・説教 詩篇146篇「いのちあるかぎり」
2020.11.08
鴨下 直樹
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今日の詩篇には、人間の悲しみが詰まっています。悲しい言葉がいくつも並んでいます。
「虐げられている者」「飢えている者」「捕われ人」「目の見えない者」「かがんでいる者」「寄留者」「みなしご」「やもめ」。これらの言葉はみな悲しみを抱えている人たちのことを言っています。私たちが生きている世界には、そこかしこに、悲しみの原因が転がっています。いつ、誰が、この悲しみを拾ってしまうか分かりません。
みなさんは、このような悲しみを経験するとき、それをどうしているでしょうか。私たちはストレス社会を生きていると言われています。体調を崩して病院に行きますと、「ストレスですね」と言われることが度々あります。どこにも持っていくことのできない苦しみや悲しみを抱えながら、誰もが生きています。
中には、人に話を聞いてもらってその発散をしている人もあるでしょう。あるいは、趣味に没頭することで、気を紛らわしているということもあると思います。本を読む、映画を見る、ゲームをする。おいしいものを食べる。お酒を飲む。旅行に出かける。人それぞれ、自分にあった何らかの対処法をもっているのかもしれません。そして、それでなんとかなるうちはいいのです。自分の許容範囲を超えてしまうような出来事と遭遇するとき、私たちはそれをどこに持っていくことができるというのでしょうか。
たとえば、職場などで上に立つ立場の人というのは、実にさまざまな問題を抱えることになります。責任が重くなればなるほど、抱える問題も大きくなってしまいます。そして、誰にも話せないことも増えていくのだと思います。
今日の聖書の3節にこういう言葉があります。
あなたがたは君主を頼みとしてはならない。
救いのない人間の子を。
と書かれています。
言いたいことはよく分かると思うのですが、実際には「君主」というのは、その国のリーダーです。会社で言えば、一番上に立つ人、社長を指します。スポーツで言えば先頭を走っている人です。
一番上にいる人でないと見えない景色があります。先頭を走っている人でなければ見えていない問題というのが必ずあるはずです。下の方にいる人より、後ろの方にいる人よりは、上にいる人、前を進んでいる人の方が、沢山の答えを持っているはずです。けれども、この詩篇は、そういう人の上を行く人、人に先んじる人も、人に過ぎないのだと言っているのです。それほど、大きな差はないのだと言っているのです。
子どもが成績表をもらってきます。二重丸、丸、三角、上級生になるとA、B、Cと成績がつけられます。中学からは5、4、3と成績がつけられていきます。その成績で一喜一憂します。私たちは子どものころから、そういう評価されることに慣れてしまいます。そして、そのような評価を絶対視してしまいます。
少しでも上に、少しでも先に、それが一番大事なことだと当たり前のように考えてしまうようになります。個性が大事とか、その子らしさを受け入れようと言いますけれども、どこかで、そういうセリフがしらじらしく響く世界に、私たちは身を置いて生きているのです。
だから、評価されなければ悲しいし、自分の存在価値は、人に評価されるところにあると考えてしまうので、この詩篇にあげられているような人々のようにはなりたくないという思いを、心のどこかで持つようになるのです。
ところが、聖書は「君主を頼みとしてはならない」と言うのです。同じ、死に支配されている人間なのだからと。
今日は、召天者記念礼拝です。すでに、この世の生を終え、天に召された家族のことを覚えて、ここに集っております。例年ですと、大変大勢のご家族の方が集まりますが、今年はコロナ禍ということもあって、多くの方々は来ることができませんでした。けれども、今、私たちは天に送った家族のことを覚えて、この礼拝に招かれています。
そして、この詩篇146篇のみ言葉が、私たちに与えられています。この詩篇は、幸いを歌う詩篇です。ここにあげられている人は、みな悲しみを抱えている人たちですが、この詩篇は悲しみに支配されてはいないのです。それは、なぜか。
詩篇の5節にこう記されています。
幸いなことよ ヤコブの神を助けとし
その神 主に望みを置く人。
頼みとするのは、人ではなく、ヤコブの神、主であると言っています。ヤコブというのは、先週まで創世記の説教していましたあのヤコブです。兄をだまし、報復を恐れて逃げ、その逃げた先で、二人の妻をめとり、12人の子どもが与えられました。アブラハムに約束された神の祝福の約束は、このヤコブに受け継がれていったのです。あの、ヤコブと共にいて、祝福を与えられた神、主に望みを置く人は幸せに生きることができる。そのように、この詩篇では言っています。
そして、この主はどういうお方かというと、その後の6節と7節でこのように言われています。
主は 天と地と海
またそれらの中のすべてのものを造られた方。
・・・
虐げられている者のためにさばきを行い
飢えている者にパンを与える方。
この主は天地を造られたお方で、虐げられている者、飢えている者の味方であるということです。聖書が語る神は、弱者を救済する神です。強い者の味方ではなく、その反対です。物語の主人公にはなりそうにない者を、主は目にかけられるのです。それは一体なぜでしょう。
この世の君主に上り詰めた人物の方が物語としては魅力的です。それが、まさに人生の成功者です。けれども、それは本当に成功なのでしょうか。この世界で一番になることにどれほどの意味があるというのでしょう。
今、私はオンラインで「ざっくり学ぶ聖書入門」という講座の配信をしています。聖書をできるだけ簡単に解説してみようと試みています。その最初に天地創造の話をいたしました。神がこの世界を創造された時、それはとっても素晴らしい世界でした。そこで、人間が喜んで生きることのできる世界を神は造ってくださったのです。ところが、人間はそこで一つだけ神からルールを与えられます。それが、園の中央にある善悪の知識の木の実を取って食べてはならないというルールです。それを食べると死ぬと言われたのです。神は、このルールを与えることで、人に自分で考えて決断する自由を与えられました。そして、人はそのルールを守ることができず、その木の実を食べてしまいます。この時、人は神の楽園から追い出されてしまいます。この神の楽園、神の支配する国から追い出されたということは、死ぬ存在になってしまったということです。
私は、よくそのことを、落とし穴の絵を書いて、説明します。神の支配する国に生きているはずの人間が、そこから落とし穴の世界に落とされてしまったのです。この落とし穴の世界で、いくら努力したところで、いくら一番になったところで、みな同じ結末に行きつきます。それが死です。そして、いま私たちはみなこの死の世界に生かされているわけです。
ところが、私たちの神は、その死に支配されてしまった弱い存在を、そのままでいいとはお考えになりませんでした。どうにかして、その死の世界から引き上げたいと考えてくださったのです。
7節の最後にこう書かれています。
主は捕らわれ人を解放される。
主は、この弱い人を解放してくださるお方、死に支配される世界の外におられるお方です。そこから、私たちのもとに来てくださって、私たちを、その死の穴、滅びの穴から引き上げることがおできになるお方なのです。
それが、主イエスの十字架と復活です。落とし穴の世界に主イエスは降りてこられて、救いを求める者を、この滅びの穴から引き上げてくださるのです。この主に救われた者は、もはや、死の支配下ではなく、神の支配下に引き上げられるのです。これが、聖書が語る救いです。
主イエスを信じた人は、天地創造の時に造られた神の楽園、神の支配のもとで生きる者となるのです。この主は、最後の10節にあるように、「主は とこしえに統べ治められる」お方です。ですから、永遠にこの主の御国で、喜んで生きる者とされるのです。
だから、私たちが悲しみの中にある時、私たちが自分ではどうすることもできないような状況におかれるようなことがあるなら、この主に今、自分がどれだけつらいのか、どれだけ苦しいのか、そして、ここから救い出してほしいと訴えたらよいのです。私たちは、主に訴えることがゆるされているのです。私たちの心の叫びを、嘆きを訴える場所があり、その叫びを聞いてくださるお方がある。そこに、救いがあるのです。
私たちは、自分の弱さを、弱さに生きることを恥じることはないのです。人々の先頭に立ったり、人の上に立つことができないことを恥じる必要はないのです。なぜなら、人とは弱い存在だからです。いつも、すぐ傍らに死がある所で、私たちは生きているのです。どんなに背伸びをしてみたところで、それは神の御前には大した違いはないのです。それが、落とし穴の世界で生きている、死の支配に生かされているということなのです。
そして、私たちが、この死に支配されていない、まさに天におられる父に祈り求める時、父は私たちに手を差し伸べ、私たちのすぐ傍らに近づいてくださって、私たちをそこから引き上げることがおできになるのです。
主よ、私を救ってください。という祈りは、私は無力なものであることを認める祈りです。主の救いを求めるという事は、今自分は滅びの穴に生きていることを知り、そこから神の支配に移されることを願う祈りです。
そして、今日、私たちはこの召天者記念礼拝の中で、この主の救いを求めた家族が、今神の御もとにいて、とこしえに統べ治められるお方のもとにいることを喜ぶ日なのです。そして、みなさん、一人一人、この時、もう一度自分はどのような主に信頼しているのかを、思い起こしていただきたいのです。
この詩篇146篇はこのように祈り始めています。
ハレルヤ。
わがたましいよ 主をほめたたえよ。
私は生きているかぎり 主をほめたたえる。
いのちのあるかぎり 私の神にほめ歌を歌う。
この祈りを、私たちの日ごとの祈りとすることができるのです。いつも、下を向いているのではなく、いつも何かにおびえるのではなく、高らかにこのほめ歌を、歌うことができるのです。
私たちが心から喜ぶことができるのは、私たちに救いを与えてくださった主がおられるからです。この主を、いつもいつまでもほめたたえたいのです。この主は「天と地と海 またそれらの中のすべてのものを造られた方」と、この詩篇の詩人は歌います。
今年の召天者記念礼拝にはマレーネ先生がみえません。長い、日本での宣教師としての働きを終えて、ドイツに帰られました。ドイツに帰られた時に、教会のLINEグループに一枚の写真を載せてくださいました。マレーネ先生の住んでおられるライン川沿いにあるバッハラッハという町の写真です。写真に写っていたのは、麦畑の写真です。
この景色は、とても不思議な景色で、ライン川は切り立った斜面の下を流れています。川のあちら側も、こちら側も、その斜面にはぶどうの木が植えられています。そして、その斜面の上まで行くと、その向こう側はずーっと真っ平の景色が続きます。それこそ、地平線が見えるような景色です。写真にも、その景色が映っております。
手前には美しいぶどう畑の斜面にライン川が流れ、その後ろは、地平線がみえるまで麦畑がつづくのです。その景色を眺めながら、祈る。
「あなたは、この天地を創造された主です。」と。
そうすると、自分の部屋で同じ言葉で祈っているその言葉の意味がまるで違うということに気づかされます。
自分がイメージした世界よりも、もっとはるかにすばらしい景色を知ると、同じ言葉であっても、その意味が変わるのです。
人間が到達できる高みは、たかが知れているのですが、神の高みは私たちが思い描くものよりも、はるかに高いのです。
教会は、その礼拝の歴史の中で、さまざまな捧げ方で礼拝をしてきました。その歴史の中で生まれた一つの言葉があります。「スルスム・コルダ」という祈りです。
礼拝の聖餐式のはじめに「スルスム・コルダ」という祈りをささげたのです。「心を上げよ」という祈りです。
司式者が、「スルスム・コルダ」、「心を上げよ」と言うと、会衆がそれに答えて「私たちの心は主と共にある」と答えて祈ったのです。
心が沈んだままではなくて、その心が引き上げられるのです。「私たちの心は主と共にある」と祈ることで、私たちがこの世の現実しか見えなくなっているところから、その心を引き上げたのです。
主に救われるという事は、滅びの穴の中にいつまでも留まってはいないのです。私たちの主はよみがえりの主です。私たちの家族は、かつては悲しみや嘆きを経験しながら、その生涯を過ごしたのかもしれません。けれども、今、この人々は主の御もとに引き上げられています。そして、それは、死者だけに与えられたのではなく、主イエスを信じる者すべてに、主は与えてくださるのです。
私たちは、落ち込んでいるのを、何とかがんばって上向きになろうというのではないのです。私たちを引き上げてくださる主によって、その心が引き上げられるのです。そして、この主をいつまでも、喜び、高らかにほめたたえることができるのです。
この召天者記念の日、私たちは共に、よみがえりの主を覚えて、心を高く引き上げられて、よみがえりの主を心からほめたたえたいのです。
お祈りをいたします。