・説教 詩篇130篇「深き淵より主を呼び求める」
2017.03.26
鴨下 直樹
受難節の第4主日を迎えました。この詩篇130篇はこの受難節に読まれる詩篇の一つで、七つの悔い改めの詩篇の一つです。ここには直接的な悔い改めの言葉はありませんが、テーマはまさに悔い改めです。
冒頭の1節。
主よ。深い淵から、私はあなたを呼び求めます。
とあります。「深い淵」というのは、現代人には少し意味が分かりにくい言葉だと思われます。絶望の穴とでも言ったら良いでしょうか。深くはまり込んでしまって、抜け出せそうにない深い穴に、この詩篇の著者は落ち込んでしまっているのです。
そういう時に、安易な慰めの言葉は心に届きません。誰からも共感されるとは思えない深い絶望の穴に落ち込んでしまっている人を、簡単に、自分の経験と対比させて慰めることはできないのです。そのような、人からの慰めを拒みたくなるほどの、深い悲しみというのを、人は人生の中で何度も経験するわけではありません。けれども、そうなったときに、どうしたらよいのか。どこに本当の慰めがあるのかと、人は思い患いながら、救いを求めるのです。
先週の月曜日と火曜日、東海聖書神学塾で教えている教師たちの研修会が行われました。そこで、二人の教師の話を聞く機会がありました。神学塾で教義学といいますけれども、神学を教えてくださっている河野勇一先生は、先日一冊の本を書かれました。『神のかたちの福音』という本です。この本は、聖書が語っている「救い」とは何かということを、非常に分かりやすく解説したものです。先日の発題でも、河野先生が冒頭でこんなことを言われました。教会で「救い」という話しをするけれども、この「救い」という言葉だけを考えてみると、実は中身のない言葉だと言われました。というのは、「救い」という言葉だけでは、その救いの内容について、まるで分らないわけです。病気で苦しんでいる人の救いは、癒されることです。人間関係で悩んでいる方からすれば、その人との関係が修復されることが救いです。経済的に困っている人は、お金の問題を解決することが救いです。一言で、救いと言っても、その内容はそれぞれ異なっているわけです。
ですから、そういうふうに考えてみると、この詩篇が語っている「深い淵」という言葉も、それを「絶望の穴」と言い換えてみたところで、その内容については、聞く人それぞれで思い描くことは違うわけです。もちろん、この詩篇に、その「深い淵」の内容について丁寧に書かれていなければ、それが何をさしているのかは簡単には分かりません。だから、少し想像してみるわけです。 (続きを読む…)