2023 年 7 月 23 日

・説教 ルカの福音書8章1-3節「主イエスに従う女性たち」

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2023.7.23

鴨下直樹

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 今日の聖書箇所はとても短いところで、主イエスに従った女性たちのことが記されていますが、歴史家と呼ばれるルカならでは、の、とても貴重な聖書箇所といえます。

 というのは、この箇所に続いて、この8章では、主イエスが種まきのたとえ話と、燭台のあかりのたとえ話をなさいます。このたとえのテーマは「隠れているものと明らかになるもの」です。

 そして、今日の箇所はこのたとえ話をする前の導入として、この1節から3節が配置されています。そこからも、ルカがどんな意図をもって、この話をここにおいたのかが見えてきます。

1節にこのようにあります。

その後、イエスは町や村を巡って神の国を説き、福音を宣べ伝えられた。十二人もお供をした。

 ルカはここで、主イエスと十二弟子との宣教がはじめられたことを書いています。私は先日の祈祷会でこの話をした時にはすっかり失念していたのですが、6章の12節以下で十二弟子のことが取り上げられていまして、弟子たちのことを「使徒」と呼んだという記録がすでに記されております。この8章では、主イエスの神の国の宣教に、この十二弟子たちを伴ったことが短く記されていますが、読んでみるとルカの関心は、十二人の弟子よりも、むしろこの後の2節と3節に記した女性の弟子たちに向けられていることが分かります。

 2節と3節にこう記されています。

また、悪霊や病気を治してもらった女たち、すなわち、七つの悪霊を追い出してもらったマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか多くの女たちも一緒であった。彼女たちは、自分の財産をもって彼らに仕えていた。

 このように書かれています。この「悪霊や病気を治してもらった女たち」という言葉は、このマグダラのマリア以外にも、2節には「ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか多くの女たちも一緒であった。」とありますから、主イエスに仕えた女の弟子たちの多くは、主に悪霊や病気を治してもらった人たちが多かったことが分かります。

 このマグダラのマリアをはじめ、クーザの妻ヨハンナも、スザンナも、その他の主イエスに付き従った多くの女の弟子たちは、主イエスによって病気や、悪霊から解放されたという救いを経験して、主に従う者へと変えられたのです。

 特に、ここにはじめて名前が登場してきますこのマグダラのマリアというのは、一体どういう人なのでしょうか? (続きを読む…)

2023 年 7 月 9 日

・説教 ルカの福音書7章36-50節「あなたの罪は赦された」

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2023.7.9

鴨下直樹

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 人が涙を流す時には様々な涙があります。悲しみの涙や、怒りの涙というものもあるかもしれません。惨めさを感じる時に涙を流すこともあるでしょうし、嬉しくて流す涙というのもあると思います。いずれにしても、涙が流れる時というのは、その人の中である限界を超えた時に、涙が流れるのだと思うのです。

 自分の話で恐縮なのですが、私が小学一年生の時のことです。国語の時間に「詩を書いてみよう」という時間がありました。クラスのみんなは紙にさらさらっと詩を書き始めたのですが、私は何を書いていいか、全く思い浮かべることができませんでした。

 私が何も書けないのを見た担任の先生は、「嘘でもいいから何か書け」というアドヴァイスをくれました。今思えば、先生はとにかく何か書かせることに必死だったのだと思うのですが、このアドヴァイスは私にはとても効果的でした。実際に起こったことでなくていいなら、何か書けるかもしれないと思ったのです。

 そこで私は「お母さんが泣いた」という詩を書きました。その詩は、もう手元に記録がありませんので、完全ではないのですが、大まかにいうとこんな内容の詩です。

お母さんが泣いた。
僕は、お母さんが泣いているのを見て、心配になって、お母さん大丈夫? と聞いた。
すると、お父さんが、僕に「あれは嬉し涙だよ」と言った。

 ざっくりいうとそんな内容の詩です。ちょっと凄くないですか? 小学一年生の私。この時の詩が、当時の小学校が出していた、すべての親に読まれる学校新聞の表紙を飾りました。たぶん、私の人生で、もっとも人から褒められたのは、後にも先にもこの時以外には記憶にありません。

 涙には、悲しい涙だけではなくて、嬉しい涙もあるはずだと、なぜかその時私は思って、この詩を創作したわけです。もちろんそんな事実があったわけではないのです。ただ、たぶん学校の先生をはじめ、多くの人は鴨下家の生活の一部を切り取った詩だと思ったのではないかと思うのです。近所ではずいぶん評判になって、良い証になったのだと思います。ですが、実際には当時五人の子どもを抱えていた我が家に、そんな麗しい光景はありませんでした。担任の先生のアドヴァイスによって生まれた私の想像の産物だったわけです。

 今日の聖書にも、一人の涙を流す女性が登場します。ここには名前も記されておりません。書かれているのは「その町に一人の罪深い女がいて」とあるだけです。この罪深い女の人が、主イエスと出会うまで、どんな歩みをしていたのかは、書かれていないので分かりません。想像するしかないわけですが、この「罪深い人」というのは、「遊女」などと呼ばれ、性的な罪を犯していた人だと思われます。当時のイスラエルは倫理的に非常に厳しい国で、誰かから訴えられたりすれば、石打ちの刑にされて殺されることもある時代です。私たちが今日の「娼婦」とか「売春婦」というイメージから来る、そういう仕事をしながらも逞しく生きている人とはまた少し異なるのだとも思います。今よりももっと生きにくい時代です。表立ってはいないけれども、誰もが知っているというようなことであったようです。

 そういう女性が、どこで主イエスと出会ったのかは分かりませんが、すでに主イエスの語る言葉を聞いたのか、あるいはどこかで癒やされた人なのかもしれません。その女の人が今日の箇所に登場してきます。

 主イエスはこの時、パリサイ人の家に招待されておりました。この人の名前は後で「シモン」という名であったことが記されています。シモンがどういう思いで主イエスを招いたのか、その理由もここにははっきり書かれていませんが、主イエスのことを知りたいと思ったから、主イエスを招いたのでしょう。ところが、そこに、この罪深い女がどこからともなく現れて、主イエスの足元で涙を流し始めたのです。 (続きを読む…)

2023 年 7 月 2 日

・説教 ルカの福音書7章24-35節「神の国に生きる偉大な者として」

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2023.7.2

鴨下直樹

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 今日の聖書の箇所は、バプテスマのヨハネの質問の続きの部分です。ヨハネは主イエスが、聖書に約束された「救い主」なのかを確認したいと願っていました。この時の主イエスのお答えから、ヨハネ自身も主イエスにつまずいていた可能性が考えられます。そこで、主イエスは、ご自身のことをお語りになり、主イエスがこの世にあって何をなそうとしておられるのかは、その行いを見れば分かるでしょうとお答えになられました。すると、ヨハネの弟子たちは帰って行きました。

 今日の箇所はその後の出来事です。今日の箇所は主イエスがずっとおひとりで語り続けておられる部分です。主イエスはここで何を話しておられるのでしょうか?

 聖書の学び会で、私がいつも最初にする質問は「ここには何が書かれていますか?」という質問です。その質問をしますと、皆さん、もう一度聖書を落ち着いて読み始めます。そして、できるだけ短い言葉で、何が書かれているかを言い表そうとします。聖書を読む時には、そのように読んでいくことが大切です。まず、文脈を読み取るのです。そうすると、前に何が書かれていたのかを、もう一度考えてみる必要がある時があります。場合によっては、この後の文章に何が書かれているかにまで目を向ける必要が出て来ることもあります。いずれにしても「ここに何が書かれているか?」をしっかりと把握することで、そこに書かれている「主題」「テーマ」を見つけ出すことができます。

 ここには、「主イエスから見たバプテスマのヨハネの評価」が書かれていると言えるでしょう。そして、それと同時に人々の評価も語られていることに気が付きます。

 当時の多くの人々は荒野で悔い改めを語るバプテスマのヨハネの噂を耳にして、荒野にヨハネを見に出かけました。ところが、ヨハネの語ることを受け入れた人々もいたのですが、受け入れなかった人たちも多かったのです。

 30節でこう言っています。

ところが、パリサイ人たちや律法の専門家たちは、彼からバプテスマを受けず、自分たちに対する神のみこころを拒みました。

 当時のイスラエルの宗教指導者たちは、ヨハネの語る言葉を聞いたのですが、受け入れなかったのです。受け入れなかったということは「神のみこころを拒んだ」ということなのだと、ここで主イエスは言っています。

 つまり、どういうことかというと、当時の人々は、ヨハネが語っている悔い改めは、神のみこころと違うことをしていると思っていたということです。

 ヨハネも異なる救い主像を持っていたのだとすれば、群衆が異なる救い主像を持っていてもおかしくはないでしょう。そして、それは、聖書に慣れ親しんでいるはずのパリサイ派の人々や、律法学者たちにまで及んでいたというのです。今日でいえば、教会の牧師たちも、聖書がちゃんと理解できていませんでしたということになるわけです。それほどのズレがあったというのです。

 「救い主」というのは、煌びやかな服を身に纏い、立派な身なりをしていると思っていたのでしょう。まるで、白馬にまたがるダビデのごとき王さまを期待していたのかもしれません。想像していた預言者のイメージは、荒野で粗布を着て、まるで家を失って着るものも持ち合わせていないような、ひどい風体のヨハネのような人物ではなくて、エリヤやエリシャや、あるいはイザヤやエレミヤのような人の姿だったのかもしれません。けれども、荒野にいたのは、イメージとは程遠いワイルドな風貌のバプテスマのヨハネだったのです。

 人々が抱いたのは「これじゃない感」です。聖書のことが分かっている人、というか、分かっていると思っている人ほど、この「これじゃない感」は大きかったのです。人々は頭の中で、素敵な救い主像を思い描いていましたから、おそらく、バプテスマのヨハネを目にしたら、実際多くの人がそう思ったのでしょう。 (続きを読む…)

2023 年 6 月 25 日

・説教 ルカの福音書7章18-23節「あなたは救い主ですか?」

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2023.6.25

鴨下直樹

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 信仰者にとって絶えず繰り返される問いがあると思います。それは、聖書に出てくるイエスが、本当に私を救ってくださるお方なのか? という問いです。この問いは、私たちが教会に集う度に、ことあるごとに何度も何度も繰り返される問いなのだと思います。

「本当にあなたを信じていていいんですか?」
「あなたは私の救い主で間違いありませんか?」

 このような問いかけは、私たちの信仰の歩みの中で繰り返し起こってくることがあります。

 自分の願っているように事柄が進まない時、あるいは度重なる不幸に見舞われる時、私たちはこのような疑問が心の中に浮かび上がって来るのです。

 そして、今、この問いの前に苦しんでいるのは、他の誰でもないバプテスマのヨハネなのです。

 この問いは、私たちだけの問いではないのです。聖書には、福音書の中には、主イエスが来られた時に、この問いは何度も主イエスに向けて投げかけられているのです。

 今、バプテスマのヨハネは捕えられて牢の中にいます。

 少し想像していただきたいのです。ヨハネはそれこそ命懸けで、人々に悔い改めを語り続けました。そして、「やがて救い主がおいでになる」と告げてきたのです。このヨハネがキリストだと思っていた主イエスの働きはヨハネとはまるで違う働き方をしていました。ヨハネは、人々を避けて人里離れた荒野に住み、獣の毛衣を着て、野蜜を食べ、聖くあろうとしたのです。ところが、主イエスはヨハネとは対照的で、どんどん人の中に入って行き、罪人たちと交わり、食事をし、お酒を飲みます。こうして、「大食いの大酒飲み、収税人や罪人の仲間だ」と言われるようになるのです。こうして、主イエスは人々から注目を集めます。ヨハネも主イエスも、目覚ましい働きをするのですが、形は全く異なっているのです。そんな違いが、ヨハネの中にひょっとしてイエスはキリストではないのかもしれないと考えるに十分な理由となったのではないでしょうか。

 この福音書を書いたルカは、バプテスマのヨハネの誕生の物語から書き始め、ヨハネに対して非常に丁寧な記述をしてきました。そこではマリアがヨハネの母エリサベツのもとを訪ねたことが記されていて、ヨハネと主イエスが遠い親戚であったことまで明らかにされています。ヨハネの方が年長ですから、そういう意味では主イエスのことを気にかけていたということはあったと思うのです。

 そのヨハネは、今牢獄にあって自らの死を見つめています。まもなく自分の働きが終わろうとしていることを感じ取ったのかもしれません。そんな中で、その後のことが気にならないはずはないのです。しかも、バプテスマのヨハネが願っているのは来るべき旧約聖書で神が約束された救い主・キリストを待ち望んでいるのです。期待しないわけにはいかないのです。

 「救い主」は世を救うために来られるお方、それはイスラエルをもう一度神の民として歩ませるお方であるはずなのです。

 「おかしいではないか!」そんな疑問がヨハネの中に生まれてきたとしても不思議ではなかったのではないでしょうか。救い主であるならば自分のように歩むべきではないのか、そう考えたのではないでしょうか。ヨハネの中に、主イエスのしていることは不可解なこととしか理解できなかったのかもしれません。 (続きを読む…)

2023 年 6 月 11 日

・説教 ルカの福音書7章11-17節「もう、泣かなくてもよい」

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2023.6.11

鴨下直樹

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 今日の聖書箇所は、ひとりのやもめの息子の死が描き出されています。この葬儀の時の出来事です。

 葬儀の際に遺族と対面する時、どんな慰めの言葉をかけたらよいのかという思いを抱かれる方は少なくないと思います。そんな中で、私たちは「おつらいでしょう」と声をかけたり、「泣きたいだけ泣いてください」という声をかけたりすることがあるかもしれません。死を前にして、人はもはや何もすることができないのです。そのあとは、死の悲しみをどのように克服していくか、乗り越えていくかです。けれども、死の悲しみを抱いている人に「くよくよしてもどうしようもない」と言ったとしたらどうでしょう。その言葉は決して慰めの言葉にはならないのです。

 ある人は、「死は私たちに諦めを要求する」と言いました。死の後からでは、人はいっさい手出しすることができないからです。もはや抗うすべがないのです。だからこそ、私たちは、身近な人の死を経験する時に、大きな悲しみを味わうのです。どうしようもないから悲しみを覚えるのです。誰にも、もはやどうすることもできません。そんな中で、私たちは神に慰めを見出そうとするのかもしれません。

 今日の聖書箇所は、百人隊長のしもべの癒しの出来事に続いて、ナインという町に主イエスがいかれた時のことが記されています。このナインで、ある母親の一人息子が死んで担ぎ出される場面に、主イエスたちは出くわしました。そして、主はこのやもめの息子をよみがえらせたのです。

 こういう奇跡の記された聖書を読むと、「なぜ主は今も生きて働いておられるお方なのに、今同じような出来事が起こらないのだろう」という思いが、どこかでよぎるのかもしれません。毎日の歩みの中でも、同じような思いを抱くことがあります。どうして、こんな悲しみを神さまは私に経験させるのかと思うことがあります。それは、死の悲しみにとどまらず、病を患うときも、困難な経験をする時も、あるいは自分の子どもに何か思いがけないことが起こるときも、そのように思うのだと思うのです。

 ここに出てくるやもめは、まさにそのような人物の代表ともいえる人でした。この人はすでに夫を亡くしていました。そして、自分の唯一の希望ともいえる一人息子がいたのですが、その息子がどういう理由かは分かりませんが、死んでしまったのです。

 この母親は泣きながら、子どもの亡骸が町の外へ運び出されるのに付き添っています。遺体を町の外に運び出すのは、町の外にお墓があるからです。そうすることで、人々は自分たちの生活の場所から、死を遠ざけるのです。悲しみを目の当たりにしないようにしているのです。

 主は、やもめだけではなく、一緒になって亡骸を運び出す町の人々にも目を留められました。大勢の人が、この悲しみの行列に連なる姿に、主イエスは目を留められました。その行列の中心には、悲しみにくれる母親の姿がありました。嘆きの行列を目にし、自分の息子が町の外へと追いやられていく母親の悲しみは、どれほど大きかったことでしょう。

 13節にこう記されています。

主はその母親を見て深くあわれみ、「泣かなくてもよい」と言われた。

 主イエスは、まさに絶望を突きつける死の悲しみを目の当たりにしている人に向かって、「泣かなくてもよい」と声をかけられました。

 「泣かなくてもよい」というのは命令の言葉です。どこに、息子の死を噛み締めている母親に、「泣くな」と声をかける人があるでしょう。誰も、悲しみの人にこう声をかけることのできる人はいないと思える中で、主は「泣かなくともよい」と声をかけられたのです。

 「泣かなくてもよい」と言われたとき、そこに出てくる思いは、どうしてそう言えるのか? という理由なのだと思います。主が「泣かなくてもよい」と語りかけられるとき、何の理由もなく語られることはないはずです。主イエスの言葉は、口先だけの言葉ではないのです。主のこの言葉は、死の悲しみの涙を打ち破る力を持っているのです。

 ここに「深くあわれみ」という言葉があります。これは、ギリシャ語で「スプランクニゾマイ」という言葉で、聖書の中でも共観福音書にだけでてくる珍しい言葉です。このルカの福音書の中では3度だけ出てきます。この言葉は「腑(はらわた)が捩(よじ)れるような」という意味の言葉です。自分の内臓に痛みを伴うような思いを主は抱かれるのです。人ごとではないのです。このやもめの悲しみを、主イエスは自らの痛みとして担ってくださるのです。自分のことのように、心を痛めておられるのです。ここに、主の愛のお姿が描き出されています。 (続きを読む…)

2023 年 6 月 4 日

・説教 ルカの福音書7章1-10節「共に見上げる信仰」

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三位一体主日
2023.6.4

鴨下直樹

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 今年の9月に、この岐阜市にあります長良川国際会議場で第7回日本伝道会議が行われます。5年ほど前から準備が進められまして、いよいよあと4か月を切りました。明日から、掛川でJEA(日本福音同盟)の総会が行われますが、そこでも伝道会議のために多くの時間を取ろうとしています。

 今回の伝道会議のテーマは「おわりからはじめる宣教協力」です。この「おわり」には、いろんな意味合いを込めています。尾張地区から宣教協力が始められることを期待しています。また、今は「終わり」の時であるという終末的な意味もありますし、これまでのさまざまな習慣や伝統も、「終わらせる」ものは終わらせて、新しい取り組みをしていこうという願いも込められています。

 こういうテーマが掲げられております一つの理由は、今、教会の伝道の力が落ちてきていて、このままでは良くないという危機意識があるからです。もっと真剣に伝道について考えていかなければならないという危機感があるのです。その一つには2030年問題と言われているものがあります。2030年になりますと、日本の人口の3分の1が65歳以上になると言われています。そうすると、人材がどの分野でも不足していって、これからの社会が成り立たなくなるということが警戒されています。それは教会も例外ではなく、牧師に定年のない教団でも、日本中の牧師の数が半分になって、教会が立ち行かなくなると言われています。

 先週、日本自由福音教会連盟の理事会が行われました。この連盟ではルーツを同じくする同盟福音基督教会、日本福音自由教会、日本聖契キリスト教団、日本聖約キリスト教団という4つの教団が定期的に交わりをしておりまして、さまざまな宣教協力を行なっています。この理事会の最後に、私が閉会説教をしました。そこでも話したのですが、伝道が難しくなったのは今になって始まったことではありません。キリスト教会の伝道は、教会が誕生したペンテコステの時から今日に至るまでずっと難しい時代を通らされてきたわけで、あと7年で、どうにもならなくなるというようなものではないのです。私たちはいつも、今も生きて働いておられる主の働きに期待することができるのです。

 私たちの主は、今も生きて働いておられるお方です。この神と出会い、この神と共に歩んでいく以外に、私たちの道はありません。主はこれまでにも何度も、何度も教会を大変な状況の中に置かれましたが、その都度、よみがえってくるのが、私たちの信仰です。

 先週の木曜に朴先生が宣教報告に来られました。そこで興味深い話をしてくださいました。ある時、テレビを見ていたら解剖学者の養老孟司さんが出ておられたのだそうです。そこで、インタビューをする人が、「死についてはどうお思いですか?」と訊いたそうです。そうすると、養老さんは「死というのは、夜寝て目覚めなかったら死んでいるんだから」と達観しているように答えられたのだそうです。

 それを聞いて朴先生は「そうか、それなら私は毎朝復活のいのちを頂いているんだ」と思ったのだそうです。「今日生きているのも当たり前のことではない。主に生かされているのだということを改めて知った」「私たちはすでに永遠のいのちを与えられているのだから、たとえ目覚めることができなくても、天で目覚めるんだから、これほど確かなことはないと感じるようになった」とも言っておられました。

 私たちは、毎日、朝を迎えるたびに新しいいのちに生かされている。この毎日いのちを与える主が、私たちの主であることを知るなら、どんな困難な状況に置かれたとしても、私たちの将来は闇に覆われるということはない。これが、私たちに与えられている信仰なのです。

 今日、私たちに与えられている聖書の御言葉は「百人隊長のしもべの癒し」と呼ばれる出来事です。

 みなさんも、さきほどの聖書朗読を聞かれて、いくつかの発見があったのではないでしょうか? マタイの福音書にも同じ出来事が記されていますが、この福音書を記したルカの書き方は少し違っています。マタイでは百人隊長と主イエスは直接語り合っています。しかし、このルカの福音書では百人隊長と、病のしもべは一度も姿を現していないのです。ところが、ここでクローズアップされているのは、この場にはいない百人隊長の信仰です。ルカはここで百人隊長をとりまく人々が、百人隊長をどう見ているかという、「証言」に焦点を当てていることが分かります。 (続きを読む…)

2023 年 5 月 28 日

・説教 ルカの福音書6章39-49節「主イエスを土台として」

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ペンテコステ
2023.5.28

鴨下直樹

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 私が子どもの頃、教会の日曜学校で一枚の暗唱聖句のカードをもらいました。「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。」というマタイの福音書7章の13節と14節の御言葉が書かれていたカードです。その肝心の聖句よりも、そこに描かれていた絵が衝撃的で今でもよく覚えています。その絵にはにぎやかな大通りが描かれていて、人々が楽しそうにその大通りを進んでいくのですが、その先には地獄の炎が描かれていました。また、その大通りの脇には誰にも気づかれないような小さな門があって、その先にも道があり、その先は天国につながっているのです。子どもながら、恐ろしいと思いました。それと同時に、自分はこの小さな門の入り口を絶対見逃さないようにしようと心に刻んだのです。

 今日の聖書箇所は、主イエスのなさったたとえ話が記されているところです。この39節で一つのたとえ話をなさいました。「盲人が盲人を案内できるでしょうか。二人とも穴に落ち込まないでしょうか」とあります。

 もちろん、これはたとえ話ですから、実際に目の見えない人のことではないことは明らかです。大勢の人々が進んでいる大通り、誰もがみんなが進んでいるから大丈夫だと思い込んでいるけれども、その先頭を進んでいるのは誰なのかということをあまり気に留めません。

 「止まれ!」と叫ぶ者がいないのです。このまま人類は今突き進んでいる道を進み続けていいのかと、問う者がいないのです。

 主イエスは、ここで師と弟子の話を続けてしています。先頭を進んでいるはずの人物が師であれば、その師のようになるという目標があります。けれども、その師よりも先に進むということはないのです。

 先日の祈祷会で、こんな質問がありました。「師を超えて行く弟子というのはたくさんいるのではないですか?」という質問です。この世の中にはいろんな先生がいますから、そういうこともあるいはあるかもしれません。先生がたいしたことなければ、弟子はすぐに師を超えて行くでしょう。けれども、ここに書かれている師とは、主イエスのことです。主イエスのようになれる、もしくは主イエスを追い越していける人などいないのは明らかです。けれども、ここでは驚くことが言われています。40節です。

「弟子は師以上の者ではありません。しかし、だれでも十分に訓練を受ければ、自分の師のようにはなります。」

 主イエスはここで、弟子たちに自分のようになれると話しておられます。つまり、主イエスは、絶対に不可能な愛の人として歩んでおられるのはないのです。だれでも十分に訓練をうければ、主のようになることができるのです。

 主イエスはここで、弟子たちに、主に付き従って来る者たちにこの話をしています。主イエスは、ご自分の弟子たちに、自分のようになって欲しいと願っておられるのです。そして、主のようになれるのだとさえ、ここで明言してくださっているのです。

 そのことをここで明らかにしておいて、さらに議論を進めます。それが、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分自身の梁には気づかないというたとえ話です。

 この話はそれほど難しい話ではありません。誰もが思い当たるところがあるからです。人のことは、重箱の隅をつつくようにいろいろと問題点は見えるのです。けれども、肝心の自分のことは見えていないことが起こるのです。 (続きを読む…)

2023 年 5 月 21 日

・説教 ルカの福音書6章27-38節「あなたを量る秤」

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復活節第7主日
2023.5.21

鴨下直樹

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 今、私たちは主イエスが平地でなさった、「平地の説教」と呼ばれる箇所の御言葉を共に聞いています。主イエスは、私たちの生きている生活の場所まで下りて来られて福音を語ってくださいました。

 前回、語られたのは「貧しい者は幸いです」という言葉でした。私たちがこの世にあって、自分の人生が思うようにうまくいくような状況は、幸福に見えても、実は不幸なのだと言われました。けれども、主イエスは、私たちが生きている困難な状況、厳しいところ、そこで神を見出すことができることは幸いだと言われます。私たちが不幸だと感じるような生活の中で、神を見出すことができるなら、神が私たちと共にいてくださることを覚える、その時こそ幸せなのだと言われるのです。これが、平地の説教の冒頭の言葉でした。

 今日の箇所はそれに続いてのことばです。27節で、主イエスはこう言われました。

しかし、これを聞いているあなたがたに、わたしは言います。あなたがたの敵を愛しなさい。あなたがたを憎む者たちに善を行いなさい。

 ここで、主イエスは「しかし」と語り出されています。「しかし」というのはどういう意味なのでしょうか?

 主イエスはここで幸いな生活についてお語りになりました。そして、不幸な生活のこともお語りになられました。

 富んでいる人、今満腹している人、今笑っている人、人々があなたがたをほめるとき、そういう人は哀れなので、実は不幸なのだ、災なのだと主イエスは言われました。そうすると、それを聞いた人々はどう思うのでしょう。貧しい人たち、今苦労をしている人の立場であれば、それまで成功者と思われていた人たちが、主イエスから実は不幸なのだと言われた時に、どこかでほっとする、どこかで「ざまあみろ」という気持ちを抱くのではないでしょうか。

 主イエスは、説教者としてそういう人の心の動きをよく理解しておられるお方です。だから、ここで続けてこう言っておられます。

しかし、・・・わたしは言います。あなたがたの敵を愛しなさい」また、「あなたがたを憎む人たちに善を行いなさい」と言われたのです。

 「ざまあみろ」と思うのではなくて、そういう相手である「あなたがたの敵を愛しなさい」「憎む人たちに善を行いなさい」と言われたのです。

 主イエスがここで言われる「あなたの敵を愛しなさい」とはどういうことなのでしょうか。私たちは、この言葉を聞くと、どうしても「感情的に好きにならなくてはならないのだ」と考えてしまいます。もちろん、そうできたら良いのかもしれません。自分に対して敵対感情を向けてくる人を、自分の方から積極的に、自発的に好きになっていく。それが出来れば本当に幸いなことです。ただ、そう考えるとこの主の言葉は、私たちに非常に重い宿題を課すものとなっていきます。苦手な人を好きになれない自分は、何かが欠落しているのではないかと考えて自分を責めてしまうことになってしまうかもしれません。 (続きを読む…)

2023 年 5 月 14 日

・説教 ルカの福音書6章17-26節「幸いを告げる主の言葉」

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復活節第6主日
2023.5.14

鴨下直樹

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 何度聞いても驚くような言葉がここには記されています。

 「貧しい人たちは幸いだ」、「今飢えている人たちは幸いだ」、「今泣いている人たちは幸いだ」、「人々があなたがたを憎む時・・・排除し、ののしり、あなたがたの名を悪しざまにけなすとき、あなたがたは幸いだ」 そのように記されています。

 私たちの心が、魂が揺り動かされるような力強い言葉がここにはあります。私たちが生きている世界では決して聞こえて来ないような力強い言葉です。主イエスの語られたこの言葉を耳にした時、誰もが不思議に思います。一体、主イエスはどういう意味で語られているのだろうと思うのです。心が惹きつけられます。もっと聞きたいと思います。それが、主イエスの言葉、主イエスの説教です。

 説教とはこういうものだというまさにお手本のようお説教です。人の心に言葉が届くというのは、こういうことなのだと教えられます。

「福音」というのはこれまで聞いたことのないような良い知らせ、すばらしい知らせのことです。

「貧しい」とか「飢える」「泣いている」「人々から憎まれる」というような、ここで主イエスが語られたことというのは、私たちが普段恐れていることばかりです。

 貧しい時というのは、周りの人々から自分が蔑まれてしまうのではないかと感じるものです。飢える時、これほど惨めさを感じることはありません。涙を流す時、悲しみを抱える時というのは、そこから何とか抜け出したいと誰もが考えるのだと思うのです。

 私たちにとって、このような困難な状況、悲しい現実が突きつけられるような事態が訪れる時、主イエスは言われるのです。そういう時こそ、あなたがたは幸せなのだと。

 主イエスは誰よりも、私たちのことをよく知っていてくださるお方です。分かってくださるお方です。そして、ただ、理解してくださる、分かってくださるだけではなくて、そういう私たちに幸せを与えたいと願っていてくださるというのです。

 ここに挙げられている状況に陥ることは、決して幸いなことだとは思えない事柄ばかりです。しかし、主イエスは「貧しさ」も「飢え」も「泣くこと」も、「憎まれること」の中にも「幸い」を見ていてくださるのです。なぜなら、そこでこそ神と出会うことができるからだと言われます。 (続きを読む…)

2023 年 5 月 7 日

・説教 ルカの福音書6章12-16節「主イエスの弟子たち」

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復活節第5主日
2023.5.7

鴨下直樹

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 今日の聖書箇所の冒頭12節にこのように書かれています。

そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。

 主イエスは夜通し祈っておられます。何を祈っていたかというと、この祈りを通して十二弟子をお選びになられたのです。

 この「12」という数字は特別な意味を持つ数字です。イスラエルの民は十二部族あります。この12の部族全てで神の民です。つまり、12というのは神の民を表す数字なのです。主イエスの十二弟子も、神の民全てを表します。この神の民全ての代表として、主イエスは12人をお選びになりました。この12人は新しいイスラエルの代表となるのです。そのために、主イエスは山に登られて夜を徹して祈られたのです。

 こうして、これから生まれる新しいイスラエルのために、主は先立って祈ってくださったのです。この新しいイスラエルというのは、今の私たちの教会のことも含まれています。主は、この弟子たちを中心とした新しい神の民イスラエルを再創造なさったのです。

 ルカは、こうして選ばれた12人の弟子たちのことを、「使徒」という名を与えられたと、続く13節で記しています。「使徒」というのは、古代ギリシャでは遠征に軍隊や艦隊を派遣することを意味した言葉でした。そのために正式に信任されて、権限を与えられた代表という意味を持つようになったようです。

 ここで選ばれた12人の使徒たちも、主イエスから信任を受けて、特別な使命のために派遣される、新しい教会の代表となっていきます。

 主イエスから信任を受けた、特別な使命を与えられた「使徒」というくらいですから、どんなに立派な人たちなのだろうかと思って見てみると、この弟子たちは本当に、かなりユニークな面々だということが分かります。

 14節から16節に、この十二使徒と呼ばれた人々の名前が出てきます。このリストを見ているだけでも、かなり個性的な人々の集まりであったことが分かります。

 まず気づくのは、同じ名前が3つもあります。ペテロと呼ばれたシモンの他に、熱心党員のシモン。漁師であったヤコブとヨハネの名前がありますが、アルパヨの子もまたヤコブです。しかも、このアルパヨの子のヤコブの子どもの名前にユダという名前があって、最後にイスカリオテのユダという名前も出てきます。このユダは主イエスを裏切るユダです。

 12人の中に3つの名前が重なっているわけですから、半分の名前は重なっていることになります。

 私には兄弟が二人ありますが、「なおき、ただし、けんじ」といいます。ある時、一番下のけんじが、小学校から帰ってきた時に、「今日、算数の問題で、なおき、ただし、けんじの名前が全部セットで出てきた。なんでこんなにありふれた名前にしたの!」と親に怒っていたことがありました。

 けれども、このシモンとヤコブとユダは、もっとポピュラーな名前です。このシモンとその兄弟アンデレ、そして続くヤコブとヨハネは、みな漁師たちでした。そして、それぞれ兄弟で、主に仕えています。ヤコブとヨハネには「ボアネルゲ(雷の子)」という名がつけられています。これは、気が短く、すぐ怒るというところから来ているそうです。短気で怒りっぽい人であっても、主の目にかなったのです。

 細かく全ての弟子について説明することは出来ませんが、次にピリポとバルトロマイという弟子が出てきます。この二人はいつもセットで出てきますが、他の福音書ではこのバルトロマイはナタナエルという名前で出てきています。

 この二人は弟子たちの中でもかなり優等生で、ナタナエルとして出てくる他の箇所では主イエスに「これこそイスラエル人」と呼ばれた人物でした。その正反対なのが次に出て来る取税人のマタイです。前回の5章で出てきた、ローマのためにユダヤ人の同胞からお金を取っていたような人物です。そして、マタイのような人をなんとかしたいと考えていたのが、熱心党員と呼ばれる人です。熱心党員のシモンとマタイなどは、仲良くするのは難しかったと思うのです。

 他にも石橋を叩いて渡るトマスのような弟子もいます。アルパヨの子ヤコブとユダ(別の福音書でタダイと書かれています)、この二人はどうも親子のようです。そこに、イスカリオテのユダです。このユダだけが、ガリラヤ以外の出身者ということになります。

 かなりキャラの強い人たちですから、仲良くやっていけたとは到底考えられません。それぞれ主義主張が異なっているのです。短気な兄弟や、慎重なトマス、突発的に行動してしまうペテロのような弟子までいるのです。これが、主イエスが徹夜の祈りをして、弟子として任命した十二使徒たちです。

 ここから何が分かるかというと、主イエスにとって、その人の性格やタイプ、主義主張や出身地というようなものは、何の問題にもならないのだということです。 (続きを読む…)

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