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・説教 出エジプト記20章2節 「自由の道標としての十戒」

2013.10.13

 鴨下 直樹

 

 新しい電化製品を買う時に、取扱説明書というのが必ず付いてきます。この取扱説明書をちゃんと読んでから新しい機械を触ってみるという方もあるでしょうし、とりあえず動かしてみて、分からなかったらその部分を取扱説明書を読むという方もあると思います。ただ、大事なことは、ちゃんと取扱説明書があるので、いざという時にはこれを読めば何とかなるという安心感が、この取扱説明書にはあります。

 この十戒は、神さまが私たちに与えてくださった人生の取り扱い説明書、私たちにとって無くてはならない大切な「みちしるべ」です。これが記されたのは今から数えることもできないくらい大昔のことです。しかし、書かれた当時とはまるで異なる現代に生きている現代の私たちにも意味あるものでなければ、それが、私たちのみちしるべになるとは言えません。この十戒は現代でも正しい事と間違っていることをどう判断するのかという、倫理的なテキストとしても、今日まで大きな意味を持ち続けています。 今日は「自由の道標としての十戒」という説教題を掲げました。これからしばらくの間、この出エジプト記二十章に記された十戒から御言葉を聞き続けていきますが、この題は、十戒の全体のタイトルとしてもいいと思っています。 「十戒」とは「十」の「戒め」と書きます。ですから、「なになにしてはならない」ということが十、記されているわけです。それは、普通に考えれば十の禁止事項ですから、それが、自由の道標になるなどということは、普通なら考えにくい事です。けれども、ここで私たちがはっきりと聴き取りたいと思っているのは、神が神の民をどのようなものから解放したいと思っておられるかということです。この十戒は、神の民に自由の道標としての方向を与えるものになるのです。 今日の箇所はまだ十戒の本文ではありませんが、十戒の前提となるとても大事な言葉がここに記されています。 続きを読む ・説教 出エジプト記20章2節 「自由の道標としての十戒」

・説教 ピリピ人への手紙4章8-23節 「富める時も、貧しき時も」

2013.10.6

鴨下 直樹

このピリピ人への手紙は喜びの手紙と呼ばれてきました。何度もこの手紙の中に、「喜んでいます」、「喜びなさい」という言葉が語られてきました。今日のところにも、パウロの喜びが語られています。

私のことを心配してくれるあなたがたの心が、このたびついによみがえって来たことを、私は主にあって非常に喜びました。

と十節にあります。何のことを言っているかと言うと、パウロのところにピリピ教会のエパフロデトから献金が届けられたのです。このピリピ教会から届けられた献金のことについてパウロは最後の二十節にいたるまで実に驚く様な言葉を重ねました。「私のことを覚えてくれて、この支援のおくりものを喜んでいます」と、一行で終わりそうなことを、パウロは十節かけて実に丁寧に書いています。しかも、その内容は十一節の「私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。」とか、「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」と言ってみたり、「私は贈り物を求めているのではありません。」「私は、すべての物を受けて、満ちあふれています。」という、一般的な贈り物に対する感謝の言葉を語る時にはとうてい言いそうもない言葉を語っている一方で、「それにしても、あなたがたは、よく私と困難を分け合ってくれました。」と言ったり、「マケドニヤを離れて行ったときには、私の働きのために、物をやり取りしてくれた教会は、あなたがたのほかには一つもありませんでした。」と支援を感謝している言葉を語ったりもしています。このようなパウロのこの言葉の中に、パウロがこのことに実に心を砕いているかが現われています。 続きを読む ・説教 ピリピ人への手紙4章8-23節 「富める時も、貧しき時も」

・説教 ピリピ人への手紙4章2-7節 「いつも喜びなさい」

2013.9.29

鴨下 直樹

先週は水曜日に芥見キリスト教会の特別講演会として柏木哲夫先生をお招きし、とても充実した一週間となりました。柏木先生は、講演の中でも最近ユーモアの大切さを感じていると言われておりましたが、送り迎えの車の中でもずっとさまざまなユーモアの話をしてくださいました。特に興味深かったのは、柏木先生がアメリカで学んでおられたころ、通っておられた教会の牧師は、説教の冒頭にその日の説教に導くためのユーモアから始めるんだそうで、この毎週のユーモアがとても面白かったと、いくつかの話をはなしてくださいました。

ある教会に、神学校を卒業したばかりの若い牧師夫婦が派遣されてきました。その牧師は一生懸命に説教を準備をしたんだそうです。あるとき、その奥さんが日曜になるとごそごそと自分の小さなクローゼットの引き出しをいじっているのに気づきました。でも、妻のプライバシーに関わる事だからと、気にはなったのですが、引き出しをあけないで我慢をしたんだそうです。ところが、一年ほどたっても、こそこそとクローゼットの引き出しに何かを隠しているような気がして、ついに妻のいない時にその引き出しを開けて中を見てしまいました。一番上の引き出しを開けてみると、玉子が三個入っています。その下の引き出しを開けてみると、ドル紙幣が何枚か入っていました。この若い牧師はどうしても気になって、勇気を出して妻に尋ねることにしました。 続きを読む ・説教 ピリピ人への手紙4章2-7節 「いつも喜びなさい」

・説教 ピリピ人への手紙3章17-21節 「キリストにならいて」

2013.9.22

鴨下 直樹

パウロは今日の箇所で、「兄弟たち、私を見ならう者になってください。」と言っています。

「自分を見習ってほしい」とは、よほど自分に自信がなければ言うことはできない言葉です。今日はこの言葉を少し考えてみたいのですが、よくよく考えてみても、この言葉の持っている意味は自信のあらわれでしかありません。けれども、私たちは自分をそこまで誇ることがゆるされているのでしょうか。

私たちが聖書を学び、自分のことを知らされていくごとに気づかされていくのは、自分自身の中に誇ることのできるものはないのだということです。自分の罪の自覚といいましょうか、あるいは、自分の足りなさに気づかされます。そして、本当に私には救いが必要なのだ、神の与えてくださるものなしに生きることができないことに気づかされていきます。ですから、自分を誇ることなど本来できるはずはないのです。しかし、パウロは迷うことなく、「兄弟たち、私を見ならう者となってください」と言うのです。

もちろん、それは自分を誇りとしているわけではないでしょう。パウロは「自分は罪びとの頭だ」ということを誰よりもよく知っていた人でした。自分の罪の大きさを誰よりも良く分かっていた人です。けれども、そのパウロが、「私のようになってください」と胸をはって語ることができたのは、パウロが見上げている方を、同じように見上げて生きるものとなってほしいということ以外にありません。パウロが見上げているお方とは、ただ、主イエス・キリストお一人以外にないのです。 続きを読む ・説教 ピリピ人への手紙3章17-21節 「キリストにならいて」

・説教 テサロニケ人への手紙 第一 5章16-18節 「喜びと祈りと感謝の生活」


2013.9.15

鴨下 直樹

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

「いつも喜んでいなさい」と、この御言葉は私たちに語りかけてきます。どうしたら私たちは、いつも喜んでいることができるのでしょうか。

多くの結婚をひかえた花嫁になろうとする人が、結婚する前にこんな話をしてくれます。「いつも笑顔を絶やさないでいたいんです」と。私はこの言葉を聞くと、心の中で本当にそうであって欲しいと願う気持ちが湧き上がってきます。それと同時に、この人に何かをちゃんと教えておいてあげないといけないなという気持ちになります。

もうすでに短いとはいえない結婚生活をして来られた方々がここにはたくさんおられます。女性の方は、自分もかつてそんな気持ちをもった事があったと、懐かしく思う方があるのかもしれません。同時に、もはやそういう希望を持つ事ができなくなっている現実を少し悲しく受け止めることになるのかもしれません。もちろん、この「いつも喜んでいなさい」という聖書の言葉は、「いつも笑顔でいなさい」という言葉と同じような響きがあります。けれども、それとは異なるものです。 続きを読む ・説教 テサロニケ人への手紙 第一 5章16-18節 「喜びと祈りと感謝の生活」

・説教 ピリピ人への手紙3章12-16節 「目標を目指して一心に」


2013.9.8

鴨下 直樹

今年、私たちの教会ではホスピスの働きを長年しておられる柏木哲夫先生をお招きして、特別講演会を予定しています。そのために、先週の祈祷会で、柏木先生の書かれた本を一緒に読む読書会をいたしました。ずいぶん前に書かれたものですけれども、『生と死を支える』というタイトルで今から三十年ほど前に書かれたものです。この本は古い本なのですが、柏木先生がしておられたホスピスの働きと、その働きの中で信仰のもつ役割を明確に書いた部分が紹介されております。

その本を祈祷会に出席しておられる方々と一緒に読んだ後で、みなさんと少し自由に話し合いの時を持ちました。そこでは、どのように自分は家族の死を看取って来たのかという話にどうしてもなります。教会でこういう語り合いの時をもつことができることは、とても大事なことだと改めて考えさせられました。みなさんと一緒にお読みした柏木先生の本の、ちょうど読んだ冒頭の部分にこんな言葉があります。すこし長い文章ですけれども、紹介したいと思います。 続きを読む ・説教 ピリピ人への手紙3章12-16節 「目標を目指して一心に」

・説教 ピリピ人への手紙3章1bー11節 「信仰にもとづく望み」

2013.8.18

鴨下 直樹

今日の説教箇所は3章1節の後半部分からお読みしました。なぜ1節の途中から読んだかと言いますと、ここから内容が大きく変わるからです。1節の最初に、「私の兄弟たち。主にあって喜びなさい」と結ばれています。ところが、こう言って結んだはずの手紙が、ここから突如として「前と同じことを書きますが」と少々強引に話が続けられているのです。それで、ここから4章1節までの内容は別の手紙が紛れ込んだのはないかと考える人もいますが、もちろん今となっては誰にも分かりません。いずれにしても、人の会話でも手紙でもそうですけれども、突然他のことを思い出して急に別の内容にするということはあることですから、この部分が別の手紙が紛れ込んだというようなことを考えてもあまり意味はありません。ここに書かれている内容に注意を払うことが大事です。

今日の箇所のテーマは信仰に生きることはどういう得があるかということです。これは、誰もが考えたことなのではないかと思います。教会に通うようになると、色々と失うものがあると考えられてしまうことがあります。この手紙を書いたパウロの場合はどうだったかということがここに出てきます。 続きを読む ・説教 ピリピ人への手紙3章1bー11節 「信仰にもとづく望み」