2015 年 8 月 2 日

・説教 ヨハネの福音書14章15-24節「主の愛に生かされて」

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2015.8.2

鴨下 直樹

 
 先週と、今週の祈祷会の時に、二回に分けて「どう読むか聖書」という話をいたしました。今年の一般キャンプのテーマですが、キャンプに先立って教会の方々と共に、どのように聖書を読むのかを学びました。今日の箇所などでもそうですけれども、聖書の中には奇跡の出来事や主イエスの譬え話など、情景を思い浮かべることのできる箇所と、説明の言葉の多い教えを記した箇所とに分けられます。特に、このヨハネの福音書の第14章から16章までは主イエスの告別説教と言われているところで、弟子たちに向けて語られた大切な言葉です。そのために、大切なことを語っておられますが、ここで弟子たちにどうしても伝えておきたいという教えの言葉の部分が多く含まれています。しかし、この主イエスの教えを聞いていた弟子たちもなかなか理解できなかったようで、途中で何度も主イエスの言葉をさえぎって質問が飛び出します。今日のところもそうです。主イエスがお語りになられた時からすでに、何を言っておられるのかよく分からないという部分があったようです。

 このような少し込み入った話になりますと、聖書を読んでいる私たちは難しいという印象を持ってしまって、ここで何が語られているのか、その意味をなかなかつかみ取ることが難しいと感じてしまいます。どのような筋道で語っているのかが見えにくいと感じてしまうのです。そういう時に、私たちがついついしてしまいがちなのは、分からない言葉の意味をあれこれと考えてしまって、そこに固執すればするほど、分からなくなってしまうということがあります。そういうときは、分からない言葉を前のめりになって考えるよりも、むしろ、少し後ろに下がって全体像を見渡してみるということが案外大切です。

 今日の箇所は「聖霊」について語られている、とても大切なところです。ですから、ついつい、聖霊について何が書かれているのか正しく理解しようとしてしまうのですが、そのまえに、この文章は全体で何を語ろうとしているのかを、まず考えてみることが大事です。今日は15節から24節までを選びました。この聖書の分け方はいろいろあるので、他の分け方もあると思いますけれども、今日の部分でいいますと、この箇所で扱われているのは15節から24節まで一貫して語られている「あなたがたが私のことを愛する」のは何によって示されるかということです。 (続きを読む…)

2015 年 7 月 19 日

・説教 ヨハネの福音書14章7-14節「父を見せてください」

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2015.7.19

鴨下 直樹

 
 今週の月曜日のことですけれども、私たち夫婦はマリッジコースというセミナーに参加してきました。結婚講座とでも言ったらいいでしょうか。そんな話を突然しますと、「あら、鴨下先生たち夫婦大丈夫かしら。何かあったんじゃないか」と心配になられる方々があるかもしれません。大丈夫ですか?と敢えて質問されると、どう答えていいか分からなくなる部分もあります。私たちはお互いにかなり理解しあっていると思っていますが、お互いが本当にそう思っているかどうかは、ふたを開けてみないと分かりません。

 なぜ、説教の冒頭からこんなハラハラさせるようなテーマから始めるのかと、勘ぐる方もあるかもしれません。実は、先月御代田で行われた教役者研修会で、このマリッジコースの紹介がされました。これは、これから結婚する人のためのコースというよりは、すでに結婚している夫婦のためのプログラムです。会場になった稲沢教会はとてもきれいにテーブルセットされていまして、さながらケーキバイキングにでも行ったかのようでした。真ん中のテーブルにいろんな種類のケーキと飲み物があって、自由にとっていいのです。そして、それぞれ夫婦でテーブルについてセミナーを受けるのですが、隣の声は気にならないくらい距離が離れています。それで、そこで同じ質問に二人で答えていきながら、お互い話し合って、夫婦の理解をより深めていくことができるように考えられているプログラムでした。

 このプログラムはDVDになっていまして、そのために誰か専門の講師を呼ばなくても、映像に従ってお互いに質問しあっていくというものなので、他の人に自分たちの会話が聞かれる心配もありませんし、自分たち夫婦のことを人に発表することもないという、とてもよく考えられている内容でした。ぜひ、教会で導入してほしいので、まずは牧師たちが自ら体験してみてはどうかということで、稲沢のベルンス先生が紹介くださったのです。

 実は、私はそういうセミナーにはまったく興味がなかったのですが、妻が勝手に申し込んでおりまして、そこに行くまでの気持ちというのは、まさに屠り場に引かれていく子羊のような心境だったのですが、心配したようなことは行われずに、とても安心して帰ってきました。いつか、この教会でもやってみたいと思いはじめています。

 そのプログラムの中で、自分が気にかけていることと、相手が気にかけていると思っていることにチェックをして、それについて話し合うというものがあったのですが、妻は、私のことを割と正しく洞察していたのに対して、私は妻の気にかけていることを一つも当てることができませんでした。もう、20年も夫婦をやっていますし、お互いよく理解しあっていると思っていましたので、正直、この結果に驚きました。分かったつもりになっているのは、私の方だけで、実は、分かっていなかったということが、明らかになってしまったのです。 (続きを読む…)

2015 年 7 月 12 日

・説教 ヨハネの福音書14章1-7節「道、真理、いのち」

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2015.7.12

鴨下 直樹

 
 ヨハネの福音書の第14章に入りました。今日のこの第14章から第16章の終わりまでの箇所がひとまとまりの文章になっています。一般に「告別説教」と言われる部分です。主イエスは弟子たちの足を洗われて、私が行く所にあなたがたはついて来ることは出来ないと言われました。そして、ここから弟子たちに向けて、別れの言葉をお語りになられました。私が2008年の秋にこの芥見教会に参りました時に、前任の後藤牧師は当時、可児教会と、芥見教会を兼任しておられました。それで、私が芥見に来たからということで、教会で送別会をいたしました。出席されたほぼ全員の方々が最後の挨拶の言葉を話されました。別れの言葉というのは、短くまとめるつもりでもついつい長くなってしまいます。もう、お別れだと思いますから、当然のことですけれども、みなさんがお話になられたので、ずいぶん時間が遅くなりまして、みなさんが後藤先生のことを非常に喜んでおられたのが良く分かりました。

 ですから、みなさんも経験があると思うのですが、人との別れに際して、どうしても話しておきたいと思う事というのは、とても大切なこと、どうしても伝えたいと思うことを伝えるものです。礼拝の説教では、そのひとまとまりの言葉、この別れの言葉を、少しずつ見ていくことしかできませんから、いつも、このことを頭の片隅に覚えておいてくださるとよいと思います。

 「あなたがたは心を騒がしてはなりません。」主イエスはこの告別説教の冒頭、そのように言葉を切り出されました。主イエスの弟子たちの心は騒いでいました。なぜかというと、この直前で、主イエスはご自分を裏切る者のことについてお語りになり、また、「わたしが行く所に、あなたがたは今はついて来ることができません」と言われたからです。しかも、ペテロなどは「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います」と主イエスから言われてしまいました。ですから、弟子たちには、これから主イエスがどこに行こうとしておられるのか、これから何かが起こるのではないだろかという動揺があったにちがいないのです。そこで、主イエスはこの冒頭で「あなたがたは心を騒がしてはなりません」と語りだされたのです。 (続きを読む…)

2015 年 7 月 5 日

・説教 ヨハネの福音書13章21-38節「主の愛に応えて」

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2015.7.5

鴨下 直樹

 
 先週の木曜日から、今日までの間、名古屋の東海聖書神学塾の伝道実習が行われております。今年は一つのチームが今、私が受け持っております三好教会の伝道実習をしにまいりました。二年前から三好教会は無牧ということもあって、いつもですと、カーステン先生が三好教会のことを主に責任をとってくださっているのですが、この7月から宣教報告のためにドイツに帰っておられるために不在です。そのため、木曜日と金曜日、神学生と一緒に三好教会に泊まりまして伝道実習に参加してきました。今日も、神学生が礼拝で説教しているはずです。その実習で何度かに分けてトラクトを配ってきたのですけれども、一日中トラクトを配っているわけにもいきません。また、無牧の教会ということもあって、教会の定期集会はさほどありませんので、時間を持て余してしまいます。それで、木曜の夜と、金曜の午前と午後、一時間半ほどの学びの時を持ちました。三好教会に来た神学生たちは5人なのですが、そのうち4人は今年の四月に入ったばかりの方々です。そういうこともあって、その学びの時に、聖書の読み方という話をしました。ここで、その話をしますと、それこそ一時間半かかってしまいますので、また何かの折にみなさんにもお話しできればと思いますけれども、その中で、聖書を読む時にはコンテキストを理解するという話をしました。コンテキストというのは、一般的には文脈と説明されることが多いと思いますが、コンという言葉は「一緒に」というラテン語です。テキストというのは、織物のことです。織物のことをテクスタイルというようですけれども、縦糸に横糸が織り込まれて織物ができるように、言葉によって編み込まれていく文章のまとまりのことをテキストといいます。ですから、コンテキストというのは、前の文章と後ろの文章がどのようにして一緒に織りこまれているのかを理解するという意味で使われます。聖書を読む時に、どうしても大切なのは今、読んでいるところだけではなくて、その前後に何が書かれていて、どういう文脈の中でそのことが言われているのかを正しく理解する必要があります。 (続きを読む…)

2015 年 6 月 21 日

・説教 ヨハネの福音書13章1-20節「愛の模範」

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2015.6.14

鴨下 直樹

 
 ヨハネの福音書はここから第13章に入ります。いよいよ、ここからがヨハネの福音書の後半部分、受難週に起こった出来事がしるされているところです。今年の受難週に行われた金曜日の受難日礼拝で、この1節から13節までのところを一度説教をしました。今日は少し長い個所を選んでおりますので、一節ずつ丁寧に見ることは出来ませんけれども、今日はこのところから共にみことばに耳を傾けたいと思います。

 さて、この第13章から大きく内容が変わろうとしています。これまで、このヨハネの福音書は、主イエスがどのようなお方であるのかを、人々に示してきました。けれども、ここからは、主イエスは群集の前にはもはやほとんど姿を現しません。弟子たちに対してご自分のことを示しておられます。

さて、過越しの祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。

と1節にあります。

 ここに「世にいる自分のものを愛されたイエスは」と少し分かりにくい言葉がありますが、この「自分のもの」というのは弟子たちのことです。新共同訳聖書をお持ちの方は「世にいる弟子たちを愛して」となっていますから、すぐに分かると思います。主イエスは弟子たちにご自分の愛を残るところなく示してくださいました。他の翻訳の聖書の紹介ついでに、文語訳聖書という、少し古い日本語の聖書があります。よく、教会のOさんが祈りの時に文語訳聖書を引用して祈られます。その祈りにも時々引用されていますけれども、文語訳では「世に在る己の者を愛して、極まで之を愛し給へり。」となっています。これがこの箇所の言葉をもっともよく表していると思いますが、主イエスは、ご自身の弟子たちにその愛を極みまで示してくださいました。その主イエスが極みまで示してくださった愛が、この13章以下に記されているわけです。

 ところが、このヨハネの福音書の面白いのは、まさに、そこからですけれども、続く2節でイスカリオテのユダを登場させます。すると、どうしても考えるのは、主イエスが極みまで愛を示してくださった対象に、この主イエスを裏切ったイスカリオテのユダも入っているのかどうか、このあと主イエスが弟子たちの足を洗われた時に、ユダの足を洗われたのかどうか、という疑問が出てきます。このまま読んでいきますと、ユダが部屋から出て行ったという記述はありませんから、ユダの足も洗われたということになります。 (続きを読む…)

2015 年 6 月 14 日

・説教 ヨハネの福音書12章36節後半-50節「主イエスを信じる者」

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2015.6.14

鴨下 直樹

 
 今、ヨハネの黙示録を改めて読み返しています。といいますのは、いのちのことば社がマナというディボーションの雑誌を出しているのですが、ゴールデンウィークに行われたCS教師研修会の分科会の講師に、いのちのことば社の編集長を招いていたので、そこでこの雑誌のための原稿を依頼されたのです。こちらとしては奉仕を依頼した手前、断ることもできず、ディボーションのテキストの原稿の依頼を受けました。ところが、これがおもったよりも大変でした。というのは、その冊子は一日2章ずつ読むことになっていまして、その中から10節ほど選びまして、700文字で解説を書くことになっています。ヨハネの黙示録というのは他の箇所と違いまして、ある個所だけを解説しても、全体の流れがつかめないとさっぱり意味が分かりません。それで、今どうやってこれを700字でまとめたらいいのかと四苦八苦しているのですが、そのためにも、ずいぶん丁寧にヨハネの黙示録を読み返しています。じっくりと読んでみまして、改めて考えさせられるのは、主が何度も何度も地の人々に悔い改めを迫っておられるのに、人々は頑なで悔い改めることをしないという人の心の頑なさです。ヨハネの黙示録は人間をそのように理解をしているといえます。

 先週説教した箇所で、主イエスは「あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい」と語られました。36節の前半です。ヨハネの黙示録を読んでいますと、本当にこの言葉に尽きると言っていいほど、黙示録の内容がこの言葉の中に込められている気がしてなりません。もう遅いという時が来る前に、悔い改めて神の光の中を歩むように主は招き続けておられるのです。

 今日は、この36節の後半部分からですが、そこではいきなりこう書かれています。

イエスは、これらのことをお話しになると、立ち去って、彼らから身を隠された。

 光のある間に、光の中を歩むように主は招かれて、その直後から、もう主イエスは人々の前に姿をお現しにはなりません。次に姿を現されるのは、18章のピラトによる裁判の場面です。人々はこのあいだ、神の光を失ってしまうのです。ここを読んでいてもそうですし、ヨハネの黙示録を読んでいてもそうですけれども、私たちはどこかで、まだ、大丈夫と考えてしまっているところがあります。神を侮ってしまって、今という大切な時を見逃してしまうのです。

イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった。

と37節にあります。今日、私たちに与えられているこの箇所は、主イエスのこれまでの伝道の生涯のまとめの言葉だと言うことが出来ます。そして、この部分の言葉には、とても残念な響きがあります。主イエスがその生涯をかけてご自分のしるしを行われたのに、人々は信じなかったのです。 (続きを読む…)

2015 年 6 月 7 日

・説教 ヨハネの福音書12章27-36節「光のうちを歩みなさい」

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2015.6.7

鴨下 直樹

 
 先週の礼拝の後の報告の時間に、一つの映画の紹介をしました。「レフト・ビハインド」という、キリストの再臨をテーマにした映画です。小説にもなりまして、ずいぶん多くの人々に読まれたようです。キリストが再臨された時に、クリスチャンだけが天に挙げられる、携え挙げられると書いてこれを、携挙(けいきょ)といいますが、この携挙をテーマにした映画です。この携挙という言葉は教会でも最近あまり語られなくなっていますのであまり聞いたことのない方もあるかもしれません。

 テサロニケ人への手紙4章16節と17節にこういう言葉があります。

「主は号令と、み使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から来られます。それらからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている者たちが一挙に引き上げられ、空中で主と出会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」

 このみ言葉に語られている点に一挙に引き上げられて主と再会する。そして、その人々は天に上げられる。そうすると、もし、キリスト者だけがその時に天に携え挙げられるのだとすると、残された人々はどうなってしまうのだろうか。そのことを問題にしたのが、今月末に行われるこの「レフト・ビハインド」という映画です。ただし、みなさんに知っておいていただきたいのは、これは一つの聖書の解釈であって、必ずそうなるという意味ではありません。少なくとも私はそのようには信じていませんし、そのようになると聖書が言っていると単純に言うことはできません。
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2015 年 5 月 31 日

・説教 ヨハネの福音書12章20-26節 「一粒の麦という喜び」

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2015.5.31

鴨下 直樹

 
 先週の月曜日に岐阜県基督教連合会の総会が行われました。岐阜県中の教会がこれに所属しておりまして、岐阜にある二つの刑務所に教誨師を送る働きを続けて来ております。三年前の総会で、書記に任命されまして、ようやく、その勤めを終えることができて少しほっとしております。いつも、この総会において教誨師の働きの報告を聞くのですが、せっかくまさに、教派を超えて普段は福音派の先生方との交わりが多いのですけれども、色々な立場の牧師たちが出席しますので、そこで研修ができるようにということで講師を立てて、講演をしていただいています。今年は、西濃地区の担当ということもあって、この芥見教会の前任者で、この3月まで大垣教会で牧師をしておられた後藤喜良先生が講演してくださいました。「私の福音」という、これまで牧師として働いてこられて後藤先生が大切にしてこられたことをまとめて話してくださいました。二時間近くの講演でしたので、ここでその話をすることはできませんけれども、自分はどうやって聖書を読んできたのか、どのように福音を理解して来たのかというのが主な話でした。とても良い話で、改めて聖書を丁寧に読んでいくことの大切さに気付かされました。そこで話されていたのは、何か一つのテーマが気になると、そのテーマで聖書全体をもう一度丁寧に読み直していく。そうやって、聖書全体がそのテーマについてどのように書いているのかを理解しなおしていったと話しておられました。

 そういう思いで聖書を改めて読みますと、今日、私たちに与えられているこの箇所も、いくつも考えさせられるテーマがあると思います。たとえば、今日の箇所のはじめの20節にこのように書かれています。

さて、祭りのとき礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシヤ人が幾人かいた。

他の福音書と読み比べてみましても、この主イエスがエルサレムに入城したあとで、そこにギリシヤ人がいたということを書いているのはこのヨハネの福音書以外にはありません。 (続きを読む…)

2015 年 5 月 24 日

・説教 ヨハネの福音書12章12-19節 「エルサレムに入城される主のお姿」

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2015.05.24

鴨下 直樹

 
 今日は、ペンテコステの主の日です。私たちに聖霊が与えられた、ことを思い起こす主の日です。中部学院大学のチャペルで説教してきたときに、大学の先生から来週はペンテコステだけれども、教会で何かしますかと聞かれました。讃美歌でペンテコステの曲を歌うくらいですとその時答えたのですが、そのあとで、もう一度、今日の聖書箇所を読み直しまして、ああ、ペンテコステの礼拝の説教にふさわしい聖書箇所だと少しほっといたしました。

 今日は、エルサレム入城のところに入ります。教会歴でいえば、主イエスの受難を覚えるレントの期間の、いよいよ受難週をむかえる主の日のことを「棕櫚の主日」と呼びます。主イエスがエルサレムに入場なさる時に、人々が手に手に棕櫚の葉を掲げて「ホサナ、ホサナ」と主イエスを迎え入れました。ですから、ある意味では受難週の時に、この箇所を読むのであればまさに、ぴったりということになると思います。いったい何がこの出来事、ペンテコステにふさわしい個所なのでしょうか。少し、そんなことを心にとめてくださりながら聞いていただければと思います。

 このエルサレム入城の出来事というのは、すべての福音書に記されています。ですから、なんとなく、どの福音書も同じことが書かれていると勝手に思い込んでしまうところがありますが、このヨハネの福音書は、ほかの福音書と特に異なっているということができます。というのは、このエルサレム入城の出来事がラザロの復活ということに深く結びつけられているからです。ここで、イスラエルの人々は主イエスがエルサレムに入場されるのを大歓声で迎え入れ、そのために今日の箇所の最後の19節のところでは、

パリサイ人たちは互いに言った。「どうしたのだ。何一つうまくいっていない。見なさい。世はあげてあの人のあとについて行ってしまった。」

と記しています。それほどまでに、人々の心が主イエスに集中してしまい、もはや、「我々以外はみな主イエスの仲間だ」と言わなければならないほどに、人々は主イエスのエルサレム入城に熱狂したと記しているのです。それは、ラザロの復活の出来事を通して、人々の関心が主イエスに傾いたためだと、ユダヤ人たちは理解したのだと記しているのです。 (続きを読む…)

2015 年 5 月 17 日

・説教 ヨハネの福音書 12章1-11節 「マリヤの応答とユダの応答」

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2014.5.17

鴨下 直樹

 
 ゴールデンウィークも開けてようやく皆さんの生活も落ち着いてきたころでしょうか。私自身も、ここ数週間、ほかの教会に行かなければならないことがあったために、なかなか落ち着いてヨハネの福音書のみ言葉を聞くことができなくなっていて申し訳ない気持ちでいます。今日からいよいとヨハネの福音書の第12章に入ります。特に、今日の箇所からはヨハネの福音書は主イエスの十字架にかけられる一週間の出来事が記されます。これは、この12章から最後までですから約半分を、この受難週の出来事として記録していることになります。

 今朝はこの前に書かれていることを思い出していただきたいのですが、主イエスは、ラザロをよみがえらせた結果、ユダヤ人たちは主イエスを殺害する計画を立てました。今日の前のところ、11章57節に書かれていますのは、「イエスがどこにいるかを知っている者は届け出なければならないという命令を出していた」とありますから、人の目を避けるようにしてベタニアに入られたようです。そこで、晩餐を取ろうとしています。そこにはマルタとマリヤと、復活したラザロも一緒です。この部分ではラザロについてはそれ以上特に何も書かれていませんけれども、よみがえったラザロが主イエスと共に晩餐を囲むというのは、何でもない記事のようですけれども、まさにラザロが生きる者とされたのだということがここから読み取ることができます。

 また、その時、姉のマルタはそのために給仕をしていたと書かれています。ルカの福音書にしるされているマルタが給仕をして、マリヤが主イエスの話に耳を傾けたと言う出来事を思い起こさせるかのようなことが書かれています。おそれく、ここでは、まさに、給仕をするマルタと、主イエスに香油を注ぐマリヤという対比が描かれていると考えられます。このように、今日の箇所は色々な人々が出て来ていて、色々な視点で考えることのできる箇所と言えますけれども、今日の箇所は、ラザロやマルタにもまして、マリヤと主イエスの弟子のユダに焦点が絞られているところだと言えると思います。

 それで、はじめにまずマリヤの信仰についてここから見て見ることにしましょう。 (続きを読む…)

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