・説教 エペソ人への手紙2章1-10節「恵みによって生かされて」
2016.05.15
鴨下 直樹
このエペソ人への手紙というのは、自分で読んでも、朗読されるのを聞いてもそうだと思いますけれども、あまり頭の中にすっきりと入って来ません。この金曜日も名古屋の東海聖書神学塾で、ある神学者の書いたものを神学生たちに読んでもらったのですけれども、あまりに堅い文章で書かれているために、1ページを読むたびに解説をしなければなりませんでした。本当は手紙ですから一気にまとめて読んでしまわないと意味が分からないはずなのですが、一週間ずつ文章を細切れにして読んでいますので、余計頭にはいりにくくなってしまいます。それで、すこしおさらいをしようと思うのですが、パウロはこの手紙の読者に、主イエスを信じた時に与えられるものがどんなに素晴らしいものかを理解できるようにと祈りました。それを、栄光の富と呼んだり、全能の神の力などと言い換えていますけれども、主イエスの復活の力が、教会の中で働いているのですよと、まず書きました。
今日はその言葉につづく言葉なのですが、読んでみますとまたテーマが変わったように見えます。この2章の1-10節までの部分は、クリスチャンになる前の生活の回想をしているのが、1節から3節までです。つまり洗礼を受けるまでの生活のことを書いておいて、4節から7節では洗礼を受けてどう変わったのかということについて書いています。そして、8節からは、その「恵みによって救われる」というのはどういうことなのかを書いています。こうやってはじめに少し内容を整理しておきますと、何が書かれているかを理解しやすいのではないかと思います。
さて、パウロはこの2章でキリスト者になる前にどんな生活をしていたのかを思い起こさせようとしながら筆を進めています。
あなたがたは自分の罪過と罪の中に死んでいた者であって
とまずあります。「あなたがたは死んでいたのだ」という言葉だけでも、何を言っているのか分からなくなってしまう言葉です。これは、聖書の代表的な考え方ですけれども、心臓が動いているという意味での生きているということではなくて、神の前に生きている者とみなされているかどうかを問題にしているわけです。「罪」と「罪過」の中に生きている者は心臓は動いていて生きているように見えていても、神はそれを死んだ存在として見ておられるということを言っています。神を信じる前の生活は、それがこの世界にどれほど意味のある貢献をするような尊い生き方をしていたとしても、神の前では死んだ者、けれども、主イエスを信じることができるようにされた時に、死んでいたものが、まさに1章の最後に書かれているように、復活の神の力によって、神の前で生きている者としてみなされるということ。それこそが、神の全能のお働きなのだということを言っているわけです。 (続きを読む…)