2025 年 8 月 17 日

・説教 マルコの福音書7章1-13節「神のことばを無にしないために」

Filed under: 内山光生師,礼拝説教 — susumu @ 00:54

2025.08.17

内山光生

柔和な者は【主】によってますます喜び、貧しい者はイスラエルの聖なる方によって楽しむ。  

イザヤ29章19節

序論

 ここ数年、ずっと猛暑が続いていて「今年は暑いね」という言葉をよく聞くことがあります。10年以上前までは、これ程の暑さが続くことはなかったように思うのですが、いつの間にか、気温が35度を超えるのは当たり前の事で、場合によっては38度や39度になることもある、そういう時代に入ってしまったようです。

 そういう中にあっても、今、私たち家族が住んでいる高天ヶ原団地では、朝夕は多少、気温が下がるようで、特に早朝に聖書を読んだり祈ったりするには、快適な環境です。暗い時間から、せみの声や鳥の声が鳴り響いていて、音楽をかけなくても、天然のBGMとなって心地よい気持ちで過ごしています。ただ太陽が出てくると、やはりエアコンのある部屋でないと厳しいと感じています。

 さて、聖書の話に進みたいと思います。前回の6章までは、イエス様の宣教活動が多くの町や村に伝えられて行き、特にゲネサレの地では、快く受け入れてもらった事が記されていました。一方、イエス様の教えを受け入れようとしない人々も存在しました。この7章からは、イエス様を受け入れない人たちとイエス様とのやり取りが記されています。

 これらの人々は、一言で言うと「神のことばを無にしていた」のです。イエス様は、彼らの本質を見事に見抜いた上で、強烈なパンチを浴びせたのです。しかしイエス様は、彼らが本当の意味で神様の教えがどういう事なのかを知ってもらいたいがゆえに、彼らの問題点をはっきりと指摘しているのです。

 人というのは、誰かから自分の問題点あるいは自分の所属しているグループの問題点を指摘されると嫌な感情が出てきます。そして、拒絶反応が起こる、そういう場合もあるのです。けれども、神の教えを無にした人生を送り続けているならば、それは、良くないことなのです。ですから、私たちクリスチャンは、自分の考え方や自分の行動が神のみこころにかなったものなのかどうかを思い巡らすことは、意味のあることなのです。 (続きを読む…)

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