・説教 マタイ18章20節 「病から学ぶ祈りと御言葉」
本日は赤塚尚武兄が礼拝説教で証をして下さいました。
2012.10.14
鴨下 直樹
マタイの福音書をはじめから順に丁寧に聞き続けてまいりました。今朝で、マタイの福音書からの説教の回数は百十四回になります。二年半、いや殆ど三年にわたってマタイの福音書の言葉を聞き続けてきました。ある意味ではもう十分といえるほどマタイの福音書の言葉を聞き続けて来ましたけれども、私の心の中には本当に十分だっただろうかという思いがあります。今日の箇所もそうですけれども、やはりここは一度でなくて二度に分けて語った方が良かったのではないかと昨日の夜まで考えていました。もう少し話したい、話し足りないことが沢山あるという思いがあるのです。けれども、二度にわけることはしませんで、今朝はこのところからマタイの言葉を聞きたいと思っています。
主イエスが十字架で死んで、墓に葬られました。主イエスの死はさまざまなものをもたらしました。このマタイの福音書の二十八章には三種類の人々が出てきます。主イエスの周りにいた女の弟子たち、主イエスの弟子たち、そして、主イエスを墓に押しやっていた番兵たちと祭司長、民の長老たちです。この人々の反応はまちまちです。しかし、この三種類の人々に共通する思いが描かれています。それが「恐れ」です。マタイは福音書の最後にこの「恐れ」について書き記しました。 (続きを読む…)
2012.10.7
鴨下 直樹
先週の木曜日の午後にシャガール鑑賞会を岐阜県美術館で行ないました。私どもの教会の長老であり、岐阜県美術館の館長をしておられる古川さんが、今展示されておりますシャガールの作品の解説をしてくださいました。芥見教会の方だけではなくて、どこから聞きつけたのかいくつかの近隣の教会の方も参加されました。大変すばらしい作品がいくつも展示されておりますし、シャガールの思想が良く分かる構成がされています。今月いっぱいまで行なわれておりますので、まだ見ていない方は是非行っていただきたいと思います。
先週の説教でもお話ししましたけれども、シャガールはユダヤ人でありながら数多くの十字架の作品を描いております。実際に、今のシャガール展で展示されている中にも数点十字架を描いたものがあります。自分の同族であるユダヤ人たちが次々に殺されていくナチスが台頭した時代にあって、シャガールはその手を逃れ続けておりましたから、どうしても死ということを考えざるを得なかったことと思います。
そういう中で、主イエスの十字架に慰めを見出したのでしょう。特に今岐阜県美術館に展示されているシャガールの作品の中で「復活のための習作」というタイトルが記されている作品があります。タイトルは「復活のための」となっているのですが、描かれているのは主イエスの十字架です。しかも興味深いことに、キリストの腰に巻かれた布は一般に描かれているような白い布ではなくて、二本の黒い線が描かれています。古川さんの説明によると、ラビの印であるということでした。 (続きを読む…)
2012.9.30
鴨下 直樹
今日、この礼拝の後、午後からここでキリスト教美術講座が行なわれます。岐阜県美術館の館長をしておられ、私たち芥見教会の長老の古川さんがお話しをしてくださいます。今年二回目ですけれども、今回は「新約聖書にみる名画」というテーマです。おそらく、沢山の主イエスの十字架の絵が紹介されることと思います。主イエスの生涯を描いたものがそのほとんどなのではないかと思います。新約聖書を描く、そしてその中でももっとも多いのはキリストの受難を描くものと、キリストの復活を描くものです。
今、岐阜県美術館でシャガール展をしております。今週の木曜日古川さんが鑑賞会を開いてくださるというので、今から楽しみにしております。シャガールはユダヤ人です。正確にはユダヤ系のフランス人です。ですから、シャガールは聖書の物語の作品を数多く手がけていますが、そのほとんどは旧約聖書を題材にしたものばかりです。
ところが、シャガールはユダヤ人でありながらたくさんの十字架の絵を描いたのです。フランスのノートルダム大聖堂やドイツのマインツにある有名なステンドグラスの作品の中にもかならず十字架が描かれています。先週の家庭集会で古川さんがお話しくださったのですが、二十世紀の画家の中でもシャガールほど十字架をたくさん描いた画家はいないということでした。ルオーより多いと言うのです。
なぜ、ユダヤ人のシャガールがそれほどまでに十字架を書いたのか不思議ですけれども、シャガールはユダヤ人でありながら十字架を描かざるを得なかったと言います。明らかにキリストの十字架に救いを見出していたのです。それは、シャガール自身そのことを認めているのだと古川さんは言っておられました。とても興味深いことです。
聖書物語のシリーズも見ることができるということです。数が多いので前半と後半で展示する絵が変わるのだそうです。今から楽しみにしています。それほどたくさんの旧約聖書の物語を描いているのですから、長い間聖書と向き合い続けているのです。そして、キリストの十字架をその自分の描く聖書の作品の中に入れるのです。まるで、旧約聖書のすべての出来事は、イエス・キリストの十字架に集約されるのだと言っているかのようにです。それは、シャガール自身、この主イエスの十字架に慰めを見出したからに他ならないのです。
主イエスの十字架はすべての人の希望です。すべての人の前に示された神の赦しの出来事です。このマタイの福音書はまさにこの聖書の箇所の中で、すべての人を描いてみせました。それが、この主イエスの十字架上で叫ばれた今日の聖書の箇所に描き出されています。それが、この朝私たちに与えられている物語です。 (続きを読む…)
2012.9.23
鴨下 直樹
主イエスの受難の物語を私たちはいま聞き続けています。二週間の間休みをいただきましたので、二週間ぶりということになります。
今日は何から話をしたらいいのか分からないほどに、先週一週間の間に色々なことがありました。二週間休みをいただいたことがもうずいぶん前のことと思えるほどでした。
もうすでに多くの方は御存じのことですけれども、水曜日と木曜日にかけて葬儀が行なわれました。今日は教団の日で、午後にはここを会場にして教団の日の集会があります。その午後の集いの説教の準備もあります。それ以外にも、金曜日の集会や名古屋で教えています神学塾の勤めや、昨晩は学生の集まりもありました。いつもの一週間に戻ったことを実感する一週間でした。その間中私の心に留まっていたのが、今朝、私たちに与えられている主イエスの十字架までの道のりの物語です。
カトリック教会にまいりますと、どこの教会に行っても壁に十五枚の絵がかけられています。絵である場合もありますし、レリーフの場合もります。主イエスの受難の場面を十五に分けまして、その絵を見ながら主イエスの十字架の苦しみを思い起こすという習慣があるためです。その十五枚の主イエスの十字架の苦しみを描いたもののことを「十字架の道行き」といいます。
主イエスの裁判の場面、兵士たちに鞭打たれるところ、十字架を担いで行かれるところなど様々な場面があります。今、私たちがこのマタイの福音書で聞き続けている主イエスの痛ましい姿を心に刻むようにと、礼拝堂の中に主イエスの十字架までの道のりを示す絵を飾るのです。
この十字架までの主イエスの道行きの場面を読みながら、今週、教会で様々な集いがありました。私自身、葬儀をし、祈祷会をし、パッチワークの集まり、神学校の授業、そして、学生たちとバーベキューをして過ごします。まさに、色々な生活の場面を自分も味わいながら、その中に主イエスの苦しみを覚える一週間となりました。そのような人との関わりの中でこの主イエスの十字架の道行きの御言葉に耳を傾ける。それは非常に印象深い経験となりました。 (続きを読む…)
2012.9.2
鴨下 直樹
今日の聖書にはユダ、ピラト、そしてバラバという名前が続いて出てきます。どの名前もあまりいいイメージとはいえない名前ばかりが続きます。すくなくとも、憧れの対象になるような名前ではありません。 主イエスを裏切ったイスカリオテのユダ。主イエスを十字架につけたピラト。バラバについては囚人としてしか知られておりません。このバラバは主イエスに代わって刑を免れた男として名前が知られるようになります。ですから、バラバだけは少し異なる印象になるのかもしれません。今日は、この人々に視点を当てながら、マタイの描く主イエスの受難の出来事を見ていきたいとおもいます。 (続きを読む…)
2012.8.26
鴨下 直樹
今朝は少し長い聖書の箇所を一緒に聞きました。サンヘドリンと呼ばれる祭司たちの議会で行なわれた裁判の様子と、ペテロの三度の否認と呼ばれる出来事がここに記されています。二つの出来事を分けて読むこともできると思いますけれども、この朝は少し長いですが、この二つの出来事を取り上げました。と言いますのは、この二つの出来事は、二つに分けられないほど非常に深いつながりがあると考えているからです。
この朝の説教の題を「イエスの裁判」とつけました。このマタイの福音書には二つの裁判の場面が記されています。一つはこのサンヘドリンと呼ばれている議会での裁判です。新改訳聖書をお持ちの方は五十九節の「全議会」という言葉の注として、欄外に「サンヘドリン」と書かれているのを見つけることができると思います。新共同訳の聖書では「最高法院」と訳されている言葉です。もう一つの裁判が、この後に行なわれます、ローマの総督であるピラトによって行なわれた裁判です。
ここで「全議会」と言われているサンヘドリンの議会は、宗教的な問題を取り扱う議会です。七十一人の議会メンバーで構成されていまして、その三分の一が集まれば議会を開催することができたようです。ですから、完全に人数が集まっていなくても裁判を行なうことができました。そんな理由があったからでしょうか。今日の聖書を読んでみますと五十七節にこう記されています。
イエスをつかまえた人たちは、イエスを大祭司カヤパのところへ連れて行った。そこには、律法学者、長老たちが集まっていた。
主イエスが捕らえられたのはゲツセマネにおいて三度の長い祈りをした後のことですから、当然真夜中の出来事です。普通はそんな時間に裁判をするということはありません。サンヘドリンの議会法でも、日の出前に議会を招集するということは出来ないことになっていたのです。おそらく議員すべて集まったのではないのでしょう。真夜中に裁判をするなどというのはありえないことです。けれども、この裁判は行なわれてしまいました。何故か。それは、もうこの議会の人々の中に、イエスをどうしたいのかという意思が明白であったからです。 (続きを読む…)
2012年8月19日
聖書宣教会2年
舛田友太郎
序章:神の国は約束されている。自分のことばかりではなく、他者を愛しなさい。
1)救いは約束されている
2)律法にあらわされた父の心とは、私たちに対する愛である
3)律法にあらわされた父の心とは、私たちと愛の交わりを求められることである。
4)律法にあらわされた父のこころとは、私たちが神の子どもとしてどのように生きるかである
序章:みなさんおはようございます。私のことを知らない方もおられるようですので、簡単に自己紹介をさせていただきます。私は東京にあります神学校で牧師になるべく学びをしております、舛田友太郎と申します。
よろしくお願い致します。
「律法」、聞き慣れない方もいらっしゃいますでしょうか。「律法」とは簡単に説明しますと、神が私たちに守るよう与えられた教えのことです。律法と聞くと「あ〜しなさい」「こ〜しなさい」「あれをしてはいけない」
「これはしてはいけない」と、神さまがとても厳しい命令を与えているとのイメージを持たれている方が大勢いるのではないでしょうか。大切なのは分かるんだけれども、どうにも苦手であるとの声をよく聞きます。
「律法」を避ける傾向が今日の私たちには見られるのではないでしょうか。「愛」や「恵み」に関する御言葉は好んでポストカードやカレンダーに使われますが、「偶像を造ってはならない」や「盗んではならない」との
御言葉はあまり見かけません。しかしこのような見方こそがイエス・キリストが「わざわいだ偽善の律法学者、パリサイ人」と厳しく非難された原因となるのです。大切なのは律法の心に目を向けることです。
「律法」を与えられたのは神さまです。ですから「律法」には神さまの心があらわれているのです。律法にあらわされているのは、私たちが礼拝する神さまの心です。ですから、避けたりないがしろにはできないはずです。
Ⅰ:神の国の約束の確かさ
「求めなさい。そうすれば与えられます」「捜しなさい。そうすれば見つかります。」「たたきなさい。そうすれば開かれます。」。山上の説教の中で語られているとても有名な箇所です。
この箇所を読む多くの方が「欲しいもの、必要なもの、願望」は祈り求めれば神さまは叶えてくださるとの希望を抱くのではないでしょうか。私は混乱しました。あれが欲しいといくら熱心に祈っても叶えられないのですから。
私のように聖書の多くの箇所で誤解して読んでしまうことはたくさんあります。その誤解の多くが、読む範囲を狭くし過ぎることによって生じます。もう少し読む範囲を広げると、この箇所でイエスさまが主題にしていることが分かります。 (続きを読む…)
2012.8.5
鴨下 直樹
今朝、私たちに与えられているのはゲツセマネの祈りと呼ばれている箇所です。この出来事は、主イエスの苦しみをよく表している箇所です。しかし丁寧に読んでみますと、良く分からない所がいくつも出てきます。
今日の説教の題を「死ぬほどの悲しみの中で」としました。題としてこれが相応しいかとも思いましたけれども、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。」と弟子たちに言われた主イエスの言葉がとても強く心に残ります。
主イエスがゲツセマネに行かれて、ペテロとゼベダイの子ふたり、すなわちヤコブとヨハネを連れて、そこで悲しみにもだえながら祈り始められたのです。その主イエスが、一緒に目を覚ましているように言われた弟子たちに対して、「わたしは悲しみのあまりに死ぬほどです。」と言われたと言うのです。
これほど神に似つかわしくない言葉であると考える人も少なくないようです。悲しみに押しつぶされて死ぬほどである、それほどの悲しみをここで主イエスは覚えておられるというのです。しかも、それは祈りにおいてだというのです。
悲しみの中にいる人に、私たちは時折、神様にお祈りしてごらんなさいとアドバイスすることがあるのではないでしょうか。その悲しみをきっと神様が支えてくださるからと信じて、そのようにアドバイスすることがあります。けれどもここで主イエスは、その神との祈りの中で死ぬほどの悲しみを覚えていたというのです。これはいったいどういうことなのでしょうか。 (続きを読む…)
2012.7.29
鴨下 直樹
今日の聖書の箇所は、最後の晩餐とペテロの裏切りの予告と言われるところです。今日の説教題を「最初の主の晩餐」としました。ですから、さっそくミスプリントではないかと問い合わせがありました。最後の晩餐の間違いではないのかと言うのです。
私たちは礼拝で聖餐を祝います。この礼拝堂も聖餐のためのテーブルが真ん中に置かれています。この聖餐卓を囲むようにして椅子が並べられている教会もあります。それほど、聖餐は教会の中心と言っても良いものです。この聖餐のことを主の晩餐と昔から言い表してきました。主がここでなされた晩餐を、教会は受け継いできたのです。
その最初の主の晩餐の席には、前回も読みましたけれども、裏切る者もそのテーブルの席についていました。そして、この晩餐の後でオリーブ山に出かける時にも、主イエスは弟子たちに「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまづきます。」と言われたと三十一節にあります。この最後の食卓の席に招かれた者は、この後すぐに散り散りになってしまうのです。それが、最初の主の晩餐の姿でした。
今朝、みなさんと共に、主の食卓を囲んで聖餐を祝うことができないことはとても残念です。けれども、私たちは真ん中に置かれた聖餐卓を見ながら、この朝、この食卓に私たちを招き、私たちのような不完全な弟子を愛してくださった主の御言葉に耳を傾けていきたいと思います。 (続きを読む…)
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