2016 年 12 月 25 日

・説教 マタイの福音書2章1-12節「クリスマスの贈り物」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 15:31

 

2016.12.25

鴨下 直樹

 
 クリスマスおめでとうございます!今日はクリスマスです。主イエスのお誕生をお祝いする日です。今朝は、この礼拝に何人かの子供たちも一緒に集っています。私が想像するに、子どもたちの何人かは、きっと今、心ここにあらずだと思うのです。今朝、クリスマスのプレゼントを頂いて、頭の中はそのことでいっぱいになっていると思うのです。プレゼントを頂くというのはとても嬉しいものです。

 クリスマスに、私たちは互いにプレゼントを贈り合います。プレゼントを贈るときには相手に何が喜ばれるかをまず考える事でしょう。そのこと自体がまず愛のなせる業と言ってもいいかもしれません。子どもを喜ばせたい。プレゼントを贈る人に喜んでほしい。それは、あわただしい毎日の中に彩りを添えることになるのです。自分自身にも、そしてプレゼントを贈る相手にもです。だからきっと、このクリスマスの季節に、たとえ出費がかさむとしても、みな喜んでプレゼントを贈り合うのでしょう。

 その人が欲しいものを考える。相手が喜ぶことを考える。その時に必要なのは想像力です。かつて、ある哲学者が「愛することは想像力を持つことである」と言いました。相手のために何が必要か考える。私たちの贈り合うクリスマスのプレゼントにはそうした愛が詰まっているわけです。

 クリスマスの贈り物。聖書に記されているのは東方の博士たちがクリスマスにお生まれになられた御子イエスに贈った贈り物です。この博士たちは東の国で、新しい王が生まれたという星を見つけて、お祝いに駆けつけたのです。はじめに当時ローマ帝国のもとガリラヤ地方の領主であったヘロデ王を訪れます。

 このヘロデは大きな建築物を造らせて、エルサレムの神殿も再建しているまさに「大王」として知られた王でした。ですから博士たちは、そのヘロデ大王に贈っても恥ずかしくないものとして「贈り物」を準備したはずです。ところが、ヘロデ大王はユダヤに新しい王が生まれたという事実を知りませんでした。ヘロデは文献を調べさせると旧約聖書ミカ書5章2節の言葉を発見します。それが、この6節に記されています。「ベツレヘムからイスラエルを治める支配者がでる」。博士たちはその知らせを聞いて、ベツレヘムを訪ねるのです。
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2015 年 12 月 6 日

・説教 マタイの福音書1章18-25節「救い主・イエスの誕生の知らせ」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 15:47

 

2015.12.6

鴨下 直樹

 
 アドヴェントに入りました。礼拝堂の前に置かれていますアドヴェントクランツに、二つ目の火が灯されています。こうして少しずつクリスマスが近づいていることを思い起こしていくのです。
 クリスマスにはみなさんも色々な思い出がおありになるだろうと思います。もし時間があれば一度みなさんから聞いてみたいという思いがあります。私にもさまざまなクリスマスの思い出がありますけれども、いつも思い出すのは子供の頃のクリスマスの思い出です。しかし、それは私にとってあまり嬉しい思い出ではありません。

 牧師家庭で育った私は、毎年沢山のクリスマス会に出席します。今年はいくつクリスマス会があると数えながら楽しみにしたものです。そのころ、毎年25日の夜に教会でクリスマス祝会をしていました。まだ小学生の低学年の時だったと思います。毎年のことですけれども、燭火礼拝をしたあとでプレゼント交換という時間がありました。今から三十数年の前の話しですからそれがいくらであったか覚えていませんけれども、いくらと決めて、プレゼントをそれぞれ決められた金額で用意しまして、礼拝のあとで、くじを引きながらプレゼント交換をしたのです。大人と一緒にプレゼントを交換できるということも嬉しかったのですけれども、その時にもらえるプレゼントは子供っぽいものではなかったので、期待していたのです。私も大人にまじってくじを引きまして、プレゼントをもらいました。ところが、その私のプレゼントは私の想像していたようなものではなくて、暖かそうな大人ものの毛糸の靴下でした。私はそれを見て悲しくなって大泣きしてしまいました。周りの大人たちが自分よりも素敵なものをプレゼントとしてもらっているのに、私はなぜ自分ではくこともできない靴下なんかを貰わなくてはいけないかと、人目もはばからず大泣きしてしまったのです。私はいつもクリスマスの季節になるとこの小さな出来事をなぜか思い出してしまうのです。自分の思い通りにならなかった悲しい気持ち、クリスマスなのに、クリスマスは楽しいはずなのに、どうして自分の思うとおりにならないのかという理不尽な悲しみを抱いたことを思い出してしまうのです。そして、なぜあの頃の私はあれほどまでに幼かったのだろうかという小さな自分の未熟さを思い起こしてしまうのです。
 クリスマスというのは多くの人にとってとても楽しみで、気持ちの良い思いに浸ることのできる楽しい思い出が沢山あるのだろうと思います。そして、同時に、そうではなかった思いも同じくらい味わう季節であるのかもしれません。 (続きを読む…)

2014 年 11 月 23 日

・説教 マタイの福音書25章1-13節 「主にある望みに生きて」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 13:32

〈終末主日〉

2014.11.23

鴨下 直樹

今日は教会の暦で一年の最後、終末主日を覚えています。終末という言葉は、そのまま死を覚える、自らの終わりの時を考える時を教会はその暦の最後に覚えるようにしているのです。教会によっては、この日を収穫感謝の日として覚えるところもあります。そこでも、ただ、作物の収穫を感謝する、私たちの日ごとの生活に与えられているものを感謝するということにとどまらず、やはり、人生の最後、私たちは何を収穫することになるのかを覚えるという意味がそこにはあります。そうして、来週から教会暦のはじめに、キリストがお生まれになるために備えるアドヴェントに入っていくのです。

いつもですと、ヨハネの福音書のみ言葉を順に聞き続けておりますけれども、今朝は聖歌隊が賛美をいたしました。「起きよ、と呼ぶ声がする」という賛美です。もともとはドイツ語の賛美ですが、日本語にされたものをうたいました。この讃美歌のテキストになっているのが、先ほど司式者が読みましたマタイの福音書の25章の1節から13節のみことばです。十人の花嫁のたとえばなしと言われる箇所です。

先ほども賛美の中で「起きよ」、「起きよ」というフレーズが何度も続きました。讃美歌では「夜はあけぬ」と歌いました。「夜があけるから、起きなさい」と起こしているのです。この讃美歌はもともとドイツ語のもので、どなたが訳したのかわからないのですが、もとの歌詞には「夜は明けぬ」という言葉はありません。花婿が来るから花嫁であるエルサレムよ、起きなさいという歌詞がつづいているのです。とても、興味深いのは、花嫁をエルサレムに例えている点です。

今日の聖書の箇所を読みますと、花嫁は十人いました。たとえ話ですから、実際にこの時代の結婚は合同結婚式であったのかなどということは考える必要はないと思います。少し内容を考えてみたいと思います。 (続きを読む…)

2014 年 6 月 29 日

・説教 マタイの福音書6章25-34節 「空の鳥をよく見よ」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 19:52

本日は古川秀昭長老が説教をして下さいました。

2014 年 1 月 19 日

・説教 マタイ18章20節 「病から学ぶ祈りと御言葉」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 16:49

 

本日は赤塚尚武兄が礼拝説教で証をして下さいました。

2012 年 10 月 14 日

・説教 マタイの福音書28章1-20節 「恐れを乗り越えて新しく生きる」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 12:27

 

2012.10.14

 鴨下 直樹

 

 マタイの福音書をはじめから順に丁寧に聞き続けてまいりました。今朝で、マタイの福音書からの説教の回数は百十四回になります。二年半、いや殆ど三年にわたってマタイの福音書の言葉を聞き続けてきました。ある意味ではもう十分といえるほどマタイの福音書の言葉を聞き続けて来ましたけれども、私の心の中には本当に十分だっただろうかという思いがあります。今日の箇所もそうですけれども、やはりここは一度でなくて二度に分けて語った方が良かったのではないかと昨日の夜まで考えていました。もう少し話したい、話し足りないことが沢山あるという思いがあるのです。けれども、二度にわけることはしませんで、今朝はこのところからマタイの言葉を聞きたいと思っています。

 主イエスが十字架で死んで、墓に葬られました。主イエスの死はさまざまなものをもたらしました。このマタイの福音書の二十八章には三種類の人々が出てきます。主イエスの周りにいた女の弟子たち、主イエスの弟子たち、そして、主イエスを墓に押しやっていた番兵たちと祭司長、民の長老たちです。この人々の反応はまちまちです。しかし、この三種類の人々に共通する思いが描かれています。それが「恐れ」です。マタイは福音書の最後にこの「恐れ」について書き記しました。 (続きを読む…)

2012 年 10 月 7 日

・説教 マタイの福音書27章57-66節 「主イエスの埋葬」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 10:27

2012.10.7

 鴨下 直樹

 

 先週の木曜日の午後にシャガール鑑賞会を岐阜県美術館で行ないました。私どもの教会の長老であり、岐阜県美術館の館長をしておられる古川さんが、今展示されておりますシャガールの作品の解説をしてくださいました。芥見教会の方だけではなくて、どこから聞きつけたのかいくつかの近隣の教会の方も参加されました。大変すばらしい作品がいくつも展示されておりますし、シャガールの思想が良く分かる構成がされています。今月いっぱいまで行なわれておりますので、まだ見ていない方は是非行っていただきたいと思います。

 先週の説教でもお話ししましたけれども、シャガールはユダヤ人でありながら数多くの十字架の作品を描いております。実際に、今のシャガール展で展示されている中にも数点十字架を描いたものがあります。自分の同族であるユダヤ人たちが次々に殺されていくナチスが台頭した時代にあって、シャガールはその手を逃れ続けておりましたから、どうしても死ということを考えざるを得なかったことと思います。

 そういう中で、主イエスの十字架に慰めを見出したのでしょう。特に今岐阜県美術館に展示されているシャガールの作品の中で「復活のための習作」というタイトルが記されている作品があります。タイトルは「復活のための」となっているのですが、描かれているのは主イエスの十字架です。しかも興味深いことに、キリストの腰に巻かれた布は一般に描かれているような白い布ではなくて、二本の黒い線が描かれています。古川さんの説明によると、ラビの印であるということでした。 (続きを読む…)

2012 年 9 月 30 日

・説教 マタイの福音書27章45-56節 「十字架の叫び」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 10:30

 

2012.9.30

 鴨下 直樹

 

 今日、この礼拝の後、午後からここでキリスト教美術講座が行なわれます。岐阜県美術館の館長をしておられ、私たち芥見教会の長老の古川さんがお話しをしてくださいます。今年二回目ですけれども、今回は「新約聖書にみる名画」というテーマです。おそらく、沢山の主イエスの十字架の絵が紹介されることと思います。主イエスの生涯を描いたものがそのほとんどなのではないかと思います。新約聖書を描く、そしてその中でももっとも多いのはキリストの受難を描くものと、キリストの復活を描くものです。

 今、岐阜県美術館でシャガール展をしております。今週の木曜日古川さんが鑑賞会を開いてくださるというので、今から楽しみにしております。シャガールはユダヤ人です。正確にはユダヤ系のフランス人です。ですから、シャガールは聖書の物語の作品を数多く手がけていますが、そのほとんどは旧約聖書を題材にしたものばかりです。

 ところが、シャガールはユダヤ人でありながらたくさんの十字架の絵を描いたのです。フランスのノートルダム大聖堂やドイツのマインツにある有名なステンドグラスの作品の中にもかならず十字架が描かれています。先週の家庭集会で古川さんがお話しくださったのですが、二十世紀の画家の中でもシャガールほど十字架をたくさん描いた画家はいないということでした。ルオーより多いと言うのです。

 なぜ、ユダヤ人のシャガールがそれほどまでに十字架を書いたのか不思議ですけれども、シャガールはユダヤ人でありながら十字架を描かざるを得なかったと言います。明らかにキリストの十字架に救いを見出していたのです。それは、シャガール自身そのことを認めているのだと古川さんは言っておられました。とても興味深いことです。

 聖書物語のシリーズも見ることができるということです。数が多いので前半と後半で展示する絵が変わるのだそうです。今から楽しみにしています。それほどたくさんの旧約聖書の物語を描いているのですから、長い間聖書と向き合い続けているのです。そして、キリストの十字架をその自分の描く聖書の作品の中に入れるのです。まるで、旧約聖書のすべての出来事は、イエス・キリストの十字架に集約されるのだと言っているかのようにです。それは、シャガール自身、この主イエスの十字架に慰めを見出したからに他ならないのです。

 

 主イエスの十字架はすべての人の希望です。すべての人の前に示された神の赦しの出来事です。このマタイの福音書はまさにこの聖書の箇所の中で、すべての人を描いてみせました。それが、この主イエスの十字架上で叫ばれた今日の聖書の箇所に描き出されています。それが、この朝私たちに与えられている物語です。 (続きを読む…)

2012 年 9 月 23 日

・説教 マタイの福音書27章27-44節 「十字架への静かな道」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 10:22

2012.9.23

 鴨下 直樹

 

 主イエスの受難の物語を私たちはいま聞き続けています。二週間の間休みをいただきましたので、二週間ぶりということになります。

 

 今日は何から話をしたらいいのか分からないほどに、先週一週間の間に色々なことがありました。二週間休みをいただいたことがもうずいぶん前のことと思えるほどでした。

 もうすでに多くの方は御存じのことですけれども、水曜日と木曜日にかけて葬儀が行なわれました。今日は教団の日で、午後にはここを会場にして教団の日の集会があります。その午後の集いの説教の準備もあります。それ以外にも、金曜日の集会や名古屋で教えています神学塾の勤めや、昨晩は学生の集まりもありました。いつもの一週間に戻ったことを実感する一週間でした。その間中私の心に留まっていたのが、今朝、私たちに与えられている主イエスの十字架までの道のりの物語です。 

 カトリック教会にまいりますと、どこの教会に行っても壁に十五枚の絵がかけられています。絵である場合もありますし、レリーフの場合もります。主イエスの受難の場面を十五に分けまして、その絵を見ながら主イエスの十字架の苦しみを思い起こすという習慣があるためです。その十五枚の主イエスの十字架の苦しみを描いたもののことを「十字架の道行き」といいます。

 主イエスの裁判の場面、兵士たちに鞭打たれるところ、十字架を担いで行かれるところなど様々な場面があります。今、私たちがこのマタイの福音書で聞き続けている主イエスの痛ましい姿を心に刻むようにと、礼拝堂の中に主イエスの十字架までの道のりを示す絵を飾るのです。

 

 この十字架までの主イエスの道行きの場面を読みながら、今週、教会で様々な集いがありました。私自身、葬儀をし、祈祷会をし、パッチワークの集まり、神学校の授業、そして、学生たちとバーベキューをして過ごします。まさに、色々な生活の場面を自分も味わいながら、その中に主イエスの苦しみを覚える一週間となりました。そのような人との関わりの中でこの主イエスの十字架の道行きの御言葉に耳を傾ける。それは非常に印象深い経験となりました。 (続きを読む…)

2012 年 9 月 2 日

・説教 マタイの福音書27章1-26節 「ユダとピラトとバラバと」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 11:28

 

2012.9.2

鴨下 直樹 

 

 今日の聖書にはユダ、ピラト、そしてバラバという名前が続いて出てきます。どの名前もあまりいいイメージとはいえない名前ばかりが続きます。すくなくとも、憧れの対象になるような名前ではありません。 主イエスを裏切ったイスカリオテのユダ。主イエスを十字架につけたピラト。バラバについては囚人としてしか知られておりません。このバラバは主イエスに代わって刑を免れた男として名前が知られるようになります。ですから、バラバだけは少し異なる印象になるのかもしれません。今日は、この人々に視点を当てながら、マタイの描く主イエスの受難の出来事を見ていきたいとおもいます。 (続きを読む…)

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