2013 年 9 月 22 日

・説教 ピリピ人への手紙3章17-21節 「キリストにならいて」

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2013.9.22

鴨下 直樹

パウロは今日の箇所で、「兄弟たち、私を見ならう者になってください。」と言っています。

「自分を見習ってほしい」とは、よほど自分に自信がなければ言うことはできない言葉です。今日はこの言葉を少し考えてみたいのですが、よくよく考えてみても、この言葉の持っている意味は自信のあらわれでしかありません。けれども、私たちは自分をそこまで誇ることがゆるされているのでしょうか。

私たちが聖書を学び、自分のことを知らされていくごとに気づかされていくのは、自分自身の中に誇ることのできるものはないのだということです。自分の罪の自覚といいましょうか、あるいは、自分の足りなさに気づかされます。そして、本当に私には救いが必要なのだ、神の与えてくださるものなしに生きることができないことに気づかされていきます。ですから、自分を誇ることなど本来できるはずはないのです。しかし、パウロは迷うことなく、「兄弟たち、私を見ならう者となってください」と言うのです。

もちろん、それは自分を誇りとしているわけではないでしょう。パウロは「自分は罪びとの頭だ」ということを誰よりもよく知っていた人でした。自分の罪の大きさを誰よりも良く分かっていた人です。けれども、そのパウロが、「私のようになってください」と胸をはって語ることができたのは、パウロが見上げている方を、同じように見上げて生きるものとなってほしいということ以外にありません。パウロが見上げているお方とは、ただ、主イエス・キリストお一人以外にないのです。 (続きを読む…)

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