2018 年 1 月 1 日

・説教 ヨハネの黙示録21章6節b「ただでくださる」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 18:56

2018.01.01

鴨下 直樹

 今日、私たちに与えられている2018年のローズンゲンの聖句はこういう言葉です。

「わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる」

 新しく訳された2017年訳ではこうなっています。「わたしは渇く者に、いのちの水の泉からただで飲ませる。」
 「ただで」とそう記されています。「ただより高いものはない」なんて言います。よく街頭でテッシュを配っています。外国人はびっくりするようです。私の知っている宣教師は大きな紙袋をもっていって、「ただならここにたくさん入れて欲しい」と言って頼んだのだそうで、テッシュを配っているアルバイトの子は喜んで沢山入れてくれたのだそうです。もちろん、そんなことはあまりないわけで、たいていの場合、テッシュを受け取るとアンケートに協力して欲しいとか、ドリンクサーバーを買って欲しいと勧められます。あぶないのは、子ども向きの風船を配っているところです。子どもは喜んで貰いに行くのですが、そのかわりにアンケートを書かされたり、英会話の教材を勧められたりするわけで、「ただより高いものはない」ということを実感することになります。

 「ただで」という言葉はそのようになかなか良いイメージとは結びつきません。ただイコール悪いものというイメージさえあります。しかも、ここでくれると言っているのは水です。日本では水はただです。昔は「ひねるとジャー」なんて言ったそうですが、蛇口をひねると美味しい水がジャーっと、どれだけでも出て来ます。特に、岐阜は水の美味しい地域ですからお金を払わなくてもおいしい水を飲むことができるというのはごく自然のこと、日常的なことです。

 今では、井戸に水を汲みに行くこともなく、川から水を汲んで来て、ごみをこして、それを一度沸騰させて、さましてようやく飲めるようになるなどという手間はありません。そのために、一層この聖書の言葉の持つ意味が分かりにくくなっていると思います。

 水、とくに聖書の書かれた地域、イスラエルやその周辺の地域の生活というのは、まさに水はいのちを繋ぐ水でした。雨が降らないということは、そのまま死を連想させます。「わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。」というこの約束の言葉は、とても大きな意味をもった慰めの約束の言葉であることを、私たちは知る必要があります。 (続きを読む…)

2017 年 12 月 31 日

・説教 マルコの福音書4章21-25節「光の中へ」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 18:48

2017.12.31

鴨下 直樹

 今日は大晦日ですが、教会の暦では今日が降誕節第一主日、主イエスの誕生を覚える主の日です。先日少し買い物に出かけたのですが、年末ということもあって、お店には物凄い人であふれかえっていました。もちろん、クリスマスの商品は隅に追いやれて、安売りされていて、真ん中にはお正月のものが並びます。今年も一年が終わるのだという実感がわいてきます。

 でも、少しほっとするのは、クリスマスのイルミネーションの明かりは、すぐに片づけないで、そのまま夜の街を彩っているところが多い気がします。暗く、寒い夜に明かりの持つ力を誰もが認めているのではないかと思うのです。暗い寒い冬の夜空に輝く明かりは、冬にもたらされる風物詩となっています。

 今日、私たちに与えられている聖書は、主イエスがお語りになったたとえばなしです。明かりの話しです。

あかりを持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではありませんか。

 そのように21節に記されています。原文では「あかりが来る」と書かれています。でも、あかりは自分では来ることが出来ないので、翻訳としては誰かが持って来るという訳し方がされています。

 先週の礼拝で燭火礼拝を行いました。礼拝堂の中を聖歌隊が、あかりを携えて歌いながら前に進みまして、クリスマスの讃美歌を歌い、そのあとで暗くした部屋のみなさんのところに明かりをともして回りました。おそらく、座っていた方々は「明かりが自分のところに来た」と感じられたのではないかと思います。誰が持ってきたかというよりも、暗い中で明かりが自分のところにやって来る。そう感じるわけです。それは、まさにクリスマスの知らせそのものです。暗い世界に主イエスがお生まれになる。光がもたらされる。それこそがクリスマスの知らせです。

 主イエスはこのたとえ話を神の国を知らせるためのたとえ話となさいました。神の国、神の支配というのは、暗い所にいる人のところに明かりがもたらされるようにしてくるようなものだということです。そうやってもたらされた明かりを、隠すようなことがあるだろうかと主イエスはおっしゃっているのです。というのは、明かりを隠すということが起こり得たからです。 (続きを読む…)

2017 年 12 月 24 日

・説教 ルカの福音書2章1-20節「クリスマスの主役は誰?」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 13:58

2017.12.24

鴨下 直樹

 昨日、子どもの通っている幼稚園のクリスマス祝会が行われました。年長組は、毎年クリスマスのページェントを行うことになっています。劇と歌でクリスマスの物語を演じるのです。十数人の子どもたちですが、小さな学年の時から上の子どもが演じるのを見ながら、私はマリアをやりたい。天使をやりたい。東の国の博士をやりたいと、いろいろ子どもなりに夢をふくらませているのです。でも、自分のやりたい役に、何人も希望者がでると残念ながら、自分が希望していない役であっても受け入れなければなりません。

 そんな時に、娘がこんなことを言いました。「クリスマスの主役はマリアさんでしょ」と言うのです。確かに子どものページェントでは特に女の子には人気のある役ですから、そう考えても不思議ではないのですが、でも、主役となるとどうでしょうか。単純に言えば、この日誕生されたイエスさまが主役ということになるかもしれません。けれども、イエスさまはここではセリフもありませんし、主役というには少し寂しい気もします。

 クリスマスには様々な人が登場します。マリアにヨセフ、東方の博士たち、羊飼い、天使ガブリエル、荒野で賛美をする天使たち、ヘロデ王に、ヘロデに仕える学者、宿屋の主人。クリスマスの劇をするならそのくらいでしょうか。誰が主役なのか。そんなことを問うまでもないほどに、それぞれにドラマがあります。

 先ほど、短いスキットをしていただきました。マリアとヨセフが住民登録のために故郷であるベツレヘムを訪れました。マリアは身重になっていて、そこにいる間に月が満ちたとありますから、お腹ももう大きかったことでしょう。妊婦でありながらナザレからベツレヘムまで旅をしているのです。距離にして約120キロ。その長い距離をロバに乗ったでしょうか。身重のマリアが夫に支えられて旅をする。それだけでもかなりのドラマです。そうやってようやく着いたベツレヘムでは、どこも部屋がいっぱいで、断らなければならない宿屋の主人にも現実的な問題があったと思います。泊めることができませんと断ったのも、決して意地悪ではなかったでしょう。けれども断った相手は妊婦です。実際問題として部屋は他の人で埋まってしまっているのです。どうしようもなかったのです。

 「飼い葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」と7節にあります。ですから、昔から多くの人は、きっと宿屋の主人が可哀想に思って、家畜小屋に泊まらせたのではないかと想像しました。飼い葉おけ。つまり、家畜のえさ入れです。そこに生まれたばかりの新生児を寝かせるということは、想像しにくいのですが、せめてもの宿屋の主人の気持ちがあったのではないか。そう読み取ることができます。この聖書の時代も今とまったく変わることなく、それぞれが自分の人生を必死で生きているのです。

 クリスマスの物語というのは、そういう現実的な生活の中に、神が赤ちゃんの姿となって入ってこられたこと。そこにメッセージがあるということができます。 (続きを読む…)

2017 年 12 月 17 日

・説教 マルコの福音書4章1-20節「みことばを受け入れる祝福」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 17:10

2017.12.17

鴨下 直樹

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 先週の金曜日で、名古屋の東海聖書神学塾の私の受け持っている今年の講義が終わりました。やっと終わったというのが正直な感想です。10月から3月までが今年の後期の講義なのですが、今、私は三つの講義を教えています。その一つに新約聖書神学という講義があります。実は、この金曜日は私の後で講義をする予定の先生がお休みになったので、急遽もう一コマやることになりまして4時間の講義をすることになりました。

 その後も2時間の講義と1時間の講義が一つずつあります。何とかやりきったという思いで一年を終えました。その新約聖書神学の講義で、この福音書に記されている「神の国」というテーマで何回か授業をします。金曜日にもその話をいたしました。4時間では終わらないほど、さまざまな意味がこの言葉には含まれています。

「神の国」というのは、このマルコの福音書の冒頭15節で、主イエスが「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」とお語りになられて、主は神の国の福音を伝えようとしておられることを私たちは聞いてきました。

 昨日、ちょうど神学校の講義で、神の国ということばを考えるために、旧約聖書の時代にこの言葉がどのような響きをもっていたのかという話をしました。4時間もお話しませんので安心して聞いてください。

 旧約聖書のイザヤ書52章7節にこういうみ言葉があります。

良い知らせを伝える者の足は、山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神が王となる。」とシオンに言う者の足は。

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2017 年 12 月 3 日

・説教 マルコの福音書3章20-35節「新しい家族」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 18:06

2017.12.03

鴨下 直樹

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 アドヴェントの第一週を迎えました。先週、教会でも大掃除をいたしましてクリスマスツリーの飾りつけをいたしました。みなさんの家でもツリーを飾っておられる家もあるでしょうか。この季節は日に日に寒くなります。それで、家でストーブを焚いたり、こたつを入れたりして、暖かい家でくつろぐことが多くなるのではないでしょうか。家族の多い所ではどうしても暖かい部屋に人が集まって来るということが自然なのだと思います。ただ、残念なことに家にたくさんの人が集まりますと、どうしても衝突が起こりやすくなってしまいがちです。

 今日の説教の題を「新しい家族」という題にしました。携帯電話のCMの話しではありません。聖書の話しです。今日の聖書の箇所は「イエスが家に戻られると」という言葉からはじまります。「家」というと家族のいる家をイメージするのですが、読み進めていきますと「イエスの身内の者たち」が主イエスを連れ戻すために登場してきます。ですから、この「家」というのは、主イエスの実家ということではないようです。恐らくカペナウム周辺のペテロの家を指しているのだと思います。

 多くの人目を避けて家に戻って、主イエスと弟子たちはくつろぐことができたのかというと、そうではありませんでした。食事の暇もないほど大勢の人が訪れて落ち着くことができなかったのです。しかも、そこに、主イエスの身内の者、おそらく母マリヤと主イエスの兄弟たち、たとえばヤコブとかユダという聖書の後の方に記されている手紙の著者たちは主イエスの兄弟であったと書かれていますから、そういう兄弟たちがやってきて、主イエスを連れ戻そうとしたようです。理由は「気が狂ったのだ」と言う人がいたので、家族としてはこのまま放っておくと、悪い噂がどんどん広がってしまって家の恥になると考えたのでしょう。

 今日のテーマは「家」です。家というのは、くつろぐことのできる場所、生活の場所という意味が大きいのですが、その他にも色々な役割があります。家というのは家族で守っていくもの、支え合っていくものということもできるわけです。それは特に社会に対しての家族の責任、役割というものがあるわけです。その家の中で「気が狂った」という噂がたてられてしまったのがイエスです。家族は当然、必死になって火消しにやっきになります。

 この「気が狂った」という言葉ですが、「自分の存在から外にでてしまう」という意味の言葉です。エクセステーという言葉で、この言葉から英語のエクスタシーという言葉ができました。自分の外に出てしまう。我を忘れてしまう。我を失ってしまう。そういう言葉です。家族、身内の立場から考えると、自分たちの外に出てしまった。我を忘れて恍惚状態に陥ってしまって、手に負えないところに出て行ってしまった。自分の家族の中からそういうものが出てとなった時に、家族としてはそんな恥ずかしいことは外に出さないように、もう一度自分たちの中に収めようとするわけです。だから迎えに来たわけです。

 それは子どもを持つ親としてはよく分かることだと思うのです。自分たちの理解の外に子どもが飛び出していこうとすると、必死になって、何とか手のうちに収めようと考えるのです。それは、家族を持つ者の悩みです。そして、できれば、安心して外に出て行くことが出来るようになってから、子を送り出したいと願うものです。その時、家族としてはどうやって独り立ちしようとする子どもを送り出してやることができるのか、その親としての態度がまた求められるのです。
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2017 年 11 月 26 日

・説教 マルコの福音書3章7節―19節「大衆と弟子たち」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 19:04

2017.11.26

鴨下 直樹

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 先週の日曜日教会で子ども祝福礼拝をいたしました。その後で、少し前から気になっておりました村上進さんのお父さんの村上伸先生のお宅を訪ねて小さな聖餐の集いを持ちました。

 村上伸先生のことをあまりご存じない方も多いかもしれません。日本基督教団の安城や岡崎で伝道なさって、最後は東京の代々木上原教会で牧会をなさっておられた先生です。退職されてからは、岐阜の池田町に住まわれて、執筆活動などを続けて来られました。福音派という言葉を私はあまり使いませんけれども、福音派の中ではそれほど知られた先生ではなかったかもしれませんが、日本のキリスト教会では本当に大きな貢献をなさった先生です。

 特に、ディートリッヒ・ボンヘッファーの研究家として、さまざまな翻訳をしてくださいましたし、ドイツの色々な神学者たちの著作を日本語に訳してくださって、大きな貢献をされた先生です。少し変な言い方かもしれませんけれども、私には雲の上のような存在の先生でしたので、気軽に訪問するというようなことも、あまり考えていなかったのですが、もう長い間聖餐をされていないのではないかと、急に思い立ちまして、この日曜日の夕方にお訪ねしたのです。

 今週の木曜日、祝日の日でしたが、夕方に進さんからお電話をいただきまして、伸先生が亡くなられたと聞きました。本当に、日曜日にお会いした時にはまだ、顔色も良さそうでしたので、できるだけこれからは訪問をさせていただこうと思っていたところでしたので、本当に言葉も出ないほど驚きました。そして、昨日、葬儀をいたしました。家族の方々とごくわずかな方だけの小さな葬儀でしたが、よい葬儀であったと思います。

 その葬儀でもお話したのですが、村上先生が献身の召命を主から受けたのはまだ18歳。高校生の時です。青森の八戸という町で伝道しておられた渡辺牧師がさまざまなところを訪問する時に、伸先生は一緒に連れられていったのだそうです。そうしているうちに、自分も牧師になりたいという思いを持ったのだそうです。けれども、家は貧しくて、牧師になって食べていくことができるだろうかということが心配で、親に話すことができずに思い悩んでいた時に、天からの声を聞いたのだそうです。その声は「死ねばいい!」という声だったのだそうです。気のせいだったかもしれないけれども、確かにそう聞こえたと自伝の中に書かれていました。そして、青森から東京にでて神学の学びをして、牧師になったということでした。 (続きを読む…)

2017 年 11 月 19 日

・説教 ルカの福音書15章1節-7節「迷子の羊」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 09:10

2017.11.19
子ども祝福礼拝

鴨下 直樹

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 先ほど、「せいしょのおはなし」の中で絵本を読んでいただきました。羊飼いがいなくなった羊を見つけに行った話です。ちょうど、今日の聖書の物語を絵本にしたものです。ただ、聖書と絵本がひとつ大きく違っているところがあります。それは、絵本では99匹の羊は柵の中にいれておいて、迷い出た一匹を捜しに行きました。けれども、この聖書には柵の中に入れておいたので大丈夫だとは書かれていません。

4節にこう書かれています。

あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうち一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。

 ここには、「九十九匹を野原に残した」と書かれているのです。別の聖書の翻訳(岩波訳)ではもっとはっきりと「九十九匹を荒野に放っておいて」と訳されています。この話は、羊飼いが迷い出た一匹の羊を探すために九十九匹を野原に放っておいて、いなくなった一匹の羊を捜したという話しが、今日の聖書のはなしです。ちょっとびっくりするような話です。
 
 今年の夏休みに、私は書店で面白い本を見つけました。「羊飼いの暮らし」という本です。イギリスの湖水地方の羊飼いが、実際にどんな生活をしているのか、その四季の生活ぶりを綴った本です。御存知の方も多いと思いますが、今年、イギリスの湖水地方が世界遺産に登録されました。それで、脚光を浴びるようになったのがピーターラビットの作者のビアトリクス・ポターです。このビアトリクス・ポターは絵本・ピーターラビットの収益で自分の育ったこの湖水地方を購入してこの土地を守ったということが知られています。ところが、この本は、そういう湖水地方にまつわる美しいエピソードとは全く異なる、この土地に古くから生き抜いてきた羊飼いたちの実際の生活ぶりが、どれほど過酷なものであるかを紹介する本として注目を集めました。

 この本を読んで知ったのですが、この湖水地方の羊の毛はほとんど価値がないんだそうです。羊一頭の毛刈りを人に頼むとすると、日本円で180円ほどなんだそうですが、そうして一匹の羊の毛、フリースというのだそうですが、わずか70円。毛を刈れば刈るほど赤字になるというほどのようです。なんのために毛を刈るかというと病気にならないためだそうで、実際は食肉用として飼育しているということでした。というのは、この湖水地方というのは自然の厳しい環境で、ウールとして売れる羊を飼うのにはふさわしくないんだそうです。

 中でも私が大変興味深く読んだのは、羊の毛刈りの時の話です。この湖水地方の広大な土地に放牧された羊たちを、毛刈りのためすべての羊を一か所に集めるためにどういう方法をとるのかというところを、私はとても興味深く読みました。地域の羊飼いたちが一斉に集まって、チームを組んで同時に羊を集めるのだそうです。なだらかな土地の羊を集めるのは簡単な仕事なので、新米の羊飼いにやらせて、丘陵地帯の藪の多い地域はベテランのそれ専用の牧羊犬を持っている羊飼いが担当します。それはまるで軍隊の統率のような徹底した戦術を練って、一匹も見逃さないように行われるのだそうです。羊飼いは四輪バギーに乗って、それぞれの土地に合わせて訓練された牧羊犬とで行われるとても精密で大変な作業なのだということが分かってきます。そういう時に、迷子の羊が出たということは書かれていませんでしたので、そうならないように羊を集めるのだということがわかります。 (続きを読む…)

2017 年 11 月 12 日

・説教 マルコの福音書2章23-3章6節「祝福の戒め」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 17:28

2017.11.12

鴨下 直樹

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 今日の聖書の箇所はちょっと面白いところです。安息日、働いてはならないと言われていた日に、主イエスの弟子たちはうっかりなのでしょうか。麦畑に入って、麦の穂を摘んで食べてしまったという出来事が事の発端となっています。普通に考えれば悪いことをやったのは弟子たちの方です。悪いこととまではいかなくても、禁止されていた戒めを破ってしまったわけですから、注意されても仕方がないわけです。ところが、主イエスは非難されているご自分の弟子たちをかばわれたわけです。律法にも安息日に働いてはならないと記されていますから、聖書の戒めに背いた弟子というのは弁解の余地もないような気がするわけですが、主イエスはその弟子への非難を通して、そもそも律法、神の戒めとは何なのかというテーマで話をされています。それが、今日の箇所です。

 ここで、パリサイ人たちが主イエスの弟子たちを非難した時、主イエスが何と答えられたか。この主イエスのお答も、とても興味深いものでした。かつて、ダビデがサウル王から逃げていた時のことです。ダビデは祭司のところを訪ねて、律法では祭司しか口にすることが許されていなかったパンを、いただいていきます。26節に、アビヤタルが大祭司のころと書かれていますが、聖書を読んでみますと気づくのは、実際はアヒメレクです。聖書を記す時に覚え違いをしたのかもしれません。いずれにしても、祭司しか食べることの許されていなかったパンを祭司アヒメレクはダビデに与えます。この時のことを主イエスはここで語られて、だから主イエスの弟子たちが安息日に麦の穂を食べてもいいのだという理由にしたわけです。

 おそらく、これを聞いていたパリサイ人はこの主イエスの答を聞いて、口をポカーンとあけていたのではなかったかと私には思えるわけです。というのは、このダビデのケースは全くの例外として、困った緊急の事態の場合は、律法よりも緊急の事情が優先されるというケースとして当時の律法学者たちには理解されていたのです。けれども、主イエスの弟子たちは緊急でもなんでもないわけです。むしろ、あまりよく考えもしないで麦畑に入って行って食べたわけですから、この主イエスのお言葉は、普通の感覚からすると、この状況ではふさわしくないわけです。しかし、わざわざこう答えられたということは、主イエスには明確な意図があるはずです。主イエスはここで何を気付かせようとしておられるのでしょうか。

 今日の説教題を「祝福の戒め」としました。少し説教題に違和感を覚えるかもしれません。「戒め」という言葉と「祝福」という言葉は合わないように感じるわけです。何でもそうですが、決まりごとが一つできると、本当のその決まりごとの意味は忘れられてしまって、その決まり事は自分を束縛するもののように感じるわけです。たとえば、体調を整えるために塩分の取り過ぎは良くないので、塩分を控えるとなるとたちどころに不自由に感じます。今まで何でもおいしく感じたものが、塩味を薄めた食べ物を残念に思う気持ちが出てくるわけです。決まり事というのは、本来その人のためになるためにあるはずなのに、決まりごとが、戒めが出来た途端、人を縛り付けるものとなってしまうのです。そして、塩分の濃いものを食べるのが自由だと思って塩分の濃い食事をとっても、喜べるかというと、実際自分の体に良くないし、かえって罪悪感が伴うことになるわけです。戒めに縛られるのも不自由ですが、戒めを破るのも不自由さを感じてしまうのです。
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2017 年 11 月 5 日

・説教 マタイの福音書16章26節「いのちの重さ」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 19:06

2017.11.05

鴨下 直樹

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 先日、以前牧会していた教会の長老とばったり出くわしました。懐かしくて昔話に花をさかせていました。話はこの長老の奥様の実家が徳島にあるのですが、徳島のご両親が病気で入院していたところを訪問したということでした。それで、病室で、イエス様を信じて天国に行きましょうという話しをしたら、二人とも「はい」と答えてくれたと、にこやかな表情でお話くださったのです。

 実は、私が牧会していた当時、この長老のお父様がご高齢で、病気になられて入院しているところを、訪問したことがありました。何度も病室を訪問して、色々なお話を聞かせていただきました。その中で、お父様がこんなエピソードを話されたことがあります。この長老の奥様も、クリスチャンなのですが、まえに、この奥様が入院をして手術を受ける時に、手術室に入る時、にっこりと笑いながら「行って来るね」と言われたのだそうです。その顔が忘れられないというのです。

 よくよく話を聞いてみると、自分もその後で何度も手術室に入ったけれど、いつも不安で不安で仕方がなくて心がつぶれそうになるのだそうです。その時に、いつも自分の息子のお嫁さんの顔が出て来て、どうしてあんなに安心でいられるのか不思議でしょうがない、と思うのだということでした。そして、私にこう話されたのです。「信仰を持つということが、それほど平安を得られるというなら自分も信仰が欲しい」と。そして、病室でご夫妻そろって洗礼を受けられたのです。後日、その長老とお会いした時に、懐かしそうに、ご自分の両親がそうやって病室で洗礼を受けて、その後天国に招かれていったので、本当にそのことが嬉しい、自分の妻の両親も最後に信仰を持ったことが嬉しいと話してくれました。

 このように、人生の晩年に信仰を持つ方は少なくありません。特に、キリスト教会で葬儀を行った後というのは、いつも色々な相談を受けます。自分の人生はこれでよかったのかということを、振り返りながら考えるのだと思うのです。若い時というのは、死はいつか自分にもやってくるけれども、まだ、今ではないからと、考えるのを後回しにできます。けれども、いろいろなことがきっかけになって、自分の人生を振り返る時に、自分は自分に与えられたいのちの価にふさわしく生きることが出来たのか。これで良かったのかと考える時が訪れるのだと思うのです。その時に、どのような答えを出すのか、それもまた人それぞれです。

 もちろん、そこで自分の人生を振り返ってみて、後悔することが沢山あったとしても、もはやどうすることもできません。自分の人生の大事な局面で、今の道を選択してきたのは自分ですから、その人生を否定してみてもどうにもなりません。ただ、私たちにあるのは、常にこれからどうするかという決断しかないのです。

 今日の聖書はこういう言葉です。

人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。

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2017 年 10 月 29 日

・説教 マルコの福音書2章18-22節「新しい喜びの生活」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 09:48

2017.10.29

鴨下 直樹

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 先週、私のところ一冊の本が送られてきました。「泥の好きなつばめ」というタイトルで辻恵美子さんの書かれたものです。サブタイトルとして、「細見綾子の俳句鑑賞」と書かれていました。いつも、親しみをこめて恵美子さんと呼ばせていただいているのですが、毎月、芥見教会では、「ぶどう木の句会」という俳句の会を、恵美子さんが指導してくださっています。私自身、俳句をつくることが出来ないのですが、いつも会に出させていただくと、俳句をどう読むのか、鑑賞するというのが正式の言い方なのでしょうか、そんなことも分からない程度の俳句の知識なのですが、恵美子さんの鑑賞を聞くのがとても面白くて、楽しませていただいております。ですから、私がこの恵美子さんの書かれた本について何かコメントをする立場にはないのですが、読み始めたらとまらなくなるくらい面白いのです。

 私は細見綾子という人を知りません。いつも、恵美子さんの言葉を通して、恵美子さんの先生なのだということくらいしか知りません。この本は、細見綾子という俳人が生前つくられた俳句を、恵美子さんがどう読み取ったのか、どう鑑賞したのかということが書かれているものです。本のはじめに「泥の好きなつばめ」という章があります。どこかでなされた講演を文字に起こしたものだと思いますが、恵美子さんの細見綾子の俳句鑑賞という文章が載せられています。ここを読むと、まるでNHKの朝のドラマにでもなりそうな細見綾子という人となりが記されていて、この人が折々に作った俳句のことが紹介されています。

 この細見綾子という方は明治40年に丹波で生まれた方です。若い時にほんとうに苦労されたようで、十三で父親を亡くしますが、母親の尽力でその後、東京の日本女子大に入ります。卒業して医者と結婚しますが、その夫が二年で結核のため亡くなってしまいます。その後、やむなく故郷の丹波にもどりますが、今度は三か月後に母親を亡くし、その四か月後には自分も肋膜炎を患ってしまいます。そういう中で俳句と出会って俳句をつくるようになったのだそうです。この時、まだ22歳です。私が面白いと思うのは、そういう中で、俳句が作られていって、その俳句の鑑賞というのはどうやるのかというと、その俳句が作られた時の細見綾子という人の生活がどうであったか、そのころ何をしていたのか、どういう状況の中で生まれた俳句なのかを丁寧に解説していくわけです。たとえば、こんな俳句があります。

ふだん着でふだんの心桃の花

 昭和13年。31歳の時の俳句だそうです。そうすると、解説で、この時は療養のために大阪に出て来ている時、きっとこの当時のふだん着というのは木綿縞じゃないでしょうか、などいうことが書かれていて、その頃住んでいた池田というところに桃畑が一面にあってそれを読んだ句で、心が躍っているのが分かると書かれています。
 どんな状況で、どんな場所で、どんな気持ちでこの俳句を作ったのかということを、読み取っていくわけです。たった17音という短い言葉なのに、意外にもいろんなことが分かってくるのだということに驚きを覚えます。 (続きを読む…)

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