2010 年 5 月 30 日

・説教 「情欲と信仰?」 マタイの福音書5章27-32節

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鴨下直樹

 椎名麟三というプロテスタントの信仰を持った作家がおりました。最近では、残念ながらこの人の本はあまり読まれなくなってしまいましたが、この作家の作品は沢山の大切なことを私たちの心に問いかけてきます。この椎名麟三の代表的な作品に、「私の聖書物語り」というものがあります。自分が聖書を読みながら、どのようにして信仰を持つようになったのか、その格闘が記されている、言ってみれば信仰の証しとも言える小さな書物です。

 この人は、この本の始めの方で、自分は信仰の門をたたこうとして聖書を読んだ、そして、読めば読むほど、その門の堅さを知るばかりであった。と言って一つの聖書の箇所を取り上げています。それが、この「だれでも情欲を抱いて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです」という箇所です。そこに小さなエピソードが記されています。戦争の直前のことです。この人はある会社で事務員として働いていました。そこに、痩せた男まさりの女の上司がいました。特にこの人に異性を感じることはなかったといいます。ところがある日、この女性が椅子にのって天井に近い棚から荷物を降ろそうとしていた時に、椅子が動いたため倒れそうになった。それで、あわててこの人の腕を支えた。その瞬間思いがけなく、この人に女を感じた。この本にはこう記してあります。『どうもなかったですか。』と尋ねた私の心臓は、残念なことにドキドキ音を立てていたのである、と。そして、このような経験からこの作家は語るのです。男にとってある人を女として見るのは、情欲を抱くということと、言葉の深いところでは同じ意味なのだと。だから、ここで主イエスが言われる命令は、人間の限界を超えた要求なのであって、人間をやめろと言われているようなものだ。これが罪だというのであれば、もはや笑うしかないと。そして、こんな説明をしています。それは、「なに、飛べない?そんなら君は地獄行きだ。」と言われているようなものだと、この椎名麟三は思ったと言うのです。そこにさらに、こう書いています。百歩譲って、その罪はどうしても私に責任があるというならば、私を飛べない人間に造った神に責任があるのではないのか。これが、キリスト教の門をくぐろうとした時の、最初の門の堅さであったと書いているのです。

 この椎名麟三の持った問いは、恐らく多くの人々の心の中にある声を雄弁に語っていると言えます。「情欲を抱いて女を見る者は既に姦淫を犯したのだ」と言われても、そんなことできっこないと思うのです。

 けれども、もしそうだとすると、もし、私たちにそのようなことが出来ないと思うのだとしたら、そこで私たちは立ち止まって考えてみなければなりません。なぜ、できもしないと思えることを主イエスはここでこれほど丁寧に語っておられるのかということを。 (続きを読む…)

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