・説教 ヨハネの福音書18章1-11節「誰を捜しているのか」
2016.02.07
鴨下 直樹
私事で始めて恐縮ですが、みなさんは散歩をされることがあるでしょうか。私は長い間飼っていた犬が死んでからすっかり散歩をしなくなってしまいました。けれども、まだドイツにおりました時は、必ず一日、小一時間犬と一緒に散歩に出かけました。私の住んでいた村はオーバディルフェンという小さな村です。人口も1000人いるかどうかというような村で、家の通りを500メートルも歩きますとすぐに森に入ります。毎日、ほぼ同じ道を、ドイツ語の単語帳片手に午後3時頃から歩き始めるというのが日課でした。今でも、その時のことを時々思い出して、懐かしく思う時があります。
主イエスもまたエルサレムにおられた時に、いつも決まったコースを歩きながら祈りに出かけられたようです。弟子たちであれば、みなその道を知っていました。弟子たちにとってその道は特別な道です。ケデロンという、冬の間だけ水が流れて川になった谷がありまして、その川筋にそってオリーブ山と言われる所へとつながる道です。ヨハネはそのことをここでしっかりと記録しています。特別な思いがあったのでしょう。あるいは、その弟子たちにとって特別な場所が、裏切り者のユダによって汚されてしまったのだという悲しい気持ちが込められているのかもしれません。
ユダはそこに一隊の兵士たちと、祭司長、パリサイ人たちから送られた役人たちを引き連れてきています。数百人というものものしい人数で、夜だったのでしょう、たいまつと、おのおの武器をもってその道に集まって来ているのです。
今日のこの箇所は主イエスが逮捕されたところが記されています。新共同訳聖書ではここに小見出しがついていまして、「裏切られ、逮捕される」と書かれています。聖書を読み進めていくなかで、読む人にショックを与える箇所と言えます。けれども、聖書を読む時にとても大事なことは、このヨハネの福音書はまさに、人々がショックを受けるところで、何を語っているかということです。
先日も、ニュースで有名な野球選手が覚せい剤で逮捕されたというニュースが報道されました。そうしますと、いたるところで、あの人は昔からちょっと問題があったというような発言がどこからともなく飛び出してきまして、もうそんなことばかりが報道で取り上げられます。捕まえられる人間というのは、どこかに問題をかかえている弱い人間なのだと、それまでとはまるで手の平を返したような言葉で一斉に攻撃を始めます。
私たちはそういう人間の弱さを見ると、まるで鬼の首を取ったかのように、突如として攻撃的になります。不快だと感じるのです。不快だと感じるので、そういう人を攻撃しながら、自分はそうではない、そういう弱い人間ではないのだとことさらに語ろうとします。
しかし、このヨハネの福音書をみていますと、ここで捕えられようとしている主イエスの姿はちょっと異なります。4節よみますと、主イエスの方から、出てこられて「誰をさがすのか」と問いかけられているのです。そして、5節と6節を見てみますとこのように記されています。
彼らは、「ナザレ人イエスを。」と答えた。イエスは彼らに「それはわたしです。」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らといっしょに立っていた。イエスが彼らに、「それはわたしです。」と言われたとき、彼らはあとずさりし、そして地に倒れた。
とあります。
ヨハネはここで、捕まえられないようにおどおどして逃げ惑うような主イエスの姿ではなく、非常に力強い主イエスの姿を記しました。「それはわたしです」と主がお答えになると、あとずさりにして、地に倒れてしまった人があったとさえ記しているのです。わたしたちは時々、主イエスのお姿をちゃんとみていないで、いつのまにか自分の思い描いたイメージで分かったような気持になっている場合があります。
私が教えております名古屋の東海聖書神学塾で、説教の演習をしているのですが、先日、ルカの福音書の15章に記されている有名な放蕩息子のたとえばなしから、二人の学生が説教をしてくれました。その一人の学生はこの芥見の近くの教会で長老をしておられる方なのでしが、普段ハローワークで働いておられる方です。まいにち、職業安定所と言われるところには、沢山の人たちが訪ねて来ます。そういうご自分の経験もあったと思いますけれども、よく知られた放蕩息子のたとえを、まったく違う話にしてしまって、学生たちがあっけにとられてしまったのです。
この放蕩息子のたとえというのは、父親に財産の生前分与を願い出た二人息子のうちの弟の物語です。この弟は、お父さんからもらった財産を「放蕩して湯水のように使ってしまった」と書かれています。そこで、この話を読む人は誰もが、この息子はお金を持って遊びほうけて、財産を失ってしまったと理解して、その後の話しに続いて行きます。ところが、この人は、「放蕩する」という言葉はギリシャ語から「無謀」とも訳せる。「湯水のように使ってしまった」も、「まき散らす」という意味。だから、ひょっとすると、遊びほうけてお金を失ったと理解してしまいがちだけれども、事業をしようとして失敗してしまったのかもしれない。あるいは、そのお金で金貸しをしたのかもしれない。けれども、貸したお金を回収できずに途方にくれていたのかもしれない。ひょっとすると、ユダヤ人というのはそもそも伝道熱心だったのだから、伝道しようとして失敗してしまったのかもしれない。それでも、この人はまじめだったのでちゃんと働こうとしていた。それで、豚の餌が食べたいほどに飢えていたとあるけれども、この人はちゃんと働いている。ハローワークにいろんな人が来るけれども、自分が何をやりたいか見つけられない人がいっぱいいる。まじめに働いてもうまくいかないことがある。この人はコツコツお金を貯めて、父の所に帰ろうと思ったのではないか。
こんな具合に説教が展開されていくのです。この話のことをよくご存じの方は、何とイマジネーション豊かな人だろうと思うかもしれません。けれども、見方を変えてみると、そうも読めるのかもしれないという気がしてくるわけです。
というのは、私たちは主イエスというお方は、どこかで弱いお方。私たちは自分が神の前にちゃんとすることができなくても、主イエスはそのことをだれよりもよく分かってくださるお方だと思い込んで、そのイメージで慰められるということがあるのではないかという気がするのです。自分に都合のよいイメージで主イエスを理解できた気持ちになってしまいますと、本当の主イエスの姿は見えなくなってしまいます。ですから、いつも新鮮なまなざしで主イエスを見ること、主イエスを知ることが大切です。
ヨハネがここで描いて見せている主イエスは少なくとも、弱いお方ではありません。自分を捕えようとしてやってくる何百人という兵隊、武器を手にしながらやってくる兵隊たちさえもまったく恐れることなく、かえって、人が思わずのけぞって、転んでしまうほどに大胆なお方として、ここで描き出されているのです。
7節に、もう一度主は自分を捕えに来た人々に向かって問いかけておられます。
そこで、イエスがもう一度、「だれを捜すのか。」と問われると、彼らは「ナザレ人イエスを。」と言った。イエスは答えられた。「それはわたしだと、あなたがたに言ったでしょう。もしわたしを捜しているのなら、この人たちはこのままで去らせなさい。」
お気づきの方も多いと思いますが、ここで主イエスは三度、「それは、わたしです」と答えておられます。ヨハネの福音書の場合、三度というのはとても強い意味が込められています。この言葉は、ヨハネの福音書のなかですでに何度も出て来ている、主イエスがご自分のことを紹介なさるときに使われた言葉で、ギリシャ語で「エゴー・エイミ」という言葉です。直訳すると「わたしはある」という意味です。英語では「アイアム」という言葉です。普通は、その後に何かの言葉を補わないと文章は完結しません。
今、祈祷会でレビ記を学んでいます。イスラエルを導かれた神、主はかつてモーセを任命した時のことが、出エジプト記の3章に記されています。主は燃えさかる柴の中からモーセにお語りになられ、エジプトで奴隷であったイスラエルの民を率いて、神の示す約束の地に行くように命じられます。そのとき、あなたの名は何ですか。私は何と答えたらいいのですかと主に尋ねます。すると、主は、「わたしは、『わたしはある』という者である」とモーセに語られました。出エジプト記3章13節です。
ここで、主はモーセに「わたしはある」と言われました。ユダヤ人なら誰もが知っている主の存在をしめされる言葉です。この言葉には独特の響きがあります。それこそ、軽々しく口にすることができないような畏れを伴う言葉です。「わたしはある」と言われる言葉の神が、イスラエルを導いて来られた主です。そして、このヨハネの福音書はその冒頭から、主イエスは言葉が肉体をともなってこられたお方。「受肉」と言いますが、肉体を受けた主として、主イエスを紹介し続けてきました。ですから、これまで、何度もこの「エゴー・エイミ」と言う言葉を語り続けてこられました。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です」とか、「わたしはいのちのパンです」とか、「わたしは門です」、「わたしは道です、真理です」。
主イエスは、自分が捉えられる直前に、三度繰り返して言われました。「それはわたしなのだ」と。とても力強い言葉です。それで、この主イエスの強い言葉に圧倒されて、後ずさりして地に倒れてしまう人がいたほどに、主イエスの言葉は強いのです。力強いです。武器など恐れることのないような威厳が、この「わたしはある」という言葉にはあるのです。そして、この主イエスの言葉の力強さが、私たちを支えるのです。
私たちはあらゆるものを畏れます。死を恐れます。老いることを恐れます。孤独を恐れます。人から理解されないこと。自分の思うようにならないこと。弱さは人から生きる喜びを奪います。わたしは何者なのかという自分の存在の確かさを忘れさせます。私たちは自分の弱さに直面するときにうろたえます。どうしていいか分からなくなってしまいます。
けれども、私たちの主は、「わたしはある」という確かな言葉で、人を圧倒するのです。そして、この主イエスの前に立つときに、このお方こそが、わたしの主です。本当の私の主人です。私はこのお方によって生きることができるようになったのですと告白することができる喜びに生きることが出来るのです。
ここに、弟子のペテロの姿が描き出されています。ペテロはおびただしい兵士、主イエスを捕えようとする人々の前に、うろたえてしまいました。それで、自分の持っていた剣で打ちかかり、マルコスと呼ばれた人の右の耳を切り落としてしまいます。ペテロはその前に主に誓いました。どんなことがあったとしても、わたしはあなたから離れませんと言ったのです。けれども、自分の弱さの前で、ペテロは取り乱すことしかできませんでした。
しかし、主はペテロに語りかけます。「剣をさやに収めなさい。父がわたしにくださった杯を、どうして飲まずにいられよう」。と11節にあります。
ここで、私たちはすぐにゲツセマネの祈りを思い起こします。他の福音書では死の前で苦闘する主イエスが描かれていました。しかし、ヨハネでは、主イエスは苦しんでいないのです。ヨハネが見るようにと促しているのは、死に立ち向かわれる主イエスの姿です。そして、反対に、「この人たちはこのまま去らせなさい」と8節にありますが、他の人をかばってくださる主イエスの姿がここにはあります。それは、つづく9節に「『あなたがわたしにくださった者のうち、ただのひとりをも失いませんでした』とイエスが言われたことばが実現するためであった。」とあるように、私たちをお守りくださる主イエスの姿がここには示されているのです。
わたしたちの主イエスはわたしたちが弱さの中で、不安で怯えて、必死になって剣を振り回してでも何とかしたいと思うような弱さを、支え、守り、導いてくださるお方です。私たちはこの主イエスによって、確かな生き方、先の見える人生を歩むことができるのです。「誰を捜しているのか」と主は問いかけられます。あなたはどのような者を捜し求めているのか。わたしを見よ。わたしこそがあなたを守り、あなたを支え、あなたを生かすまことの神、このわたしこそが、神の語られた言葉が肉体をとってあなたに示されたイエス・キリストなのだと、主は私たちに語りかけてくださるのです。
お祈りをしたします。