・説教 ヨハネの福音書7章38節「リビング・ウォーター」
2018.08.12
鴨下 直樹
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先ほど、〈聖書のおはなし〉で、「いのちの水」という話がありました。色々な効能がある水、健康にいいとされる水が気になる方がおられると思います。私も調べてみました。実際に三重県の松坂には「命のみず」という名前の水があるそうです。この水は硬水で、カルシウムやマグネシウムの含有量が豊富だそうです。どういう効果があるかはよく分かりませんが、健康にいい水と聞くだけでも、一度飲んでみたいと思ってしまいます。今日の聖書は、「いのちの水」というより、「生ける水」の話しです。
「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」
そのように書かれています。「人の心の奥底から生ける水の川が流れ出る」面白い表現です。人の心の奥底にあるものと言ったら、「どす黒い感情」とか「どろどろした血液」とか、あまりいいものではないと相場が決まっているような気がしますが、聖書はそれとは逆にさわやかです。その前の37節を読むと、どういう状況でこの言葉が語られたのかが語られています。まず、「お祭り」という言葉が目にとまります。仮庵の祭りというお祭りで、ユダヤ人たちはこのお祭りの期間は家には泊まらないで、仮庵、つまりテントなんかを使って家の外で暮らします。そして、このお祭りのクライマックスはエルサレムにあったシロアムの池から水を汲んできて、神殿の祭壇に注ぐという儀式をおこなっていたようです。そういう、言って見れば水のお祭りに先立って、主イエスは渇く者はいないかと問いかけられたのです。
先週も岐阜県下呂市の金山で41度を観測しました。そして、二日後にはここのすぐ近くの美濃でも41度を観測しました。これだけ暑い日が続くと、ミネラルを含んだ水のありがたみが身に染みます。外で仕事をしている人にとってはまさに水は必需品です。しかも水だけ摂ってもだめで、沢山のミネラルを含んでいる水を摂る必要があるのだそうです。
先ほどの〈聖書のおはなし〉の中で、サマリヤの女の人が昼間に井戸の水を汲みに来たという話しがありました。この季節になりますと、こういう話は良く分かります。こんなに暑い日中に井戸に水を汲みに来る人は普通いないわけです。大抵は涼しい時間に、こういう重労働は終わらせてしまいます。それでも暑い日中に水を汲みにくるのだとすると、その理由は一つ、誰にも顔を見られたくないからです。この話は、ヨハネの福音書の4章に書かれているのですが、そこには主イエスとこんな会話をしたことが書かれています。
主イエスの方からこのサマリヤの女の人に声をかけられました。
「わたしに水を飲ませてください。」
すると、このサマリヤの女は驚いてこう問いかけます。
「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」ユダヤ人はサマリヤ人と付き合いをしなかったのである。
そう書かれています。
ユダヤ人からすれば、サマリヤ人は異邦人です。声をかけたりはしないのです。それぐらい、ユダヤ人とサマリヤ人との壁は高いものでした。それなのに、主イエスの方から声をかけられたのです。
「わたしに水を飲ませてください。」ここでは、渇いているのは主イエスの方だというのです。ところが、ご自分の喉が渇いておられて、水をお求めになられたのに、「どうして、サマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」と尋ねられた時に、
「もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」
とお答えになられました。
ちょっとおかしな会話です。ご自分の方が、喉が渇いていたはずなのです。ところが、会話をしているうちに、本当に渇いているのはあなたでしょう? と問いかけておられるのです。あなたの人生は潤っているか。そう問いかけておられるのです。生活そのものが、生き生きとしているか。あとから、あとから、こころの奥底から生ける水が流れ出てくるような、そんな生活を送っているのかと、問いかけておられるのです。
私たちは自分の生活の渇きがあることを、気づかないようにしながら生きているのかもしれません。自分は満たされている、自分は大丈夫。他の人と比べてそれほどひどいとは思わない。そうやって、どこかで安心を得ようとしているかもしれません。あるいは、その反対に、自分の生き方に渇きを覚えている方もあるかもしれません。でも、どうしていいのか分からない。どうしたら、自分の生活が潤うことになるのか分からない。一所懸命、色々なものを求めて捜し歩いているけれども、それが見つからないということで苦しんでいるのかもしれません。
私たちにとって、自分の生活が満たされるというのは、一体どういうことなのでしょうか。「心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」というのは、どういうことなのでしょうか。
今日の聖書の箇所のヨハネの福音書7章の38節の次の節にはこう書かれています。
イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。
これは、私たちの想像の少し上をいっているような答えであるかもしれません。「心の奥底から、生ける水の川が流れ出る」というのは、簡単に言うと、「心が満たされる」と言い換えていいと思います。どうしたら、心が満たされるのか、それは聖霊をいただくことだというのです。すなわち神がその人の心を支配するということです。主イエスを信じると、どうしたらよいか、どう生きたらよいか思い悩んで生きることから解放されて、神の霊である聖霊が、その心を支配してくださるので、落ち着いた考え方をすることができるようになる。心が不安定な状態ではなく、とても安定した状態になる。その心の奥底から、喜びや、自信ややる気が込み上げてくるようなって、その心がとても穏やかで、まるで泉が豊かな水をたたえているような、平安をもたらすようになるというのです。
それは、少し何かを自分の生活にプラスして潤いを与えるというようなものにとどまらず、それまでとはまったく異なった次元、まったく新しい状態に私たちを導くものとなるのです。
有名な話があります。ある個展に同じタイトルの絵画が出されたのだそうです。タイトルは「平安」というものです。一枚の絵には綺麗な森の泉が描かれていました。まるで、鏡のように、その森を映し出した美しい湖が描かれていたのだそうです。その絵を見た人は、これこそ「平安」という題にふさわしい絵だと誰もが納得するような絵です。ところが、その横に、嵐の森の風景が描きだされた絵が描かれていました。絵の中心はその嵐で揺れる木々の間に鳥の巣が描かれていて、親鳥が一所懸命にヒナを守っている絵です。そして、よく見ると、そのヒナは親鳥を信頼しながら安心して親鳥に寄り添っている姿が描かれているのです。
よく考えて見ると、確かに一枚目の画は、まさに絵にかいたような平安のイメージの絵ですが、石ころ一つでその平安はかき乱されてしまう平安と言っても良いかもしれません。そこに波一つない鏡のように映し出したその水面に、小石を一つ投げ入れてしまうだけで、その平安は壊されてしまいます。けれども、二枚目の絵は、どんな嵐が来ようとも、そこには確かな揺れ動くことのない力強い平安があるのです。そこに描かれているのは、親鳥とヒナとの信頼というものに裏打ちされた平安です。
「生ける水」、今日の説教の題は「リビング・ウォーター」としました。そのまま日本語で訳すと「流水」となるでしょうか。「流れる水」のことです。あるいは、新改訳聖書の4章にかかれている注では「湧き出る水」と書かれています。とまった静かな水のような、あるいは、井戸に貯められたような動かない水ではありません。小石一つで波立つ水ではありません。そうではなくて、流れ出るような勢いのある水です。まるで、山の谷間から流れ出る綺麗な水や、湧き出るような生き生きとした水です。つねに生き生きと流れ出し、激しさを伴いながら周りのものにいのちを与えていくような水です。
主イエスを信じるとどうなるか。聖書は、それはリビング・ウォーターのようだと語るのです。その人の奥底から流れ出し、自分自身を豊かに潤し、平安を与え、そして、周りのものをも生かすような豊かに湧き出る水だと。私たちの主イエスは、そのようないのち豊かな流れ出る水を私たちに与えたいと願っておられるのです。
まず、気づくこと。自分は渇いていると。そして、その渇きを癒してくださるお方は、主イエスであることを知ること。そして、信じること。主イエスを信じる時、主は私たちに聖霊を与えてくださいます。確かな平安を与えてくださいます。その平安は、私たちを生かし、私たちの周りをも潤すような、力強い流れとなるのです。
お祈りをいたします。