2013 年 8 月 4 日

・説教 ピリピ人への手紙2章12-18節 「星のように輝いて生きる」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 07:38

2013.8.4

鴨下 直樹

先週から信徒交流月間ということで、水曜日と木曜日の祈祷会で信徒の方々が順に話をしてくれることになっています。毎年のことですけれども、私はこの集いをとても楽しみにしています。普段、みなさんがどのように御言葉を聞いているのかが良く分かるのです。また、そこで話される話を聞いて、その方がどのように聖書と向き合っているかが良く分かります。どのように御言葉と向き合っているか、ということは、どのように主と出会っているかということと同じことです。

今日の説教の題を「星のように輝いて生きる」としました。何だか、何年か前に流行った歌のタイトルのような説教題です。昨日も、直前までタイトルを変えようかと悩みましたけれども、そのままにしました。信徒交流で色々な方のお話しを聞いて、はじめてその方が何に苦しんでいたのか、どのように御言葉に支えられてきたのかが分かることがあります。それはまさに、自分の置かれたところで星のように輝いて生きることになっているのだと、つくづく思わされるのです。

ところが、この聖書の言葉はいったいどこにあるのかと思われるかもしれません。似ている言葉は十六節にあります。 (続きを読む…)

2013 年 7 月 28 日

・説教  ルカの福音書10章38ー42節 「必要なことはただ一つ」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 09:15

本日は講壇交換で、四日市教会の堀内靖男先生が説教の奉仕と、国内宣教報告をしてくださいました。

2013 年 7 月 21 日

・説教 Ⅰペテロ3章8ー17節 「受け継ぐために」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 23:06

本日はマレーネ・シュトラスブルガー師が説教をして下さいました。

そして、夏休みの奉仕と学びの為に帰ってきている舛田友太郎神学生が証しをして下さいました。

2013 年 7 月 14 日

・説教 ピリピ人への手紙2章1-11節 「橋をかける」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 09:18

2013.7.14

鴨下 直樹

「香木は斧に香る」という言葉を最近耳にしました。香り高い香木は、自らを打倒した斧にさえもその香りを移すのだそうです。美しい言葉です。自分を切り倒してしまうこの斧の刃でさえ、香木の香りにつつみこまれてしまうというのです。この言葉を聞いた時に、ちょうど今日の聖書の箇所を現わしている言葉と思いながら、この一週間、御言葉を聞き続けてきました。
今日の聖書箇所は、ピリピ人への手紙第二章一節から十一節までです。特に、ここには「キリスト讃歌」と呼ばれる、当時の教会の讃美歌の言葉がそのまま紹介されていると言われています。それが、六節から十一節です。パウロの活躍した時代というのは紀元六十年前後ですから、そのころの教会にはもう讃美歌が生まれていたと考えられているのです。讃美歌を通して信仰が励ましを受けるというのは、今も昔も変わりません。歌うことによって信仰が支えられてきたのです。
宗教改革者のルターは讃美歌の持つ力を良く知っていた人でした。この讃美歌集の中にもいくつもルターのつくった讃美歌がいれられていますけれども、どれもキリスト教の信仰を説明するような教理的な内容の讃美歌ばかりです。この時代の人々は聖書を読むことができなかった人々が多かったために、讃美歌を覚えることを通して、信仰を支えようとしたのです。
この今日の箇所もそうです。どのようなリズムで歌ったのかはっきりしたことは分かりませんけれども、ここではキリストが何をしてくださったのかが記されています。この箇所の内容を一言で言い表すとすると、「キリストの謙遜」ということになります。昔は「謙卑(けんぴ)」という言い方をすることもありました。

この話をする時に、どうしてもお話しをしなくてはならない一つの事があります。 (続きを読む…)

2013 年 7 月 7 日

・説教 ピリピ人への手紙1章27-31節 「福音にふさわしい生活」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 21:40

2013.7.7

鴨下 直樹

ピリピの教会にパウロの手紙が届いてこれが読まれた時、ちょうど前回の二十六節までの部分を聞いたピリピの教会の中では、どよめきや歓声がわき起こったと思います。というのは、伝道のために捕らえられたパウロが死の危機に瀕していると思っていたところで、「私はもう一度、あなたがたのところに行けるので・・・」という言葉を聞いたのです。パウロ先生がもう一度ピリピの教会を尋ねてくれる。それは、ピリピの教会にとってまさに喜びの知らせであったはずです。パウロのピリピでの伝道の期間はそれほど長くはありませんでした。長くても数週間です。二、三週間であったのではないかと考えられています。ですから、その後でピリピの教会の会員に加わった人は、一度は見てみたい、直接話を聞いてみたいと思っていたと思うのです。そして、そのパウロから手紙が届き、パウロがピリピに来ると聞いたのです。それは大喜びであったに違いありません。

そのような歓声がわき起こった教会に、パウロの言葉はこう続いたのです。

ただ一つ。キリストの福音にふさわしく生活しなさい。そうすれば、私が行ってあなたがたに会うにしても、また離れているにしても、私はあなたがたについて、こう聞くことができるでしょう。

と続きます。
ピリピに行けると宣言したパウロはすぐその後で、「行けたとしても、行けなかったとしても」という言葉を続けたのです。一度喜ばせておいて、でも、ダメな場合もあるのだからと感じさせている。この手紙を聞いていた人々の心は、少し期待が薄れたことでしょう。ところが、パウロは、パウロとの再会を語った直後にこう述べました。 (続きを読む…)

2013 年 6 月 30 日

・説教 ピリピ人への手紙1章19-26節 「生きるにしても死ぬにしても」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:31

2013.6.30

鴨下 直樹

先日、F家の家庭集会であるたとえ話をしました。普通の人のする算数と、キリスト者のする算数は答えが違うかという話をしました。みなさんはどうだと思われるでしょうか。1+1=2。これはキリスト者であっても、そうでなくても答えは同じです。けれども、私は、その答えの意味はまるで違うものなのです。
主イエスと出会ってキリスト者になる。ところが、キリスト者になっても、以前とまったく変わらないことが起こります。悲しいと感じたり、腹を立てたり、憤ったり、そういう感情が心の中に浮かんでくる度に、これでもキリスト者になったと言えるのかと、自分自身の信仰に疑問を持ちたくなることがあるのではないかと思うのです。実は、何も変わっていないのでないかとさえ思えてくることもあると思います。キリスト者であろうと、そうでなかろうと、まったく変わらない同じ結論にたどりつくのです。1+1の答えが同じであるように、キリスト者と、そうでない人とが感じる感じ方もそれほど変わりません。悲しい。腹が立つ。けれども、そのような同じ結論に行き着いたとしても、キリスト者であるということは、そういう自分を主が支えていてくださるということが、決定的に大きな違いを持つのです。
それまでの自分はその時に、ただ憤る、ただ悲しい、どこかで仕返しをしてやりたいと思う。そういう答えにたどりついていたのが、キリスト者になるということは、同じ答えにたどりついたとしても、そのことを、主が知っていてくださる、主が支えてくださるということ。それは、絶望に終わることのない私たちの土台をすえる確かさがあるということを意味するのです。

今日はなぜ、この話から説教を始めたかと言いますと、パウロがここで語っていること、特にここでは死ぬことについて語っているのですが、ここで語っていることもまた、同じだと思うからです。
人は誰もが死にます。死にたくないと思っていても、死は日に日に私たちに近づいて来ます。けれども、誰もがどう生きたって、どれほど立派な生き方をしても最後に待っているのは死です。そうすると、結局死んでしまえば何の意味もないではないかと、多くの人々が考えますが、このことに対して、私たちは、それは違うのだと明確に答えることができるようになるということです。私たちの人生の終わりに待ちかまえている死でさえも、主がそこで支えてくださるがゆえに、死の意味も、また、生きる意味もまるっきり違ったものとなるのです。 (続きを読む…)

2013 年 6 月 23 日

・説教 ルカの福音書19章28−35節 「主がお入用なのです。」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:29

本日は古川秀明長老が説教をして下さいました。

2013 年 6 月 16 日

・説教 ピリピ人への手紙1章12-18節 「敵意の中の信仰」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 08:36

2013.6.16

鴨下 直樹

パウロは捕らえられて、今牢に繋がれています。それは、それ以上福音を宣べ伝えさせないため、パウロがこのまま働き続けることは良くないことだという判断をしたということでしょう。それは、誰もが思うことです。牢に捕らえられてしまうということは、「もう一貫の終わりだ、これで、パウロも終った」と考えるようになるということでしょう。そういう中で、牢にいるパウロから手紙が届きます。そして、読み終えてから、パウロが無事に牢から出られるようになるように祈ろう、ということが起こったかもしれません。しかし、パウロはこう記しました。

さて、兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音を前進させることになったのを知ってもらいたいと思います。

そんなことがあるとでもいうのでしょうか。考え難い事です。異邦人伝道を精力的に行なっていたパウロが捕らえられるということは、福音が停滞してしまうことを意味すると、私たちは誰もが考えるのではないでしょうか。それ以上、どうして福音が前進することがあるでしょうか。しかし、パウロは福音を宣べ伝え、そのために捕らえられてしまってもなお、福音が前進すると言うのです。それは、一体どういうことなのでしょうか。 (続きを読む…)

2013 年 6 月 9 日

・説教 ピリピ人への手紙1章3-11節 「すぐれたものを見分ける愛」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 07:47

2013.6.9

鴨下 直樹

先週の月曜日から水曜日にかけJEA、日本福音同盟、一般には福音派と言われる教会の総会が神戸で行なわれ、これに私は始めて出席いたしました。大変豊かな時間でした。と言いますのは、総会の間に礼拝の時間やシンポジウム、講演が入れられていまして、そのために朝から夜まで一日中会場にいるのですけれども、苦痛に感じないほど豊かな発題がそこでなされました。
総会のシンポジウムで東日本大震災の取り組みの中から見えきたことがシンポジウムで取り上げられました。四人の発題者の中で最後に発題された福音伝道教団の鈴木真先生が、震災のボランティアの活動としてイザヤ58ネットというネットワークを作って支援活動しておられるのだそうですけれども、その活動の中から見えてきたことをお話し下さいました。これは、非常に興味深い内容の発題でした。少し簡単に説明してみたいと思いますが、色々な先生の話が頭の中にごちゃごちゃになっていますので、私が全体として聴き取ったことということになると思いますが、それはお許し頂きたいと思います。 (続きを読む…)

2013 年 6 月 2 日

・説教 ピリピ人への手紙1章1-6節 「愛と喜びの手紙」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 13:41

2013.6.1

鴨下 直樹

先週の月曜日に岐阜県基督教連合会の総会が行なわれました。岐阜県のプロテスタント教会、カトリック教会の殆どすべての教会がこの連合会に名を連ねております。ここで何をしているのかと言いますと、岐阜県には岐阜刑務所と笠松刑務所という二つの刑務所があります。そこで、定期的に受刑者の方に福音を語る機会を与えられている教誨師と言う方々がいます。それで、岐阜県基督教連合会では二名の教誨師を送り出しているのです。私はこの総会に昨年初めて参加させて頂いたのですが、初めての参加であったのにも関わらず、会計と書記という役割を担わされてしまいました。それで、今は深く関わることになったのですが、特に今年の総会は、来年から新しい教誨師になる方を選ぶための話し合いがもたれました。今年一年かけて次の教誨師を選ぶ必要があるのです。出席してくださった教職者の方々も、すぐに自分がするとはなかなか言えません。教会の理解も必要ですし、そうとうの覚悟も必要になります。けれども、これまで岐阜県の教会が互いに協力し合いながら、今日まで三十年以上にわたって、刑務所で福音を届ける働きを続けてこれたことは大変素晴らしいことだと思っています。
スイスの説教者であったカール・バルトは、かつて、刑務所で福音を語ることを自分の使命としました。この刑務所で行なわれた礼拝の説教がやがて本にまとめられまして『捕らわれた者たちに解放を』というタイトルがつけられました。このタイトルを聞けば、受刑者に向けられた者に解放の福音を語ろうとしたということが直ぐに分かります。もちろん、バルトがここで言っている解放というのは、刑務所から解放されるということではなくて、罪から解放されるということです。たとえ刑務所にいたとしても、その罪から解放されて生きることができると語ろうとしたのです。しかしそれは、受刑者に限ったことではないのです。全ての人が何かに支配されてしまっている。何かに捕らわれてしまっているということができるのです。 (続きを読む…)

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