴールが「死」に結びついているというのは、なんとも心苦しい気がします。けれども、主イエスはその厳しいはずの旅を受け入れているような姿が感じられます。

 この福音書を記したルカは、主イエスのエルサレム入城をどのように描こうとしたのか、ここにルカの特徴がよく現れています。というのは、他の福音書では、エルサレム入城は「ダビデの子にホサナ」という群衆の大歓声と共に迎えられ、人々は棕櫚の葉を道に敷き詰めてエルサレムに入城されたと書かれています。ところが、このルカは少し様子が違います。

 人々のホサナの歓声も描きません。むしろ、そこに居合わせたのは弟子たちだけであったかのように記述しています。しかも、その前にまず、記したのはエルサレムに入るためにロバを借り受ける出来事です。ルカはここでどんな主イエス像を描き出そうとしているのでしょうか。 続きを読む ・説教 ルカの福音書19章28-48節「エルサレムに入られる主イエス」

今月の礼拝予定(2025年10月)

10月5日 三位一体後第16主日

主日主題: ホサナ
聖餐式礼拝: 午前10時30分(Zoom配信)
聖書:ルカの福音書19章28-48節
説教:「エルサレムに入られる主イエス」鴨下直樹牧師

礼拝後:誕生月の祈り、役員会

10月12日 三位一体後第17主日

主日主題: 癒し
公同礼拝: 午前10時30分(Zoom配信)
聖書のお話:「主の祈り」河合和世
聖書:マルコの福音書7章24-30節
説教:「女性の娘を助けたイエス」内山光生牧師

礼拝後:聖歌隊練習、芥見コイノニア、礼拝準備会/月間予定確認会

10月19日 三位一体後第18主日

主日主題: 信仰
公同礼拝: 午前10時30分(Zoom配信)
聖書のお話:「求め続ける」鴨下愛
聖書:マルコの福音書7章31-37節
説教:「エパタ」内山光生牧師

10月26日 三位一体後第19主日

主日主題: 神の権威
公同礼拝: 午前10時30分(Zoom配信)
聖書のお話:「祈りゆだねる」内山のぞみ
聖書:ルカの福音書20章1-8節
説教:「何の権威によって?」鴨下直樹牧師

礼拝後:避難訓練

・説教 ルカの福音書19章11-27節「王様の視点、しもべの視点」

2025.09.28

鴨下直樹

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 みなさんは、仕事を誰かに頼まれると、先に終わらせてしまうタイプでしょうか? それとも、ギリギリまでやらないタイプでしょうか? こういう質問をすると、いろんな答えが返ってきそうです。もちろん、先延ばしにするよりは、すぐにやった方がいいと多くの方は考えると思います。自分でも言いながら、みなさんの視線が痛いような気もしてきます。誰がそれを言っているのだと。

 たぶん皆さんの家庭には今、国勢調査のアンケートが届いていると思います。もうすでに終わらせてしまった人と、まだ終わらせていない人といると思います。10月8日が最終締め切りだそうです。まだの方は、まだあと1週間ありますのでご安心ください。

 先延ばしにする人の場合「しなければならない用事というのは、いくつかの優先順位がある」そんな考え方で、重要度によって分けているという人もあると思います。いろんな考え方があると思うのですが、しなければいけないことを後まわしにする人にも言い分があります。「直前に何かの事情で、やらなくても良くなる場合もあるので、様子をみている」という意見です。「なるほどな」と私も思います。私はどちらかというと、そのように答える人の気持ちがよく分かるタイプです。

 私はというと、ご存知の方も多いと思いますが、「以前は」最後までやらない人間でした。夏休みの宿題も最後の日にラストスパートをかけるタイプです。けれども、実は芥見教会に来てから少し考えを改めました。十数年前のことなのですが、水曜の祈祷会の時に、長老と何かのことで相談をしたのです。もうその時すでに夜の10時頃だったのですが、長老は躊躇なくその場で電話をかけて、あっという間に、その要件を済ませてしまったのです。私なら、明日の朝電話をしようと思いながら、つい電話をかけ忘れてズルズルいくパターンが多いので、この時の長老の姿に私は衝撃を受けました。仕事ができる人というのは、こうも軽やかなのかと感動したのです。もちろん、改めたと言っても、誰も信じてくれないかもしれません。なぜなら今でも昔の癖が抜けきらず、ギリギリまで延ばしてしまうことも多々あるからです。ですが、気持ちとしては、できるだけ早めに終わらせようと思うようにはなりました。はい、信じるか信じないかはあなた次第です。

 どうしてこんな自分の首を絞めるような話から始めたかと言いますと、今日の聖書の話は主イエスのなさったミナの譬え話です。ある身分の高い人が10人のしもべに「私が王様に任命されるために留守にしている間に、一人1ミナで商売をしなさい」と命じて出て行ったという譬え話なのです。1ミナというのは、だいたい100万円くらいと考えていただいて良いと思います。

 そこで、10人のしもべたちは主人が帰ってくるまでに、そのお金を使って商売をしたわけです。当然、うまくやった人もいます。うまくできなかった人もいるわけです。すぐに商売に取り掛かった人もいたでしょうし、入念に計画を立てていた人もいたと思います。まだ時間があるから大丈夫と、のんびり構えていた人もあったと思うのです。ここで求められているのは「商売」という能力です。仕事の能力というのは個人差がありますから、誰もが商売上手とも言えません。商売ですから、失敗する可能性も大いにあるわけです。そういう中で、どう振る舞うのが正解なのか、そこには人の数だけ正解がある気もします。 続きを読む ・説教 ルカの福音書19章11-27節「王様の視点、しもべの視点」

・説教 マルコの福音書7章14-23節「人から出てくるもの」

2025.09.21

内山光生

イエスはまた言われた。「人から出て来るもの、それが人を汚すのです。…」  

マルコの福音書7章20節

序論

 猛暑が続いた長い夏でしたが、ようやく涼しくなってきました。朝起きて、家の外に出ると半袖では寒いと感じるようになり、秋だなと実感しております。だいぶ先の行事だと思っていた芥見教会のチャペルコンサートも、数週間後に迫ってきました。先週の木曜日と金曜日に新聞折り込みでチラシが配られているそうなので、チラシを見て教会に足を運ぶ人が起こされることを祈っていきたいと思います。

 さて、前回の箇所では律法学者やパリサイ人たちがイエス様の元にやってきて、イエス様の弟子たちがユダヤ人のしきたりを破って、きよめの儀式を行なっていないことを指摘しました。一方、イエス様は、彼らの問題点を指摘していくのです。その流れの中で、今度は、イエス様が群衆に対して大切な事を教えられました。

 今日の箇所の内容は、読めば理解できるかと思います。けれども、イエス様が言われたことを真剣に思い巡らしていくならば、自分自身の問題と向き合うこととなります。いや、そうなるようにと聖書は私たちを導こうとしています。

 ですから、ある意味、今日の箇所は「厳しい内容」と言えるかもしれません。私たちがイエス・キリストが示した福音を受け入れるためには、自分自身の問題と向き合うことを避けて通ることができないのです。けれども、自分こそが罪人なんだと自覚出来た人は、イエス様の十字架の愛がどれ程大きいかに気づかされるのです。その結果、イエス様がなぜ十字架にかかられたのか、その意味が分かるようになるのです。その結果、「イエス様こそまことの救い主だ」と告白する事ができるようになるのです。また、すでにイエス様を信じている人々は、自分の罪がイエス様に赦されていることに感謝を覚えつつ、十字架には私たちの罪をきよめる力があることに目を向けていきましょう。 続きを読む ・説教 マルコの福音書7章14-23節「人から出てくるもの」

・説教 コリント人への手紙第二 12章9節「弱さの中にあっても」

2025.09.14

内山光生

しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。  

コリント人への手紙第二 12章9節

序論

 今朝、多くの方々と共に「敬老の日礼拝」を奉げることができる恵みを感謝いたします。

 日本においては、元々は毎年9月15日が「敬老の日」で祝日となっていましたが、皆さんご存じのように今から20年程前からは9月の第三月曜日が敬老の日となっています。

 そこで、改めて、敬老の日について調べてみました。どうやら、敬老の日の起源は、1947年に兵庫県のある村で「敬老会」を開催したのがきっかけでした。当時の村長が「高齢者を敬い、知恵を借りて地域を良くしようとした」のが始まりだそうです。

 その運動が全国に広がって行き、ついには1966年に国の祝日として制定され「敬老の日」と呼ばれるようになった、というのです。

 敬老の日というのは、年長者に対する尊敬や感謝な思いを伝えるのに最も適した時と言えます。また、長生きをしている方々にお祝いをする時でもあります。

 一つ曖昧になっている事があります。それは「敬老の日」に祝っていただけるのは、何歳からなのかという問題です。ある人々は、法律上は65歳以上だと考えます。ところが、今の時代においては、多くの場合、65才前後の方々が自分が敬老の日に祝ってもらう対象とは思っていないのが現状です。60代、いや70代前半までは、なんらかの仕事をしている人が増えていて、まだまだ自分は年寄りではない、と考える人が増えているのでしょう。

 5年くらい前に聞いた話ですと、ある自治体では75歳以上に敬老の日の集いの案内が届けられる、との事でした。ところが、最近では、75歳以上だと人数が多すぎるので80歳以上に案内が届くようになった、との情報がありました。お祝いをする施設の収容人数の関係なのでしょうか。その辺りはよく分からないのですが・・・。このように、時代によって敬老に該当する人々の年齢に変化が起こっているのです。 続きを読む ・説教 コリント人への手紙第二 12章9節「弱さの中にあっても」

・説教 ルカの福音書19章1-10節「見つけ出される喜び」

2025.09.07

鴨下直樹

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 今日の聖書の箇所は取税人ザアカイの話です。ザアカイの話というのはとても有名な話ですけれども、ルカの福音書にしか書かれていません。ところが、このザアカイを取り上げた説教は沢山あります。その中でも、いくつかの説教を読んだのですが、私が心惹かれたのは旧約聖書学者の左近淑先生の説教で、とても心に残りました。どんな話かというと、牧師の家で飼っていた犬が迷子になってしまったという話なのです。

 その家にはスキピーという大きな犬がいたそうです。毎朝家の前を通るジョギングの人たちに向かって、家の囲いに足をかけてワンワン吠える。その牧師曰く、「がんばれ! がんばれ!」と吠えているのだそうです。ところが、ある日、この犬がいなくなってしまいます。1日がかりで探しても見つかりません。都内近隣の保健所やペットショップに連絡し、いつ電話がかかってくるかと、待っても電話がないのです。娘さんは学校の友達にも見つけて欲しいと頼んだそうです。

 その日の夕方、先生のお父さんの80歳の誕生祝いの夕食会があって、家を空けることに後ろ髪を引かれる思いで、お父さんの家を訪ねて行ったのだそうです。その日の夕食で、お父さんの80歳の歩みを感謝するお祈りをすることになりました。いつもこの時に家族のことを祈るのだそうです。この時に、いなくなったまま戻ってこない犬のことを祈ることにためらいがあったそうです。けれども、一息ついて、続けて祈りました。「どうか、スキピーも無事でいられますよう守ってください。アーメン」

 夕食が終わって家に帰る途中、車の運転をしていた次男が見つけました。「あっ、スキピー!」娘も大きな声をあげて駆けよって行きました。犬の方はというと、「帰って来たんだから叱らないで欲しい」という顔をしていたんだそうです。その牧師が思わず言いました。「いやぁ祈りがきかれると思っていなかったけれど、やっぱり神様はきいてくださったねぇ」。すると、それを聞いた息子たちが「何だよ、神学校の教授が疑いながら祈ったのかよ!」すると、その牧師は、「神様というお方は人間が疑いながら祈ったとしても聞いてくださるお方なのだ」と少し苦しい言い訳をしたのだそうです。

 そこで、左近先生はこんなことを言っています。「私にとっては小さな経験だったけれど、神様がこんな風に、いやこれの何百倍も、何千倍も心をくだいて私たちに接していてくださる」と。

 私たちはこのように大切なものを失うという経験をすることがあります。家族であったり、犬や猫であったり、あるいは大切にしていた物がある時壊れてしまうというような経験もあると思います。大切なものを失うと、そこに大きな穴があいてしまいます。そして、その穴はなかなか埋まりません。そして心にぽっかりできてしまった大きな穴を、何か他のもので埋めることで、その悲しみを乗り越えようとすることがあります。

 今日登場する「ザアカイ」という人は、この人自身が失われた人だったと言ってよいと思います。ザアカイというのは、「正しい人」という意味の名前です。元から悪い人だったということではなさそうです。この人は背が低い人でした。そのために、小さな頃から人に軽んじられてきたのかもしれません。そして、そのために何とか人を見返してやろうと人一倍努力したのかもしれません。実際、この人はエリコの町の取税人のかしらという立場につくことになりました。取税人というのは、ローマの役人になったということです。ユダヤ人でありながら、ローマに取り立ててもらうわけですから、他の人と同じようにやっていてはそういう待遇は得られませんし、中でもその取税人たちのかしらにまでのぼりつめたわけですから、並々ならぬ努力があったと思うのです。 続きを読む ・説教 ルカの福音書19章1-10節「見つけ出される喜び」