2023 年 10 月 22 日

・説教  ルカの福音書9章28−36節「光と言葉を」

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2023.10.22

鴨下直樹

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 今日の聖書箇所は「変貌山」とか「キリストの変容」と呼ばれる出来事が記されているところです。前回の箇所で、主イエスの弟子のペテロが「あなたは神のキリストです」と、主イエスへの信仰を告白しました。このペテロの理解は正しかったのですが、主イエスはこのことを誰にも話さないように言われました。どうしてかと言うと、当時の人々や、この時の弟子たちが考えているキリストの理解と、主イエスの示そうとしているキリストのあり方が、まったく違っていたためです。

 この出来事に続いて、今日の「キリストの変容」という出来事が記されているのです。この意味について、私たちはここからしっかりと受け取りたいと思います。

 ルカはこの28節で「イエスはペテロとヨハネとヤコブを連れて、祈るために山に登られた。」と記しています。

 そして、この後、キリストのお姿が変わるという出来事が起こった時、32節では「ペテロと仲間たちは眠くてたまらなかったが」と書いていますから、この出来事は夜通し祈りをしておられた中での出来事だったことが暗示されています。

 こういう書き方は他の福音書では書いていませんので、ルカはこのところで夜の祈りの中での出来事であったことを伝えようとしています。

「キリストの変容」ラファエロ ラファエロの描いた「キリストの変容」の大きな絵がヴァチカン美術館の一番奥の部屋に置かれています。この絵は、マタイの福音書をもとにして書かれたと言われていますが、マタイでは弟子たちが眠かったという記述はありませんので、ルカの福音書の場面を描いたのではないかと考えて良いと思います。この絵もやはり夜の祈りとして描いています。

 みなさんは夜、山で祈るという経験をしたことがあるでしょうか。私たちの教団は、根尾にクリスチャン山荘を持っています。ここからだと45分くらいで行くことができます。私は、神学校に入る前に、当時は管理人もおりませんでしたのでこの根尾山荘に半年ほど住んでいたことがあります。このキャンプ場の周りには家がありません。明かりも道にでればカーブのところに街灯が辛うじて一つ点いているだけで、あとは真っ暗です。夜は猿だとか、鹿の声が聞こえてくることもあります。

 そんな夜の山の中で、時折祈った経験があります。不思議なものですが、とても祈りに集中することができます。気を紛らわせるものが何もないからかもしれません。

 弟子たちはそんな祈りの時に、眠くなってしまったようです。ということは、主イエスの祈りが長く続いたということと、弟子たちには祈る必要性をあまり感じなかったということなのでしょう。言ってみれば主イエスに付き合わされているわけです。そして、この時まで、なぜ、自分たちがこの祈りの山に招かれているかを理解できていなかったのです。

 ところが、弟子たちが寝ている間に、とてつもない出来事が起きています。29節から31節にこう記されています。

祈っておられると、その御顔の様子が変わり、その衣は白く光り輝いた。
そして、見よ、二人の人がイエスと語り合っていた。それはモーセとエリヤで、栄光のうちに現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について、話していたのであった。

 暗闇の山の中で、突如主イエスの御顔の様子が変わり、衣が光り輝き始めたのです。そして、そればかりか、主イエスの周りにはモーセとエリヤが姿を現わします。

 一体ここで、何が起こっているというのでしょう。この主イエスから発せられる光は一体何を物語っているというのでしょう。こんなとてつもない出来事が起こっているのに、三人の弟子たちは、眠さの中にあって、この姿にはじめ気づいていなかったというのです。 (続きを読む…)

2023 年 10 月 15 日

・説教 ルカの福音書9章18−27節「すべては祈りの中で」

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2023.10.15

鴨下直樹

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主イエスが一人で祈っておられた時

 今日の箇所は、この言葉から始まっています。静かな場所で主イエスが祈っておられる。このお姿を見るだけで十分と言えるような世界が、弟子たちの前に示されています。

 祈っておられる主イエスの姿。草原だったのか、荒地だったでしょうか。

 風の音、草木がたなびく音、鳥や虫のまでが美しく調和している。

 弟子たちはそんな中で、主イエスの祈る姿を見ているのです。それは、誰も主の祈る姿の前に割り込むことのできないような完成された世界であったに違いありません。

 どんな絵画よりも、どんな景色よりも崇高な世界がある。その姿を見ることが出来たならば、何と幸いなことだろうと、私などは羨ましくさえ感じます。

 まだ私が高校生の頃、この箇所を読んで素朴に驚いたことを今でも覚えています。「主イエスでも祈るのか」。聖書を読み始めた頃に、心に留まったそんな思いは、今でも覚えています。

 聖書学者や、解釈者たちは、この箇所がルカの福音書の頂点だといいます。頂点ということは、そこからすべてのものを見渡すことができるようになるということです。ここに記されている一切の出来事は、この主イエスの祈りがもたらしたものです。

 私たちは自分の人生の頂点がどこにあるかなど、知る由もありません。その多くは、気づいた時にはもう手遅れになっているような状況で…ということも少なくないのかもしれません。

 私たちは自分の人生の道半ばで立ち止まり、何度も後ろを振り返りながら、この道でよかったのか、あるいは今、目の前に差し迫っている壁や障害を、どう乗り越えたらよいのかと途方に暮れてしまうのかもしれません。

 そんな中で、信仰が一体どんな役割を果たすのか、神は私に何をしてくれるのかと思いながら、心を悩ませているのかもしれません。

 今、私たちは連日のように、戦争や災害の話を耳にします。最近ではイスラエルとハマスとの間で起こった争いや、ミャンマーでも政府の軍隊が難民キャンプを砲撃したというショッキングなニュースが入っていました。最近ではモロッコやアフガニスタンでも大きな地震があったというニュースも入ってきています。

 こういう時に、私たちは主がそれぞれの被害に遭われている土地の人々に、慰めを与えられるようにと祈ります。その時に、私たちは少し立ち止まって「私たちが祈っている主は、どういうお方なのか」と考えることはないでしょうか?

 今日の聖書箇所では、主イエスは祈りの後で、弟子たちの方を振り向いて言われました。

「群衆はわたしのことをだれだと言っていますか」

 この主イエスの問いかけは、今日の世界に生きる私たちにもそのまま通じる問いかけであると言えるかもしれません。

「この世の人々はわたしのことを誰だと言っていますか?」

 この主イエスの問いに、私たちは何と答えることができるのでしょうか? (続きを読む…)

2023 年 10 月 1 日

・説教 ルカの福音書9章1-17節「主イエスと共に働く~神の国のインフルエンサーとして」

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2023.10.1

鴨下直樹

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 先週、私たちは東海合同礼拝を行いました。東海地区の64の教会がオンラインで、一つの礼拝を行いました。約3,000人の人々が集まって礼拝したのです。これは画期的なことで、これまで、こんなことができるなどということは誰も考えたことのないような礼拝でした。

 東海地区では、この伝道会議のために、ひとつのテーマを掲げました。そのテーマが「神の国のインフルエンサーとなる」です。「インフルエンサー」というのは、ここ数年前から語られるようになった言葉で、「影響力を及ぼす人」という意味のある言葉です。主にSNSなどに新しい情報を発信する人たちのことを言います。

 「神の国のインフルエンサーとなる」というのは、私たちクリスチャンが、この世界に神の国の福音を伝える影響力のある人になっていきましょうということです。そこで、合同礼拝では、開催地企画室長を務めてくださったインマヌエル名古屋キリスト教会の内山勝先生が、「地の塩、世の光」というテーマで、マタイの福音書の5章から、私たちは、すでに地の塩、世の光とされているのですから、もう私たちは神の国のインフルエンサーなのだという力強い励ましのメッセージを語ってくださいました。

 今日の聖書箇所はルカの福音書9章です。少し長い箇所で、1節から17節までの中に、十二弟子の派遣、ヘロデの主イエスへの関心、そして五千人の給食の奇跡という3つの出来事が記されています。この3つの出来事にはすべて「神の国の福音」がどのように広がっていくのかが記されています。

 まず、簡単に9章の流れだけ見てみたいと思います。主イエスは十二弟子を遣わします。1節と2節にこのように記されています。

イエスは十二人を呼び集めて、すべての悪霊を制して病気を癒やす力と権威を、彼らにお授けになった。
そして、神の国を宣べ伝え、病人を治すために、こう言って彼らを遣わされた。

 まず、この1節と2節で、主イエスの弟子たちは神の国の福音を宣べ伝えるために派遣されていくのですが、そのために悪霊を制して、病気を治す力と権威が与えられたと記されています。

 「神の国の福音」とは何でしょうか? 神の国というのは、神の支配のことです。神が一緒にいてくださるということです。それは、主イエスがおられるところには、神が一緒にいてくださって、共にいてくださって、神が私たちと共に歩んでくださるということです。

 神が共にいてくださることは、病気が癒やされたり、悪霊が追い出されたりすることで分かるようになるのです。この悪霊からの解放や、病気の癒やしということは、この前の8章でも語られています。神の支配というのは、具体的に、体感的に神が共にいてくださることが感じられるようになることだと、すでに8章までで明らかにされています。

 やがて、この権威を与えられた弟子たちの働きが噂になって、当時のユダヤ地方の総督であったヘロデの耳にまで入ります。ヘロデはこの噂に驚きを隠せませんでした。というのも、ヘロデはすでにバプテスマのヨハネを殺害した後だったからです。もう、このような人物はいなくなったと思っていたのに、主イエスとその弟子たちが同じような働きをし始めて、その影響力が無視できなくなってきたことが、ここで明らかにされています。

 つまり、主イエスの弟子たちは「神の国のインフルエンサー」として、この時点で地域に影響力を与え始めていたわけです。そういう意味では、主イエスとその弟子たちによる神の国のインフルエンサー事業はそれなりの成果を収めたわけです。

 それで、派遣の期間が終わって弟子たちが戻ってくると、主イエスは弟子たちをつれて「ベツサイダ」という町で休憩を取ることにします。 (続きを読む…)

2023 年 9 月 17 日

・説教 ルカの福音書8章40-56節「信仰」

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2023.9.17

鴨下直樹

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 聖路加国際病院で長い間院長として働いておられた日野原重明さんという方がおられます。この方は2017年、105歳で召されたのですが、まさに生涯現役で働かれたキリスト者の医者です。この日野原さんが89歳の時だったと思いますが、『いのちの器』という本を出されました。この『いのちの器』というのは、日野原さんの取り組まれた一つの働きで、こんなことを言っています。

「命は私に与えられた時間です。このいのちを何のために使うか、自分たちの生き方がこれから生きる子どもたちの手本になる」

 そのように言われて、全国の小学校などを訪ねては講演活動をしておられました。

 この『いのちの器』という本が出版された時の本の帯にこんなことばが書かれていました。

私たちのからだは、いのちを容れる器である。その器は聖書にあるように、土の器である。土の器である限り、使っているうちに器はその一部が欠けたり、もろくなったりする。
動脈硬化になった心臓や脳の血管は、硬くなり、もろくなった土の器の姿である。人間のからだは、年とともに古くなり、光沢がなくなっていくかもしれないが、土の器で形づくられる空間の中に、人間は自らの魂を満たすことができる。
人間一人一人は、このやがては必ず朽ちてゆく土の器に、この有限な器の中に、無限に通じるいのちを宿したものである。

 信仰の医者らしい言葉です。私たちは土の器なのだ。器である以上、欠けているところがあるし、病に侵されることがある。しかし、大切なのは聖書が言っているように、この土の器の中に、無限に通じるいのちを宿すことと言っています。

 そして、この福音書を記したルカも、医者として生きた人です。ルカ自身、パウロがコリント人に宛てて書いた時に使った、この「土の器」というメッセージを耳にしていたに違いありません。

 この医者であったルカは、この8章の21節で、「わたしの兄弟とは神のことばを聞いて行う人たちのこと」という主イエスの言葉を取り上げて語りました。これはそのまま「信仰とは神の言葉を聞いて行うこと」と言い換えることもできると思います。

 そして、ルカはこの言葉に続いて3つの主イエスの奇跡の御業を語りました。まず、嵐の出来事を通して、信仰を与えてくださる主イエスとともにいることが、どんな恐れの中にあっても確かな平安を与えるのだということを明らかにしました。

 そして、続く悪霊に支配された人を、悪霊から自由にすることを通して、主は忘れられた人を訪ねて、その人にも救いを与えてくださるのだという、主イエスの心を明らかにしてくださいました。

 そして、今日の箇所では、治らない病と、死という、絶望的な状況の中で信仰が与えられることを、ルカはここで医者として語ろうとしているのです。

 医者として直面する死の絶対的な力、医者の手ではどうすることもできない病を目の当たりにしながら、そこに表れる人の絶望的な姿を目の前にして、主イエスは何をなさったのかを、ルカはここで描き出すのです。

 主イエスは異邦人の土地から戻ってきました。すると、ガリラヤの人々は喜んで主イエスを迎え入れます。そこで主イエスを待ち構えていたのは、病に苦しんでいる人々でした。

 その中に、ヤイロという会堂司がいました。主イエスは安息日には会堂で話されていましたから、顔見知りの人物だったのかもしれません。その地域の人々からの信頼も厚い人物であったに違いありません。このヤイロは主イエスをみると、

彼はイエスの足もとにひれ伏して、自分の家に来ていただきたいと懇願した。
彼には十二歳ぐらいの一人娘がいて、死にかけていたのであった。

と41節と42節に書かれています。

 主イエスはこのヤイロの願いを聞かれてヤイロの家に向かうのですが、その途中に、もう一つの出来事が起こります。それが、続く43節と44節に記されています。

そこに、十二年の間、長血をわずらい、医者たちに財産すべてを費やしたのに、だれにも治してもらえなかった女の人がいた。
彼女はイエスのうしろから近づいて、その衣の房に触れた。すると、ただちに出血が止まった。

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2023 年 9 月 10 日

・説教 ルカの福音書8章26-39節「レギオン 居場所のない者の救い」

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2023.9.10

鴨下直樹

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 来週、いよいよ第7回の日本伝道会議が行われます。今回は、岐阜の長良川国際会議場で行われるのですが、会場に近い教会ということもあって、私は最初からこの会議のための準備のメンバーに加わってきました。毎週、何時間にも及ぶ話し合いを続けてきましたので、ようやく伝道会議が始まるといった印象を持っています。

 今回の伝道会議は「『おわり』から『はじめる』宣教協力」というテーマが掲げられています。今回は岐阜を会場に行われるのに、「尾張」と掛けているテーマが気に入らないなどという意見もたくさん耳にしました。けれども、全国の人々からすれば尾張も、美濃も、名古屋も、みんな東海地区でしょという印象のようで、それほど気にならないようです。

 この「おわり」というのは、この東海地区から宣教協力を始めていこう、あるいは、それぞれの地域から宣教協力を始めていこうという意味が込められているのですが、それ以外にも、これまでの形骸化したやり方を「終わり」にしようという意味合いも込められています。

 私たちは、自分たちの居心地の良い生活を続けていくために、嫌なものをどこか隅に追いやって、それこそ「臭いものには蓋」というような生活をしていることがあります。それを「タブー」と呼んだり、「聖域」と呼んだり、「伝統」と呼ぶこともあるのかもしれませんが、そこには触れないで、何とか合理的に解決する道を考えて生活しています。

 この蓋をしている聖域に踏み込むことは、タブーです。先日来、大きな芸能事務所のタブーが何十年ぶりかで明るみに出されたというニュースが、連日報道されています。そこに切り込んでいくということは、かなりの犠牲が生まれることになります。

 私たちの教会の中にも、気づかない間にそういうものが無いとも言えませんし、職場や、家族の中にも、いつの間にか、この話題はタブーだというようなものがあって、誰もそのことには触れないでおくというようなものが出来てしまっているかもしれません。

 今回の伝道会議はまさに、そのようなタブーになっているようなことをも乗り越えて、宣教のために協力していこうということが呼びかけられているのです。 (続きを読む…)

2023 年 9 月 3 日

・説教 ルカの福音書8章22-25節「大嵐の最中、その時主イエスは!」

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2023.9.3

鴨下直樹

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 二週間の夏休みを頂きまして、今日三週間ぶりにみなさんと礼拝を捧げることができることを嬉しく思います。私たちの教団は御代田に宿泊施設があり、牧師や宣教師たちが、この施設で夏休みを過ごします。いつも本当に感謝なことですけれども、二回の日曜を挟んで休暇をいただいて、そこでゆっくりした時間を過ごすことができます。

 その間は、本当に仕事を一切持っていきません。ですから、睡眠時間をいつもよりも相当長く取ることができます。ただ、どうしても普段習慣づいてしまっているので、いつも決まった時間に目が覚めますが、休みの間は、もう一度そこから一眠りすることができて、本当にゆっくりすることができました。

 この夏休みの時に、一回は下仁田教会の礼拝に行き、そこで説教をしました。もう一回は、日本基督教団の軽井沢教会の礼拝に行きました。その日の説教は、安息日の話で、「安息日というのは、自分の人生を中断することである。その間は自分のいのちを神様に委ねるわけで、そのことを通して、自分の人生を自分で支配しているのではないことを覚えるのだ」という話をされました。

 私たちは、自分の人生を自分で支配している気持ちになっているわけです。けれども、その自分の人生を一時中断しなければならない。それは死んだ状態になるということで、その時は神様に自分の人生を任せることになるわけです。復活の信仰というのは、そこにあるのだというのです。
 
 私たちの教会では、この夏も信徒交流会が行われ、先週無事に終わりました。久しぶりに行われたこともあって、とても新鮮な時となりました。信徒の方々が順に証しをしてくださいました。その中で何度も出てきた話は、自分が通された困難な状況の中にあって、今も主イエスが生きて働いておられたことを経験した証しです。

 私たちは誰もが、人生の歩みの中で様々な試練を経験することがあります。その時に、不安を感じたり、恐れの感情に支配されたりすることがあると思います。私たちはそのような人生の試練の中で、それとどう向き合うのか。まさに、自分自身の信仰が試されているような思いになることがあるのです。

 今日の聖書箇所は、そのような経験をした時の出来事が記されています。 (続きを読む…)

2023 年 8 月 13 日

・説教 ルカの福音書8章19-21節「神の家族=み言葉を聞いて行う者」

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2023.8.13

鴨下直樹

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 今、私たちの教会では「信徒交流会」ということで、夏の間の祈祷会は、信徒の方々が担当してくださっています。担当になってくださる方はほとんどみなさん証しをしてくださっています。先週は、水曜日は私の娘のキャンプの報告と、Sさん、木曜日はMさんが証しをしてくれました。

 先週話してくださった方も、その前に証ししてくださった方々もそうですが、決まって家族のことを取り上げられます。特に、木曜に話してくださったMさんは、今は結婚して山口県の岩国におられますが、今ちょうど帰省してきておられます。その証しでは、信仰に至るまでの、クリスチャンホームで育った中での葛藤をお話しくださいました。その証しをお聞きしながら、改めてクリスチャンホームの家庭の子どもたちが信仰に導かれる難しさというものに気付かされます。

 先週の説教でも少しお話ししましたけれども、私たちは今、全体主義の世界に生きてはおりません。個人が尊重される時代のなかで生きています。家族がクリスチャンだから、子どもの自分もクリスチャンになるように期待されていることは分かるわけですが、親の信仰と、自分はまったく別物です。いくら親が強制したとしても、自分で神様と出会うことなしに自分の中には信仰心は生まれません。この神様との出会いというのは、自分で神様とお会いして自分の心が動かなければどうにもならないことです。

 今日の聖書の箇所はまさに、主イエスの家族はどうであったのかということが記されています。

 19節にこのように書かれています。

さて、イエスのところに母と兄弟たちが来たが、大勢の人のためにそばに近寄れなかった。

 主イエスのところに主イエスの母と兄弟たちが訪ねてきたというのです。

 その続きはこのように記されています。20節と21節です。

それでイエスに、「母上と兄弟方が、お会いしたいと外に立っておられます」という知らせがあった。しかし、イエスはその人たちにこう答えられた。「わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行う人たちのことです。」

 イエス様の家族の立場で考えるとちょっと悲しい気持ちになってしまいます。ただ、ここを読んだだけでは、主イエスは結局のところ兄弟たちと会ったのか会わなかったのかははっきりしません。

 私たちはこれと同じ出来事がマルコの福音書にも書かれていることを知っています。そこでは、主イエスがおかしくなってしまったのではないかという噂が広がって、家族が主イエスの活動をやめさせるためにやって来たという流れで書かれています。

 ところが、ルカはそういう流れでは書いていませんので、マルコの福音書のことは一度忘れていただいて、ここを読んでいただきたいと思います。 (続きを読む…)

2023 年 8 月 6 日

・説教 ルカの福音書8章16-18節「明かりのもたらすもの ―聖書とキリスト教の歴史のはなし― 」

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2023.8.6

鴨下直樹

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 今日の聖書の箇所は前回の種まきの譬えの続きの部分です。この18節には、種まきの譬え話の全体の結びが記されています。最初の予定では先週この18節までを扱う予定にしていたのですが、二週に分けてお話しすることにしました。ですから、覚えていただきたいのは今日の箇所は先週の種まきの譬えと一つの話だということです。そのことを初めに踏まえておいていただいて、この16節以下の部分の、み言葉に耳を傾けたいと思います。

 さて、今日の譬えは「明かりの譬え」です。16節にこうあります。

明かりをつけてから、それを器で隠したり、寝台の下に置いたりする人はいません。燭台の上に置いて、入って来た人たちに光が見えるようにします。

 この主イエスの譬え話そのものは、単純明快です。明かりには、暗い部分に光をもたらす役割があるわけで、その役割を果たさないようにはしないでしょということです。ところが、この分かりやすい譬え話を聞いて、私たちは皆、誰もが同意できるかというとそうではないわけです。

 「明かり」というのは、この場合何を指しているかと言えば「神の国の福音」のことであることは明らかです。じゃあ私たちは、この「神の国の福音」を、誰から見ても、その光に照らされるように掲げて生きていますか? と問われたらどうでしょう。

 安倍元首相銃撃事件以降、キリスト教カルト集団のことが連日報道されました。統一教会とか、エホバの証人のようなカルト教団のことが取り上げられて「宗教二世」という言葉で、宗教を信じる家の子どもたちは可哀想だという論調が生まれました。ただ、この「宗教二世」という言葉は、どんどん一人歩きしていって、宗教を子どもに強要することの問題点がクローズアップされています。専門家は、ちゃんと「カルト二世」と言った方が良いという主張をしていますが、あまりそういう意見は取り上げられません。そして、日本人の多くは何かの関わりがある神道も仏教も、キリスト教も総じて宗教というものは悪いものだという理解になりつつあります。

 昨日もある方と話していたのですが、自分の子どもに教会へ行くことを強要しないようにしていると話しておられました。とても残念なことですが、親の通う教会に子どもを連れていくのは悪いことをしているような感覚が最近では生まれてきてしまったようです。

 こういうご時世ですから、私たちキリスト者も「私はクリスチャンです」ということを公にすることに抵抗を感じるようになった人たちも少なくありません。

 いくら聖書が「明かりは燭台の上に置いて、光を見えるようにするのです」と言っても、「いや、今は隠しておいた方が賢い選択なんです」という声の方が勝ってしまうような社会に、私たちは置かれているのです。

 けれども「明かり」というのは、その性質上、隠せるものではありません。そのため、クリスチャンの家族の中でも、子どもに信仰教育をする上で葛藤があるのだと思います。子どもに信仰を強要するのか、自分で選び取ってもらうのかというのは、いつの時代も振り子のように揺れ動いています。 (続きを読む…)

2023 年 7 月 30 日

・説教 ルカの福音書8章4-15節「神の言葉をどう聞くか?」

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2023.7.30

鴨下直樹

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 昔、「のらくろ」という漫画がありました。ご存知ない方も多いと思いますが、犬たちを主人公にした、戦争をテーマに扱った少しユーモラスな漫画です。この「のらくろ」の作者は田河水泡さんといいますが、この方はキリスト者です。この田河水泡さんが晩年、「のらくろ」を書くのをやめたあと、キリスト教をユーモアで紹介したいと『人生おもしろ説法』という本を書かれました。

 その本の中に「名画の切り売り」という話があります。

「画商さん、この額に入っているセザンヌの静物だがね、こんな大きな絵は私の部屋には大きすぎるので、はじっこの果物一個だけ、切り取って売ってもらえないかね」

 そんな会話からはじまります。もちろん無理な注文です。作品を一部だけ切り取ってしまっては絵全体の構図がだめになって、作品としての価値がなくなってしまいます。

 そこで、こんな話を書いています。あるところに、クリスチャンとして非の打ちどころのない人がいました。でも、その人は形式というものが嫌いで、洗礼だけは受けなかった。洗礼は形式だけだからそんなのはいらないと言っていたというのです。

 でも、田河さんは、これはセザンヌの絵を一部だけ切り売りして欲しいというようなものではないかと書いています。自分の都合しか考えない身勝手な要求で、そんなことをすればそのものの価値を失ってしまうことになるというのです。

 今日の説教題を、「神の言葉をどう聞くか?」としました。この箇所でも、同じようなことが言えるのかもしれません。私たちは、聖書から、神の言葉を聞くのですが、そこで自分の気に入ったところだけ切り売りするかのように、部分的にしか聞き取っていないと、同じことになりかねないのではないでしょうか。

 今日の聖書箇所は主イエスのなさった譬え話です。「種まきのたとえ」とか「四つの土地のたとえ」などと言われる譬え話です。実は、この譬え話は、譬えなだけにいろいろな解釈が存在します。み言葉をどう聞くか? というのがテーマの箇所でありながら、一部だけを切り取るようなさまざまな解釈が出てくるのです。

 というのは、種のたとえなのか、土地のたとえなのか、種を蒔く人のたとえなのかで、読み方は全然変わってくるのです。それこそ、その中にはみ言葉を聞いた時の受け取り方のタイプとして四つあるというような話をすることが多いと思います。そうすると、自分は「良い地」なのか、それとも「いばらタイプ」なのか、「岩地タイプ」なのか「道端のカラスタイプ」なのかを考えて、自分はこのタイプだから、私はどうもダメみたいという話になってしまいます。

 このような読み方は、一般的でよく耳にすることがあると思うのですが、そのように読んでしまうと、結局私はダメで、実を実らせることのできないダメなクリスチャンだという話になってしまいます。

 あるいは、こういう解釈もあります。この土地は私たちの心の中の姿で、み言葉を受け入れる準備のできている「良い土地」の部分と、耕されていない道端や、岩地や、いばらの生えた「悪い土地」の部分とがあるのではないかという解釈をする場合もあります。人の心の中に、み言葉を受け入れやすい場所や、頑なな部分があるのではないかと読むこともできるのです。私自身も、そのように解釈して話したこともあります。

 ただ、そのように読むと、私たちの心を少しずつ良い地として耕していきましょうという話になってしまうこともあります。そうなると、もはや福音ですらなくなってしまいます。頑張って心を耕しましょうという努力目標になってしまうからです。

 聖書を読む時に私たちは分かりやすく聖書の言葉を受け取ろうとするのですが、話を単純化してしまうと、この箇所が語ろうとしていることがつかめなくなってしまいます。この譬え話はルカだけでなく、マルコの福音書にも載っています。マタイの福音書にも載っています。けれども、どの福音書も同じ譬え話を、同じように語っているわけではないので、それぞれの文脈を注意深く見極めて聖書の言葉を受け取る必要があります。

 この種は明らかに「神の言葉」のことを語っています。これは、聖書の言葉と言ってもいいし、説教のことと言ってもいいものです。 (続きを読む…)

2023 年 7 月 23 日

・説教 ルカの福音書8章1-3節「主イエスに従う女性たち」

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2023.7.23

鴨下直樹

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 今日の聖書箇所はとても短いところで、主イエスに従った女性たちのことが記されていますが、歴史家と呼ばれるルカならでは、の、とても貴重な聖書箇所といえます。

 というのは、この箇所に続いて、この8章では、主イエスが種まきのたとえ話と、燭台のあかりのたとえ話をなさいます。このたとえのテーマは「隠れているものと明らかになるもの」です。

 そして、今日の箇所はこのたとえ話をする前の導入として、この1節から3節が配置されています。そこからも、ルカがどんな意図をもって、この話をここにおいたのかが見えてきます。

1節にこのようにあります。

その後、イエスは町や村を巡って神の国を説き、福音を宣べ伝えられた。十二人もお供をした。

 ルカはここで、主イエスと十二弟子との宣教がはじめられたことを書いています。私は先日の祈祷会でこの話をした時にはすっかり失念していたのですが、6章の12節以下で十二弟子のことが取り上げられていまして、弟子たちのことを「使徒」と呼んだという記録がすでに記されております。この8章では、主イエスの神の国の宣教に、この十二弟子たちを伴ったことが短く記されていますが、読んでみるとルカの関心は、十二人の弟子よりも、むしろこの後の2節と3節に記した女性の弟子たちに向けられていることが分かります。

 2節と3節にこう記されています。

また、悪霊や病気を治してもらった女たち、すなわち、七つの悪霊を追い出してもらったマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか多くの女たちも一緒であった。彼女たちは、自分の財産をもって彼らに仕えていた。

 このように書かれています。この「悪霊や病気を治してもらった女たち」という言葉は、このマグダラのマリア以外にも、2節には「ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか多くの女たちも一緒であった。」とありますから、主イエスに仕えた女の弟子たちの多くは、主に悪霊や病気を治してもらった人たちが多かったことが分かります。

 このマグダラのマリアをはじめ、クーザの妻ヨハンナも、スザンナも、その他の主イエスに付き従った多くの女の弟子たちは、主イエスによって病気や、悪霊から解放されたという救いを経験して、主に従う者へと変えられたのです。

 特に、ここにはじめて名前が登場してきますこのマグダラのマリアというのは、一体どういう人なのでしょうか? (続きを読む…)

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