・説教 ヨハネの福音書20章24-31節「疑いの人トマスの信仰」
2016.04.10
鴨下 直樹
ヨハネの福音書の説教をはじめまして二年半がたちました。そして、今日、ようやくこの聖書の箇所にたどり着きました。といいいますのは、私は聖書の中の人物で、もっとも心惹かれるのがこのトマスです。この箇所を読むたびに、私は心から、このトマスがいてくれて良かったと思うのです。
トマスというのは、これまでのヨハネの福音書の中で出て来ましたけれども、率直にものを言う人です。今日のところでもそうですけれども、他の弟子たちはよみがえりの主イエスと出会った。しかし、トマスはその場に居合わせませんでした。25節にはこう書かれています。
それで、ほかの弟子たちが彼に『私たちは主を見た。』と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。
よみがえりの主と出会った弟子たちが集まっているところ、それは、もう教会と言ってもいいでしょう。言ってみればできたばかりの教会の中で、「私は決して信じない」という言葉を口にしたのが、主イエスのお選びになられた十二人の弟子たちの中にいたのです。他の弟子たちからしてみれば約三年間、同じ釜の飯を食べてきた信仰の仲間、主イエスの弟子です。その自分たちの言うことが信じられないと言われてしまうのですから心中穏やかではなかったのではないかと想像するのです。けれども、ここに教会の姿があるのだとも思います。
先週、洗礼入会式を行いました。その前からその方々と信仰入門クラスという学びの時を持っています。今のところ、私は洗礼を受ける人たちのすべての学びをしてきました。信仰の学びをしませんか、聖書のまなびをしませんかと言って、はじめのうちは色々な聖書の疑問について尋ねます。はじめは多くの方がそうですけれども、聖書の色々な言葉に戸惑います。色々な質問が出て来ます。みなさん、同じように「はい、信じます」という具合にはいきません。学びをし、礼拝にお集いになられて、また、持つようになった疑問を投げかけられます。そういう姿は、この最初の時から今に至るまで続いているのです。私はここに、素直に信じられないで、頑として首を縦に振ろうとしなかったトマスがいてくれて本当にありがたいと思うのです。それは、牧師としてそう思うというこころもありますけれども、何よりも、わたし自身の姿がここにあると思うのです。 (続きを読む…)