・ガラテヤ人への手紙1章11-23節 「主との出会い」
2012.11.11
鴨下 直樹
今回から、新しくガラテヤ人への手紙から順に御言葉を聞き始めております。この一年が終わろうとしている時に、なぜ、ガラテヤなのだろうと思われる方もあるかもしれません。しかし、私自身ガラテヤ人への手紙を読みながら、今私たちが聞き届けなければならない聖書の言葉がここにあるという思いがしています。
今年も十一月に入りまして早くも中旬を迎えました。教会でもクリスマスの準備が始まりますが、私たちの日常の歩みでも、年越しと新年の準備が始まります。先日、買い物に行きまして、年賀状印刷のチラシが目に飛び込んできました。もうそういう季節なのかと一年のすぎるのを早く感じます。この時期に届く手紙の中に、今年家族を亡くし、今喪中なので新年のあいさつを控えさせてもらいたいという葉書がまじって届きます。
先週もここで召天者記念礼拝を行ないました。非常に大勢の召天者の家族の方々がお見えになりました。墓地での礼拝も行なわれました。そこでも聞いたのですけれども、「キリスト教の葬儀は明るいですね」と何人もの方々が言われました。復活の望み、よみがえりのいのちに生きる希望があるからです。そこでどうしても考えなければならないのは、喪中につき欠礼という習慣と、私たちの信仰はどういうつながりがあるのかということです。もちろん、この手紙には昨年家族が亡くなったことを、葬儀に出ていない方にも知らせるという意味がありますからとても大事なものです。また、喪中であるために、喜びの挨拶をすることは控えさせていただきます、というのは当然のことで喜びの挨拶をすることは憚られます。ですから決して間違った習慣ではありません。とても大事なことです。けれども、キリスト者は家族の死を悲しみの中で、忍ぶことによって乗り越えていこうとするのではなくて、主にある希望に生きています。よみがえりの主にある喜びに生かされているのです。ですから、葬儀に来られた方々も、キリスト教の葬儀は明るいと言われるのでしょう。新年のあいさつを記す時に、「昨年、家族を亡くしましたがしかし、今、私たちは喜びでいます。復活の主の御許に愛する家族がいまいるからです。今年も変わることなく、この喜びにいきたいと思います」というような新年の挨拶の言葉を送るということがあってもいいように思うのです。もちろん、手紙を受け取った人は驚くかもしれません。しかし、それだけに、キリスト者の喜び、信仰が伝わるのではないかと思います。
パウロはここで手紙を書き送っています。挨拶などということを飛ばしていきなり本題に入るという、心を注ぎ出す言葉をこの手紙につづっています。手紙を受け取った人が驚くような言葉がつまっています。 (続きを読む…)